――期末テストが終わって1週間後。
すべての教科の解答用紙を受け取ったその日の夕方。
僕は放課後になってすぐ、星宮と一緒に男子寮にまっすぐ帰った。
「……で、結果はどうだった?」
自分たちの部屋に入るなり、僕は今にも飛び出しそうな心臓のあたりを手のひらでおさえながら、おそるおそる星宮にたずねる。
すると、星宮がおもむろに、スクールバッグから全教科分の解答用紙を取り出した。
「……はい、これ」
珍しく緊張の面持ちの星宮に、紙の束を差し出される。
それらを受け取って点数欄を確認すると、80、75、90……という、100点満点に近い高得点の数字ばかりが、赤ペンで書かれていた。
「すごっ……。星宮、やったじゃん!」
感極まって大声を上げてしまった直後。
「れ、怜……?」
目が点になった星宮から視線を注がれていることに気づいて、僕はハッと我に返った。
「びっくりした……。怜が急に興奮し出すから……」
「あ、いや……。これは、その……」
恥ずかしいのと気まずいのとで、言葉がつっかえてうろたえてしまう。
まごつく僕に対して星宮はというと、呆気に取られていた顔をくしゃっとさせて、
「怜も子供みたいに喜ぶことってあるんだね」
星宮にクスクスと笑われて、自分の顔が急速に火照っていくのが嫌でもわかった。
でも、星宮はというと、縮こまってうつむく僕の顔を、至近距離から覗き込んでくる。
「でも、俺のことなのに、自分のことみたいに喜んでくれて嬉しかったよ」
「そ、そう……」
こうして星宮と話しているだけで、怒ったり、驚いたり、喜んだり……今日の僕はけっこうせわしない。
どういうわけか星宮と一緒にいることによって、自分の感情が、言葉や表情、仕草になって、どんどん表に引っ張り出されていくんだ。
自分で言うのもなんだけど、今までの僕は高校生にしては落ち着いているというか……水野さんの言葉を借りれば、『クール』なタイプのはずだったんだけどさ。
「ねえねえ、怜」
ふいに話を切り出してきた星宮に、僕は「ん?」と首をかしげる。
「今週の土曜日って、予定入れてる?」
「いや、まったくないけど……」
ふるふると首を横に振る。
すると、星宮はぱあっと弾けるような笑顔になって、「だったらその日は絶対に空けといて‼」と、僕に強く念を押してきた。
「別にいいけど、なんで……?」
「俺に勉強を教えてくれたお礼がしたいから」
そんなの別に気にしなくてもいいのに。と言いたいところだったけど、僕に対して義理堅い星宮のことだ。
断ってもきっと聞かないだろうし、ここは反論せずに受け入れよう。
でも、星宮が僕にしようとしているお礼って、一体何なんだろう?
「それって、僕に何かプレゼントをくれるとか、どこかでご馳走してくれるとか……?」
気になって星宮にたずねてみると、「まだ内緒!」と笑顔ではぐらかされた。
当日までのお楽しみ、か……。なんだろう。
無性に土曜日が待ち遠しくなってきた。
◇ ◆ ◇
――と、いうわけで数日後。
あっという間に、約束の土曜日がやってきた。
「うわーっ! やっぱ、人多いねー」
「えっ? ここって……」
学校の最寄り駅から電車に乗って20分。
星宮に連れられてたどり着いたのは、大海原に面した場所にあるガラス張りの壁が印象的な水族館だった。
週末の上に、かなり人気のスポットだからか。
まだ開館30分前の朝の9時半だというのに、館外には大勢の人であふれていた。
ぱっと見た感じ、カップルや家族連れ、友達グループなど複数で来ている人たちが多い。
同じ複数でも、僕と星宮みたいな男2人で連れ立っている人たちは今のところいないけど……。
「もしかして、当日までのお楽しみのお礼って……、僕をここに連れて行くことだったの?」
僕がたずねると、星宮は笑顔で「うん」とうなずいた。
「今まで内緒にしてたけど、この水族館で1日デートするのが、俺からの怜へのお礼」
いや、デートって……!
一瞬ドキッとしたけれど、言葉のあやだと思い直した。
それにしても、僕にとって休日に同級生と二人きりで遊びに行くのもだけど、その場所が水族館だというのもかなり新鮮だ。
普段の僕なら決まって一人で、駅中のショッピングモールにある書店と文具店で買い物をしたあと、カフェに寄って帰るだけで終わらせてしまうから。
ほぼルーティン化している外出もそれなりに楽しいけど、今回のようにまだ行ったことのない場所に出かけるのもまたいい刺激になっている。
連れて来てくれた星宮には感謝だな。とはいえ、
「青い空に青い海、最高!」
元気にはしゃいでいる星宮を見ている限り、僕をここに連れて来たのは、『純粋なお礼』と言うより、『単に自分が行きたかったから』っていうのが理由の大半を占めている気がするんだけれど……まあいっか。
◇ ◆ ◇
それから30分経って10時。やっと水族館がオープンした。
星宮が前もって買ってくれたチケットを使って入場ゲートをくぐる。
館内は冷房がきいていて、ひんやりとした風が、髪や服の間にこもる熱を吹き飛ばしてくれた。
「れーい、こっちだよ」
先を歩く星宮に案内されながら、薄暗い廊下をしばらく歩いていくと、水槽のトンネルが俺たちを迎えてくれた。
まるで海の中に入り込んだかのようだ。
透き通った青い光が差し込む水槽の中を、さまざまな種類の海の生き物たちが自由自在に泳ぎ回っている。
「すごい、綺麗……」
「だよね……。あっ、怜! 次はあっちに行ってみようよ」
……ったく。星宮のやつ、切り換えが早過ぎるってば。
まあ、この水族館は目移りしてしまうほど見どころが多いから、仕方ないのかもしれないけど。
トンネルを出たら、今度は巨大水槽が展示されてあるエリアに星宮と一緒に向かう。
まるで海の一部を切り取ったのようなこの水槽には、大きな群れを作って泳ぐ回遊魚、優雅にひれを羽ばたかせるマンタがいて、次から次へと普段の日常では見られない光景が、次から次へと目に飛び込んでくる。
なんと、ジンベエザメもいた。
はじめて見たけど意外とデカくて迫力もあるのに、ゆったりと僕の目の前を横切っていく。
星宮も今の光景を見たのかな? あいつのことだから、子供みたいに目をキラキラさせてはしゃいだりして……あれ?
「星宮……? え、どこ……?」
さっきまで僕の隣にいたはずの星宮が、忽然と姿を消していた。
はぐれた? いや、僕が星宮から目を離した時間は、あまり長くないはずだから、まだ近くにいるかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、近くをきょろきょろ見わたしたり、歩き回ったりしながら星宮を探してみるけれど――僕の目に映るのは、顔も名前も知らない人ばかり。
「いない……」
星宮が見つからない。
この現実に途方に暮れているうちに、時間だけがどんどん過ぎていくものだから、余計に不安と焦りが募っていく。
冷たい汗が、僕の頬をつーっとつたって流れていった。
こんなとき、どうしたら……って、僕にはスマホがあるじゃないか。
一応、星宮の連絡先は知ってる(強引に登録させられた)から、とりあえず電話をかけてみよう。と思って、ショルダーバッグからスマホを取り出そうとしたそのとき。
「えぇ~っ? いいじゃん! あたしたちと一緒に回ろうよ!」
突然、キンキンと響く不満げな声が、この場に漂う静かな空気を一瞬にして突き破った。
耳障りな声が聞こえてきた方に視線を寄こす。
僕がいる現在地から少し離れた場所に、派手で気が強そうな2、3人ほどの女子がいて、逃げ道をふさぐように壁際に誰かを追い込んでいるようだった。
「そーだよ! 一人よりも大勢の方が楽しいよ」
「ほらっ、遠慮しないで早く行こっ!」
「だから俺、一人じゃなくって……!」
今の声、星宮……⁉
明らかに困惑が全面に出た聞き覚えのある声と、女子たちの頭のすき間からチラチラと見え隠れするプラチナブロンドの髪に、僕はハッと息を呑む。
駆けつけると思ったとおり、いつの間にか姿を消してしまった星宮がいた。
積極的な女子たちに取り囲まれて、迷惑そうに顔をしかめている。
でも、すぐに自分の近くにいる僕に気づいて、「あっ、怜っ!」とぱっと明るい笑顔になった。
逆に女子たちは突然現れた僕に戸惑って、「え? あの人誰?」「さあ……?」と仲間内でヒソヒソとささやき合う。
「すみません。こいつ、僕の連れなんで」
僕はサッと女子の群れの中に割って入ると、星宮の肩をつかんで、自分の方へ引き寄せた。
「あっ……。そ、そうですか……」
呆気に取られた女子たちは、お互いの顔を見合わせると、「い、行こ……」とすごすごと退散していった。
よかっ、た……。
星宮と再会できたことで、僕の中で不安と緊張で張り詰めた糸がぷつんと切れて、どっと疲れが押し寄せてきた。
「は~~っ……」
「怜? 大丈夫⁉」
両手で顔をおおって長いため息をついていると、不安げな表情を浮かべた星宮が、あわてて僕の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫……。やっと星宮が見つかって、ほっとしただけだから……」
「ごめん……」
しょんぼりとした顔の星宮が、僕に向かって頭を下げた。
「怜とサメを見ていたはずが、急に人ごみに紛れてしまって。それでこのあたりを歩いて探していたら、さっきのあの女の子たちにつかまっちゃって……」
そっか……。僕とはぐれたときに、そういう経緯があったのか。
星宮も大変だったんだな……。
「いや、いいよ。僕の方こそごめん。もう少し周りをちゃんと見ていたから……」
「怜は謝んなくていいから! 俺の方が……」
「いや、僕が」
「俺が!」
「落ち着けって。僕の方が……って、これ以上言い合ってもキリがないか」
僕が苦笑いして、この終わりの見えない言い合いを打ち切ると、星宮も「そうだね」と顔をほころばせる。
「じゃあ、無事再会できたということで。気を取り直して今度はあっちに行ってみようよ」
「ああ……って、え?」
ものすごく当たり前のような、自然な流れで星宮が僕の手をつかむ。
先月、合コン会場のカラオケボックスから出るときに、星宮に手首を引っ張られたことがあったけど。
あのときと違って、今回はちゃんと手と手をつないでいるせいか、意識がそこばかりに集中してしまう。
心臓の音がドキドキからドクンドクンへ、どんどん鼓動が強まってくる。
おかげで顔が火照ってくる僕のことを知ってか知らないか。星宮は僕の手をしっかりと握り締めたまま、別のエリアへずんずんと歩みを進めた。
◇ ◆ ◇
連れてこられたのは、さっきの巨大水槽のエリアよりも一際暗い小さな室内だった。
どうやらここはクラゲのエリアらしい。
赤、青、緑、黄色、ピンク、紫――……さまざまな色にライトアップされた円柱形の水槽の中を、半透明のクラゲたちがふわふわと泳いでいる。
「ここ、俺が一番、怜と一緒に来たかった場所なんだ」
このエリアを歩きながら、星宮が僕に語りかけてくる。
クラゲたちが織り成す神秘的な光景に目を奪われているのか。
ちっともこっちを見てくれなかったけど、僕と繋いだ彼の手にはしっかりと力がこもっていた。
「それって、綺麗だから?」
「まあ、それもあるけれど……ここって、寮の屋上から見た景色に似てると思わない?」
言われてみれば、たしかにそうだ。
男子寮の屋上から見た景色も、こんなふうにキラキラ輝いているもんな。
「それから、怜に一番見せたかったのがここ」
星宮が、このエリアの中で一番大きい円形の水槽の前にたどりつくなり、足を止めた。
「満天の星空って感じがするでしょ?」
「そうだね」
満面の笑顔を向けてくる星宮に、ひとりでに頬がゆるむ。
クラゲって、漢字にすると『海に月』って書くほど月みたいな見た目してるのに、たくさん集まると星空みたいだ。
夜でも明るいこの都心の街では、普段は見ることができないけど。こんなに無数の星空が、僕たちの頭上に広がっているのかな。
なんてことを思いながら、幻想的な光景にしばらく二人で見入っていた。
◇ ◆ ◇
一通り館内を見て回ったあと。
水族館に併設されたレストランで食事をして、イルカショーを見終わってから、僕たちはいったん水族館を出ることにした。
「いやー、楽しかったね。水族館」
外に出るなり、上機嫌の星宮が僕に話しかけてくる。
「そうだね。かなり見どころがあったし、また行きたいな」
「よかったー! 気に入ってくれたみたいで。じゃあ、次も俺と一緒に行こっ!」
……ったく。そうやってすぐ僕を誘いたがるんだから。
まあ、星宮のことだから予想はついていたし、別に悪い気はしないからいいけどさ。
「いいよ」
返事をしながら自然と口角がゆるむのを感じたそのとき、突然雨が降ってきた。
朝から雲一つないぐらい晴れていたのに。
いつの間にか青い空をおおいつくした雨雲から、銀色の雨がぱたぱたと音を立ててアスファルトの上に落ちてきた。
雨はすぐにザーザーと音を立てるほど威力を増して、あたり一面を白く煙らせていく。
僕たちは駅舎の軒下へ急いだけれど、走り終えた頃には前髪や顎から雫がしたたり落ちるほど全身びしょ濡れになっていた。
「あーもー、なんなの急に⁉」
星宮が灰色の空に向かって大声で叫んだ。
「うわーっ、もう全身びしょびしょ……。何で急に大雨が降ってきたんだろう……?」
「にわか雨なんじゃない? いきなり強く降ってきたし」
「あっ、そっかあ……。でも、怜の言うとおり、にわか雨だったらすぐに止むね」
白い額に濡れた髪をぺったりくっつけたまま、星宮が微笑んだその瞬間――ふと、僕の脳裏にたった一度だけ出会った人物の記憶がよみがえった。
古い記憶だ。なんなら、今まですっかり忘れていたまでもある。
でも、その記憶の中の人物――びしょ濡れの男の子に懐かしさを覚えたそのとき。
――なぜか彼の面影が、僕の目の前にいる星宮にほんの少し重なったような気がした。