翌週の水曜日は開校記念日だった。休校なのは最高の契機だと思い決心し、カバンに財布と携帯電話を入れて家を出る。

 電車に乗って二十分ほど下り方面にゆき、隣のさらに隣町の駅を降りる。繰り返し深呼吸をして気持ちを落ち着かせたけれど、胸の鼓動は収まる気配がまるでない。

 駅を降りるとロータリーから放射状に伸びる道がまず、目に入った。深秋の乾いた風が道沿いに植えられたポプラ並木の葉をかき乱す。駅前の地図を見ながら目的の場所に続く道を確かめ、意を決してその方向に足を進めてゆく。期待する気持ちと、不安な気持ちが互い違いに押し寄せてきて、ふと足を止めたり、また歩いたりの繰り返しだった。

 木々の間を縫う細い街道をしばらく歩くと、迷うことなく目的地にたどり着くことができた。もしも迷ったら、多分、おじけづいて引き返してしまっただろう。学校の銘板を見上げて再度確認する。

『光陽特別支援学校』

 敷地内の古びた校舎を遠目に眺める。僕の中学校で歌を披露したあの女の子は、今、ここに在籍しているはずだ。僕はどうしても彼女に会いたくて、この学校を訪れてしまった。

 合唱祭で彼女の歌声を聴いて以来、いずれ消えると思っていた胸の疼きは、むしろしだいに明瞭になっていった。夜、眠ろうとしてまぶたを閉じると、いやおうなしに彼女の姿が脳裏に浮かび上がり、歌い声が甦る。僕はいよいよ病気の範疇かと覚悟したくらいだ。

 視覚障害のせいで暗闇の世界に住んでいるはずの彼女は、僕よりもはるかに眩い現実を生きているように思えてならなかった。

 あのとき、僕は彼女の歌の中に僕を呼ぶ声を聞いたのだ。ほんとうに呼ばれているのかは定かではなかったけれど、僕だけは確かにそう感じていた。

 彼女たちの壮観な合唱はクラスでも話題になっていたので、その奇妙な感覚について尋ねたのだけれど、クラスメートの反応は「俺たち受験を控えた中三だろ? そういうことは去年のうちに言ってくれ」と容赦なく冷ややかだった。

 僕は開門された入口のそばで、参考書を開いて読みながら待っていたが、当然、参考書の中身が頭に入るはずもなく、打ちつける胸の早鐘ばかりが気になっていた。

 いよいよ息苦しくなり、敷地内をのぞいては入り口から離れ、また戻ってくる。人目があれば、僕はきわめて挙動不審な学生に見えただろう。

 小一時間ほど経った頃、車が立て続けに敷地内に入っていった。迎えがきたようで生徒たちも校舎から姿を現す。

 さまざまな年代の生徒がいて、私服、紺色、それに臙脂色のブレザーの集団があった。下調べの情報によると、同じ敷地内に小学校から高等学校までがそろっているらしい。

 紺色ブレザーの生徒が数人、校舎から姿を現した。白杖を手にしていて、互いに指先を触れ合わせ別れの挨拶をする。手を振るのと同じ意味なのだろう。指導員が付き添って迎えの家族に生徒を受け渡す。

 乗り入れた車は校庭の青空駐車場に停まり運転手が降りてくる。生徒の母親のようで、いずれも中年の女性だった。生徒に歩み寄って声をかけ手を取る。

 目を凝らすと、車に戻る生徒の中に、赤みのかかったくせっ毛の女の子の姿があった。僕の心臓が跳ね上がる。

 ふと今になって、どうすれば話すきっかけが作れるのか、考えていないことに気がついた。僕は女の子の名前すら知らなかったのだ。

 でも、この機を逃すわけにはいかない。行動あるのみだと思い、意を決して校門を足早にくぐり抜ける。青空駐車場へ向かい、車の陰に隠れて彼女を待ち構えるつもりだ。

 ところが敷地に入った瞬間、いきなり背後から襟首をつかまれた。驚き振り向くと、頑健な風体の警備員が僕をにらみつけている。

「さっきからうろついていただろう。なにをするつもりだ!」

 僕を串刺しにする視線に背筋が凍りついた。いままで気配すら感じなかったのに。校門の裏に隠れて見張っていたということか。

 警備員は僕の腕をつかみ、背中に回し捻りあげる。肩に激しい痛みが走った。

「すっ、すいません、怪しい者じゃないんですっ!」

「怪しくないわけないだろうが! どうせまた、嫌がらせをしにきたのだろう!」

 警備員の言い方からすれば、障害者が通う学校、あるいは障害者に対しての嫌がらせが日常茶飯事のようだった。けれど、濡れ衣を着せられた僕は自分がここにいる理由をうまく説明できるはずがない。

「どこの学校の生徒だ、警察に突きだしてやるからな!」

「僕はッ! 嫌がらせにきたんじゃありません!」

 僕と警備員がもみ合っている姿に危険を感じたのか、生徒たちは手早く迎えの車に乗せられていた。あの女の子もそうだった。

 警備員は僕が嫌がらせの犯人だと思い込んでいるのか、容赦なく腕に力を込める。肩と肘があらぬ方向に曲げられ、悲鳴をあげそうになった。

 そのとき、僕はあの日聴いた歌のなかのメッセージを思いだした。

 ――この歌声、あなたに届いて。京本和也くん!

 そうだ、僕は彼女に呼ばれたんだ。だからこうして会いにきている。もしも僕の抱いた不思議な感覚が錯覚でなければ、彼女は僕に気づいてくれるはずだ。

 彼女の乗っている車に向けて力の限り叫ぶ。

「僕はッ……京本和也です! きみの歌を聴いて会いに来ました!」

 あたりの視線が僕に集中する。明らかに不審者を見る目だ。

 けれど、あのくせっ毛の女の子だけは驚いたような顔を車窓からのぞかせていた。僕に向かって――いや、正確には声のしたほうに向かって返事を発する。

「和也くん……? ほんとうに和也くんなのっ!」

 その反応に、僕は心底驚かされた。彼女がまるで僕と旧知の仲のような反応をしたからだ。警備員はなんらかの事情があると察したのか、ようやっと腕の力を緩めた。

 僕は警備員の腕を振りほどき、無我夢中でその女の子に駆け寄る。車窓越しに彼女と向かい合う。

 彼女は僕の存在を確かめるように手を伸ばしてきた。僕はその手をしっかりと握りしめる。彼女も力強く握り返した。

「あのっ――!」

 でも、その先の言葉が出てこなかった。なにをどう話せば良いのか、自分自身でも混乱していた。彼女はまぶたを閉じたままで、けれど感極まって震える吐息をこぼした。

「和也くん、まさか会いに来てくれるなんて……」

「ごめん……いきなり押しかけて」

「ううん、嬉しいよ」

 彼女の言葉に疑問を抱きつつも、僕自身が既視感に襲われていた。初対面の相手に対して推し量るような慎重さが、彼女にはまるでなかったからだ。気心知れた相手のような抵抗のなさだった。

 隣では彼女のお母さんが僕の顔を指さして、あっけにとられた顔をしていた。でも、どうしてそんな顔をするのか、僕には理由がさっぱりわからない。

 僕は彼女のお母さんから放たれたひとことに面食らうことになった。

「あーっ、ほんとうに京本さんちの和也くんなのね! 懐かしいわ。おっきくなったわねー!」