君が、僕の秘密を知った夜から

 夜が好きだ。

 それも、僕しか知らない秘密の場所で、一人きりで過ごす静かな夜が一番好きだ。


 背後に誰もいないのを確認して、僕、月森(つきもり)(れい)は、男子寮の屋上のドアを押し開けた。

 ギィ、と軋む音がした直後、ドアのすき間から外に向かって足を踏み出す。

 ゴムチップ舗装がされた屋上のタイルの上をしばらく歩いて、胸ぐらいの高さがある鉄柵の前で足を止める。

 それから手すりを両手でつかむと、ひんやりとして澄みきった夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 いつも左手首に巻いている、デジタル式腕時計の画面に表示された現在時刻は9時ジャスト。

 僕が在籍するこの全寮制の高校、青海(おうみ)学園の寮の門限の時間だ。

 今ごろこの学校の生徒たちのほとんどは、男子寮か女子寮の中にいるのだろう。

 だけど、僕一人だけは寮の外――しかも、屋上にいるというこの現状に、高揚感と特別感、それからほんのわずかばかりの背徳感を覚える。

 ――まるで、青春小説の主人公になったように。

 今夜も無事に忍び込めたということで、僕は鉄柵の手すりの上に組んだ腕を乗せる。

 それから、眼下に広がる景色を独り占めするはずだった。

 なのに――……、


「あっ、怜みーっけ!」

「うわっ⁉」

 突然、背後からよく通る声で名前を呼ばれて、背筋がビクッと跳ね上がった。

 この屋上に僕以外の誰かがいる。

 おかしいな。さっきここのドアを開ける前に、背後に誰も付いてきていないかちゃんと確認したはずんだけど。

 というか、その前に。さっきの声、僕のことを『怜』って呼んだよね。

 しかも、なんとなく聞き覚えがある声をしてたし……まさか⁉

「もーっ! 怜、こんな所で何やってんの? 探したよ~!」

 振り向くと、朝も昼も夜も……ほぼ1日中常に目にする男子生徒の顔に、僕の視界が占領されていた。

 ……最悪だ。

 絶対に誰にも来て欲しくなかったのに。

 よりにもよって目の前のこいつが、僕の居場所に踏み込んでいるなんて――……。

「……悪いけど、今すぐ部屋に戻ってくれる? 星宮(ほしみや)

 はあっとため息をつく僕に、男子生徒こと星宮は「やだ」と断るなり、いたずら好きな子供みたいにニッと笑った。


   ◇ ◆ ◇


 星宮七緒(ななお)

 ほんの1ヶ月前の4月。

 2年生に進級したと同時に僕のクラスに乱入……じゃなくて、転入してきたばかりのクラスメイト兼ルームメイトだ。

 さわると柔らかそうなプラチナブロンドの髪に、ニキビ一つ見当たらないつるんとした白い肌。

 アイドルのように中性的で整った顔立ちに、均等の取れた細身の体型。

 とにかく、同じ人間とは思えないほど目立つ容姿をしているので、地味なタイプの僕は彼と一緒にいると引け目を感じて落ち着かない。

 でも、そんな星宮本人はというと、なぜか転校初日から、僕に対して鬱陶(うっとう)しいほどのかまってちゃんを発揮している。

 僕の顔を見ればすぐに話しかけてくるし、姿が見えないとなるとすぐに探しにやってくる。

 別に仲良くなった覚えなんてないのに。

 勝手に僕のことを『怜』なんて、馴れ馴れしく下の名前で呼び捨てにしてくる……などなど。

 一人が好きな僕は、このくっつき虫のようにしつこいルームメイトに対していつも、ものすごくうんざりしている。

 どうして星宮が僕にべったりしてくるのか。

 その理由は本人にしかわからないだろうし、僕自身別に知りたいとも聞きたいとも思っていない。

 でも、心当たりが1つだけあるとするならば――それはたぶん僕と星宮が、教室も寮の部屋も同じで、ほぼ1日中顔を見る生活を送る羽目になっているから。

 それできっとあいつなりに、高校生活を楽しめるよう、僕とできるだけ仲良くしておきたいんだと思ってる。

 完全な僕の憶測だけど。

 まあ、仮にそれが当たっていたとしても、星宮の僕に対する距離の詰め方は間違っていると思うし、そもそも僕は基本的に人付き合いが苦手だからほっといて欲しいんだけどさ。

 あーあ、1年のころはよかったな。

 全寮制とはいえ、生徒一人につき一人部屋があてがわれるという寮の制度に魅力を感じてこの学校に進学したことで。誰にも邪魔されず、干渉されずに、自由気ままに毎日を送っていたはずだったのに……。

 ――そんな僕にとって、夢のような高校生活は、今年の4月でもうおしまい。

 新1年生の入学で男子寮の部屋が満室になったから。という理由で、なぜか僕が転校生の星宮と二人一部屋で生活をする、という割を食う羽目になってしまったのだ。

 あと1年と10ヶ月。

 絶対に仲良くなれないルームメイトと昼も夜も顔を合わせる高校生活に、必ず終わりがくることはわかっている。

 わかってはいるけれど――今の僕にとっては高校を卒業するそのときまでが、永遠のように果てしなく、終わりが見えない感じがして仕方ない……。


   ◇ ◆ ◇



「もーっ、ほんっと心配したよ〜」

 困ったように僕に笑いかける星宮が、ほっと胸をなでおろす。

「怜ってば、部屋にいたのに急にいなくなっちゃうんだもん。寮の中を探してもどこにもいないし……」

 まあそうだろうな。

 だって、星宮がトイレに行っているのを見計らって、そそくさと部屋から抜け出したんだもの。

「でも、たまたまここのドアの鍵が開いているのに気づいて、怜の居場所を突き止められたからいいんだけどね!」

 得意げに腕を組んでフフンと鼻を鳴らす星宮の発言に、僕は心の中で自分自身にため息をつく。

 ……しくじった。

 屋上の外に出てドアを閉めたあと、すぐにドアノブのつまみを回して鍵をかけておくんだった……。

 ほんの一瞬、後悔の念に駆られたけど。

 すぐにこの屋上のドアの鍵がかなり古くて壊れていることを思い出して、自分自身を責めるのはやめた。

 たぶん僕が忘れずにきちんと施錠(せじょう)したとしても、どのみち星宮はこのドアを開けていたことだろうから。

「で、怜はここで一人で何やってんの?」

「別に。ただぼーっとしてるだけ」

 僕は手すりに頬杖をついて、つっけんどんな返事で星宮をあしらった。

 暗に『これ以上話しかけんな』と刺々しい態度を取ったつもりだったけど、星宮にはまったく通じてないようだ。

「ふーん……。じゃあ、先週出た課題はもう終わってるってこと?」

 人の話聞けよ。と心の中で軽く毒づいた。

「あー、明日提出のレポート? それならもうとっくに終わらせてるけど、何か?」

「やっぱり!」

 瞬間、星宮の表情がぱあっと輝いた。

 夜空にまたたくわずかばかりの星々をすべて追いやってしまうほど、期待にあふれた笑顔があまりにも眩しくて、僕はサッと視線をそらす。

「じゃあ見せて!!」

「はぁ? 何で?」

「いやーっ、実は俺、その課題やってなくってさー! ていうか、さっきトイレにこもっているときに、存在を思い出したぐらいで……」

 呆れた。1週間も期限があったはずなのに、今日の今日まで忘れてただなんて。

 あはは、と乾いた笑いをもらす星宮に、僕は「うわ、マジかよ……」と頭を抱えた。

「だから怜、お願い! 一緒に部屋に戻って、レポート書き写させて! このとおり‼」

 星宮はパンッと手を合わせるなり、猫なで声で僕にすり寄ってくる。

 そんな彼を、僕はある意味軽蔑するような、ジトッとした目つきで睨んだ。

「絶対にやだ」

「えっ? なんで⁉」

 いや、『なんで⁉』と聞かれても……。

 逆に僕が星宮を手助けをしなきゃいけない筋合いはないだろうと言ってやりたい。

 それに、僕は今さっきこの屋上に着いたばかりだ。これ以上、至福の一人時間を他人に邪魔されるなんてまっぴらごめんだ。

「課題やらなかったのは自業自得だし、人に頼る前に自力で頑張れよ。……ていうか、僕は一人でここにいたいから。これ以上かまわないで」

 もうこれ以降会話を続ける気はないとシャットアウトするように、僕はそっけなく言い放つと、星宮からふいっと視線をそらした。

 でも、星宮は僕が思っている以上にしつこい男だった。

「ちょっと、怜。待ってよ」

 突然、星宮が深刻そうな声のトーンで僕に話しかけてくる。

 今度は何? さっきは『一人でここにいたい』って言ったのに、また話聞いてなかったのかな……?

 イライラしてるのに、チラッと彼に視線を寄こしてしまうのは、どんなに苦手な相手でも無視できない僕の悲しい(さが)

「もしかして……何か、悩みごとでもある?」

 星宮は心配した顔で、僕にそう問いかけてくる。

 しいて言うなら、星宮が部屋に戻ってくれないことだけど……。

「何で急にそんなことを聞いてくるんだよ」

「だって、怜が『一人でここにいたい』って言ったから……」

 星宮はそう答えるなり、落ち込むようにうなだれた。

 そんな、自分事のことみたいに、ここまで心配しなくていいのに……。

 でも、星宮がこうなる原因を作ったのは僕だしな……。

 ここは僕が、星宮の誤解をきちんと解いてあげないと。

「あのさ、星宮」

「ん……? 何?」

 僕は咳払いをすると、下を向く星宮をなだめた。

「僕が一人になりたいのは、悩んでるからじゃなくて……」

「えっ? そうなの? じゃあ何なの……?」

「好きなんだよ……」

「好き?」

「そう。夜に一人でここから景色を眺めるのがさ……」


 僕は星宮にそう告げて、街がある方へ視線を移した。

 深くて濃い藍色を背景に、街並みが無数の光の粒がきらめいている。

 そのどれもが街灯やネオンやマンションの窓からもれる人工的な照明の光だとわかっているけれど、ここから見るとまるで星の海だ。

 まるで、宇宙の星という星をかき集めて、この街にばらまいたみたい。

 普段から騒がしい星宮も、この夜景を目にすると、まばたきすら忘れたように見入っていた。

「綺麗……」

 星宮の感嘆の声が、僕の耳に入り込んでくる。

 はじめてここに来て感動した日のことを思い出して、ふと懐かしい気持ちが顔をのぞかせた。

「ここでのことは誰にも話さないでよ。この場所に入れることも、ここから見える景色のことも、僕だけの秘密だったんだから」

 念のため釘を刺しておくと、星宮は「わかった。絶対に誰にも言わない」とうなずいた。

 あれ? やたらと物分かりがいいな。いつもそうしていればいいのに……。
 
「だって、俺と怜の二人だけの秘密にしておきたいから!」

 なんて、星宮は弾んだ声で答えるなり、僕の方を向いてニコッと微笑んだ。


 星宮は苦手だ。

 友達になった覚えはないのに、当たり前のように僕の隣に並んで立っているのも。

 僕だけの秘密だったこの屋上のことを、二人の秘密に変えてしまったのも。

 なんだか僕の心の中に土足でズカズカ入り込んできたみたいで、内心ものすごくムカついている。

 でも、瞳に宿る星屑を輝かせて、眼下に広がる景色を眺めている星宮は、知らず知らずのうちに目を奪われてしまうほど、美しい横顔をしていた。

 
「きりーつ、礼」

 長かったホームルームがやっと終わって、日直の僕が号令をかけたとたん。

 静かだった教室の中が、放課後の解放感にあふれて一気に騒がしくなった。

「ヤバい! 彼氏からめっちゃ連絡きてる!」

「おーい、談話室でゲームしようぜ!」

「あたし、駅前にできたカフェに行きたい!」

 みんな、これから友達や恋人と出かけたり、遊んだりするのだろう。

 クラスメイトたちのにぎやかな声をBGMに、僕は教卓の上に山積みになっているクラス全員分のノートを両手で抱える。

 僕のクラスの日直は、こういった提出物を職員室に運ぶのも仕事内容に入ってるんだ。

 だけど、なんで僕が日直するときに限って、余計な仕事が増えてしまうんだろう……?

 と、ノートの横に置いてあった段ボールにチラッと視線を寄こして、はあっとため息と共にがっくりと肩を落とす。

 さかのぼれば、ついさっきのホームルームの終わりごろ。

 僕は担任の待鳥(まちどり)先生に、「月森ー、これもよろしく」と、段ボールを職員室の隣の教材準備室に運ぶように仕事を増やされてしまったのだ。

 できることなら、ノートと段ボール両方一緒に持って行きたいところだけれど、段ボール自体が両手で抱える必要があるほどの大きさがあるので不可能だ。

 ということは必然的に、僕は教室と職員室と教材準備室があるフロアを、2度も行ったり来たりする羽目になるというわけか――……。

 ああ、考えただけでもだるい。面倒くさい。やりたくない……。

 でも、先生に頼まれたからには、この仕事を放り出すにはいかないんだよな……。

 と、落ち込んでやる気がなくなった自分自身に、そう言い聞かせていたちょうどそのとき。

 視界の端から細くて白い腕が2本、にゅっと伸びてきて、教卓の上の段ボールを軽々と持ち上げた。


「手伝うよ」

 聞き覚えのある声にハッと我に返ると、両手で段ボールを抱えた星宮と目が合った。

 困り果てた僕に気づいて、手伝いを買って出てくれたことに関してはとてもありがたいし、素直に感謝する気持ちもある。

 でも、相手はあの星宮だ。

 苦手なやつに借りを作るような真似はしたくない……。

「いや、いいよ。大丈夫」

 僕は首を横に振って、星宮の手伝いを断った。

「これは日直の仕事だし、僕一人でできるから」

 そう付け加えるように言ったのに、星宮はムッと顔をしかめて唇をとがらせる。

「もーっ。怜ってば、遠慮しなくていいんだよ⁉ 二人で分担して運べばすぐに終わるじゃん」

「それはまあ、そうだけど……」

「ってか、俺に運ばせてよ」

 突然、星宮が僕の顔を覗き込んで、くしゃっとした明るい笑顔を見せた。

 瞬間、僕の心にかかっていた、黒雲のようにモヤモヤしたものが吹き飛んでいく。

「えっ? 何で……?」

「だって、怜にレポート見せてもらった後のお礼、まだ何もしてないからさ」

 そういえば、昨日の夜。

 提出期限の迫った課題のレポートに取り組む星宮が、『全然終わらない……!』と嘆いているのが見ていられなくて――……。

 仕方なく僕が作成したものを渡して、書き写させてあげたんだっけ。

 ということは、星宮はそのときの借りを今、僕に返そうとしているってわけなのか……?

「れーい、なにぼーっとしてんの?」

 気づけば、いつの間にか教室のドア付近にいる星宮が、不思議そうな顔でこちらを見つめている。

「ほら、早く行こうよ」

「あっ……、うん。わかった」

 僕は我に返ってうなずくと、急いで星宮の後を追った。


   ◇ ◆ ◇


 二人で廊下を歩いていて気づいたんだけど、僕が思っている以上に、星宮はこの学校ではかなり人気がある有名人らしい。

 特に女子からの人気が高いみたいようだ。

 星宮が、おしゃべりに夢中な女子たちの近くを通りかかっただけで、「ヤバい! 今、七緒くんと目が合った!」と色めき立った声が聞こえてくるほどだ。

 気づけば廊下にいる女子のほどんどが、星宮に向かって熱烈な視線を注いでいた。

 だが、当の本人はというの、自分が注目されている自覚がないのか。それとも、わかっててあえてスルーしてるのか。

 女子たちに何の反応も示さない。それどころか、「この段ボール、教材準備室に持って行けばいいんだよね?」と、振り返るなり僕に確認を求めてくる。

「ああ。適当に、棚の空いてるところに入れとけばいいから」

「わかった。ありがとう、怜」

 ニコッと屈託のない笑顔を向けてくる星宮に、僕はほんの一瞬目を奪われてしまう。

 まただ……。

 昨日の夜、男子寮の屋上にいたときと同じように、またしてもあいつに目が釘付けになってしまった。

 苦手なやつのはずなのに、どうしてこうも僕の視線はあいつに引き付けられてしまうんだろう?

 たしかに星宮は人目を惹く容姿をしているし、つい目が釘付けになってしまうのはある意味当然だとは思うけど……。

「どしたの? 怜」

 ハッと我に返ると、星宮が僕の顔を不思議そうに覗き込んでいた。

 お互いの顔の距離があまりにも近いことに気づいて、僕の心臓がドキッと高鳴る。

「なんでもないから……。ほら、行こう」

 僕はドキドキしているのを誤魔化すように、早歩きで先を急ぐ。

 目的のフロアにたどり着くと、僕はここでいったん星宮と別れることにした。

「星宮、手伝ってくれてありがとう。じゃあ、僕はこれで」

「あ、うん……」

 呆気に取られた星宮を置いて、僕は職員室に入るなりドアをピシャッと閉めた。

 とたんに、妙な緊張感から解放されたような、大きなため息が口からもれる。

「はぁ……」

「おっ、月森じゃん。ご苦労様さん」

 すぐ近くのデスクで缶コーヒーを飲んでいた待鳥先生が、僕に声をかけてきた。

 かと思えば、いきなり「どうした?」と僕の顔を覗き込んでくる。

「何がですか……?」

「いや、何がって……お前、すげー顔真っ赤だぞ?」

 今まで気づいていなかったけど、先生に指摘されたせいか、顔が耳までかあっと熱くなった。

 いつから? ってか、何がきっかけでこうなったんだろう……?

 と僕が考えていたその瞬間、頭の中に星宮の顔がパッと現れた。

 いやいやいや、何で星宮⁉

 これじゃあまるで、僕があいつを意識しているみたいじゃないか……!

 そう思ったとたんに、顔の熱が余計に急上昇してもう大変。

 頭の中の星宮を叩き出すのと、顔の熱を冷ますように、あわててブンブンとかぶりを振った。

 そんな今の僕はたぶん、はたから見たらかなり挙動不審なんだろう。

「だ、大丈夫か? 月森……」

「まあ、一応……。あんまり気にしないでください」

 心配されているのはわかるけど、もうこれ以上待鳥先生にあれこれ聞かれたくなくて、僕は平静を装って返事をした。

 提出物用の棚にノートの束を仕舞い込んだあと、職員室のドアをガラッと開ける。

 それから廊下に出ようとした、まさにそのちょうどそのとき――……。

「あっ! あのっ……!」

 突然、振り絞ったような甲高い声が、僕の耳をつんざいた。

 なんだよ急に……。と、キーンとする耳を手でふさぎながら前を見る。

 すると、そこには手ぶらの星宮と、さっきの声の主らしき女子が、廊下のど真ん中で向き合っていた。

 この女子、どこかで見覚えがあるな……。って、隣のクラスの白井(しらい)さんだ。

 毛先が柔らかそうな淡いベージュ色のボブヘアに、長いまつ毛に縁どられたくりっとした目。

 内側からほんのりと色づく、花びらのように赤い唇。

 丁寧にこしらえられた人形のように均等が整った、守ってあげたくなるような小柄な体。

 まさに『美少女』って言葉がぴったりと合う白井さんは、学年1かわいいことで有名だ。

 クラスの男子たちが彼女のことを、『彼女にしたい女子ナンバーワン』と話題にしていたのを、教室で聞いたことがある。

「えっと……星宮くん。今、いいかな……?」

 頬をほんのりとピンクに染めながらたどたどしく言葉を紡ぐなり、潤んだ瞳で星宮を見上げる白井さん。

 ――ああこれ、告白だな。

 まだ確実にそうとは決まったわけじゃないけれど。

 今まで見てきた映画や漫画での告白直前の場面で、こんな感じのシーンがあったのを思い出してピンときた。

 あれって現実でもあるんだな……。

 で、肝心の星宮はというと――なんだかいつもより緊張しているのか、どこか態度がぎこちない。

「んーっと……たしか、白井さん? だよね。俺になんか用?」

「ちょっと、一緒に来て欲しい所があって……」

 へらへらと作り笑いを浮かべていた星宮の表情が、ほんの一瞬硬くなった。

「そ、そっか……わかった。じゃあ行こっか」

 星宮はにっこり笑ってうなずくと、チラッと僕に視線を寄こして、

「じゃ、怜。またあとでね」

 僕に軽く手を振って、白井さんと廊下を歩き出した。

 あの2人、お似合いだな……。横に並んでるだけでも、本物のカップルみたいだ。

 小さくなっていく星宮と白井さんの背中を黙って見送っていると、なんだか急に二人が遠い存在のように思えてきて。

 どうしてか、胸の奥がチクッと痛んだ気がした。


   ◇ ◆ ◇


 星宮のやつ、もう白井さんに告白されてんのかな?

 いや、違うかもしれないけど……もし、白井さんが『好きです』と告げたのなら、星宮は一体どんな返事をするんだろう……?

 まあ、十中八九付き合うんだろうな。

 あんな美少女に告白されたら、星宮も満更でもなさそうだろうし。

 あのあと、一人で荷物を取りに教室に戻ってからも、男子寮の部屋で読書をしていても。

 僕の頭の中は、星宮の白井さんとのことでいっぱいだった。

 あの二人が今後どうなろうが、僕にはなにも関係ないのはわかってる。

 わかっているはずなのに、ものすごく気になって仕方ない……。

 そうこうしているうちに、僕の頭の中は読んでいる本の内容ではなく、星宮と白井さんのことで埋め尽くされてきた。

 とりあえず、いったん頭を冷やそう。そのために、しばらく外の風に当たりに行こう。


   ◇ ◆ ◇


 ――と、いうことで。

 僕はいつものように、男子寮の屋上に向かった。

 下にいる人たちにバレないように。死角になる方向にある柵の手すりに腕を乗せて、目の前に広がる空を眺める。

 気づけば、もうすっかり夕暮れ時。

 薔薇(ばら)色がかった西の空には、オレンジ色の夕日が沈みかけていた。

 反対側の東の空は、淡い紫色から藍色のグラデーションになっていて、そこに大きな三日月と小さな星が光を放って輝いている。

 そういえばあの星、なんだか星宮の髪色に似てる気がするな。

 そんなことを考えて、ふと、いつも目にするあいつの柔らかそうなプラチナブロンドの髪を思い出していると、

「怜?」

 急に背後から名前を呼ばれた。

 ハッとして振り返ると、ここにいなかったはずの星宮が、こっちに向かって駆け寄ってくる。

「またこんな所に来てたんだ?」

 星宮は僕の隣に並び立つなり、横から顔をのぞき込んできた。

「まあ……、気分転換で……」

「本当に?」

「えっ?」

「俺と白井さんの行方が気になって、ここから探してたんじゃないの?」

 クスッと不敵な笑みをこぼす星宮に、心臓がドキッと跳ね上がる。

 僕は、星宮と白井さんの居場所を探すためにここに来たわけじゃない。

 でも、別の意味での二人の行方が気になっていたのは事実だ。

「そんなんじゃないけど……白井さんに呼ばれた後、告白されたのか?」

 下世話だとわかっているけど、気になるものは気になるので、星宮に向かってストレートに質問をぶつける。

「うん。『付き合ってください』って言われたね」

 星宮は変に話をはぐらかすことなくうなずいた。

 やっぱりそうか……。僕の予想は当たってたんだな。

「でも、断ったよ」

「……えっ⁉」

 次の瞬間放たれた星宮の発言に、僕は自分の耳を疑った。

 あの『学年一の美少女』と評判の白井さんに告白されたのに断っただなんて――……。

 てっきり、『二人は付き合うだろう』と思い込んでいた僕は、予想外の結末にしばらく絶句してしまった。

「うわー、もったいな……」

「そんなことを言われても。俺、別に白井さんのこと好きじゃないんだもん」

「試しに付き合ってみようとも考えなかったわけ?」

「ないない。まーったく考えてない」

 星宮は首を横に振った。

「その気もないのに同情して、相手に合わせてしまったら、待っているのはお互いが不幸になる結果だからね」

 いつもの明るい調子でそう言った星宮の口角は上がっていたけど、目はちっとも笑っていなかった。

 放たれた言葉の響きもやたらとリアルで、胸の奥にずしんとくるような説得力がある。

「きっぱり断るのも優しさの1つだよ。というわけで、一緒にご飯食べに行こっ」

「あ、ああ……」

 僕は呆気にとられたままコクコクとうなずいて、星宮と一緒に屋上を出た。

 階段を降りて、ようやく1階へたどり着いたその直後。

「おぉーっ! 七緒、ちょうどよかった!」

 突然、背後からチャラチャラした明るい金髪の男子が、こちらに駈け寄ってきた。

 クラスメイトの五十嵐(いがらし)だ。

 教室の中心にいる派手で目立つタイプで、星宮とは気が合うのかよくつるんでいる。

「んー、どうしたの?」と星宮がたずねると、五十嵐は「急で悪いんだけど」と切り出して。

「今週の金曜日、俺が幹事やる合コンに参加してくれない?」

 告白の次は合コンの誘いか。星宮って、次から次へと恋愛に関することに巻き込まれるな。

 まあ、それだけこいつがモテるってことなんだろうけど、肝心の本人は喜ぶどころか迷惑そう。

「やだ」

 ムッとした顔で五十嵐の誘いを断って、ぷいっとそっぽを向いてしまう。

「俺、マジでそういうの興味ないからさー。ほか当たってくんない?」

 唇をとがらせてあしらう星宮に対して、五十嵐はまったく引き下がらない。

「今はフリーなんだろ? ってか、七緒が来ないと寂しいし、男子の人数も足りなくなっちゃうからさ。その場にいるだけでもいいから参加して!」

「え~っ……」

「俺が会費おごるから! 今回だけは、ほんっとにお願い‼」

「んー、そこまで言うならしょうがないな……」

 パンッと音が鳴るぐらい手を合わせて深く頭を下げる五十嵐に、星宮がしぶしぶ折れた。

 というか、ここまで必死にお願いされて、会費も出してくれるって言われたら、断るに断れないだろう。

 なんて、僕がそんなことを思っていたその直後。

 急に、星宮が僕の肩に勢いよくずんっと腕を乗せてきた。

 いきなりなんだよ⁉ と目で訴えたけど、星宮はこっちを見てくれない。

 それどころか、五十嵐に向かって口を開いて、

「じゃあさ。怜も一緒に連れてっていいなら、その合コンに参加してあげるよ」


 は…………?

 え、待って。どういうこと?

 この合コン、僕も参加することになんの……?

 あまりにも唐突。しかも、急に変なことに巻き込まれて、頭の中がパニックを起こしている。

 それは五十嵐も同じらしく、「えっ? 月森も……⁉」と僕の顔を見つめて、大きく見開いた目を白黒させていた。

 あたりには気まずい空気が流れていて、できることなら今すぐにでも逃げ出したくてしょうがない。

「いいじゃん別に。人数多い方が盛り上がるでしょ」

「それはまあ、そうだけど……。でも……」

「俺は怜と一緒がいいから。2人セットじゃ駄目なら参加しないからね!」

 目をキッと三角につり上げて詰め寄る星宮に、今度は五十嵐の方が折れた。

「わ、わかった……! じゃー……、月森も当日よろしくな!」

 へどもどしながら愛想笑いを浮かべる五十嵐に、僕は「あ、ああ……」とぎこちなく返事をした。

「怜、今週の金曜だからね。絶対に一緒に行こうね」

 星宮が圧の強い笑顔で、僕に念を押ししてくる。

 最悪だ。こんな強引なかたちで、生まれてはじめて合コンに参加することになるだなんて……。

 できれば夢であってくれ。そんでもって、早いとこ覚めて欲しい……。

 ついにこの日が来てしまった。

 覚悟を決めていたとはいえ、やっぱり嫌なものは嫌なんだよな……。


 合コン当日の金曜日の夕方。

 会場に指定されたカラオケボックスのパーティールームに入った僕は、ハイテンションの五十嵐たちに水を差さないように、自分にしか聞こえない程度に小さくため息をついた。

 今回、集まった合コン参加メンバーは、僕を含めた青海学園の男子5人と、他校の女子5人の計10人。

 幹事の五十嵐とその女友達が集めたメンツらしく、僕以外の9人はみんな、おしゃれで垢抜けた美男美女ばかり。

 まるで、人気のある学園ドラマの主役みたいだ。

 もし、この9人が教室にいたら、ものすごく目立つ男女混合グループになるだろうし、クラスメイト達の憧れと注目の的になるのは間違いなしなんだろうな。

 まあ、現実は……この9人とは対照的に唯一地味な僕が、一番悪目立ちしているんだと思うけど。

 早速、男女別に分かれたあと、部屋の両端に置いてある安っぽいソファセットに向かい合うように座る。

 それから料理の注文と、簡単な自己紹介を済ませたあと。
 
「それでは楽しく盛り上がってまいりましょう! かんぱーい!」

 マイクを握った五十嵐が音頭を取ったのを合図に、この場にいる全員で「かんぱーい‼」と、ジュースが入ったコップを持ち上げた。

 カチン、とグラス同士がぶつかり合う音が響いたあと。

 ただでさえ明るい人の声でいっぱいの部屋の中が、おもちゃ箱をひっくり返したかのように、よりいっそうにぎやかになった。

 ……というか、ものすご騒がしくなった。

 あちこちから聞こえてくる笑い声やはしゃぎ声が壁にぶつかって、余計に響いているような気がする。

 それはたぶん、ここがカラオケボックスだからだろうか?

 頭がズキズキと痛くなるほどうるさくてたまらないけれど、我慢するしかないのかな……?

「怜、大丈夫?」

 心の中で思っていることが表情に出てきてしまったんだろう。

 隣に座っている星宮が、ひそひそと小声でささやいてきた。

 かと思えば、心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。

「具合でも悪い……?」

「いや、この部屋すごく音が響くなと思っただけ」

「あー、ちょっと待って」

 星宮は何か思い当たることでもあったのか。

 僕との会話をさっと切り上げると、さっき五十嵐が使ってテーブルの上に置きっぱなしになっていたマイクを取って、スイッチをオフにした。

 とたんに、部屋の中で跳ね返っていた声や音が、ほんの少しマシになったような気がする。

「マイクが音を拾ってたみたい。どう? 今は大丈夫?」

 またしても、成り行きで星宮に助けられてしまった。

 ついこの前、日直の仕事を手伝ってもらったときもだけど。

 星宮って、僕が困っているとすぐに手を差し伸べてくれる優しいところがあるよな……。

 我慢すればなんとかなるような細かいことでも、すぐに気づいて対処してくれるから、おかげで僕はものすごく助かっている。

「あ、うん……。大丈夫、ありがとう……」

 僕がコクコクとうなずいてお礼を言うと、星宮は「それはよかった」とほっと胸をなで下ろして、ニコッと笑いかけてくれた。


   ◇ ◆ ◇


 ぐるぐると回り続けるミラーボールの光が飛び交うこの部屋の空気は、最初はまだ緊張の糸が張っている雰囲気があったけど、時間がたつに連れてそれもだいぶゆるんできた。

 でも、やっぱり人付き合いが不得意な僕にとっては、こういう大勢でワイワイする場所にはどうしても苦手意識を覚えてしまって、居心地の悪さを感じてしまう。

「へぇ~っ! 七緒くんって、転校生なんだぁ~っ‼」

 ふと、甘ったるい声がこの部屋に響き渡った。

 声の主は、星宮の向かい側に座っている、メイクも髪型もばっちり決めた女の子だった。

 目をキラキラ輝かせながら、星宮に向かって前のめりになって

 この合コンに参加しているほかの女子たちも、だいたいこの彼女と同じ様子だった。

「今の学校にはもう慣れた?」

「寮生活ってどんな感じ⁉」

 なんて、キャピキャピとしたよく響く声で星宮を質問攻めにしている。

 で、当の本人の星宮はというと、嫌な顔一つせずニコニコと笑顔を浮かべて、彼女たちとのおしゃべりに花を咲かせていた。

 でも、なんだかな。

 僕には星宮の笑顔が、職員室前で白井さんとばったり鉢合わせしていたときみたいにぎこちないものに見えてしょうがない。

 あいつが五十嵐に合コンに誘われたとき、矢庭に断るぐらいに嫌がってたのを覚えているけれど。

 実際に参加したらしたで、自分の気持ちは押し隠して、この場の空気を悪くしないようにと、あいつなりに気を遣っているんだろうな。

 ……まあ、気持ちはわかるけどさ。

 あーあ、なんかつまんないな。早く合コン、終わんないかな……。

 さっさと寮に戻って、最近買ってきたばかりの文庫本を読みたい。あと、アイス食べたい……。

 メロンソーダをチビチビ飲みながら、心の中で愚痴をこぼしていると、自分のグラスの中が空になったことに気がついた。

 ……そうだ。新しいドリンクを持ってくると見せかけて、しばらくどこかで時間をつぶそう。
 
 ラッキーなことに、部屋の中の女子たちは星宮に夢中で、五十嵐たち男子も彼女たちを振り向かせようと必死になっている。

 誰も僕を見ていない今このときがまさに、黙って部屋を抜け出せるチャンスだ。

 あらかじめドアの近くの席を確保しといて正解だったな……と思いながら、僕は自分の席の近くにある出入り口のドアノブに手をかけて、こっそりと外に出た。

 とりあえず、一人になれる所に行ってスマホでもいじって時間をつぶすか。

 と、壁に貼ってあった見取り図で、トイレの場所を探していたそのとき。


「ねえ、月森くんだよね?」

 突然、背後から名前を呼ばれて、トントンと肩を叩かれた。

 振り返ると、他校の制服を着た女の子が真後ろに立っていた。

 彼女は僕と目が合うなり、ぱあっと笑顔を輝かせて、「あっ、やっぱり月森くんだー!」と嬉しそうに声を上げる。

 あれ? この子、どこかで見たような気がするんだよな……って、僕と同じ合コンに参加してる女の子だ。

 名前はたしか、水野(みずの)さん。

 明るい髪色の子が多い参加女子メンバーの中で、彼女一人だけがサラサラとした黒髪ロングで目立っていたから名前を覚えていた。

 あと、彼女だけがほかの女子たちと違って、星宮に目もくれず、注文して運ばれたピザにかじりついていたのを目撃したのもあって、強く印象に残っている。

「ねえ、月森くんって合コンはじめて?」

 水野さんが僕に質問をぶつけてくる。

 あまりにも唐突に。

 しかも、興味津々といった感じでたずねられたものだから、僕は思わず動揺すると、たじたじとしながらうなずいた。

「まあ、そうだけど……」

「やっぱり! どーりでなんか一人だけ場慣れしてない感じがすると思ったんだよね~! かわいいっ」

 かわいい……? この僕が?

 誰かにそんな言葉を生まれてはじめて言われたのもあって、どうもいまいちピンとこない。

 なんならもっと適任がいるだろ……と思ったら、笑顔の星宮が僕の脳裏に浮かぶ。

 たしかにあいつの笑顔こそ、『かわいい』という言葉がぴったりと当てはまるんだよな。

「いや、その『かわいい』っていうのは、間違っても僕じゃなくて、星宮の方だと思うけど……」

「星宮……?」

 水野さんは、あいつの名前を口にすると、上を向いて考え込んだ。

 でも、すぐにピンときたらしく、「あー、思い出した!」と大声を上げる。

「知ってる知ってる! いつの間にか女子側の席に座ってた、アイドル顔の男子のことでしょ?」

「そうそう」

「言われてみれば、たしかに中性的でかわいい顔立ちしてるよね~」

 水野さんは納得したかのように、腕を組んでうんうんと首を縦に振った。

 かと思えば黙り込むと、こちらに視線を寄こすなり、熱い眼差しを送ってくる。

 その相手が星宮ならわかるけど……なぜ、よりにもよって僕なんかに……?

「あの、水野さん……」

 日ごろから他人にここまで食い入るように見つめられた経験がなくて、僕はたじたじとしながら水野さんに声をかけた。

「んー?」

「いやあの、さっきから僕のことをじーっと見つめてる……よね? 僕の気のせいだったら申し訳ないんだけどさ……」

「ううん。月森くんの気のせいじゃないよ」

 水野さんがふるふると首を横に振った。

「なんならけっこう、かなり意識して見てるもん」

「えっ、そうなの? 何で……?」

「好みのタイプだから」

「タイプ?」

 サラッと水野さんの口から出てきたまさかの発言に、僕は虚を突かれてしまった。

「そう。私、月森くんみたいな、クールでシュッとしてるイケメンメガネ男子が好きなんだもん」

 この僕が、クールでシュッとしてるイケメン……?

「水野さ……、え? それ、何の冗談?」

 おだてられてるというか、おちょくられてるだけだよな……? と僕は自分自身にそう言い聞かせて苦笑いを浮かべる。

 だけど、水野さんの表情はいたって本気で真面目だった。

「本当だよ。月森くんは自分の魅力に気づいてないかもしれないけど、私はかっこいいって思ってるから」

「嘘でしょ……」

 平静を装ってつっぱねたとたん、顔がかあっと熱くなるのを感じた。

 他人から好意を伝えられる、といった機会があまりにも少なくて耐性がなかったからなんだと思うけど……。

「あれれ? 月森くん、もしかして照れてる⁉」

「や、別に……」

 これ以上からかわれたくなくて、自分の目の前に手をかざすようにして顔を隠す。

 でも、水野さんはそれをさえぎろうと、僕の手首に向かって小さな手を伸ばしてきた。

「ちょ、その顔もっとよく見せて!」

「ちょっ、ダメだってば……」

「いいじゃん! お願い!」

水野さんの華奢(きゃしゃ)な指が、僕の顔の前にある手をぎゅっとつかもうとした、まさにちょうどそのとき――、

「怜、なにやってんの?」

 突然、この場にいないはずの第三者の声が耳に飛び込んできた。

 怒っているような低いトーンのそれに、僕と水野さんはほぼ同時にハッと我に返る。

「星宮……?」

 いつの間に現れたんだろう。僕の視線の先に、スクールバッグを2個持ちした星宮が仁王立ちしていた。

 そのうちの一つは星宮ので、もう一つのが僕のだ。

 中学生のときに買った小説の特装版に付いていたキーホルダーが、バッグのファスナーにぶら下がっていたからすぐにわかった。

 だとしても、何で僕のスクールバッグを持って、不機嫌そうにぶすくれた顔をしているんだろう……?

 荷物持ちを頼んだ覚えはないんだけど。と、僕が首をひねっていると、

「水野さん、ごめんね!」

 急に星宮が申し訳なさそうな顔をして、水野さんに向かって手を合わせた。

「俺と怜、これから急ぎの予定があるんだ。みんなにはもう抜けることは話してるから、もう帰るね!」

 は? 予定?

 この合コンにかぶるような星宮との予定なんて、立てた覚えがないんだけど……。

 と、僕が言おうとしたそのとき、

「そうなんだぁ……、わかった」

 水野さんが納得したようにうなずいて、あっさりと僕から手を離した。

 やっと解放された……。と、ほっと胸をなで下ろしたのも束の間のこと。

 今度は星宮に手首をぎゅっとつかまれる。

「ありがとう、水野さん。じゃっ、そういうことで」

 星宮は立ち尽くす僕の手首をつかんで、ぐいっと自分の方に引っ張って廊下を走り出した。

 あまりにも勢いがあり過ぎて、俺は「おい、ちょっと待……うわっ⁉」と情けない声を上げた上に足をもつれさせてしまう。

 今の僕、果てしなくダサかったよな。もしかして、水野さんに見られたりして……?

 おそるおそる振り返ると、案の定水野さんはばっちり見ていて。

 僕と目が合うなりニコッと笑うと、ひらひらと手を振った。


   ◇ ◆ ◇


 カラオケボックスから繁華街に飛び出したところで、僕はようやく星宮に解放された。

「はーっ、めっちゃ走ったあぁぁっ……!」

 僕から手を離すなり、星宮が真っ暗な夜空に向かって、うーんと気持ちよさそうに背伸びをする。

 で、僕はというと――そんな星宮に引っ張り回された挙句、ようやく解放されたことで完全に疲労困憊(こんぱい)

 ひざを抱えて、荒くなった呼吸を整えるのに必死だった。

 はぁ……。星宮のやつ、足速過ぎでしょ……。

 おかげで何度心臓が止まりかけたことやら……。

 文句や嫌味の一つでも星宮にぶつけてやろうかと思ったところでふと、僕は合コンを抜け出してしまったことに気がついた。

 水野さんは僕が居合わせている場所で、星宮から説明を聞いていたからいいとして、五十嵐たちには何の挨拶もしていない。

 あとで部屋に戻る前提で、いったん別の場所で時間をつぶしに行くのとはわけがちがうんだ。なんせ、荷物まで持っていったのだから。

 騒ぎになっていなければいいんだけど……。

「星宮……僕、勝手に抜けて大丈夫だった?」

 僕は一抹の不安を胸に抱きながら、おずおずと星宮にたずねた。

 すると、「あー、みんな? 気にしなくて大丈夫」と星宮があっけらかんとした口調で答える。

「だって俺、もうとっくに参加メンバー全員に、怜と抜けるの伝えてるし」

 そっか、事前に説明してくれていたのか。よかった……。

「でも、何で僕まで一緒に抜けることになったわけ?」

 僕はふと気になって星宮にたずねた。

 すると、星宮は申し訳なさそうに苦笑いをして、

「そもそも俺が早く帰りたかったっていうのもあるけれど……、ああいう雰囲気や場所が苦手そうな怜を、無理矢理連れてっちゃった負い目もあったからさ……だから、もういっそのこと怜と一緒に帰っちゃおうと思って」

 なるほど……。なんだかんだで星宮は、僕を今回のことに巻き込んだことに対して罪悪感を覚えてたんだな……。

 強引で人を引っ張り回すところがあるけれど、ちゃんと反省してると知れたからか、なんかちょっと見直した。

「じゃあ、水野さんに『これから二人で予定がある』って、言ったのは抜けるための口実?」
「そうそう。……まあ、早く外に出たい気持ちが先走ってダッシュしたから、強行突破みたいな感じになっちゃったけど」

 頭をかきながら、たははと笑った星宮だったけど、何か引っかかることでもあったのか、すぐに笑顔を消し去って、落ち込むように眉を八の字に寄せた。

「ねえ、怜……」

 さっきまでとは打って変わって、切なさをはらんだ声で、星宮が僕に話しかけてくる。

「ん?」

「さっき、廊下で水野さんと一緒にいたよね。あのとき、二人で一体何をしてたの……?」

 きゅっと唇を結んで、やきもちを妬いた子供のような目つきで、星宮がこっちを見つめてくる。

「いや、何って……?」

「水野さんに告白されてなかった? 水野さんが怜に『好き』とか『かっこいい』とか言っているのが、聞こえてきたんだけど……」

 ……ああ、なるほど。さっきの廊下でのやり取りを聞いていて、気になったというわけか。

「あれは告白じゃないよ」

「そうなの⁉」

 僕が答えるなり、星宮が食い気味に詰め寄った。

 あまりにも勢いよく、こちらにずいっと迫ってくるものだから、思わずびっくりして一歩後ずさりしてしまった。

「本当に⁉ 告白じゃないんだよね⁉」

「うん。だから、本当に違うってば……」

 こいつ、何でこんなことでムキになっているんだろう……?

 僕にはわけがわからないけれど、星宮のことを落ち着かせるためにもちゃんと説明しておこう。

「本人のいない所で言うのもなんだけど、水野さんの好みのタイプの話題になったから、たまたまそういう言葉が出てきただけだよ」

「んん? それって?」

「どうやら彼女、僕みたいなメガネ男子が好みのタイプなんだってさ」

「ふーん……」

 星宮は白けた顔をして、興味なさそうに相槌を打った。

「……水野さんもわかってんじゃん」

 あまりよく聞き取れなかったけど、あいつの声で何かがボソッと呟かれたような気がした。

「星宮……今、何か言った?」

 聞き返す僕に、星宮は何でもなさそうな顔をして、「んーん、別にー」と首を横に振る。それどころか、

「ってか、そんなことよりお腹すいちゃったー。ねえ怜、今からコンビニに行こうよ!」

 すっかりいつもの調子に戻って、僕を買い物に誘ってきた。

 なんだかちょっとはぐらかされた気もするけれど……、まあいっか。

 きっと取るに足らない、些細なことなんだろう。

「いいよ。行こっか」

 僕はうなずくと、人で賑わう夜の繁華街を、星宮と一緒に横に並んで歩き出した。
 

 ――あの合コンから1週間が経った、とある6月上旬の放課後。

「れーい、一緒にテスト勉強しようよ!」

 自分の席で帰り支度をしている僕の元に、星宮が駆け寄ってきた。

 ついさっきのホームルームで、2週間後に行われる期末テストの範囲表を配られたからだろう。

 もちろん僕もこれからテスト勉強に取りかかるつもりだ。

 でも、それはあくまでも一人でやるという前提。

 大事なテストに向けての勉強は、誰にも邪魔されずに集中して進めたいタイプなのだ。

「僕、これから一人で図書室で勉強する予定なんだけど……」

 一応断りを入れたつもりだった。

 なのに星宮は僕に向かってパンッと手を合わせると、

「そこをなんとか! 今日だけでいいから俺に勉強を教えて!」

「ええっ、でも……」

「お願い! どうしても、夏休みを補習でつぶされたくないんだよ……」

 ほ、補習……⁉

 それって、あの赤点を取った生徒が、夏休み返上で学校で受けるあの補習⁉

 僕にははるか縁遠い補習を、身近なルームメイトが受けることになりかけていることに驚愕(きょうがく)していると。

「俺からも頼むよー、月森。こいつに勉強を教えてやってくれ」

「まっ、……待鳥先生⁉」


 星宮の隣に突然現れたのは、担任の待鳥先生だった。

 まさか星宮のやつ、先生まで巻き込んで外堀を埋めようとしてるのか⁉ ――と、一瞬疑ったけど。

 ボサボサの髪に濁った目、着古したヨレヨレの白衣。

 そんな見た目からしてまさに『怠惰』を擬人化したような待鳥先生が、わざわざこの窓際の列の最後尾にある僕の席に出向いてまで頼みごとをするなんて、よっぽどのことなんだろうと思い直した。

 まあ、仮にそういうことだとしても――……、


「あの、なんで僕なんですか?」

「それはほら、月森が星宮のルームメイトで、ずば抜けて優秀だからだよ。この前のテストの結果も、ぶっちぎりで学年トップだっただろ?」

 たしかに、先月受けた僕の中間テストの学年順位は1位だった。

 片手で数えられる程度だけど、満点を取った教科もいくつかある。

 でも、勉強ができるからって、人に教えるのも上手いとは限らないんじゃないのかな……?

「いやあの、本当に僕でいいんですか……? 人に教えたことなんてないんですよ?」

 一人で勉強したいのと、星宮の勉強の面倒を見る自信がないのもあって、待鳥先生にたしかめるような口調で、遠回しに断りを入れる。

「お前なら大丈夫だろ。それに、人に勉強を教えるのっていいことだぞー。自分の言葉で説明することによって理解が深まるし、知識がより自分に身につきやすくなるからな」

「は、はあ……」

「というわけで、俺は職員会議に行くから。二人仲良く頑張れよ~。じゃーなー」

 茫然とする僕にひらひらと手を振って、待鳥先生はそそくさと教室を出て行ってしまった。

 またしてもあれよあれよという間に、一方的に厄介ごとを押し付けられてしまったな……。

 まあ、それが待鳥先生の常套手段なんだけどさ。

 でも、先生がさっき言ってた『人に勉強を教えると自分にも身につく』っていう話は、実際に効果があると以前どこかで聞いたことがある。

 僕が星宮に勉強を教えることでお互いのためになるのなら、待鳥先生の言うことに素直に従ってみるのもいいかもしれない。

「とりあえず、今から一緒に勉強する……?」

 僕がそうたずねると、星宮は瞳の中の星屑をキラキラと輝かせながら、笑顔になってうなずいた。


   ◇ ◆ ◇


 と、いうわけで。

 いったん男子寮の部屋に戻った僕は、星宮の中間テストの答案を見せてもらった(何度も断られたけど、答案を見ないとこいつの苦手とする問題がわからないからだ)のだけれど――……、

「なっ……! 何なんだよこの点数は⁉」

 渡された答案用紙の点数欄に書かれていたのは、あまりにも低すぎる点数の数々。

 先ほど星宮が教室で『夏休みを補習でつぶされたくない』とかどうとか嘆いていた時点で、なんとなく察しがついていたけど……まさかどの教科も赤点ギリギリだったとは思ってもみなかった。

 そういや、今度の期末テストの範囲には、中間テストの範囲もかぶっているんだよな。

 だとしたら、今のうちに何らかの手を打たないと星宮はヤバい。

 夏休みを補習でつぶすどころか、その前に行われる学園祭やその準備にも関われない可能性がある。

 と、僕がこれだけ他人のことを自分のことのように真剣に考えているというのに、肝心の星宮は――……、

「あは、あはははっ……」

 引きつった笑顔で乾いた笑い声を上げたと思うと、急に唇をとがらせて、

「だって、この学校の勉強難しいんだもん……」と愚痴をこぼす。

「当たり前だろ……。この学校、そんじょそこらの進学校じゃないんだぞ」

 そう。僕たちが在籍するこの青海学園は、難関大学合格に実績のある、かなりハイレベルな進学校なのだ。

 校則がとてもゆるく、かなり自由な校風の学校ではあるけれど、勉強する内容は僕でも難しいと思うことが多い。

 なので、ちょっとでも努力を怠ると、あっという間についていけなくなってしまう。

「し、知ってるよ! ここに転校するって決めたときなんか、受かるために毎日ガリ勉したぐらいだし!」

「だったらなんでこんなに成績がボロボロなんだよ」

「いやー、転入試験に合格したとたんに気が抜けちゃってさー……。それにほら、ここって都内で刺激も多いし? 遊び歩く機会も多くなっちゃって。たはー……」

 だから、「たはー」って笑ってる場合じゃないんだってば……。

 僕も僕で、呆れてがっくりしているヒマもないんだけどさ。

「れーい! 早く勉強しよーよー」

 呼ばれてハッと我に返ると、いつの間にか星宮が部屋の真ん中に鎮座しているローテーブルの上にノートや教科書を広げて待っていた。

 普段は星宮のスクールバッグをはじめとした、読みかけの漫画の単行本や、携帯ゲーム機などの荷物置き場になっているのに。

 今回はあいつの私物がちゃんとあるべき場所に片付けられていて、いつでも勉強を始める準備ができている。

 星宮のやつ、本気なんだな。

 お互いに成績が上がるかもしれないから、星宮に勉強を教えようと思っていたけれど。

 彼がここまで行動で示してくれるなら、僕もそれなりに応える必要があるだろう。

「わかった」

 僕はうなずくと、ローテーブルをはさんで星宮の向かい側に座った。

「で、具体的にわかんないとこってどこ?」

「うーん、とにかく全部わかんないんだよね。最初の単元から教えてもらってもいい……?」

 つまり、『一から勉強を教える』ってことになるのか。なかなか大変そうだな……。

 正直な話、気が遠くなりそうだったけど、時間はまだまだたっぷりある。

 僕は普段自分が使っている参考書と教科書を照らし合わせながら、できるだけかみ砕いた言葉を使って星宮に勉強を教えた。

 ――で、肝心の星宮はというと。

 さすが、青海学園の転入試験に合格しただけある転校生だ。

 僕が思っていた以上に飲み込みが早く、教えた部分はすぐに理解してしまった。

 勉強した内容をちゃんとわかっているのか。

 念のため、今回僕が教えた部分の問題を星宮に出してみると、こっちがおどろくほどスラスラと解いていってしまう。

「なんだよ。やればちゃんとできるじゃん……」

 解答がほとんど丸で埋まった紙を見つめて呆然としている僕に、星宮は、「いやー、怜の教え方が上手かったからだよー」とケラケラと笑う。

「怜の説明、授業よりずっとわかりやすかったよ! おかげで、『なんで今まで理解できなかったんだろー?』って不思議なぐらい」

 純粋な子供みたいに、透き通った目をキラキラ輝かせる星宮に褒められて、心臓がドキッと高鳴る音がした。
 みるみるうちに自分の顔の熱が上昇していくのを感じる。

「怜、本当にありがとう」

 今の今まで、誰かにこんなに褒められて、感謝された経験なんてあったっけ?

 いや、そんな覚えは一度もない。

 だからこそ、なんだか星宮に心の奥の柔らかいところをくすぐられた気分になって、こそばゆい。

「ハハ、そっか。それならよかった」

 僕は、心臓がドキドキうるさいのと顔の熱をごまかすように、星宮に向かって照れ隠しに苦笑いを浮かべた。


   ◇ ◆ ◇


 ――数日後。

 僕と星宮の勉強会は順調。最近は応用問題にもチャレンジするようになった。

「れーい! 今日は何を勉強する?」

 放課後。日直の号令が終わってすぐ、星宮が自分のスクールバッグを持って、僕の元へ駆けてくる。

「昨日は文系科目をやったから、今日は理系科目中心にやっていこうか」

「わかった。じゃあ、中間テストにも出ていた応用問題を――……」

 と、星宮が返事をしていたその途中。

「おーい、七緒ーっ!」

「こっち来いよー!」

 星宮を呼ぶ複数の親しげな声が、急に耳の中に飛び込んできた。

「んーっ? なにー?」と反応する星宮とほぼ同じタイミングで、僕も声が聞こえてきた方へ顔を向ける。

 教室の後ろの出入り口付近。そこに、五十嵐をはじめとしたクラスの中心的人物たちが集まっている光景が、僕の目に映り込んできた。

「七緒ー。これから俺のイチ押しのカフェで勉強会すんだけど、お前も一緒に行こーぜー!」

 大きく手招きする五十嵐に対して、星宮は「ごめーん! 俺、今日はパス‼」と手を合わせて断った。

 とたんに、あたりに微妙な空気が流れる。

「もしかして……、今日も月森と一緒に勉強する感じ?」

 ぎこちない笑みを浮かべる五十嵐に、星宮が不思議そうな表情で「え? まあ、そうだけど……」と答える。

 五十嵐たちは笑ってはいたけれど、まるで仮面を貼り付けたような笑顔だった。

「いや、あの……お前と月森が仲良いの知ってるから、別にいいんだよ。いいんだけどさ……」

「たまには俺たちとも付き合ってよ。……でも、やっぱり無理?」
 
 僕と星宮は仲が良い……ように五十嵐たちの目には見えているのか。

 言われてみれば、僕の中であいつに対しての苦手意識がだいぶ薄れているような気がする。

 それは最近、二人で一緒に勉強するようになったから馴れてきたというよりは。

 ついこの前、合コンから抜け出したときに、僕が星宮を見直したことがきっかけになったのもあるのかもしれない。

 でも、五十嵐の不満を買うのもわからなくはなかった。

 もともと自分たちの方がよく星宮とつるんでいたのに、あるときから別に自分たちと仲良くない僕の独占状態になっているんだもの。

 面白くないに決まっている。
 
「今日ぐらいは誘いに乗ったら?」

 僕は星宮を見上げて、五十嵐たちの元へ行くようにうながした。

「でもっ、怜……」

 まさか、あの合コンのときのように僕を連れて行こうとしているんだろう。

 気持ちはありがたいけれど……五十嵐たちのような賑やかなタイプの中に、真逆の僕がいることで微妙な空気になる可能性を考えて、あわてて首を横に振った。

「いいって。僕のことは気にしなくていいから。ほら、みんな待ってるから早く行きなよ」

 星宮の背中を軽く押して、五十嵐たちの所へ向かうように急かす。

「……わかった。じゃあ、行ってくるね」

 星宮は僕にうなずくと、五十嵐たちに合流して、教室を出て行った。

 ほどなくして、星宮たちが楽しそうにおしゃべりをする声が廊下からもれてくる。

 それを聞いているだけで、僕の胸の奥にチクリとした痛みが走っていったような気がした。


   ◇ ◆ ◇


 あのあと。僕は一人で図書室へ向かった。

 たまには勉強する場所を変えてみるのもいいかなと思ったんだ。

 久しぶりに来た図書室はとても静かで、僕と同じサックスブルーの半袖ワイシャツの夏服を着た生徒たちが、黙々と勉強に取り組んでいる。
 
 僕はこの部屋の奥にある空いたテーブル席に着くと、スクールバッグの中から勉強道具を取り出した。

 早速、問題集とにらめっこしながら、自主勉用のノートに解答を書き込んでいく。

 それにしても、一人でテスト勉強をするのって、こんなに静かなんだな……。

 人が少ない図書室だからっていうのもあるけれど。
 
 最近の放課後は、星宮に付きっきりで教えていたものだから。あいつがいないとこんなにもしーんとしているのかと、改めて気づかされる。

 星宮のやつは、もう五十嵐たちとカフェに着いているころだろうか。

 ちゃんと勉強に取り組んでいるのかな。わからないところは教え合ったりしてんのかな。

 あのメンツだと、テンションが上がってしゃべるのに夢中になっていそうだけど……。

 問題を解く合間合間に、僕の脳裏に星宮の笑った顔や、仲間内で楽しそうにしている姿が浮かんでは消えていく。

 そのうち、星宮の顔が消えていくペースがだんだんゆっくりになっていって。

 気づけば僕の頭の中が、あいつのことで埋め尽くされていく。

 ――ああ、駄目だ……。

 完全に集中力が途絶えて、僕はここではじめて勉強を打ち切った。

 今がテスト前の大事な時期だというのはわかってはいる。

 だからこそ、一刻も早く勉強を再開したい気持ちはあるけれど、脳内を完全に星宮の顔にジャックされてしまった今は無理だ。

 僕がこうなった理由は、星宮を心配しているというのもあるけれど、たぶん疲れているからだろう。
 それも、自分で思っているよりずっとひどく。
 
 よし、今は少し休憩しよう。5分ぐらい休んでから、また勉強に取りかかろう。

 自分にそう言い聞かせて、僕はノートの上に顔を突っ伏した。ゆっくりと目を閉じて、仮眠をとろうとしたそのとき。


「……い、れーい」

 耳元でささやくような小さな声が聞こえたと思ったら、肩のあたりをつかまれて、ゆさゆさと揺さぶられる。

「怜、起きってってば!」

「んっ……」

 今度は耳元ではっきりと名前を呼ばれ、閉じていた目を開ける。

 すると、図書室にいなかったはずの星宮が、僕の顔をじっと覗き込んでいた。

 てっきり星宮は夜になるまで帰って来ないと思っていたから、早く学校に戻ってきたことに少し面喰らってしまう。

「あれ? 五十嵐たちとカフェに行ったんじゃ……?」

「それがさー、今日に限って臨時休業だったから、すぐに帰ってきたんだよ」

「ふーん、そっか。それは残念」

 口では『残念』と言っておきながら、妙に声色が明るくなってしまった。

 向かった先のカフェが臨時休業だと知った星宮たちは、少なからずショックを受けたかもしれないのに……。どうして僕は、内心喜んでるみたいな返事をしてしまったのだろう。

 幸いなことに、星宮はまったく気づいてないみたいでほっとしたけど。

「でも、大丈夫。また今度みんなで行く約束をしたから。……って、それよかさ」

「ん?」

「俺も一緒に勉強していい?」

 聞かれて「ああ」とうなずくと、星宮は向かい側の椅子に座って、勉強の準備に取りかかる。

 僕の隣の席も空いているのに、向かい合わせになる席を選ぶんだな。

 まあ、星宮がどこに座ろうが本人の自由だし、別にいいんだけど――改めて真正面から見ると、本当に綺麗な顔をしている。

 夕陽に照らされたプラチナブロンドの髪が、光を反射してキラキラ輝いているし、ふとしたときに伏せられる長いまつ毛はびっくりするぐらい色素が薄い。

 でも、綺麗なのはそれだけじゃなくて。

 スッと背筋を伸ばした姿勢も、ノートに書く字が丁寧なところも、ついつい目を奪われてしまう。

「どうかした?」

 僕の視線に気づいたのか。星宮がはたと顔を上げる。
 
 まずい……。

『君を見つめていた』なんて、口が裂けても言えなくて。

 僕は星宮に「何でもない」とごまかすと、あわててサッと視線をそらした。



 ――期末テストが終わって1週間後。


 すべての教科の解答用紙を受け取ったその日の夕方。

 僕は放課後になってすぐ、星宮と一緒に男子寮にまっすぐ帰った。

「……で、結果はどうだった?」

 自分たちの部屋に入るなり、僕は今にも飛び出しそうな心臓のあたりを手のひらでおさえながら、おそるおそる星宮にたずねる。

 すると、星宮がおもむろに、スクールバッグから全教科分の解答用紙を取り出した。

「……はい、これ」

 珍しく緊張の面持ちの星宮に、紙の束を差し出される。

 それらを受け取って点数欄を確認すると、80、75、90……という、100点満点に近い高得点の数字ばかりが、赤ペンで書かれていた。

「すごっ……。星宮、やったじゃん!」

 感極まって大声を上げてしまった直後。

「れ、怜……?」

 目が点になった星宮から視線を注がれていることに気づいて、僕はハッと我に返った。

「びっくりした……。怜が急に興奮し出すから……」

「あ、いや……。これは、その……」

 恥ずかしいのと気まずいのとで、言葉がつっかえてうろたえてしまう。

 まごつく僕に対して星宮はというと、呆気に取られていた顔をくしゃっとさせて、

「怜も子供みたいに喜ぶことってあるんだね」

 星宮にクスクスと笑われて、自分の顔が急速に火照っていくのが嫌でもわかった。

 でも、星宮はというと、縮こまってうつむく僕の顔を、至近距離から覗き込んでくる。

「でも、俺のことなのに、自分のことみたいに喜んでくれて嬉しかったよ」

「そ、そう……」

 こうして星宮と話しているだけで、怒ったり、驚いたり、喜んだり……今日の僕はけっこうせわしない。

 どういうわけか星宮と一緒にいることによって、自分の感情が、言葉や表情、仕草になって、どんどん表に引っ張り出されていくんだ。

 自分で言うのもなんだけど、今までの僕は高校生にしては落ち着いているというか……水野さんの言葉を借りれば、『クール』なタイプのはずだったんだけどさ。

「ねえねえ、怜」

 ふいに話を切り出してきた星宮に、僕は「ん?」と首をかしげる。

「今週の土曜日って、予定入れてる?」

「いや、まったくないけど……」

 ふるふると首を横に振る。

 すると、星宮はぱあっと弾けるような笑顔になって、「だったらその日は絶対に空けといて‼」と、僕に強く念を押してきた。

「別にいいけど、なんで……?」

「俺に勉強を教えてくれたお礼がしたいから」

 そんなの別に気にしなくてもいいのに。と言いたいところだったけど、僕に対して義理堅い星宮のことだ。

 断ってもきっと聞かないだろうし、ここは反論せずに受け入れよう。

 でも、星宮が僕にしようとしているお礼って、一体何なんだろう?

「それって、僕に何かプレゼントをくれるとか、どこかでご馳走してくれるとか……?」

 気になって星宮にたずねてみると、「まだ内緒!」と笑顔ではぐらかされた。

 当日までのお楽しみ、か……。なんだろう。

 無性に土曜日が待ち遠しくなってきた。


   ◇ ◆ ◇


 ――と、いうわけで数日後。

 あっという間に、約束の土曜日がやってきた。

「うわーっ! やっぱ、人多いねー」

「えっ? ここって……」

 学校の最寄り駅から電車に乗って20分。

 星宮に連れられてたどり着いたのは、大海原に面した場所にあるガラス張りの壁が印象的な水族館だった。

 週末の上に、かなり人気のスポットだからか。

 まだ開館30分前の朝の9時半だというのに、館外には大勢の人であふれていた。

 ぱっと見た感じ、カップルや家族連れ、友達グループなど複数で来ている人たちが多い。
 
 同じ複数でも、僕と星宮みたいな男2人で連れ立っている人たちは今のところいないけど……。

「もしかして、当日までのお楽しみのお礼って……、僕をここに連れて行くことだったの?」

 僕がたずねると、星宮は笑顔で「うん」とうなずいた。

「今まで内緒にしてたけど、この水族館で1日デートするのが、俺からの怜へのお礼」

 いや、デートって……!

 一瞬ドキッとしたけれど、言葉のあやだと思い直した。

 それにしても、僕にとって休日に同級生と二人きりで遊びに行くのもだけど、その場所が水族館だというのもかなり新鮮だ。

 普段の僕なら決まって一人で、駅中のショッピングモールにある書店と文具店で買い物をしたあと、カフェに寄って帰るだけで終わらせてしまうから。

 ほぼルーティン化している外出もそれなりに楽しいけど、今回のようにまだ行ったことのない場所に出かけるのもまたいい刺激になっている。

 連れて来てくれた星宮には感謝だな。とはいえ、

「青い空に青い海、最高!」

 元気にはしゃいでいる星宮を見ている限り、僕をここに連れて来たのは、『純粋なお礼』と言うより、『単に自分が行きたかったから』っていうのが理由の大半を占めている気がするんだけれど……まあいっか。


   ◇ ◆ ◇


 それから30分経って10時。やっと水族館がオープンした。

 星宮が前もって買ってくれたチケットを使って入場ゲートをくぐる。

 館内は冷房がきいていて、ひんやりとした風が、髪や服の間にこもる熱を吹き飛ばしてくれた。

「れーい、こっちだよ」

 先を歩く星宮に案内されながら、薄暗い廊下をしばらく歩いていくと、水槽のトンネルが俺たちを迎えてくれた。

 まるで海の中に入り込んだかのようだ。

 透き通った青い光が差し込む水槽の中を、さまざまな種類の海の生き物たちが自由自在に泳ぎ回っている。

「すごい、綺麗……」

「だよね……。あっ、怜! 次はあっちに行ってみようよ」

 ……ったく。星宮のやつ、切り換えが早過ぎるってば。

 まあ、この水族館は目移りしてしまうほど見どころが多いから、仕方ないのかもしれないけど。

 トンネルを出たら、今度は巨大水槽が展示されてあるエリアに星宮と一緒に向かう。

 まるで海の一部を切り取ったのようなこの水槽には、大きな群れを作って泳ぐ回遊魚、優雅にひれを羽ばたかせるマンタがいて、次から次へと普段の日常では見られない光景が、次から次へと目に飛び込んでくる。

 なんと、ジンベエザメもいた。

 はじめて見たけど意外とデカくて迫力もあるのに、ゆったりと僕の目の前を横切っていく。
 
 星宮も今の光景を見たのかな? あいつのことだから、子供みたいに目をキラキラさせてはしゃいだりして……あれ?

「星宮……? え、どこ……?」

 さっきまで僕の隣にいたはずの星宮が、忽然と姿を消していた。

 はぐれた? いや、僕が星宮から目を離した時間は、あまり長くないはずだから、まだ近くにいるかもしれない。

 そう自分に言い聞かせて、近くをきょろきょろ見わたしたり、歩き回ったりしながら星宮を探してみるけれど――僕の目に映るのは、顔も名前も知らない人ばかり。

「いない……」

 星宮が見つからない。

 この現実に途方に暮れているうちに、時間だけがどんどん過ぎていくものだから、余計に不安と焦りが募っていく。

 冷たい汗が、僕の頬をつーっとつたって流れていった。 

 こんなとき、どうしたら……って、僕にはスマホがあるじゃないか。

 一応、星宮の連絡先は知ってる(強引に登録させられた)から、とりあえず電話をかけてみよう。と思って、ショルダーバッグからスマホを取り出そうとしたそのとき。

「えぇ~っ? いいじゃん! あたしたちと一緒に回ろうよ!」

 突然、キンキンと響く不満げな声が、この場に漂う静かな空気を一瞬にして突き破った。

 耳障りな声が聞こえてきた方に視線を寄こす。

 僕がいる現在地から少し離れた場所に、派手で気が強そうな2、3人ほどの女子がいて、逃げ道をふさぐように壁際に誰かを追い込んでいるようだった。

「そーだよ! 一人よりも大勢の方が楽しいよ」

「ほらっ、遠慮しないで早く行こっ!」

「だから俺、一人じゃなくって……!」

 今の声、星宮……⁉

 明らかに困惑が全面に出た聞き覚えのある声と、女子たちの頭のすき間からチラチラと見え隠れするプラチナブロンドの髪に、僕はハッと息を呑む。

 駆けつけると思ったとおり、いつの間にか姿を消してしまった星宮がいた。

 積極的な女子たちに取り囲まれて、迷惑そうに顔をしかめている。

 でも、すぐに自分の近くにいる僕に気づいて、「あっ、怜っ!」とぱっと明るい笑顔になった。

 逆に女子たちは突然現れた僕に戸惑って、「え? あの人誰?」「さあ……?」と仲間内でヒソヒソとささやき合う。
 
「すみません。こいつ、僕の連れなんで」

 僕はサッと女子の群れの中に割って入ると、星宮の肩をつかんで、自分の方へ引き寄せた。

「あっ……。そ、そうですか……」

 呆気に取られた女子たちは、お互いの顔を見合わせると、「い、行こ……」とすごすごと退散していった。

 よかっ、た……。

 星宮と再会できたことで、僕の中で不安と緊張で張り詰めた糸がぷつんと切れて、どっと疲れが押し寄せてきた。

「は~~っ……」

「怜? 大丈夫⁉」

 両手で顔をおおって長いため息をついていると、不安げな表情を浮かべた星宮が、あわてて僕の顔を覗き込んでくる。

「大丈夫……。やっと星宮が見つかって、ほっとしただけだから……」

「ごめん……」

 しょんぼりとした顔の星宮が、僕に向かって頭を下げた。

「怜とサメを見ていたはずが、急に人ごみに紛れてしまって。それでこのあたりを歩いて探していたら、さっきのあの女の子たちにつかまっちゃって……」

 そっか……。僕とはぐれたときに、そういう経緯があったのか。

 星宮も大変だったんだな……。

「いや、いいよ。僕の方こそごめん。もう少し周りをちゃんと見ていたから……」

「怜は謝んなくていいから! 俺の方が……」

「いや、僕が」

「俺が!」

「落ち着けって。僕の方が……って、これ以上言い合ってもキリがないか」

 僕が苦笑いして、この終わりの見えない言い合いを打ち切ると、星宮も「そうだね」と顔をほころばせる。

「じゃあ、無事再会できたということで。気を取り直して今度はあっちに行ってみようよ」

「ああ……って、え?」

 ものすごく当たり前のような、自然な流れで星宮が僕の手をつかむ。

 先月、合コン会場のカラオケボックスから出るときに、星宮に手首を引っ張られたことがあったけど。

 あのときと違って、今回はちゃんと手と手をつないでいるせいか、意識がそこばかりに集中してしまう。

 心臓の音がドキドキからドクンドクンへ、どんどん鼓動が強まってくる。

 おかげで顔が火照ってくる僕のことを知ってか知らないか。星宮は僕の手をしっかりと握り締めたまま、別のエリアへずんずんと歩みを進めた。


   ◇ ◆ ◇


 連れてこられたのは、さっきの巨大水槽のエリアよりも一際暗い小さな室内だった。

 どうやらここはクラゲのエリアらしい。

 赤、青、緑、黄色、ピンク、紫――……さまざまな色にライトアップされた円柱形の水槽の中を、半透明のクラゲたちがふわふわと泳いでいる。

「ここ、俺が一番、怜と一緒に来たかった場所なんだ」

 このエリアを歩きながら、星宮が僕に語りかけてくる。

 クラゲたちが織り成す神秘的な光景に目を奪われているのか。

 ちっともこっちを見てくれなかったけど、僕と繋いだ彼の手にはしっかりと力がこもっていた。

「それって、綺麗だから?」

「まあ、それもあるけれど……ここって、寮の屋上から見た景色に似てると思わない?」

 言われてみれば、たしかにそうだ。
 
 男子寮の屋上から見た景色も、こんなふうにキラキラ輝いているもんな。

「それから、怜に一番見せたかったのがここ」

 星宮が、このエリアの中で一番大きい円形の水槽の前にたどりつくなり、足を止めた。

「満天の星空って感じがするでしょ?」

「そうだね」

 満面の笑顔を向けてくる星宮に、ひとりでに頬がゆるむ。

 クラゲって、漢字にすると『海に月』って書くほど月みたいな見た目してるのに、たくさん集まると星空みたいだ。

 夜でも明るいこの都心の街では、普段は見ることができないけど。こんなに無数の星空が、僕たちの頭上に広がっているのかな。
 
 なんてことを思いながら、幻想的な光景にしばらく二人で見入っていた。


   ◇ ◆ ◇


 一通り館内を見て回ったあと。

 水族館に併設されたレストランで食事をして、イルカショーを見終わってから、僕たちはいったん水族館を出ることにした。

「いやー、楽しかったね。水族館」

 外に出るなり、上機嫌の星宮が僕に話しかけてくる。

「そうだね。かなり見どころがあったし、また行きたいな」

「よかったー! 気に入ってくれたみたいで。じゃあ、次も俺と一緒に行こっ!」

 ……ったく。そうやってすぐ僕を誘いたがるんだから。

 まあ、星宮のことだから予想はついていたし、別に悪い気はしないからいいけどさ。

「いいよ」

 返事をしながら自然と口角がゆるむのを感じたそのとき、突然雨が降ってきた。

 朝から雲一つないぐらい晴れていたのに。

 いつの間にか青い空をおおいつくした雨雲から、銀色の雨がぱたぱたと音を立ててアスファルトの上に落ちてきた。
 
 雨はすぐにザーザーと音を立てるほど威力を増して、あたり一面を白く(けぶ)らせていく。

 僕たちは駅舎の軒下へ急いだけれど、走り終えた頃には前髪や顎から雫がしたたり落ちるほど全身びしょ濡れになっていた。

「あーもー、なんなの急に⁉」

 星宮が灰色の空に向かって大声で叫んだ。

「うわーっ、もう全身びしょびしょ……。何で急に大雨が降ってきたんだろう……?」

「にわか雨なんじゃない? いきなり強く降ってきたし」

「あっ、そっかあ……。でも、怜の言うとおり、にわか雨だったらすぐに止むね」

 白い額に濡れた髪をぺったりくっつけたまま、星宮が微笑んだその瞬間――ふと、僕の脳裏にたった一度だけ出会った人物の記憶がよみがえった。

 古い記憶だ。なんなら、今まですっかり忘れていたまでもある。

 でも、その記憶の中の人物――びしょ濡れの男の子に懐かしさを覚えたそのとき。

 ――なぜか彼の面影が、僕の目の前にいる星宮にほんの少し重なったような気がした。

 ピピッという電子音のあと。脇に挟んでいた体温計を引き抜かれた。

「うーん、今日もまだ熱があるね……」

 ぼんやりとした視界の向こうから、星宮の険しい声が聞こえてくる。

「……何度?」

 かすれた声でたずねると、「37度5分」と星宮のいつもの声が僕にそう教えてくれた。

 週明けの月曜日の朝、僕は体調を崩して寝込んでいた。

 実は昨日の日曜日から、ずっと熱を出しているのだ。

 原因はたぶん、おとといの土曜日。

 水族館の帰りに突然にわか雨に降られて、全身びしょ濡れになってしまったせいだと思う。

 でも、なぜか僕と一緒に雨に濡れたはずの星宮にはこれといった体調の変化はなく、今日も元気いっぱいだ。

 まだ全身のだるさが抜け切ってなくて、熱でぐったりとしている僕としては羨ましい限りで仕方ない……。

「まあでも、昨日よりかはだいぶマシだけどね。覚えてる? 怜、39度も熱があったんだよ」

 そうなんだ……。

 どうりで昨日のことを聞かれても、何一つとして思い出せないんだよな……。

 僕がそんなことを考えていると、かすかな衣擦(きぬず)れの音が耳にふれた。

 メガネをかけていないせいであまりはっきりと見えないけれど、スクールバッグを肩にかけて、立ち上がる星宮の姿がぼんやりと見える。

「じゃあ、俺はもう学校に行くから。怜はここでゆっくり寝て休んでてね」

「……わかってるって」

「冷蔵庫にプリンとかゼリーを買いだめしてるから、食べられるようだったら食べてね」

「ありがとう……」

「あっ! あと、熱が下がってもヒマだからって、屋上に出ちゃ駄目だよ⁉︎ ぶり返したら大変なんだから‼︎」

「出るわけないだろ。まだ本調子じゃないんだから……。てか、人の心配してるけど、そっちこそ大丈夫?」

「へっ……?」

 まるで仕事に出かける前の母親のように、僕にあれこれ言いつけていた星宮が、急に黙り込んだ。

 あたりに沈黙が流れたあと、ハッと息を飲む声がして、

「ヤバい、遅れる!」

 ほら、言わんこっちゃない……。

「行ってきます‼」

 慌てたように大声を上げた星宮は、バタバタと足音を立てて走り出した。

 僕が「いってらっしゃい」を言う間もなく、ドアがバタン! と大きな音を立てて閉まる。
 
 とたんに、さっきまで星宮の声で騒々しかった部屋の中が、嘘みたいにしーんと静まり返った。

「……あーあ、行っちゃった」

 一人でに動いた口からこぼれた僕の声が、この部屋の中に響き渡った。
 
 とたんに、胸がすくような、心にぽっかりと穴が開いたような感覚に陥っていく。

 この部屋は、もともと僕が一人で使っていたはずなのに、今では心細くてたまらない。

 もしかして、あいつのいる生活が当たり前になってしまったから、こんなにも胸いっぱいにがらんとした気持ちが広がっているのっだろうか。

 放課後になれば、星宮はこの部屋に戻ってくるとわかっているのに、もうすでに夕方になるのが待ち遠しくて仕方ない。

 とりあえず気を紛らわそうと、僕はベッドサイドに置きっぱなしになっていた文庫本を取った。

 ページを開いて、紙に綴られた細かい文字を目を追っていくうちに、視界が余計にぼんやりしてきてうつらうつらしてくる。

 普段の僕なら読書を始めると、すぐに集中して一気に最後のページまで読み終えてしまうけど、やっぱりまだ体調が万全じゃないからだろう。

 結局僕は襲ってくる睡魔に抗うことなく、どんどん下がってくる重いまぶたを閉じたとのと同時に、意識の端を手放した。
 
 
   ◇ ◆ ◇


 再び意識が戻ったとき、僕の目に映ったのは、叩きつけるような大雨が降る夜の光景だった。

 なんだかどこかで見たことがある、と思ったら――2年前の、中学3年生のときの6月。体験入塾の帰り道に見たのと同じ光景だった。

 ザーザーと音を立てて雨が降る夜の道を歩いて、バス停まで向かう途中。

 少し近道をしようと広場に足を踏み入れたそのとき――、街灯の下に置かれたベンチにうなだれるようにして座っている男の子に遭遇した。

 ぱっと見、僕と同い年ぐらい。

 当時の僕が着ていた学校の制服とよく似た白い開襟(かいきん)シャツに黒のスラックス姿だったから、ほんの一瞬、同じ学校の生徒かと思ったけど。

 彼のすぐ近くに置いてあった通学カバンのデザインが、明らかに僕のものと違っていたので、他校の中学生だと思い直した。

 ベンチに座る彼はどうやら、ずいぶん長いこと傘も差さずに雨に打たれていたらしかった。

 髪の毛の先からはぽたぽたと雫が滴り落ち、濡れた制服が体に張り付いている。

 長いこと降りしきる雨に体温を奪われ続けていたせいだろうか。

 シャツの袖から伸びる細い腕は、血の気が引いて青白かった。

 一瞬、声をかけるかどうか迷ったし、なんなら止めておこうかと思った。

 普段からろくにクラスメイトとしゃべらない僕が、他校生に声をかけるなんてすごくハードルの高いことだったから。

 でも、このまま見ないフリをしてほっとけば、きっと彼は風邪を引いてしまう。

 最悪、肺炎をこじらせてしまうかも。

『……大丈夫?』

 悪い妄想をした結果、良心に突き動かされたのか。

 あるいは、自分で思っている以上に、僕は見て見ぬふりができない性格だったのか。

 気づけば僕は、びしょ濡れの男の子に声をかけていた。

 彼がこれ以上雨に打たれずに済むように、傘を前に傾けたとたん。男の子が弾かれたように顔を上げた。

 そして、おとといの星宮のように、濡れた前髪を額にくっつけたまま、僕に向かって微笑んだのだった。


   ◇ ◆ ◇


 ハッと目を覚ますと、僕はベッドの上でうつ伏せになっていた。

 目をこすって顔を上げると、窓から差し込む陽の光が、僕の掛け布団の白いシーツをオレンジ色に染め上げているの見て取れる。

 さっきまで見ていた夜の雨の光景と違う。と思ったけど、どうやらそれは僕が見ていた夢だったらしい。

 それにしても、記憶がだいぶ戻ってきたのだろうか。

 僕がいつどこで何をしたのかは、ある程度具体的に思い出せていたけれど、夢の中にいたびしょ濡れの男の子のことはいまだに誰だかわからないままだ。

 まあ、自分でよくよく考えても答えの出ないことで悩んでもしょうがないか。

 夢の中の男の子ことはいったん置いておくとして、今って一体何時なんだろう……?

 ゆっくりと上半身を起こして、ベッドサイドに置いていたメガネをかける。

 そして、充電器に差しっぱなしになっていたスマホのスイッチを押したそのとき。

「あっ、起きた?」

 頭の上から声をかけられて振り仰ぐと、いつの間にかこの部屋に戻っていた星宮がいた。

 目が合うなり微笑みを浮かべる彼に、僕の中で熱い安堵がこみ上げる。

 やっぱり僕、星宮が帰ってくるのを待ちわびてたんだな……。

 だって、星宮の顔をただ一目見ただけで、ほっと安心の胸をなでおろしているんだもの。

「どう? よく眠れた?」

 星宮に聞かれて我に返る。

 そういえば、さっきまで昔の夢を見ていたのにも関わらず、すごく目覚めがすっきりしていることに気がついた。

「ああ……。ってか、今って何時? もう夕方……?」

「うん。一応、もうすぐ夕方の6時ってところかな」

 夕方の6時⁉ 僕が読書を打ち切って寝たのは午前中だったと思うけど。

 それまで何も飲まず食わず、ただひたすらぐっすり眠っていたなんて……。

 意識がなかった昨日よりずいぶんと熱が下がったとはいえ、よっぽど体調が悪かったんだな。

 そんなことを思っていると、僕のぺたんとしたお腹から『ぐ~っ……』という音が、部屋全体に響き渡った。

 最悪だ……。不可抗力だとはいえ、ここまで大きな音が鳴るなんて……。

 顔から火が出る思いでチラッと星宮に視線を寄こすと、

「なにか食べたい?」

 僕のお腹の音には言及せず、逆に気遣う言葉をかけてくれた。

「あ、うん……」

「じゃあ、ちょっと待っててね」

 僕がおずおずとうなずくと、星宮は器用に片目をつむって、部屋を出て行ってしまった。

 あいつ、どこ行ったんだろ……?

 外に買い出しに行ったのかな?

 それとも、部屋を出てすぐの所のキッチンに置いてある、ゼリーかプリンを取りに行ったのかな……?

 そわそわしつつも大人しく待っていると、閉め切られた部屋のドアの向こうから、ジャーッと水を流す音や、なにかを鍋で煮込んでいるようなコトコトという音が聞こえてきた。

 しばらくして。

「お待たせーっ」

 という弾けるような声とともに星宮が、お盆にどんぶりを乗せて運んでくる。

 卵雑炊だ。星宮によって、ローテーブルの上に置かれたそれからは、ふわっと湯気が立っていた。
 
 漂ってくる出汁の香りに余計にお腹がすいてきて、居ても立っても居られなくなった僕は、ベッドから降りてローテーブルの前に座った。

「これ、さっき作ったの……?」

「うん。卵と粉末だしとパックご飯で作った即席雑炊! これ、けっこうおいしんだよ」

 星宮は僕の隣に腰を下ろすなり、フフンと自慢げに鼻を鳴らした。

 それから、どんぶりと一緒に持ってきたれんげで卵雑炊をすくって、「はいっ、あーん」と僕の口元に運んでくる。

「いや……、あーんはいいから。自分で食べられるし……」

 同級生にご飯を食べさせてもらうだなんて……。

 考えただけでも気恥ずかしくなって、顔をそらして断るものの、星宮は僕が思っているより強引だった。

「いいからあーんして」

 さっきよりも笑顔で、ずいっとれんげを近づけてきた。

「はぁ……」

 これ以上拒否っても、キリがなさそうだ。観念した僕は、れんげに乗った雑炊を口に入れた。

 とたんに、出汁と卵の優しい味が口の中いっぱいに広がる。

 空腹のせいか。

 いや、星宮の料理の腕がいいんだろうな。
 
 僕はあっという間に卵雑炊を完食してしまった。

「おいしかった……、ごちそうさま」

「ふふっ、おそまつさまでした」

 にっこりと微笑む星宮に、僕もつられてほころんでしまう。

 そして、彼とのこの穏やかな時間がいつまでも続いて欲しいと、心のどこかで強く願っている僕がいた。

 昨日、学校を休んでいる間にぐっすり眠って十分に体を休めたのと、星宮が作ってくれた卵雑炊を食べたおかげか。

 今朝は熱を測ると平熱まで下がり、体調もすっかり回復していた。

 と、いうわけで。

 無事に登校を再開した今日の1限目は、待鳥先生の授業の予定のはずだったんだけど――……、
 
「えー、今日はクラス全員揃っているということで。授業をホームルームに変更して、学園祭の出し物についての話し合いをするぞー」

 教卓に両手をついて、前かがみになった待鳥先生の発言に、クラスメイトたちがぱあっと笑顔を輝かせ、弾けるような歓声を上げた。

 まるで、楽しいイベントが始まったような盛り上がりっぷりだ。

 まあ、出し物の準備の話し合い自体、学園祭というイベントの一つのくくりみたいなものだしさ。

 というか、みんなこのときを楽しみに待ち焦がれていたんだな……。

 お祭り騒ぎのさなか。

 待鳥先生がいったんクラスメイトたちを落ち着かせるように手を叩いて、「それじゃあ、このクラスでどんな出し物をやりたいか。意見があるならどんどん言ってくれよー」と声かけした。

 すると、教室のあちこちから、クラスメイトたちが思い思いに意見を述べ始める。

「やっぱお化け屋敷でしょ!」

「あたし、クレープがいい!」

「段ボールでジェットコースターを作るのなんてどう?」

「プラネタリウムとかどうですかー?」

「ここはあえて王道にメイドカフェでよくない?」

 さまざまな意見が出される度に、待鳥先生がそれを聞き拾って、黒板にチョークで書き残していく。

 しばらくすると、だいたい出揃ってきたのか。盛り上がっていた空気が、少しずつ静まり返ってきた。

 ここらへんでいったん閉め切るのかな。と僕が思ったちょうどそのとき。

「はーい。俺、レトロ喫茶がいいでーす!」

 ピン、とまっすぐに手を挙げて、星宮が発言した。

 クラス中の視線が、一気に彼に集中する。

「星宮ー、レトロ喫茶って?」

 振り返りざまにたずねる待鳥先生に、星宮はガタンと席を立つと、「えっとー、文字通りレトロな雰囲気のある喫茶店って感じで~」と要領を得ない説明をし始めた。

 星宮のやつ、本当に言語化苦手だな。

 でも、そんな説明じゃ抽象的過ぎて相手に伝わらないだろ……。と心の中でツッコミを入れていると、急に星宮がサッと体ごと僕の方を向く。

 なぜに……、僕?

「怜、あの本持ってる?」

「え?」

「ほらっ、最近読んでる本だよ! 喫茶店の写真が表紙の……」

「あっ! ああ……、これ?」

 いきなり話しかけられて戸惑ったけど、僕は机の引き出しから読みかけの文庫本を取り出して、星宮に見せた。

 それは、喫茶店を舞台にした連作短編の小説だった。

 レンガの壁とステンドグラスの窓を背景に、テーブルの上に置かれたクリームソーダとプリンアラモードの写真が表紙を飾っている。

 一応説明のため、その本の表紙を待鳥先生に見せたところ、すぐにピンときたらしく。

「あー、はいはい。アレか。最近流行りのエモいやつな」と理解して、クラスメイトたちにわかりやすく説明してくれた。

「いいじゃん、レトロ喫茶! 面白そう!」

「おしゃれだし、ほかのクラスともかぶらなさそうだよね!」

 まだ意見交換も多数決も始まってないというのに。クラスメイトのほとんどが、レトロ喫茶を出し物にすることに乗り気だ。

 単純に学園祭の出し物にしては真新しさがあるんだろうけど。

 特に星宮のファンと思しき女子たちが、「絶対にやりたい!」とやる気にあふれ、燃え上がっている。

 ここまでくると、あとの流れはもう決まったようなものだ。

「じゃあ、このクラスの出し物はレトロ喫茶で決定。ってことでいいかー?」

 確認を取る待鳥先生の声に答えるように、「はーい!」というクラス全員の返事が教室に響き渡り、すんなりと学園祭の出し物が決まった。


   ◇ ◆ ◇


 ――数日後の朝。

 ホームルームでの待鳥先生の話によると、レトロ喫茶を出し物に決めたのはこのクラスだけだったらしい。

 かぶりがなかったということで、その日の放課後から準備に取りかかることになった。

「じゃあ早速、俺と一緒に買い出しに行ってくれる人、いるーっ⁉」

 ホームルームが終わったあと。学園祭実行委員になった五十嵐が、教室にいるクラスメイトたちに向かって声をかける。

 その呼びかけに、星宮が好奇心に駆られたようにぱあっと目を輝かせて、「いいよー」と五十嵐の元へ一目散に駆け寄った。

 ふーん。星宮のやつ、五十嵐と買い物に行くんだ。それも二人きりで。

 たかが学園祭の準備。そのための必要な買い出しの手伝いを、星宮が買って出ただけだというのはわかってる。

 でも、……楽しそうな二人の姿を眺めているだけで、なんだかものすごく面白くない。

 この間の期末テスト前。五十嵐たちに誘われた星宮を送り出していた僕はどこに行ったんだろう?

 すこぶる性格の悪い自分にイライラして、「はあっ」と短いため息をついたそのとき。

「怜も一緒に行こうよ!」

「えっ?」

 突然星宮に大声で呼ばれて、僕はハッと我に返った。

「い……、いいの?」

「うん。荷物がかなり多くなるだろうから、手伝ってくれる?」

「おっ、月森も来てくれんの? 助かるー!」と、珍しく五十嵐が僕を受け入れてくれた。

「それじゃあ、3人で行こうぜ」

「あ、ああ……」

 本当に、僕も一緒でいいのかな? でも、星宮も一緒にいるならまあいいか……。

 僕は自分にそう言い聞かせて、先を歩く二人の背中を追い駆けた。


   ◇ ◆ ◇


「月森って、なんか変わったよな」

 教室の装飾に使う画用紙や画材などを買ったあとの帰り道。

 ふいに五十嵐がそんなことを口にしてきたものだから、僕は呆気に取られて、思わず「え?」と聞き返した。

「変わったって、なにが……?」

「んー、雰囲気かな。前はもっとツンケンしてるっていうか、『僕にはかまわないでください』って言いたげな近寄りがたいオーラを放っててさー……」

「気づいてたんだ……」

「いやー、わかるよ。だって、あからさまに態度に出ていたんだもん。でも、ここ最近はだいぶ柔らかくなったというか、取っつきやすくなったというか。七緒と仲良くしてるから、『悪いやつじゃなさそうだな』って、思えてきたっていうのもあるかもしれないけどさ」

「そうそう! 怜はすっごくいいやつなんだよ!」

 と、星宮が横から口をはさんできて、僕は苦笑いをした。

 僕はてっきり五十嵐には(うと)まれていると思ってたのに。

 星宮と一緒にいることで、あいつの中で僕に対する見方が好意的な方向に変わった話はかなり意外だった。

 そっか。ちょっとしたきっかけで、人の気持ちは変わるんだな……。と、僕が一人でしみじみとしていると、

「もしかして月森、好きな人でもできた?」

「は⁉」

 突拍子もない五十嵐の質問に、自分の顔が耳までカッと熱くなるのがわかった。
 
「いやーほら、よく言うじゃん? 『恋をすると人は変わる』って。あんなにツンツンしてた月森が、こんなにも丸くなったっていうことは、やっぱ好きな人ができたからじゃないかなーって思ってさ~」

 五十嵐がヘラヘラ笑いながら、僕をからかってくる。

 ここは適当に返事をして流せばいいだけだとわかっているのに。
 
「えっ? 怜って好きな人いるの?」

 星宮が興味を持ったらしく、僕に食い気味にたずねてきた。

 にやついてる五十嵐と違って、真顔で。

 2つの大きな透き通った瞳で、僕の心の奥底を覗き込むように、じーっとこちらを見つめてくる。

 あまりにも真剣な眼差しを向けられて、脳みそが急上昇していく顔の熱によって妬き切れてしまいそうだ。

「いるわけないだろ……」

 これ以上星宮を直視するのに限界がきた僕は、サッと視線をそらしてボソッと呟くように返事をした。


   ◇ ◆ ◇
 

 ――気づけば日々が慌ただしく過ぎ去って、学園祭当日まであと数日。

 出し物の準備もいよいよ大詰め。

 教室の装飾も、接客時に着る衣装も、メニューやその他小物類の制作など、すべての作業が終わりに差しかかっていた。

 今日は教室の飾り付けがひと段落したところで解散。

 寮の部屋に戻った僕は、どっと押し寄せてくる疲れに「はあっ」と大きく息をつく。

「あー、疲れた……」

 ワイシャツの襟に指を引っかけて、パタパタと風を送りながら、エアコンのスイッチを入れる。

 すると、サウナのように蒸し蒸しする部屋に、冷房の涼しい空気が流れ込んできて、暑さが少しマシになった。

 そういえば、星宮はどこ行ったんだろう?

 僕と一緒に教室を出て行ったような気がするけど、まだこの部屋には戻ってないんだよな。

 五十嵐たちとおしゃべりでもしに談話室に行ったのか、それともトイレにでも行ってたりして……。

「れーい、おつかれー!」

 背後からいきなり頬に冷たいものをぐっと押しつけられた。

 思いがけない事態に「ひゃっ……⁉」と悲鳴を上げて肩をすくめる僕の顔を、「びっくりした?」と星宮がニマニマしながら覗き込んでくる。

「当たり前だろ……。ってか、さっきまでどこ行ってたの?」

「自販機! 冷たいジュースが飲みたくってさー。はいこれ、怜の分!」

 と、さっき僕の頬に当てていたらしき、サイダーのペットボトルを渡してくれた。

 まったく。気が利くのか人騒がせなのか……。

「あ、ありがとう……」

 僕はドキドキしながらお礼を言って、星宮からペットボトルを受け取る。

 星宮は「どういたしまして」と返事をして、自分の分らしきコーラのペットボトルのキャップを開けて、おいしそうに中身をゴクゴク飲み始めた。

 細い首に張り出した喉仏が、大きくゆっくりと上下に動いている。

 なんだか凝視してはいけないような気がするのに、星宮の喉仏の動きに目が離せずにじーっと見入っていると、「どーかした?」とペットボトルから口を離した本人に気づかれてしまった。

「いや……、なんでもない」

 僕は慌ててごまかすなり、先ほどもらったサイダーをあおった。

 でも、あまりにも慌て過ぎていたせいで、一口飲んだだけでむせてしまう。

「ちょ、怜⁉ 大丈夫⁉」

「大丈夫……。とりあえず、立ちっぱなしもなんだし、いったん座ろっか」

「そだね。だいぶ疲れてるしね……」

「えっ? さっき、あんなにテンション高かったのに?」

「んー、これでもだいぶクタクタだよー……。ってか、ねむーい! 今すぐにでもベッドで寝たいって感じ!」

 大声を出したせいで電池が切れたのか。星宮はすぐ近くにあった自分のベッドの上にダイブした。

 この様子じゃ、だいぶ疲れていそうだな。って、そりゃそうか。

 うちのクラスのレトロ喫茶の出し物を提案したのは星宮。

 言い出しっぺだからこそか、いつも周りの人一倍頑張って学園祭の準備を進めている姿をこれまで何度となく見てきた。

 今日も自分の仕事をしながら、なかなか作業が進まないクラスメイトたちの手伝いを自ら買って出ていたくらいだし。

 星宮のそういう細かいところに気づいたり、周りに気を配れる性格はいいところだと思うし、今日も今日とて大変だったなと(ねぎら)いたいところだけど――……、

「せめて風呂には入れよ! あと、ちゃんと歯磨きもして!」

 僕はベッドの上に寝転がる星宮を起こそうと、彼の腕をぐいっと引っ張った。

 でも、星宮はまったくと言っていいほどびくともしない。それどころか、

「……うわっ⁉」

 勢い余って足がすべって、体がふわっと宙に浮いた。

 全身が重力に引っ張られるように倒れる。気づけばボフッという音がしたあと、僕はふわふわしたものに顔を埋めていた。

「ううっ……今の、なに……?」

 顔を上げてずれたメガネをかけ直すと、目と鼻の先ほどの距離に星宮の顔があって、心臓が早鐘を打つ。

「う、わ……」

 今更気づいたけど、ヤバい。なんだこの体勢は。

 コケて倒れ込んだとはいえ、こんなの……まるで僕が星宮を組み敷いているみたいじゃないか……!

「怜……?」

 目を閉じていたはずの星宮がうっすらとまぶたを開けたのに気づいて、僕はギクッとして全身を強張らせた。

「いや、あの、これは……」

 この状況をどう弁解しようか。

 冷や汗をかきながらしどろもどろになっている僕に向かって、星宮が「ふふっ」とかすかな笑い声を上げて目を細めた。

「怜、俺とキスしたかったんでしょ?」

 瞬間、ものすごい速さで飛んできた弾丸によって、心臓を撃ち抜かれたような衝撃が僕に走った。

 体温が一気に急上昇して、全身が熱さで火照ってクラクラする。

 星宮に伝えたいことがあるのに、言い訳も弁明も出てこない。

 それどころか僕は、熱に浮かされたように、ただ口をぱくぱくさせることしかできない。

「はっ……、はあっ……!」

 なんとか熱が引いて、声を振り絞れるようになった頃には、星宮はスースーと気持ちよさそうに寝息を立てていて。僕は拍子抜けしてしまった。

 さっきの星宮は、ただ寝ぼけていただけだったのかな……?

 うん、きっとそうだよね。と自分に言い聞かせていながらも、僕はふと気づいてしまった。

 ――『俺とキスしたかったんでしょ?』と星宮に聞かれて、まったく嫌じゃなかったこと。

 ――むしろ、『星宮とキスをしたい』なんて思ってしまったこと。

 『もしかして月森、好きな人でもできた?』

 学園祭の準備で買い出しに行ったあの日、五十嵐にされた質問が頭の中によみがえる。

 ――僕、星宮のことが好きだ。

 人付き合いが苦手なはずの自分にも、こんな気持ちが芽生えるだなんて思ってもみなかったけど。

 あいつの行動や言動に心臓がドキドキうるさくなったり、顔が火照るほど熱くなったり。

 姿が見えないだけで寂しくなったり、五十嵐と行動しているところを見ただけで、胸の奥が痛んで嫉妬したり。

 そして何よりも、星宮と二人で一緒にいる時間が、いつまでも続いて欲しいと願っている自分がいたり――……。

 星宮と接するようになってから、決して自分では制御できない体の状態や感情に振り回されてきたその理由が今ならわかる。

 ――僕が、星宮に恋をしているからだ。

 自分のこの気持ちの名前にはっきり気づいたその瞬間。

 体の奥から熱いなにかがほとばしって――、同時にものすごい不安がこみ上げてきた。

 星宮が好き。いつも一緒にいたい、キスしたい、あいつの中の一番になりたい。

 この身勝手で一方的で身のほど知らずな気持ちを自覚した今。

 僕は今後も今までどおり、あいつに接することが出来るんだろうか?

 でも――もし、いつかどこかでこの恋を星宮に気づかれてしまったら?

 それで、僕たちの関係が転がり落ちるように、悪い方向に変わってしまったら?

 そしたら僕は、一体どうすればいいんだろう……?


   ◇ ◆ ◇


「れーい。早く起きてー。遅刻しちゃうよー」

 翌朝目を覚ますと、すでに身支度を整えていた星宮が、僕のことを見下ろしていた。

 昨日の夜、思わず彼を組み敷いたみたいな体勢のことを思い出してドキッとしてしまう。

「えっ……、あ……お、おはよう……」

「おはよ。今日も一緒に準備頑張ろうね」

 視線を泳がせる僕に対して、星宮はいつものように満面の笑みを浮かべる。

 ……ヤバい。心臓の動悸が激しくなってきた。

 まるで、時限爆弾のスイッチが入って、カウントダウンが始まってしまったかのようだ。

 どうしよう? どうすればいい?

 ただでさえもたない心臓が、今にも爆発してしまいそう――……。

「あ、うん……」

 僕ははじめて星宮と会ったときのように、よそよそしくサッと視線をそらしてしまった。

「怜……? どうかした……?」

「なんでもない、行こう……」

 僕はベッドから起き上がると、素早く身支度を整える。

 それから、「待ってよ!」と声を上げる星宮を振り返ることなく、そそくさと部屋を出た。
 あっという間に学園祭当日がやってきた。


 お昼のかきいれ時。

 僕はモノトーンのウェイター衣装に身を包み、喫茶店を模した教室でホールを担当していた。

「お待たせいたしました。こちら、クリームソーダとパンケーキ、それからフルーツサンドでございます」

 注文されたメニューを運んで、指定のテーブルの上並べていく。

 すると、そのテーブルの周りを囲んでいた他校の制服を着た女子3人組が、たちまち目を輝かせ、「キャーッ! かわいい!」と黄色い声を上げて騒ぎ出した。

「すごーい! めっちゃ本格的!」

「このフルーツサンドの断面、いいよね! パンケーキもおいしそう!」

「あの、注文したものの写真を撮ってもいいですか?」

「どうぞ」

 聞かれて、できるだけにこやかに応対すると、女子3人組から「ありがとうございまーす!」とお礼を言われた。

「ねえ、早く撮ろうよ!」と和気あいあいとしながら、自分たちが注文したものをスマホでパシャパシャ撮影し始める彼女たちを眺めて、僕は「ふう」と小さなため息をつく。

 ふと思ったことだけど。以前の僕なら絶対に、笑顔で接客なんてできなかっただろうな。

 たぶん、ガチガチに緊張して、かえって不愛想な態度を取っていたのかもしれない。

 ――でも、こうやって初対面の人に(おく)さず接することができるようになったのは、やっぱりいつも僕にかまってくれたあいつのおかげなんだろうな……。

 同じ教室の中にいるのに。やたらと遠くに見えるプラチナブロンドの髪を目にしたとたん、胸の奥がしくしくと痛んだ。


   ◇ ◆ ◇


 僕が星宮への恋心を自覚してからというものの、まだ数日しか経っていないというのに。

 関係はかなり気まずく、ぎくしゃくしたものに変わっていた。

 一応軽い挨拶ぐらいは交わすこともあるけれど、かつてのように他愛(たわい)のないおしゃべりをすることはなくなった。

 こうなってくると、僕の気持ちが星宮にバレてもバレなくても、どのみち関係の悪化はまぬがれなかったのかもしれない。

 でも、僕は『こんなことになるのなら、星宮に気持ちを伝えておけばよかった』とは思わなかった。

『世の中には知らなくてもいいことがたくさんある』という言葉が存在するぐらいだ。

 僕の気持ちを伝えたところで、星宮を困らせてしまう結果になるのなら。最初から何も伝えない方がいいに決まってる。

 心の中でそう思いながらも、僕の視線は同じホールのシフトに入って、せかせかと動き回っている星宮を追っている。

 でも、それは僕一人に限ったわけではなく、
 
「ヤバい。あの派手髪のウェイターの男の子、めっちゃイケメン!」

「七緒くん、こっち来てーっ! あたしたちと一緒に写真撮ろー」

 同校他校問わず目をハートにした女子たちが、星宮に熱い眼差しを送ったり、自分たちのテーブルの接客や記念撮影をせがんでいる。

 星宮のやつ、やっぱり女子のいなし方が下手だな。

 嫌ならはっきり断ればいいのに。

「もーっ、俺は忙しいから後でね」と作り笑いを浮かべているだけで、全然あしらいになってない。

 僕も僕で、さりげなく助けに行けばいいのに。

 あいつの表情に困惑の色が含まれているのにも、つるんとした陶磁器のような白い頬に、透き通った汗がつーっと伝っていくのにも、すぐに気づいたぐらいなのだから。

 でも、足が床に縫い付けられたように動かない。

 それどころか、積極的にあいつに関わろうとする女子たちの度胸を羨ましく思ってしまう。

 結局どうすることもできなくて、置物のように立ち尽くしていると、

「えっ? 月森くんだよね……?」

 ふと、確かめるような声が聞こえた。

 誰? 知り合い?

 僕の名前を呼んだのと、前にどこかで聞いた覚えがある声のような気がして顔を向けると、

「あっ! やっぱり月森くんだ‼」

「水野さん⁉」

 会うのは例の合コン以来だから、だいたい2ヶ月ぶりだろうか。

 僕の目の前に立つ水野さんが、「やっほー! 元気にしてた?」と満面の笑顔で手を振ってきた。

 しかも、あのとき水野さんと一緒に参加した女子メンバーも全員揃っていて、「久しぶりー」「今、仕事中?」などと口々に僕に話しかけてくる。

「その格好ってウェイターだよね? 月森くんにすっごく似合ってる!」

 再会して早々、水野さんは嬉々(きき)としてはしゃいでいた。

 興奮する彼女についていけない僕は、「あ、ああ……。どうもありがとう……」とたじたじとしながらお礼を言った。

「やっぱメガネ男子って、こういうきっちりかっちりした服が似合うよね~。あっ、そうだ! 一緒に写真撮ろうよ!」

「えっ?」

 この流れで突然誘われて面食らったものの、すぐに今はホールの仕事中なのを思い出して戸惑った。

 どうしようか……と僕が悩んでいる間にも、水野さんはとっくにスマホのカメラアプリを起動していた。

 画面には水野さんの顔と、顔の縦半分が見切れた僕が映り込んでいる。

 え? いきなり? しかも、ツーショット⁉

「月森くん、もっとこっちに寄って」

「あ……。ああ、うん……」

 突然のことにまごついていると、水野さんにガシッと腕をつかまれた。

 瞬間、ぐいっと力ずくで横向きに引っ張られた。

 すると、さっきのスマホの画面に、肩がぶつかるほど急接近した僕と水野さんがフレームに収まった。

「はい、撮るよーっ!」

 元気よく合図を出した水野さんが、写真を撮ろうとしたその瞬間。

 僕と彼女の間に何かがずいっと割り込んだ。

 直後、カシャッというシャッター音がして、真ん中に星宮をはさんだ水野さんと僕というスリーショットが撮れる。

 ……って、星宮⁉ いつの間に……⁉

「あれー? 星宮くんが写ってる。……って、いつからいたの⁉」

「今さっき」

 しれっと僕たちの間に割り込んでいた星宮が、目をぱちくりさせる水野さんの質問に答えた。

 続けざまに、「邪魔しちゃってごめんねー。でも、俺も仲間に入れて欲しくってさー」と、手を合わせて彼女に謝っているけれど。

 どこか心にも思ってない、平べったい声のトーンからして、申し訳なさがまったく伝わってこない。

 水野さんは気にしていないのか、「そうなんだー」と軽く流していたから別にいいんだけど……。

 星宮のやつ……、なんで僕と水野さんを邪魔しに来たんだろう?
 
 突然疑問を抱くものの、居心地が悪くなってきたこのタイミングで、ラッキーなことに客らしき男女のカップルが教室に入ってきたので、僕はそそくさと二人から離れた。

「あっ! 待ってよ、月森くん! どこ行くの?」

 水野さんの声が僕を引き止めてくる。それに後ろ髪を引かれそうになったけど、星宮が彼女の近くにいることを思いだして、

「仕事……。注文取ってくる」

 僕はぼそっと呟くようにそう告げて、教室の出入り口の方へと急いで向かった。


  ◇ ◆ ◇


 ――数時間後。

 やっとお昼のピークとシフトから解放された僕は、男子寮の廊下をふらふらと歩いていた。

 ほかのクラスの出し物を見に行きたいとは思ってはいたけれど。

 今は心身共に疲れ切っているせいで、まったくと言っていいほどその気になれない。

 閉め切られた廊下の窓の向こうから、目が眩みそうなほど真夏の太陽の光が差し込んでいる。

 それと共に、はしゃぎ声や笑い声が束になって聞こえてきた。

 ガラス1枚隔たった向こう側は、あんなに明るくて賑やかなのに。

 僕がいるこの場所だけが水の底にいるかのように、ひっそりと静かで、暗くて。

 まるでたった一人だけ、違う世界に切り離されたみたいだった。

 早いとこ、部屋に戻ろう。

 ベッドの上で眠りにつけば、疲れた体を休めるし、僕にすり寄ってくるこの孤独感も少しは和らぐかもしれない。

 ほんの少し歩くスピードを速めたちょうどそのとき。

「怜、待って!」

 人気のないこの場所に、僕を呼び止める声が耳に飛び込んできた。

 立ち止まって振り向くと、焦った顔をした星宮が、こっちに向かってダッシュで近寄ってくる。

 今の今まで相当走り回っていたんだろう。

 星宮は僕の目の前で立ち止まるなりひざを抱えると、肩を上下させながら、「ぜーっ、はーっ」と荒い息づかいをした。

「だ、大丈夫……?」

 僕は心配でたまらなくなって、星宮の具合を確認しようと顔を覗き込もうとした。

 ……でも、どういうわけか。自然と足が一歩後ずさりしてしまう。

 星宮はこんなにヘトヘトになってまで、僕を探しに来てくれたのに。

 好きな人とまっすぐに向き合えない。それどころか、逃げ出そうとしてしまう自分自身が情けなくて嫌になる。

「大丈夫な、わけないだろ……」

 足元に視線を落したまま呼吸を整えていた星宮が、明確な怒りをたたえた低い声を放つなり、顔を上げて僕を睨んだ。

 いつか見た真顔よりもぞっとするほどの、すごみのある真剣な表情と鋭い眼光に、僕は今度こそ射止められように身動きできなくなってしまう。

「だって、怜ってば。急に俺のこと避けるし、話もすぐに切り上げるし……。最初の、あんまり仲が良くなかったときよりもずっと、関係悪くなってんじゃん」

「…………っ」

「俺、なにかした? もしかして、水野さんとのツーショットを邪魔しちゃった件で怒ってる?」

「…………」

「……ねえ、怜。なにか言ってよ」

「…………」

「怜……っ! もう無視すんなよ……、ほんとっ……。ってか、マジでいい加減にしろっ‼」

 空気がびりびりと音を立てて振動するほどの金切り声にも似た星宮の怒鳴り声に、自分の中で限界に達した何かが、ぷつりと音を立てて切れる。

 こっちこそ、そのセリフをそっくりそのまま返してやりたい。

 僕だって、星宮を怒らせるつもりでだんまりを決め込んでいるわけじゃない。

 君のことが『好きだ』と気づいて。でも、いつも通りの接し方ができなくなってしまったから。

 しばらくほっといて一人にして欲しいだけなのに……。

 ――でも、もう限界だ。

 これ以上、僕から星宮へ向いたこの気持ちを、黙って隠し通すなんてできない。

 星宮に嫌われてもいい。これ以上関係が悪化してもそれでいい。

 どうせ、僕があいつの恋人になるなんて、かないっこない願いなんだから。

 僕はぐっと顔をしかめると、星宮の肩をつかんで、壁際まで追い込んだ。

 ドンッと壁に片手をついて逃げ場をなくし、もう片方の肩をつかんでいた手で、星宮の顎先を指でつまみ上げる。

 そして、このままキスに持ち込もうとしたその寸前で――、

「れい……?」

 ふと聞こえてきた震える声に、僕はハッと我に返った。

 視線の先にいる星宮が、大きな目を更に大きく見開いて、まばたき一つすることなく、僕のことを凝視している。

 怯えているのだろうか。表情がいつもより強張っていて、かわいた唇が小刻みに震えている。

 僕は星宮の顎にふれる手をおろした。

 ――最悪だ。

 僕は今、星宮に何を仕出かそうとしてしまったんだろう……。

 未遂だったとはいえ、感情に任せて勢いでひどいことを仕出かしてしまったのには変わりない。
 
 波のように押し寄せる自責と後悔の念に駆られて、僕は星宮に背中を向けた。

 もう、星宮に顔向けできない。

 それぐらい、あいつに対して申し訳ない気持ちと、この場にいたたまれない気持ちでいっぱいになっていく。

「気持ち悪いだろ……」

「え……?」

「僕、君とこういうことがしたいと思ってたんだよ」

「それって……、どういうこと……?」

「星宮とキスがしたい」

「…………っ‼」

「そういうことができる関係……つまり、君の恋人になりたかった」

「…………」

 隠していた気持ちを吐露(とろ)したあと、星宮が静かに押し黙る気配がした。

 きっと、星宮は動揺してしまっているのだろう。

 無理もない。

 大勢の中のうちの一人の友達に、『キスしたい』『恋人になりたい』なんて告白されて、戸惑わないわけがないのだから。

 頭の中ではわかっていたのに、自分の身に降りかかる現実は想像以上にたえられなかった。

 永遠のよう続く沈黙に、今にも押しつぶされてしまいそう。

「さっきはひどいことしてごめん。……でも、僕の話を聞いてくれて、本当にありがとう」

 僕は星宮に背中を向けたまま、涙の交じった声でなんとか謝罪とお礼を伝えると、この恋を自分から手放して、全速力で廊下を走り出した。