あっという間に学園祭当日がやってきた。
お昼のかきいれ時。
僕はモノトーンのウェイター衣装に身を包み、喫茶店を模した教室でホールを担当していた。
「お待たせいたしました。こちら、クリームソーダとパンケーキ、それからフルーツサンドでございます」
注文されたメニューを運んで、指定のテーブルの上並べていく。
すると、そのテーブルの周りを囲んでいた他校の制服を着た女子3人組が、たちまち目を輝かせ、「キャーッ! かわいい!」と黄色い声を上げて騒ぎ出した。
「すごーい! めっちゃ本格的!」
「このフルーツサンドの断面、いいよね! パンケーキもおいしそう!」
「あの、注文したものの写真を撮ってもいいですか?」
「どうぞ」
聞かれて、できるだけにこやかに応対すると、女子3人組から「ありがとうございまーす!」とお礼を言われた。
「ねえ、早く撮ろうよ!」と和気あいあいとしながら、自分たちが注文したものをスマホでパシャパシャ撮影し始める彼女たちを眺めて、僕は「ふう」と小さなため息をつく。
ふと思ったことだけど。以前の僕なら絶対に、笑顔で接客なんてできなかっただろうな。
たぶん、ガチガチに緊張して、かえって不愛想な態度を取っていたのかもしれない。
――でも、こうやって初対面の人に臆さず接することができるようになったのは、やっぱりいつも僕にかまってくれたあいつのおかげなんだろうな……。
同じ教室の中にいるのに。やたらと遠くに見えるプラチナブロンドの髪を目にしたとたん、胸の奥がしくしくと痛んだ。
◇ ◆ ◇
僕が星宮への恋心を自覚してからというものの、まだ数日しか経っていないというのに。
関係はかなり気まずく、ぎくしゃくしたものに変わっていた。
一応軽い挨拶ぐらいは交わすこともあるけれど、かつてのように他愛のないおしゃべりをすることはなくなった。
こうなってくると、僕の気持ちが星宮にバレてもバレなくても、どのみち関係の悪化はまぬがれなかったのかもしれない。
でも、僕は『こんなことになるのなら、星宮に気持ちを伝えておけばよかった』とは思わなかった。
『世の中には知らなくてもいいことがたくさんある』という言葉が存在するぐらいだ。
僕の気持ちを伝えたところで、星宮を困らせてしまう結果になるのなら。最初から何も伝えない方がいいに決まってる。
心の中でそう思いながらも、僕の視線は同じホールのシフトに入って、せかせかと動き回っている星宮を追っている。
でも、それは僕一人に限ったわけではなく、
「ヤバい。あの派手髪のウェイターの男の子、めっちゃイケメン!」
「七緒くん、こっち来てーっ! あたしたちと一緒に写真撮ろー」
同校他校問わず目をハートにした女子たちが、星宮に熱い眼差しを送ったり、自分たちのテーブルの接客や記念撮影をせがんでいる。
星宮のやつ、やっぱり女子のいなし方が下手だな。
嫌ならはっきり断ればいいのに。
「もーっ、俺は忙しいから後でね」と作り笑いを浮かべているだけで、全然あしらいになってない。
僕も僕で、さりげなく助けに行けばいいのに。
あいつの表情に困惑の色が含まれているのにも、つるんとした陶磁器のような白い頬に、透き通った汗がつーっと伝っていくのにも、すぐに気づいたぐらいなのだから。
でも、足が床に縫い付けられたように動かない。
それどころか、積極的にあいつに関わろうとする女子たちの度胸を羨ましく思ってしまう。
結局どうすることもできなくて、置物のように立ち尽くしていると、
「えっ? 月森くんだよね……?」
ふと、確かめるような声が聞こえた。
誰? 知り合い?
僕の名前を呼んだのと、前にどこかで聞いた覚えがある声のような気がして顔を向けると、
「あっ! やっぱり月森くんだ‼」
「水野さん⁉」
会うのは例の合コン以来だから、だいたい2ヶ月ぶりだろうか。
僕の目の前に立つ水野さんが、「やっほー! 元気にしてた?」と満面の笑顔で手を振ってきた。
しかも、あのとき水野さんと一緒に参加した女子メンバーも全員揃っていて、「久しぶりー」「今、仕事中?」などと口々に僕に話しかけてくる。
「その格好ってウェイターだよね? 月森くんにすっごく似合ってる!」
再会して早々、水野さんは嬉々としてはしゃいでいた。
興奮する彼女についていけない僕は、「あ、ああ……。どうもありがとう……」とたじたじとしながらお礼を言った。
「やっぱメガネ男子って、こういうきっちりかっちりした服が似合うよね~。あっ、そうだ! 一緒に写真撮ろうよ!」
「えっ?」
この流れで突然誘われて面食らったものの、すぐに今はホールの仕事中なのを思い出して戸惑った。
どうしようか……と僕が悩んでいる間にも、水野さんはとっくにスマホのカメラアプリを起動していた。
画面には水野さんの顔と、顔の縦半分が見切れた僕が映り込んでいる。
え? いきなり? しかも、ツーショット⁉
「月森くん、もっとこっちに寄って」
「あ……。ああ、うん……」
突然のことにまごついていると、水野さんにガシッと腕をつかまれた。
瞬間、ぐいっと力ずくで横向きに引っ張られた。
すると、さっきのスマホの画面に、肩がぶつかるほど急接近した僕と水野さんがフレームに収まった。
「はい、撮るよーっ!」
元気よく合図を出した水野さんが、写真を撮ろうとしたその瞬間。
僕と彼女の間に何かがずいっと割り込んだ。
直後、カシャッというシャッター音がして、真ん中に星宮をはさんだ水野さんと僕というスリーショットが撮れる。
……って、星宮⁉ いつの間に……⁉
「あれー? 星宮くんが写ってる。……って、いつからいたの⁉」
「今さっき」
しれっと僕たちの間に割り込んでいた星宮が、目をぱちくりさせる水野さんの質問に答えた。
続けざまに、「邪魔しちゃってごめんねー。でも、俺も仲間に入れて欲しくってさー」と、手を合わせて彼女に謝っているけれど。
どこか心にも思ってない、平べったい声のトーンからして、申し訳なさがまったく伝わってこない。
水野さんは気にしていないのか、「そうなんだー」と軽く流していたから別にいいんだけど……。
星宮のやつ……、なんで僕と水野さんを邪魔しに来たんだろう?
突然疑問を抱くものの、居心地が悪くなってきたこのタイミングで、ラッキーなことに客らしき男女のカップルが教室に入ってきたので、僕はそそくさと二人から離れた。
「あっ! 待ってよ、月森くん! どこ行くの?」
水野さんの声が僕を引き止めてくる。それに後ろ髪を引かれそうになったけど、星宮が彼女の近くにいることを思いだして、
「仕事……。注文取ってくる」
僕はぼそっと呟くようにそう告げて、教室の出入り口の方へと急いで向かった。
◇ ◆ ◇
――数時間後。
やっとお昼のピークとシフトから解放された僕は、男子寮の廊下をふらふらと歩いていた。
ほかのクラスの出し物を見に行きたいとは思ってはいたけれど。
今は心身共に疲れ切っているせいで、まったくと言っていいほどその気になれない。
閉め切られた廊下の窓の向こうから、目が眩みそうなほど真夏の太陽の光が差し込んでいる。
それと共に、はしゃぎ声や笑い声が束になって聞こえてきた。
ガラス1枚隔たった向こう側は、あんなに明るくて賑やかなのに。
僕がいるこの場所だけが水の底にいるかのように、ひっそりと静かで、暗くて。
まるでたった一人だけ、違う世界に切り離されたみたいだった。
早いとこ、部屋に戻ろう。
ベッドの上で眠りにつけば、疲れた体を休めるし、僕にすり寄ってくるこの孤独感も少しは和らぐかもしれない。
ほんの少し歩くスピードを速めたちょうどそのとき。
「怜、待って!」
人気のないこの場所に、僕を呼び止める声が耳に飛び込んできた。
立ち止まって振り向くと、焦った顔をした星宮が、こっちに向かってダッシュで近寄ってくる。
今の今まで相当走り回っていたんだろう。
星宮は僕の目の前で立ち止まるなりひざを抱えると、肩を上下させながら、「ぜーっ、はーっ」と荒い息づかいをした。
「だ、大丈夫……?」
僕は心配でたまらなくなって、星宮の具合を確認しようと顔を覗き込もうとした。
……でも、どういうわけか。自然と足が一歩後ずさりしてしまう。
星宮はこんなにヘトヘトになってまで、僕を探しに来てくれたのに。
好きな人とまっすぐに向き合えない。それどころか、逃げ出そうとしてしまう自分自身が情けなくて嫌になる。
「大丈夫な、わけないだろ……」
足元に視線を落したまま呼吸を整えていた星宮が、明確な怒りをたたえた低い声を放つなり、顔を上げて僕を睨んだ。
いつか見た真顔よりもぞっとするほどの、すごみのある真剣な表情と鋭い眼光に、僕は今度こそ射止められように身動きできなくなってしまう。
「だって、怜ってば。急に俺のこと避けるし、話もすぐに切り上げるし……。最初の、あんまり仲が良くなかったときよりもずっと、関係悪くなってんじゃん」
「…………っ」
「俺、なにかした? もしかして、水野さんとのツーショットを邪魔しちゃった件で怒ってる?」
「…………」
「……ねえ、怜。なにか言ってよ」
「…………」
「怜……っ! もう無視すんなよ……、ほんとっ……。ってか、マジでいい加減にしろっ‼」
空気がびりびりと音を立てて振動するほどの金切り声にも似た星宮の怒鳴り声に、自分の中で限界に達した何かが、ぷつりと音を立てて切れる。
こっちこそ、そのセリフをそっくりそのまま返してやりたい。
僕だって、星宮を怒らせるつもりでだんまりを決め込んでいるわけじゃない。
君のことが『好きだ』と気づいて。でも、いつも通りの接し方ができなくなってしまったから。
しばらくほっといて一人にして欲しいだけなのに……。
――でも、もう限界だ。
これ以上、僕から星宮へ向いたこの気持ちを、黙って隠し通すなんてできない。
星宮に嫌われてもいい。これ以上関係が悪化してもそれでいい。
どうせ、僕があいつの恋人になるなんて、かないっこない願いなんだから。
僕はぐっと顔をしかめると、星宮の肩をつかんで、壁際まで追い込んだ。
ドンッと壁に片手をついて逃げ場をなくし、もう片方の肩をつかんでいた手で、星宮の顎先を指でつまみ上げる。
そして、このままキスに持ち込もうとしたその寸前で――、
「れい……?」
ふと聞こえてきた震える声に、僕はハッと我に返った。
視線の先にいる星宮が、大きな目を更に大きく見開いて、まばたき一つすることなく、僕のことを凝視している。
怯えているのだろうか。表情がいつもより強張っていて、かわいた唇が小刻みに震えている。
僕は星宮の顎にふれる手をおろした。
――最悪だ。
僕は今、星宮に何を仕出かそうとしてしまったんだろう……。
未遂だったとはいえ、感情に任せて勢いでひどいことを仕出かしてしまったのには変わりない。
波のように押し寄せる自責と後悔の念に駆られて、僕は星宮に背中を向けた。
もう、星宮に顔向けできない。
それぐらい、あいつに対して申し訳ない気持ちと、この場にいたたまれない気持ちでいっぱいになっていく。
「気持ち悪いだろ……」
「え……?」
「僕、君とこういうことがしたいと思ってたんだよ」
「それって……、どういうこと……?」
「星宮とキスがしたい」
「…………っ‼」
「そういうことができる関係……つまり、君の恋人になりたかった」
「…………」
隠していた気持ちを吐露したあと、星宮が静かに押し黙る気配がした。
きっと、星宮は動揺してしまっているのだろう。
無理もない。
大勢の中のうちの一人の友達に、『キスしたい』『恋人になりたい』なんて告白されて、戸惑わないわけがないのだから。
頭の中ではわかっていたのに、自分の身に降りかかる現実は想像以上にたえられなかった。
永遠のよう続く沈黙に、今にも押しつぶされてしまいそう。
「さっきはひどいことしてごめん。……でも、僕の話を聞いてくれて、本当にありがとう」
僕は星宮に背中を向けたまま、涙の交じった声でなんとか謝罪とお礼を伝えると、この恋を自分から手放して、全速力で廊下を走り出した。
お昼のかきいれ時。
僕はモノトーンのウェイター衣装に身を包み、喫茶店を模した教室でホールを担当していた。
「お待たせいたしました。こちら、クリームソーダとパンケーキ、それからフルーツサンドでございます」
注文されたメニューを運んで、指定のテーブルの上並べていく。
すると、そのテーブルの周りを囲んでいた他校の制服を着た女子3人組が、たちまち目を輝かせ、「キャーッ! かわいい!」と黄色い声を上げて騒ぎ出した。
「すごーい! めっちゃ本格的!」
「このフルーツサンドの断面、いいよね! パンケーキもおいしそう!」
「あの、注文したものの写真を撮ってもいいですか?」
「どうぞ」
聞かれて、できるだけにこやかに応対すると、女子3人組から「ありがとうございまーす!」とお礼を言われた。
「ねえ、早く撮ろうよ!」と和気あいあいとしながら、自分たちが注文したものをスマホでパシャパシャ撮影し始める彼女たちを眺めて、僕は「ふう」と小さなため息をつく。
ふと思ったことだけど。以前の僕なら絶対に、笑顔で接客なんてできなかっただろうな。
たぶん、ガチガチに緊張して、かえって不愛想な態度を取っていたのかもしれない。
――でも、こうやって初対面の人に臆さず接することができるようになったのは、やっぱりいつも僕にかまってくれたあいつのおかげなんだろうな……。
同じ教室の中にいるのに。やたらと遠くに見えるプラチナブロンドの髪を目にしたとたん、胸の奥がしくしくと痛んだ。
◇ ◆ ◇
僕が星宮への恋心を自覚してからというものの、まだ数日しか経っていないというのに。
関係はかなり気まずく、ぎくしゃくしたものに変わっていた。
一応軽い挨拶ぐらいは交わすこともあるけれど、かつてのように他愛のないおしゃべりをすることはなくなった。
こうなってくると、僕の気持ちが星宮にバレてもバレなくても、どのみち関係の悪化はまぬがれなかったのかもしれない。
でも、僕は『こんなことになるのなら、星宮に気持ちを伝えておけばよかった』とは思わなかった。
『世の中には知らなくてもいいことがたくさんある』という言葉が存在するぐらいだ。
僕の気持ちを伝えたところで、星宮を困らせてしまう結果になるのなら。最初から何も伝えない方がいいに決まってる。
心の中でそう思いながらも、僕の視線は同じホールのシフトに入って、せかせかと動き回っている星宮を追っている。
でも、それは僕一人に限ったわけではなく、
「ヤバい。あの派手髪のウェイターの男の子、めっちゃイケメン!」
「七緒くん、こっち来てーっ! あたしたちと一緒に写真撮ろー」
同校他校問わず目をハートにした女子たちが、星宮に熱い眼差しを送ったり、自分たちのテーブルの接客や記念撮影をせがんでいる。
星宮のやつ、やっぱり女子のいなし方が下手だな。
嫌ならはっきり断ればいいのに。
「もーっ、俺は忙しいから後でね」と作り笑いを浮かべているだけで、全然あしらいになってない。
僕も僕で、さりげなく助けに行けばいいのに。
あいつの表情に困惑の色が含まれているのにも、つるんとした陶磁器のような白い頬に、透き通った汗がつーっと伝っていくのにも、すぐに気づいたぐらいなのだから。
でも、足が床に縫い付けられたように動かない。
それどころか、積極的にあいつに関わろうとする女子たちの度胸を羨ましく思ってしまう。
結局どうすることもできなくて、置物のように立ち尽くしていると、
「えっ? 月森くんだよね……?」
ふと、確かめるような声が聞こえた。
誰? 知り合い?
僕の名前を呼んだのと、前にどこかで聞いた覚えがある声のような気がして顔を向けると、
「あっ! やっぱり月森くんだ‼」
「水野さん⁉」
会うのは例の合コン以来だから、だいたい2ヶ月ぶりだろうか。
僕の目の前に立つ水野さんが、「やっほー! 元気にしてた?」と満面の笑顔で手を振ってきた。
しかも、あのとき水野さんと一緒に参加した女子メンバーも全員揃っていて、「久しぶりー」「今、仕事中?」などと口々に僕に話しかけてくる。
「その格好ってウェイターだよね? 月森くんにすっごく似合ってる!」
再会して早々、水野さんは嬉々としてはしゃいでいた。
興奮する彼女についていけない僕は、「あ、ああ……。どうもありがとう……」とたじたじとしながらお礼を言った。
「やっぱメガネ男子って、こういうきっちりかっちりした服が似合うよね~。あっ、そうだ! 一緒に写真撮ろうよ!」
「えっ?」
この流れで突然誘われて面食らったものの、すぐに今はホールの仕事中なのを思い出して戸惑った。
どうしようか……と僕が悩んでいる間にも、水野さんはとっくにスマホのカメラアプリを起動していた。
画面には水野さんの顔と、顔の縦半分が見切れた僕が映り込んでいる。
え? いきなり? しかも、ツーショット⁉
「月森くん、もっとこっちに寄って」
「あ……。ああ、うん……」
突然のことにまごついていると、水野さんにガシッと腕をつかまれた。
瞬間、ぐいっと力ずくで横向きに引っ張られた。
すると、さっきのスマホの画面に、肩がぶつかるほど急接近した僕と水野さんがフレームに収まった。
「はい、撮るよーっ!」
元気よく合図を出した水野さんが、写真を撮ろうとしたその瞬間。
僕と彼女の間に何かがずいっと割り込んだ。
直後、カシャッというシャッター音がして、真ん中に星宮をはさんだ水野さんと僕というスリーショットが撮れる。
……って、星宮⁉ いつの間に……⁉
「あれー? 星宮くんが写ってる。……って、いつからいたの⁉」
「今さっき」
しれっと僕たちの間に割り込んでいた星宮が、目をぱちくりさせる水野さんの質問に答えた。
続けざまに、「邪魔しちゃってごめんねー。でも、俺も仲間に入れて欲しくってさー」と、手を合わせて彼女に謝っているけれど。
どこか心にも思ってない、平べったい声のトーンからして、申し訳なさがまったく伝わってこない。
水野さんは気にしていないのか、「そうなんだー」と軽く流していたから別にいいんだけど……。
星宮のやつ……、なんで僕と水野さんを邪魔しに来たんだろう?
突然疑問を抱くものの、居心地が悪くなってきたこのタイミングで、ラッキーなことに客らしき男女のカップルが教室に入ってきたので、僕はそそくさと二人から離れた。
「あっ! 待ってよ、月森くん! どこ行くの?」
水野さんの声が僕を引き止めてくる。それに後ろ髪を引かれそうになったけど、星宮が彼女の近くにいることを思いだして、
「仕事……。注文取ってくる」
僕はぼそっと呟くようにそう告げて、教室の出入り口の方へと急いで向かった。
◇ ◆ ◇
――数時間後。
やっとお昼のピークとシフトから解放された僕は、男子寮の廊下をふらふらと歩いていた。
ほかのクラスの出し物を見に行きたいとは思ってはいたけれど。
今は心身共に疲れ切っているせいで、まったくと言っていいほどその気になれない。
閉め切られた廊下の窓の向こうから、目が眩みそうなほど真夏の太陽の光が差し込んでいる。
それと共に、はしゃぎ声や笑い声が束になって聞こえてきた。
ガラス1枚隔たった向こう側は、あんなに明るくて賑やかなのに。
僕がいるこの場所だけが水の底にいるかのように、ひっそりと静かで、暗くて。
まるでたった一人だけ、違う世界に切り離されたみたいだった。
早いとこ、部屋に戻ろう。
ベッドの上で眠りにつけば、疲れた体を休めるし、僕にすり寄ってくるこの孤独感も少しは和らぐかもしれない。
ほんの少し歩くスピードを速めたちょうどそのとき。
「怜、待って!」
人気のないこの場所に、僕を呼び止める声が耳に飛び込んできた。
立ち止まって振り向くと、焦った顔をした星宮が、こっちに向かってダッシュで近寄ってくる。
今の今まで相当走り回っていたんだろう。
星宮は僕の目の前で立ち止まるなりひざを抱えると、肩を上下させながら、「ぜーっ、はーっ」と荒い息づかいをした。
「だ、大丈夫……?」
僕は心配でたまらなくなって、星宮の具合を確認しようと顔を覗き込もうとした。
……でも、どういうわけか。自然と足が一歩後ずさりしてしまう。
星宮はこんなにヘトヘトになってまで、僕を探しに来てくれたのに。
好きな人とまっすぐに向き合えない。それどころか、逃げ出そうとしてしまう自分自身が情けなくて嫌になる。
「大丈夫な、わけないだろ……」
足元に視線を落したまま呼吸を整えていた星宮が、明確な怒りをたたえた低い声を放つなり、顔を上げて僕を睨んだ。
いつか見た真顔よりもぞっとするほどの、すごみのある真剣な表情と鋭い眼光に、僕は今度こそ射止められように身動きできなくなってしまう。
「だって、怜ってば。急に俺のこと避けるし、話もすぐに切り上げるし……。最初の、あんまり仲が良くなかったときよりもずっと、関係悪くなってんじゃん」
「…………っ」
「俺、なにかした? もしかして、水野さんとのツーショットを邪魔しちゃった件で怒ってる?」
「…………」
「……ねえ、怜。なにか言ってよ」
「…………」
「怜……っ! もう無視すんなよ……、ほんとっ……。ってか、マジでいい加減にしろっ‼」
空気がびりびりと音を立てて振動するほどの金切り声にも似た星宮の怒鳴り声に、自分の中で限界に達した何かが、ぷつりと音を立てて切れる。
こっちこそ、そのセリフをそっくりそのまま返してやりたい。
僕だって、星宮を怒らせるつもりでだんまりを決め込んでいるわけじゃない。
君のことが『好きだ』と気づいて。でも、いつも通りの接し方ができなくなってしまったから。
しばらくほっといて一人にして欲しいだけなのに……。
――でも、もう限界だ。
これ以上、僕から星宮へ向いたこの気持ちを、黙って隠し通すなんてできない。
星宮に嫌われてもいい。これ以上関係が悪化してもそれでいい。
どうせ、僕があいつの恋人になるなんて、かないっこない願いなんだから。
僕はぐっと顔をしかめると、星宮の肩をつかんで、壁際まで追い込んだ。
ドンッと壁に片手をついて逃げ場をなくし、もう片方の肩をつかんでいた手で、星宮の顎先を指でつまみ上げる。
そして、このままキスに持ち込もうとしたその寸前で――、
「れい……?」
ふと聞こえてきた震える声に、僕はハッと我に返った。
視線の先にいる星宮が、大きな目を更に大きく見開いて、まばたき一つすることなく、僕のことを凝視している。
怯えているのだろうか。表情がいつもより強張っていて、かわいた唇が小刻みに震えている。
僕は星宮の顎にふれる手をおろした。
――最悪だ。
僕は今、星宮に何を仕出かそうとしてしまったんだろう……。
未遂だったとはいえ、感情に任せて勢いでひどいことを仕出かしてしまったのには変わりない。
波のように押し寄せる自責と後悔の念に駆られて、僕は星宮に背中を向けた。
もう、星宮に顔向けできない。
それぐらい、あいつに対して申し訳ない気持ちと、この場にいたたまれない気持ちでいっぱいになっていく。
「気持ち悪いだろ……」
「え……?」
「僕、君とこういうことがしたいと思ってたんだよ」
「それって……、どういうこと……?」
「星宮とキスがしたい」
「…………っ‼」
「そういうことができる関係……つまり、君の恋人になりたかった」
「…………」
隠していた気持ちを吐露したあと、星宮が静かに押し黙る気配がした。
きっと、星宮は動揺してしまっているのだろう。
無理もない。
大勢の中のうちの一人の友達に、『キスしたい』『恋人になりたい』なんて告白されて、戸惑わないわけがないのだから。
頭の中ではわかっていたのに、自分の身に降りかかる現実は想像以上にたえられなかった。
永遠のよう続く沈黙に、今にも押しつぶされてしまいそう。
「さっきはひどいことしてごめん。……でも、僕の話を聞いてくれて、本当にありがとう」
僕は星宮に背中を向けたまま、涙の交じった声でなんとか謝罪とお礼を伝えると、この恋を自分から手放して、全速力で廊下を走り出した。