だけど、代わりに口をついて出た言葉がある。

「今さ、人生が楽しいんだよね。
 それは間違いないよ」

 気を遣ったりはするけれど、それでも部長との共同生活が楽しいことは変わりない。
 正社員は仕事もその時間も増えて大変だけど、仕事の幅は広がったし、見える世界が去年とは少しずつ変わってきている。
 それは、楽しい、という言葉でくくっても何の違和感もなかった。

「そうなんですね」
 後輩が相槌を打つ。
「すみれちゃんは療養中なんでしょ?
 自然に囲まれた場所に行ってみた方がいいんじゃない?
 海とか山とか」
「海は見に行けないです。
 飛び込みたくなっちゃうから。
 山は遠いんですよね。
 飲んでいる薬の影響で車を運転できないから、遠いところは親に車で連れて行ってもらわないといけないから難しいんですよ」
「そうなんだね」

「趣味のネイルチップを作ったりもするんですけど、全然気分が晴れないんです。
 このまま離婚したら、もう誰かを好きになることも二度とできないかもしれない。
 私みたいな人間を好きになってくれる人もいない気がして、再婚なんてとてもじゃないけどできないだろうし。
 子どもも持てないまま死ぬのかなって思うと、辛すぎる。
 生きるのがしんどすぎて、もう無理です」
 そう言って彼女はまた嗚咽を漏らして泣いた。

 彼女の住んでいるところは隣県というわけではなく、わたしの住んでいる場所からはそれなりの距離があるので、今から彼女のために駆けつけて一緒にお酒を飲むことはできない。
 それでも……と思う。
 泣いているすみれちゃんのそばに寄り添いたくて、わたしと彼女の間に横たわっている絶対に動かせない距離がもどかしくてたまらなかった。

「わたしは、すみれちゃんが、必ず立ち上がれるって信じてるよ。
 すみれちゃんが今ある苦しさも乗り越えられて、あなたの未来は明るい、大丈夫だって、心から信じてる」
 何とか言葉を尽くして自分の気持ちが届くように伝えたけど、どこまで彼女に響いたのかは分からなかった。


 電話を切った後、これまですみれちゃんに話していなかったが、もうずいぶん前に別れた恋人のことを思い出していた。 
 9年付き合っていた。
 結婚の話を具体的に進めようというときに、職場の女性を妊娠させて、その人と結婚することになったから別れてほしいと恋人から切り出された。
 怒りを通り越して呆れ返ってしまい、その申し出をそのまま受け入れた。
 31歳のときだった。
 もっと進んだタイミングじゃなくて、この段階でまだよかったよと自分を何度も納得させながら。

 もう恋愛はいいかな、と思った。
 やりきった感が大きかった。
 この人との恋愛が人生最後になるかもしれないことは、本当に癪だったけど。
 それ以降、色恋沙汰に心を乱されることなく、今日まで来ている。

 気を取り直して、思い出したくもない記憶を頭から追い出し、リビングに戻った。