それから僕は、走って、走って、走り続けて――。
脇腹がズキズキと痛み出した頃にやっと足を止めたところで、僕は自分の目元が濡れていることに気づいた。
クリアだったはずの視界が、輪郭がわからなくなるぐらいぼやけていることにもハッとする。
下を向くと透明の雫が、メガネのレンズにポタポタと落ちていく。
ここで、『ああ、僕は泣いていたんだ』とはじめて自覚した。
すっかりぐしょぐしょになった目元を手の甲でぬぐおうと、かけていたメガネを外したとたん。
両目から、せき止めていたものがなくなったように、次から次へと大粒の涙があふれてきた。
鼻の奥がツンとして痛い。喉の奥が焼けるように熱い。
星宮への恋愛感情は、しっかり区切りをつけて、手放したはずなのに――……どうやら僕は自分で思っていた以上に、大きなショックを受けていたらしい。
「はぁ……」
渇いた喉から嗚咽のようなため息がもれる。
あたりがしーんと静まり返っているせいか、やけに大きくあたりに響き渡ったような気がした。
……でも、それを聞きつけた星宮が、僕のもとに駆け付けてくることはなかった。
あいつのことは、自分から振り切ったくせに。
ほんの少しでも、今更感満載な淡い期待みたいなものを抱いてしまった自分がものすごく嫌になる。
今の情けない僕の姿を、あいつに見られるよりはずっとマシだ。
僕は自分にそう言い聞かせると、ごしごしと腕で涙をぬぐった。
◇ ◆ ◇
偶然にも、僕がちょうどたどり着いたこの場所は、廊下の突き当たりにある休憩スペースだった。
一応部屋に戻ることも考えたけど、星宮の私物や匂いがある空間に入った自分を想像して、また涙があふれてきそうになったからやめといた。
僕は休憩スペースのソファに身を投げ出し、しばらく一人でぼーっとしたあと。
学園祭が閉会したタイミングで、僕は後片付けをしに自分の教室に戻った。
本音を言えば、星宮と顔を合わせることになるだろうから行きたくない。
でも、ただでさえ人手が足りていても大変な作業を、僕一人の個人的な都合ですっぽかすのは気が引けるからだ。
最初に役割の割り振りがあって、僕は個人で集中してできる窓の飾りを取り外す作業を自ら買って出た。
ステンドグラスを模したセロファンの切り絵と、窓枠をくっつけているテープを、爪の先で引っかいて剥がす。
この集中力を必要とする作業をひたすら続け、なんとか最初の1枚目を取り外すと、真っ赤な夕陽に染まる街並みが僕の目の前に現れた。
ガラスの向こう側に広がる、燃えるような茜色の空をぼーっと眺めていると、背後からキャッキャという笑い声にまじって、「いくよー、せーのっ」と合図をする聞き慣れた声が聞こえてきた。
後ろを振り向くと星宮が、大勢の女子と一緒になって、テーブルクロスをたたんでいるところだった。
しかも、僕に背中を向けたまま。
ほんの一瞬でもこっちを見てくれないのは、単純に忙しいだけなのか。
それとも、実はこっちの視線に気づいているけど、告白をされてしまったから。
僕の顔を目にしただけでも、気まずい思いをするから、あえてこっちを見ないようにしているだけなのだろうか――……?
もしかすると、これはただの僕の自意識過剰なだけかもしれない。
けれど、僕自身が星宮に対して気まずさを感じているからか、あいつも同じ気持ちを抱いているんじゃないかと思えてきて仕方ない。
でも、今日が終われば、明日は文化祭の振り替え休日。あさっては1学期の終業式だ。
僕は一応、終業式の午後には実家に帰省する予定だし、そのために飛行機の予約を済ませている。
夏休み期間中は、いったん星宮と離れてしまうのだから。
今は居心地が悪くても、自分のやるべきことに集中しよう。
僕は自分にそう言い聞かせて、再び作業に取りかかった。
◇ ◆ ◇
――それから30分ぐらいたって、ようやく教室の後片付けが終わった。
「みんなで打ち上げ行こうぜー!」という五十嵐の声が、すっかり元通りの状態になった教室に響く。
打ち上げ、……か。星宮も参加するんだろうか……?
さりげなく目だけを動かして星宮を探してみる。
すると、大勢の女子たちによって、「一緒に行こ―!」と誘われ、廊下に引っ張り出されているあいつを目撃した。
あいつ、やっぱり参加するのか……。わかってたけど。
だったら、僕は行くのを止めておこう。
星宮には楽しいはずの場で、居心地の悪い思いをして欲しくないから。
それに、僕自身が、今は賑やかな場所は遠慮しておきたいところだ。
気分が沈んでいるこの状態で打ち上げに来てしまったら余計に落ち込むだろうし、クラスのみんなの楽しげな空気を嫌なものにしてしまいそうだから。
というか、今はとてつもなく一人になりたい。
だったら――久しぶりに、男子寮の屋上に行ってみようかな。
思えばここのところ、僕は屋上に忍び込んでいなかった。
期末テストや学園祭の準備が忙しくて、行きたくても行けなかっただけなんだけど。
でも、落ち込んでいる今は、どうしてもあそこに行きたい。
たった一人で、あの屋上から見える広大な星の海のような、きらめく夜景を眺めていたい。
――そしたら、このどんよりした気分も少しは晴れるかもしれないから。
打ち上げに期待の声を弾ませながら、黒板側の出入り口から教室を出て行くクラスメイトたちの目を盗んで、僕は反対側の後ろのドアを開ける。
そして、こっそりと薄暗い廊下に出ようとしたその直前。
「月森も一緒に行こうぜっ!」
上機嫌な笑顔の五十嵐に、肩を組まれるようにしてつかまってしまった。
「ごめん。具合が悪いからパス……」
誘ってくれたのは素直に嬉しいけど、仮病を使って断った。
でも、噓から出た実か。
今の僕は本当に具合の悪そうな顔をしているのだろう。
ニコニコしていた五十嵐が僕の顔を覗き込むなり、ハッと目を見開いてあわあわと動揺し始める。
「ちょ、月森マジで大丈夫⁉ 顔色、めっちゃ悪いんだけど‼」
「あ、ああ……。たぶん部屋で寝てれば治るから……」
「そ、そっか……。じゃあ、気をつけてな。ゆっくり休めよ……」
◇ ◆ ◇
五十嵐に見送られたあと、僕は一人で男子寮へと向かった。
一段一段、ゆっくりと階段を踏みしめるように上って、屋上につながるドアの前に立つ。
ガチャガチャと銀色のノブを回してドアを開けると、ひんやりとした涼しい風が僕を出迎えるように吹きつけてきた。
久しぶりに外に出て、ゴムチップ舗装がされた屋上のタイルの上に立って空を見上げる。
僕が教室の後片付けをしていたときには茜色だった夕暮れ時の空は、もう夜の色に染まりかけていた。
でも、鉄柵の向こうに広がる街並みは、すでに夜が来たかのように、無数の光の粒であふれている。
――あのきらめく街並みの中には、打ち上げに行った星宮がいるのかな……?
ふとそう思った次の瞬間、あいつの顔が脳裏によみがえって、僕はそれを振り払うようにあわててかぶりを振った。
ついつい星宮のことを考えてしまうだなんて、僕はどれだけ往生際が悪いんだろう……。
星宮に対していまだに未練タラタラな自分がつくづく嫌になって、がっくりとうなだれていると。
急に、バタン‼ と乱暴にドアを閉める音が鳴り響いた。
思わずビクッとして、背筋が強張ったその直後。
背後からタッタッタという、軽快な足音が聞こえてきた。
その音はだんだん大きく、こっちに近づいてくる。
誰……?
気になって仕方ないのに、押し寄せてくる嫌な予感と恐怖に駆られて、身動きが取れなくなっていたそのとき――……、
「――怜っ‼」
叫ぶように名前を呼ばれたその瞬間、僕は弾かれたように後ろを振り返った。
「……っほ、星宮⁉」
僕の背後にいたのは、大勢の女子に引っ張られながら教室を出て行ったはずの星宮だった。
「えっ? うそ、なんでここにいんの……? 打ち上げは……⁉」
「断ったよ!」
あわてふためく僕に対して、星宮が大声で言い放つ。
「だって、どっかの誰かさんが不参加だって聞いたんだもん! しかも、『具合悪い』って……心配て急いで走ってきたのに、やっぱりここに来てるし!」
その『どっかの誰かさん』の正体は確実に僕だ。
手放したはずの恋心を引きずっている僕としては、星宮が駆け付けてきてくれたという事実に、熱い涙がこぼれそうになる。
でも、それは星宮に心配という名の迷惑をかけてしまったのも同然だ。
楽しそうなクラスの打ち上げへの参加だってキャンセルさせてしまった。
「ごめん……」
良かれと思って取った自分の行動が、星宮にとっては裏目に出ていたことに反省していると、自然と口から謝罪の言葉が転び出た。
「え? なにが?」
きょとんとする星宮に、「いや、星宮は楽しみにしてたんじゃないの? 打ち上げ……」と付け加えるようにたずねる。
「うーん、まあ参加したかった気持ちはやまやまだけど……」
「やっぱり……」
思った通り、僕は星宮の邪魔をしてしまったんだな。
心の底から星宮に顔向けできなくなるほど、申しわけなさを感じた。
自然と顔が足元を向いてしまう。
再び「ごめん」という謝罪の言葉が口を突いて出てきそうになったそのとき、
「でも、それは怜が俺と一緒にいるのが前提の話かな」
頭の上から降ってきた星宮の穏やかな声に、僕ははたと顔を上げた。
「……どういうこと?」
思ってもみなかったあいつの言葉に、呆気に取られて目をしばだたいていると。
突然、星宮が僕の胸めがけて飛び込んできた。
――危ない!
星宮が転んでケガをしないように、僕は急いで彼に向かって両手を伸ばす。
でも、それよりも先に星宮の両腕が、僕の背中に回っていた。
まるでしがみつくかのように、ぎゅっときつく抱きしめられる。
おどろきで息が止まりかけたところで、星宮が僕の肩に埋めていた顔を上げた。
「……俺も怜が好き、ってこと」
ほんのりと頬を赤く染めた星宮の、ささやくような告白のあと。
僕の顔に向かって、星宮の顔が勢いよくぐんと近づいてきた。
瞬間、僕の唇に重ねるように、柔らかい感触のする何かが押し当てられる。
生まれてから今まで感じたことのないぐらい、ふわふわとしていてあたたかなこの感触に、全身が小さく震える。
まぶたを閉じるタイミングを失って、開けっ放しになった僕の目に、いつもよりずっと近くにいる星宮の顔が映っている。
伏せられたまぶたから伸びる、色素の薄い長いまつ毛。
陶器のようにつるんとして、きめ細かな白い肌。
目と鼻の先どころか、唇同士がぶつかる距離にいても、やっぱり星宮は綺麗だな。
なんて頭の片隅でぼんやりと思ったところで、星宮とキスをしていることに意識が向いた。
星宮とキス。
それも、あいつの口から『好き』だと告白されたあとに、抱き締められてキスをしているなんて。
正直、自分に都合のいい甘い夢でも見てるんじゃないかと思った。
けれど、星宮の唇から伝わる熱や、背中に回る腕にこもる力。
さりげなく彼の後頭部にふれた僕の手のひらに伝わってくる、ふわふわとした猫の毛のような髪の感触が、これが現実だということを教えてくれた。
ほどなくして、いったん唇を離した僕たちは、お互いの顔を見つめてはにかんだ。
照れくさいけどそれ以上に、全身を包み込むような多幸感に満たされていく。
もう、星宮に向けたこの気持ちをこじらせるものも、せき止めるしがらみもない。
「星宮、僕は君のことが好きだ」
改めてまっすぐに星宮に向き合って、はっきりと素直に自分の想いの丈をぶつけた。
「男子寮の廊下で告白した後、僕はこの想いを断ち切ったはずだった。……でも、結局気づけば星宮のことを目で追っていて……。好きで好きでたまらなくて、やっと今……この瞬間、世界で一番幸せだと思える自分がいるんだ」
最後の方は涙ぐんだ声になってしまって、ちょっと情けなかったけど。
「俺たち、似た者同士だね」
僕の話を聞いていた星宮が、ふっと目を細める。
その目尻には、水晶のように美しい涙が浮かんでいた。
「……俺もそう。ずっと昔、怜に出会って一目惚れしたときからかな。それ以来、俺の心の真ん中にはいつも怜がいて。会えない間も
ずーっと怜のことばかり考えてたんだよ」
「ずっと昔……?」
ふと、僕は、星宮の発言に引っかかりを覚えて、首をかしげた。
「僕たちがはじめて会ったのって、星宮がこの学校に転校してきてからじゃないの?」
「覚えてないの⁉」
星宮が目を大きく見開いて、僕に前のめりになって詰め寄った。
でも、すぐに我に返ったように冷静になって、「ああ、そっか。そうだよね……。だって、もう2年も前のことだし覚えているわっけないか……」と険しい顔をしながらボソボソと自分自身に言い聞かせる。
2年前といえば、僕が中学3年生だったころだ。
あのときは今とは全然違う場所に住んでいるし、星宮らしき人物にも会った覚えすらない。
なのに、そのときにはすでに、僕と星宮は出会ってたって――……。
「その2年前の話、ちゃんと詳しく聞かせてくれる?」
気になって、若干早口になりながらも昔話をせがむ。
星宮は自分の独り言が僕に聞かれてると思っていなかったのだろう。
おどろいたように、ハッと目と口を大きく開くと、ほんの一瞬ためらうように表情を強張らせた。
でも、すぐに「まあ、聞きたいよね……」と呟いて、「いいよ」とうなずいてくれた。
星宮のやつ、まだ笑顔がぎこちない。
一体どうしちゃったんだろう……?
脇腹がズキズキと痛み出した頃にやっと足を止めたところで、僕は自分の目元が濡れていることに気づいた。
クリアだったはずの視界が、輪郭がわからなくなるぐらいぼやけていることにもハッとする。
下を向くと透明の雫が、メガネのレンズにポタポタと落ちていく。
ここで、『ああ、僕は泣いていたんだ』とはじめて自覚した。
すっかりぐしょぐしょになった目元を手の甲でぬぐおうと、かけていたメガネを外したとたん。
両目から、せき止めていたものがなくなったように、次から次へと大粒の涙があふれてきた。
鼻の奥がツンとして痛い。喉の奥が焼けるように熱い。
星宮への恋愛感情は、しっかり区切りをつけて、手放したはずなのに――……どうやら僕は自分で思っていた以上に、大きなショックを受けていたらしい。
「はぁ……」
渇いた喉から嗚咽のようなため息がもれる。
あたりがしーんと静まり返っているせいか、やけに大きくあたりに響き渡ったような気がした。
……でも、それを聞きつけた星宮が、僕のもとに駆け付けてくることはなかった。
あいつのことは、自分から振り切ったくせに。
ほんの少しでも、今更感満載な淡い期待みたいなものを抱いてしまった自分がものすごく嫌になる。
今の情けない僕の姿を、あいつに見られるよりはずっとマシだ。
僕は自分にそう言い聞かせると、ごしごしと腕で涙をぬぐった。
◇ ◆ ◇
偶然にも、僕がちょうどたどり着いたこの場所は、廊下の突き当たりにある休憩スペースだった。
一応部屋に戻ることも考えたけど、星宮の私物や匂いがある空間に入った自分を想像して、また涙があふれてきそうになったからやめといた。
僕は休憩スペースのソファに身を投げ出し、しばらく一人でぼーっとしたあと。
学園祭が閉会したタイミングで、僕は後片付けをしに自分の教室に戻った。
本音を言えば、星宮と顔を合わせることになるだろうから行きたくない。
でも、ただでさえ人手が足りていても大変な作業を、僕一人の個人的な都合ですっぽかすのは気が引けるからだ。
最初に役割の割り振りがあって、僕は個人で集中してできる窓の飾りを取り外す作業を自ら買って出た。
ステンドグラスを模したセロファンの切り絵と、窓枠をくっつけているテープを、爪の先で引っかいて剥がす。
この集中力を必要とする作業をひたすら続け、なんとか最初の1枚目を取り外すと、真っ赤な夕陽に染まる街並みが僕の目の前に現れた。
ガラスの向こう側に広がる、燃えるような茜色の空をぼーっと眺めていると、背後からキャッキャという笑い声にまじって、「いくよー、せーのっ」と合図をする聞き慣れた声が聞こえてきた。
後ろを振り向くと星宮が、大勢の女子と一緒になって、テーブルクロスをたたんでいるところだった。
しかも、僕に背中を向けたまま。
ほんの一瞬でもこっちを見てくれないのは、単純に忙しいだけなのか。
それとも、実はこっちの視線に気づいているけど、告白をされてしまったから。
僕の顔を目にしただけでも、気まずい思いをするから、あえてこっちを見ないようにしているだけなのだろうか――……?
もしかすると、これはただの僕の自意識過剰なだけかもしれない。
けれど、僕自身が星宮に対して気まずさを感じているからか、あいつも同じ気持ちを抱いているんじゃないかと思えてきて仕方ない。
でも、今日が終われば、明日は文化祭の振り替え休日。あさっては1学期の終業式だ。
僕は一応、終業式の午後には実家に帰省する予定だし、そのために飛行機の予約を済ませている。
夏休み期間中は、いったん星宮と離れてしまうのだから。
今は居心地が悪くても、自分のやるべきことに集中しよう。
僕は自分にそう言い聞かせて、再び作業に取りかかった。
◇ ◆ ◇
――それから30分ぐらいたって、ようやく教室の後片付けが終わった。
「みんなで打ち上げ行こうぜー!」という五十嵐の声が、すっかり元通りの状態になった教室に響く。
打ち上げ、……か。星宮も参加するんだろうか……?
さりげなく目だけを動かして星宮を探してみる。
すると、大勢の女子たちによって、「一緒に行こ―!」と誘われ、廊下に引っ張り出されているあいつを目撃した。
あいつ、やっぱり参加するのか……。わかってたけど。
だったら、僕は行くのを止めておこう。
星宮には楽しいはずの場で、居心地の悪い思いをして欲しくないから。
それに、僕自身が、今は賑やかな場所は遠慮しておきたいところだ。
気分が沈んでいるこの状態で打ち上げに来てしまったら余計に落ち込むだろうし、クラスのみんなの楽しげな空気を嫌なものにしてしまいそうだから。
というか、今はとてつもなく一人になりたい。
だったら――久しぶりに、男子寮の屋上に行ってみようかな。
思えばここのところ、僕は屋上に忍び込んでいなかった。
期末テストや学園祭の準備が忙しくて、行きたくても行けなかっただけなんだけど。
でも、落ち込んでいる今は、どうしてもあそこに行きたい。
たった一人で、あの屋上から見える広大な星の海のような、きらめく夜景を眺めていたい。
――そしたら、このどんよりした気分も少しは晴れるかもしれないから。
打ち上げに期待の声を弾ませながら、黒板側の出入り口から教室を出て行くクラスメイトたちの目を盗んで、僕は反対側の後ろのドアを開ける。
そして、こっそりと薄暗い廊下に出ようとしたその直前。
「月森も一緒に行こうぜっ!」
上機嫌な笑顔の五十嵐に、肩を組まれるようにしてつかまってしまった。
「ごめん。具合が悪いからパス……」
誘ってくれたのは素直に嬉しいけど、仮病を使って断った。
でも、噓から出た実か。
今の僕は本当に具合の悪そうな顔をしているのだろう。
ニコニコしていた五十嵐が僕の顔を覗き込むなり、ハッと目を見開いてあわあわと動揺し始める。
「ちょ、月森マジで大丈夫⁉ 顔色、めっちゃ悪いんだけど‼」
「あ、ああ……。たぶん部屋で寝てれば治るから……」
「そ、そっか……。じゃあ、気をつけてな。ゆっくり休めよ……」
◇ ◆ ◇
五十嵐に見送られたあと、僕は一人で男子寮へと向かった。
一段一段、ゆっくりと階段を踏みしめるように上って、屋上につながるドアの前に立つ。
ガチャガチャと銀色のノブを回してドアを開けると、ひんやりとした涼しい風が僕を出迎えるように吹きつけてきた。
久しぶりに外に出て、ゴムチップ舗装がされた屋上のタイルの上に立って空を見上げる。
僕が教室の後片付けをしていたときには茜色だった夕暮れ時の空は、もう夜の色に染まりかけていた。
でも、鉄柵の向こうに広がる街並みは、すでに夜が来たかのように、無数の光の粒であふれている。
――あのきらめく街並みの中には、打ち上げに行った星宮がいるのかな……?
ふとそう思った次の瞬間、あいつの顔が脳裏によみがえって、僕はそれを振り払うようにあわててかぶりを振った。
ついつい星宮のことを考えてしまうだなんて、僕はどれだけ往生際が悪いんだろう……。
星宮に対していまだに未練タラタラな自分がつくづく嫌になって、がっくりとうなだれていると。
急に、バタン‼ と乱暴にドアを閉める音が鳴り響いた。
思わずビクッとして、背筋が強張ったその直後。
背後からタッタッタという、軽快な足音が聞こえてきた。
その音はだんだん大きく、こっちに近づいてくる。
誰……?
気になって仕方ないのに、押し寄せてくる嫌な予感と恐怖に駆られて、身動きが取れなくなっていたそのとき――……、
「――怜っ‼」
叫ぶように名前を呼ばれたその瞬間、僕は弾かれたように後ろを振り返った。
「……っほ、星宮⁉」
僕の背後にいたのは、大勢の女子に引っ張られながら教室を出て行ったはずの星宮だった。
「えっ? うそ、なんでここにいんの……? 打ち上げは……⁉」
「断ったよ!」
あわてふためく僕に対して、星宮が大声で言い放つ。
「だって、どっかの誰かさんが不参加だって聞いたんだもん! しかも、『具合悪い』って……心配て急いで走ってきたのに、やっぱりここに来てるし!」
その『どっかの誰かさん』の正体は確実に僕だ。
手放したはずの恋心を引きずっている僕としては、星宮が駆け付けてきてくれたという事実に、熱い涙がこぼれそうになる。
でも、それは星宮に心配という名の迷惑をかけてしまったのも同然だ。
楽しそうなクラスの打ち上げへの参加だってキャンセルさせてしまった。
「ごめん……」
良かれと思って取った自分の行動が、星宮にとっては裏目に出ていたことに反省していると、自然と口から謝罪の言葉が転び出た。
「え? なにが?」
きょとんとする星宮に、「いや、星宮は楽しみにしてたんじゃないの? 打ち上げ……」と付け加えるようにたずねる。
「うーん、まあ参加したかった気持ちはやまやまだけど……」
「やっぱり……」
思った通り、僕は星宮の邪魔をしてしまったんだな。
心の底から星宮に顔向けできなくなるほど、申しわけなさを感じた。
自然と顔が足元を向いてしまう。
再び「ごめん」という謝罪の言葉が口を突いて出てきそうになったそのとき、
「でも、それは怜が俺と一緒にいるのが前提の話かな」
頭の上から降ってきた星宮の穏やかな声に、僕ははたと顔を上げた。
「……どういうこと?」
思ってもみなかったあいつの言葉に、呆気に取られて目をしばだたいていると。
突然、星宮が僕の胸めがけて飛び込んできた。
――危ない!
星宮が転んでケガをしないように、僕は急いで彼に向かって両手を伸ばす。
でも、それよりも先に星宮の両腕が、僕の背中に回っていた。
まるでしがみつくかのように、ぎゅっときつく抱きしめられる。
おどろきで息が止まりかけたところで、星宮が僕の肩に埋めていた顔を上げた。
「……俺も怜が好き、ってこと」
ほんのりと頬を赤く染めた星宮の、ささやくような告白のあと。
僕の顔に向かって、星宮の顔が勢いよくぐんと近づいてきた。
瞬間、僕の唇に重ねるように、柔らかい感触のする何かが押し当てられる。
生まれてから今まで感じたことのないぐらい、ふわふわとしていてあたたかなこの感触に、全身が小さく震える。
まぶたを閉じるタイミングを失って、開けっ放しになった僕の目に、いつもよりずっと近くにいる星宮の顔が映っている。
伏せられたまぶたから伸びる、色素の薄い長いまつ毛。
陶器のようにつるんとして、きめ細かな白い肌。
目と鼻の先どころか、唇同士がぶつかる距離にいても、やっぱり星宮は綺麗だな。
なんて頭の片隅でぼんやりと思ったところで、星宮とキスをしていることに意識が向いた。
星宮とキス。
それも、あいつの口から『好き』だと告白されたあとに、抱き締められてキスをしているなんて。
正直、自分に都合のいい甘い夢でも見てるんじゃないかと思った。
けれど、星宮の唇から伝わる熱や、背中に回る腕にこもる力。
さりげなく彼の後頭部にふれた僕の手のひらに伝わってくる、ふわふわとした猫の毛のような髪の感触が、これが現実だということを教えてくれた。
ほどなくして、いったん唇を離した僕たちは、お互いの顔を見つめてはにかんだ。
照れくさいけどそれ以上に、全身を包み込むような多幸感に満たされていく。
もう、星宮に向けたこの気持ちをこじらせるものも、せき止めるしがらみもない。
「星宮、僕は君のことが好きだ」
改めてまっすぐに星宮に向き合って、はっきりと素直に自分の想いの丈をぶつけた。
「男子寮の廊下で告白した後、僕はこの想いを断ち切ったはずだった。……でも、結局気づけば星宮のことを目で追っていて……。好きで好きでたまらなくて、やっと今……この瞬間、世界で一番幸せだと思える自分がいるんだ」
最後の方は涙ぐんだ声になってしまって、ちょっと情けなかったけど。
「俺たち、似た者同士だね」
僕の話を聞いていた星宮が、ふっと目を細める。
その目尻には、水晶のように美しい涙が浮かんでいた。
「……俺もそう。ずっと昔、怜に出会って一目惚れしたときからかな。それ以来、俺の心の真ん中にはいつも怜がいて。会えない間も
ずーっと怜のことばかり考えてたんだよ」
「ずっと昔……?」
ふと、僕は、星宮の発言に引っかかりを覚えて、首をかしげた。
「僕たちがはじめて会ったのって、星宮がこの学校に転校してきてからじゃないの?」
「覚えてないの⁉」
星宮が目を大きく見開いて、僕に前のめりになって詰め寄った。
でも、すぐに我に返ったように冷静になって、「ああ、そっか。そうだよね……。だって、もう2年も前のことだし覚えているわっけないか……」と険しい顔をしながらボソボソと自分自身に言い聞かせる。
2年前といえば、僕が中学3年生だったころだ。
あのときは今とは全然違う場所に住んでいるし、星宮らしき人物にも会った覚えすらない。
なのに、そのときにはすでに、僕と星宮は出会ってたって――……。
「その2年前の話、ちゃんと詳しく聞かせてくれる?」
気になって、若干早口になりながらも昔話をせがむ。
星宮は自分の独り言が僕に聞かれてると思っていなかったのだろう。
おどろいたように、ハッと目と口を大きく開くと、ほんの一瞬ためらうように表情を強張らせた。
でも、すぐに「まあ、聞きたいよね……」と呟いて、「いいよ」とうなずいてくれた。
星宮のやつ、まだ笑顔がぎこちない。
一体どうしちゃったんだろう……?