――あの合コンから1週間が経った、とある6月上旬の放課後。
「れーい、一緒にテスト勉強しようよ!」
自分の席で帰り支度をしている僕の元に、星宮が駆け寄ってきた。
ついさっきのホームルームで、2週間後に行われる期末テストの範囲表を配られたからだろう。
もちろん僕もこれからテスト勉強に取りかかるつもりだ。
でも、それはあくまでも一人でやるという前提。
大事なテストに向けての勉強は、誰にも邪魔されずに集中して進めたいタイプなのだ。
「僕、これから一人で図書室で勉強する予定なんだけど……」
一応断りを入れたつもりだった。
なのに星宮は僕に向かってパンッと手を合わせると、
「そこをなんとか! 今日だけでいいから俺に勉強を教えて!」
「ええっ、でも……」
「お願い! どうしても、夏休みを補習でつぶされたくないんだよ……」
ほ、補習……⁉
それって、あの赤点を取った生徒が、夏休み返上で学校で受けるあの補習⁉
僕にははるか縁遠い補習を、身近なルームメイトが受けることになりかけていることに驚愕していると。
「俺からも頼むよー、月森。こいつに勉強を教えてやってくれ」
「まっ、……待鳥先生⁉」
星宮の隣に突然現れたのは、担任の待鳥先生だった。
まさか星宮のやつ、先生まで巻き込んで外堀を埋めようとしてるのか⁉ ――と、一瞬疑ったけど。
ボサボサの髪に濁った目、着古したヨレヨレの白衣。
そんな見た目からしてまさに『怠惰』を擬人化したような待鳥先生が、わざわざこの窓際の列の最後尾にある僕の席に出向いてまで頼みごとをするなんて、よっぽどのことなんだろうと思い直した。
まあ、仮にそういうことだとしても――……、
「あの、なんで僕なんですか?」
「それはほら、月森が星宮のルームメイトで、ずば抜けて優秀だからだよ。この前のテストの結果も、ぶっちぎりで学年トップだっただろ?」
たしかに、先月受けた僕の中間テストの学年順位は1位だった。
片手で数えられる程度だけど、満点を取った教科もいくつかある。
でも、勉強ができるからって、人に教えるのも上手いとは限らないんじゃないのかな……?
「いやあの、本当に僕でいいんですか……? 人に教えたことなんてないんですよ?」
一人で勉強したいのと、星宮の勉強の面倒を見る自信がないのもあって、待鳥先生にたしかめるような口調で、遠回しに断りを入れる。
「お前なら大丈夫だろ。それに、人に勉強を教えるのっていいことだぞー。自分の言葉で説明することによって理解が深まるし、知識がより自分に身につきやすくなるからな」
「は、はあ……」
「というわけで、俺は職員会議に行くから。二人仲良く頑張れよ~。じゃーなー」
茫然とする僕にひらひらと手を振って、待鳥先生はそそくさと教室を出て行ってしまった。
またしてもあれよあれよという間に、一方的に厄介ごとを押し付けられてしまったな……。
まあ、それが待鳥先生の常套手段なんだけどさ。
でも、先生がさっき言ってた『人に勉強を教えると自分にも身につく』っていう話は、実際に効果があると以前どこかで聞いたことがある。
僕が星宮に勉強を教えることでお互いのためになるのなら、待鳥先生の言うことに素直に従ってみるのもいいかもしれない。
「とりあえず、今から一緒に勉強する……?」
僕がそうたずねると、星宮は瞳の中の星屑をキラキラと輝かせながら、笑顔になってうなずいた。
◇ ◆ ◇
と、いうわけで。
いったん男子寮の部屋に戻った僕は、星宮の中間テストの答案を見せてもらった(何度も断られたけど、答案を見ないとこいつの苦手とする問題がわからないからだ)のだけれど――……、
「なっ……! 何なんだよこの点数は⁉」
渡された答案用紙の点数欄に書かれていたのは、あまりにも低すぎる点数の数々。
先ほど星宮が教室で『夏休みを補習でつぶされたくない』とかどうとか嘆いていた時点で、なんとなく察しがついていたけど……まさかどの教科も赤点ギリギリだったとは思ってもみなかった。
そういや、今度の期末テストの範囲には、中間テストの範囲もかぶっているんだよな。
だとしたら、今のうちに何らかの手を打たないと星宮はヤバい。
夏休みを補習でつぶすどころか、その前に行われる学園祭やその準備にも関われない可能性がある。
と、僕がこれだけ他人のことを自分のことのように真剣に考えているというのに、肝心の星宮は――……、
「あは、あはははっ……」
引きつった笑顔で乾いた笑い声を上げたと思うと、急に唇をとがらせて、
「だって、この学校の勉強難しいんだもん……」と愚痴をこぼす。
「当たり前だろ……。この学校、そんじょそこらの進学校じゃないんだぞ」
そう。僕たちが在籍するこの青海学園は、難関大学合格に実績のある、かなりハイレベルな進学校なのだ。
校則がとてもゆるく、かなり自由な校風の学校ではあるけれど、勉強する内容は僕でも難しいと思うことが多い。
なので、ちょっとでも努力を怠ると、あっという間についていけなくなってしまう。
「し、知ってるよ! ここに転校するって決めたときなんか、受かるために毎日ガリ勉したぐらいだし!」
「だったらなんでこんなに成績がボロボロなんだよ」
「いやー、転入試験に合格したとたんに気が抜けちゃってさー……。それにほら、ここって都内で刺激も多いし? 遊び歩く機会も多くなっちゃって。たはー……」
だから、「たはー」って笑ってる場合じゃないんだってば……。
僕も僕で、呆れてがっくりしているヒマもないんだけどさ。
「れーい! 早く勉強しよーよー」
呼ばれてハッと我に返ると、いつの間にか星宮が部屋の真ん中に鎮座しているローテーブルの上にノートや教科書を広げて待っていた。
普段は星宮のスクールバッグをはじめとした、読みかけの漫画の単行本や、携帯ゲーム機などの荷物置き場になっているのに。
今回はあいつの私物がちゃんとあるべき場所に片付けられていて、いつでも勉強を始める準備ができている。
星宮のやつ、本気なんだな。
お互いに成績が上がるかもしれないから、星宮に勉強を教えようと思っていたけれど。
彼がここまで行動で示してくれるなら、僕もそれなりに応える必要があるだろう。
「わかった」
僕はうなずくと、ローテーブルをはさんで星宮の向かい側に座った。
「で、具体的にわかんないとこってどこ?」
「うーん、とにかく全部わかんないんだよね。最初の単元から教えてもらってもいい……?」
つまり、『一から勉強を教える』ってことになるのか。なかなか大変そうだな……。
正直な話、気が遠くなりそうだったけど、時間はまだまだたっぷりある。
僕は普段自分が使っている参考書と教科書を照らし合わせながら、できるだけかみ砕いた言葉を使って星宮に勉強を教えた。
――で、肝心の星宮はというと。
さすが、青海学園の転入試験に合格しただけある転校生だ。
僕が思っていた以上に飲み込みが早く、教えた部分はすぐに理解してしまった。
勉強した内容をちゃんとわかっているのか。
念のため、今回僕が教えた部分の問題を星宮に出してみると、こっちがおどろくほどスラスラと解いていってしまう。
「なんだよ。やればちゃんとできるじゃん……」
解答がほとんど丸で埋まった紙を見つめて呆然としている僕に、星宮は、「いやー、怜の教え方が上手かったからだよー」とケラケラと笑う。
「怜の説明、授業よりずっとわかりやすかったよ! おかげで、『なんで今まで理解できなかったんだろー?』って不思議なぐらい」
純粋な子供みたいに、透き通った目をキラキラ輝かせる星宮に褒められて、心臓がドキッと高鳴る音がした。
みるみるうちに自分の顔の熱が上昇していくのを感じる。
「怜、本当にありがとう」
今の今まで、誰かにこんなに褒められて、感謝された経験なんてあったっけ?
いや、そんな覚えは一度もない。
だからこそ、なんだか星宮に心の奥の柔らかいところをくすぐられた気分になって、こそばゆい。
「ハハ、そっか。それならよかった」
僕は、心臓がドキドキうるさいのと顔の熱をごまかすように、星宮に向かって照れ隠しに苦笑いを浮かべた。
◇ ◆ ◇
――数日後。
僕と星宮の勉強会は順調。最近は応用問題にもチャレンジするようになった。
「れーい! 今日は何を勉強する?」
放課後。日直の号令が終わってすぐ、星宮が自分のスクールバッグを持って、僕の元へ駆けてくる。
「昨日は文系科目をやったから、今日は理系科目中心にやっていこうか」
「わかった。じゃあ、中間テストにも出ていた応用問題を――……」
と、星宮が返事をしていたその途中。
「おーい、七緒ーっ!」
「こっち来いよー!」
星宮を呼ぶ複数の親しげな声が、急に耳の中に飛び込んできた。
「んーっ? なにー?」と反応する星宮とほぼ同じタイミングで、僕も声が聞こえてきた方へ顔を向ける。
教室の後ろの出入り口付近。そこに、五十嵐をはじめとしたクラスの中心的人物たちが集まっている光景が、僕の目に映り込んできた。
「七緒ー。これから俺のイチ押しのカフェで勉強会すんだけど、お前も一緒に行こーぜー!」
大きく手招きする五十嵐に対して、星宮は「ごめーん! 俺、今日はパス‼」と手を合わせて断った。
とたんに、あたりに微妙な空気が流れる。
「もしかして……、今日も月森と一緒に勉強する感じ?」
ぎこちない笑みを浮かべる五十嵐に、星宮が不思議そうな表情で「え? まあ、そうだけど……」と答える。
五十嵐たちは笑ってはいたけれど、まるで仮面を貼り付けたような笑顔だった。
「いや、あの……お前と月森が仲良いの知ってるから、別にいいんだよ。いいんだけどさ……」
「たまには俺たちとも付き合ってよ。……でも、やっぱり無理?」
僕と星宮は仲が良い……ように五十嵐たちの目には見えているのか。
言われてみれば、僕の中であいつに対しての苦手意識がだいぶ薄れているような気がする。
それは最近、二人で一緒に勉強するようになったから馴れてきたというよりは。
ついこの前、合コンから抜け出したときに、僕が星宮を見直したことがきっかけになったのもあるのかもしれない。
でも、五十嵐の不満を買うのもわからなくはなかった。
もともと自分たちの方がよく星宮とつるんでいたのに、あるときから別に自分たちと仲良くない僕の独占状態になっているんだもの。
面白くないに決まっている。
「今日ぐらいは誘いに乗ったら?」
僕は星宮を見上げて、五十嵐たちの元へ行くようにうながした。
「でもっ、怜……」
まさか、あの合コンのときのように僕を連れて行こうとしているんだろう。
気持ちはありがたいけれど……五十嵐たちのような賑やかなタイプの中に、真逆の僕がいることで微妙な空気になる可能性を考えて、あわてて首を横に振った。
「いいって。僕のことは気にしなくていいから。ほら、みんな待ってるから早く行きなよ」
星宮の背中を軽く押して、五十嵐たちの所へ向かうように急かす。
「……わかった。じゃあ、行ってくるね」
星宮は僕にうなずくと、五十嵐たちに合流して、教室を出て行った。
ほどなくして、星宮たちが楽しそうにおしゃべりをする声が廊下からもれてくる。
それを聞いているだけで、僕の胸の奥にチクリとした痛みが走っていったような気がした。
◇ ◆ ◇
あのあと。僕は一人で図書室へ向かった。
たまには勉強する場所を変えてみるのもいいかなと思ったんだ。
久しぶりに来た図書室はとても静かで、僕と同じサックスブルーの半袖ワイシャツの夏服を着た生徒たちが、黙々と勉強に取り組んでいる。
僕はこの部屋の奥にある空いたテーブル席に着くと、スクールバッグの中から勉強道具を取り出した。
早速、問題集とにらめっこしながら、自主勉用のノートに解答を書き込んでいく。
それにしても、一人でテスト勉強をするのって、こんなに静かなんだな……。
人が少ない図書室だからっていうのもあるけれど。
最近の放課後は、星宮に付きっきりで教えていたものだから。あいつがいないとこんなにもしーんとしているのかと、改めて気づかされる。
星宮のやつは、もう五十嵐たちとカフェに着いているころだろうか。
ちゃんと勉強に取り組んでいるのかな。わからないところは教え合ったりしてんのかな。
あのメンツだと、テンションが上がってしゃべるのに夢中になっていそうだけど……。
問題を解く合間合間に、僕の脳裏に星宮の笑った顔や、仲間内で楽しそうにしている姿が浮かんでは消えていく。
そのうち、星宮の顔が消えていくペースがだんだんゆっくりになっていって。
気づけば僕の頭の中が、あいつのことで埋め尽くされていく。
――ああ、駄目だ……。
完全に集中力が途絶えて、僕はここではじめて勉強を打ち切った。
今がテスト前の大事な時期だというのはわかってはいる。
だからこそ、一刻も早く勉強を再開したい気持ちはあるけれど、脳内を完全に星宮の顔にジャックされてしまった今は無理だ。
僕がこうなった理由は、星宮を心配しているというのもあるけれど、たぶん疲れているからだろう。
それも、自分で思っているよりずっとひどく。
よし、今は少し休憩しよう。5分ぐらい休んでから、また勉強に取りかかろう。
自分にそう言い聞かせて、僕はノートの上に顔を突っ伏した。ゆっくりと目を閉じて、仮眠をとろうとしたそのとき。
「……い、れーい」
耳元でささやくような小さな声が聞こえたと思ったら、肩のあたりをつかまれて、ゆさゆさと揺さぶられる。
「怜、起きってってば!」
「んっ……」
今度は耳元ではっきりと名前を呼ばれ、閉じていた目を開ける。
すると、図書室にいなかったはずの星宮が、僕の顔をじっと覗き込んでいた。
てっきり星宮は夜になるまで帰って来ないと思っていたから、早く学校に戻ってきたことに少し面喰らってしまう。
「あれ? 五十嵐たちとカフェに行ったんじゃ……?」
「それがさー、今日に限って臨時休業だったから、すぐに帰ってきたんだよ」
「ふーん、そっか。それは残念」
口では『残念』と言っておきながら、妙に声色が明るくなってしまった。
向かった先のカフェが臨時休業だと知った星宮たちは、少なからずショックを受けたかもしれないのに……。どうして僕は、内心喜んでるみたいな返事をしてしまったのだろう。
幸いなことに、星宮はまったく気づいてないみたいでほっとしたけど。
「でも、大丈夫。また今度みんなで行く約束をしたから。……って、それよかさ」
「ん?」
「俺も一緒に勉強していい?」
聞かれて「ああ」とうなずくと、星宮は向かい側の椅子に座って、勉強の準備に取りかかる。
僕の隣の席も空いているのに、向かい合わせになる席を選ぶんだな。
まあ、星宮がどこに座ろうが本人の自由だし、別にいいんだけど――改めて真正面から見ると、本当に綺麗な顔をしている。
夕陽に照らされたプラチナブロンドの髪が、光を反射してキラキラ輝いているし、ふとしたときに伏せられる長いまつ毛はびっくりするぐらい色素が薄い。
でも、綺麗なのはそれだけじゃなくて。
スッと背筋を伸ばした姿勢も、ノートに書く字が丁寧なところも、ついつい目を奪われてしまう。
「どうかした?」
僕の視線に気づいたのか。星宮がはたと顔を上げる。
まずい……。
『君を見つめていた』なんて、口が裂けても言えなくて。
僕は星宮に「何でもない」とごまかすと、あわててサッと視線をそらした。