なんて歌声なんだ!

 皆で歌っているとき、彼女は声量を相当、加減していたに違いない。ソリストとなった彼女の歌声は伸びやかに、なににも縛られることなくステージを舞い上がる。

 ――con te io li rivivr?(あなたとともにまた生きて)

 ――con te partir?(あなたとともに旅立とう)

 圧倒的に説得力のある歌声に、僕の胸中の琴線は、これでもかというくらいにかき乱される。

 抗うことのできない濁流のようなその感覚は、恍惚でありながら僕自身を容赦なく打ちのめす苦痛でもあった。

 届くはずもないのに、僕は舞台の上の彼女に向けて胸の内を吐露する。

 どうしてなんだよ。

 僕は胸を燻らせながらもなにもできないでいるっていうのに。

 どうして不自由を抱えるきみは、そんなにも迷いなく自分を表現できるんだ。

 混迷の泥沼に引きずり込まれそうになったとき、僕は突然、奇妙な感覚に襲われた。

 舞台の上で歌う女の子から発せられる声が光の帯になり、まるで僕の心臓を捉えるかのように、胸に絡みついてくる。全身に電気が走り、思考が麻痺するような衝撃を受けた。

 まるで彼女と僕だけしか存在しない、音の世界に迷い込んだような錯覚に陥る。さらに純度を高めてゆく彼女の歌声が、僕の胸をやさしく締め上げる。

 舞台の上で歌い続ける彼女は、やわらかに微笑んで両手を広げた。まぶたを閉じているのに、僕のすべてを見透かしているようにも思えたし、僕を彼女の世界に招き入れているようにも感じられた。その表情は優雅で寛容で、神々しいとさえ思えた。

 僕はふいに、彼女の想いのようなものを歌の中から感じ取った。言葉では言い表せないが、そのメッセージはビブラートのゆらぎを縫うように、確かに存在していた。

 ――届いて。

 ――あなたに届いて。

 ――この歌声、あなたに届いて。京本和也くん(・・・・・・)

 僕の胸が早鐘を打つ。

 どういうことなんだ?

 理解が追いつかないけれど、彼女の歌の中には、僕に対する彼女の願いが込められていた。そうとしか思えないほど、僕の中に明瞭な彼女のインスピレーションが湧いたのだ。

 はっとなって我を取り戻したのは、生徒たちが舞台に向かって浴びせる、割れんばかりの拍手のせいだった。気づかぬ間に、彼女の独唱はアウトロを抜けていたのだ。

 彼女が歌う間、僕は焦燥と、陶酔と、困惑をいっぺんに抱え、時間の感覚が狂うほどに歌声に魅了されていた。

 なんなんだ!

 いったい、彼女は僕になにを伝えようとしたんだ!

 ひどく動揺する僕とは裏腹に、舞台上の生徒たちは、さも満足げに聴衆に向かってお辞儀をしている。

 壇上の生徒たちは慎重に舞台の上に広がり、等間隔で二列に並んだ。指導員が見守っているようだが、皆、体が覚えているようで、おおむね正確な間隔で並んでいた。

 次の曲の伴奏が流れだす。舞台上の生徒たちは皆、右手でピースサインを作り顔の前にかざし、左手を腰にあててポーズをとる。

 すぐさま会場が色めき立った。最初の曲とはうって変わって、誰もが知る流行りの女子アイドルグループの歌。

 特別支援学校の学生たちは曲に合わせてステージ上で踊りながら歌い始めた。皆、ぴったりと息が合っていて、キレのあるダンスと可愛らしい歌声に会場全体が引き込まれる。羨望や感嘆を含むざわめきが起き、本校の生徒たちは曲に合わせて手拍子をし始めた。会場は一体となり、誰もが予想しなかった盛り上がりを見せている。

 この会場はもう、彼女たちの独壇場になっていて、もはや合唱祭の場ではなくなっていた。

 けれど僕はその雰囲気に乗じることができず、ただ、まぶたを閉じたまま舞台上で踊る女の子のことを呆然と見ている。

 不自由を抱えながらも舞台上で輝く生徒たちと、存在意義すらおぼろげな僕自身を比べ、あたりまえに生きることが罪を犯すことと同義のように思えた。

 あの女の子の歌声を聴いたときに抱いた感覚は、僕だけのものなのだろうか。拭えない疑問を抱えてあたりを見回すが、僕のように困惑している生徒は皆無だった。

 彼女たちはさらに二曲、合計四曲の歌を歌いきった。一曲は人気の男子ユニットの歌で、ドラマの主題歌にもなっている軽妙なポップソングだった。会場の熱気はさらに上昇し、声を合わせて歌いだす生徒もいたからもはやカオスだ。

 最後は一昔前のしっとりとしたバラードの曲で、巧みな男女混成の合唱は郷愁を誘うような切なさがあった。生徒たちはそれまでの盛り上がりが嘘だったかのようにしんみりとし、なかには感極まって涙をこぼす生徒もいた。

 波が引いてゆくように、バラードは静かな終焉を迎えた。

 文句ない拍手喝采の中、特別支援学校の生徒たちは最後、一列に並んで互いに手を取り、リーダーの女の子の挨拶でいっせいに頭を垂れた。
 
「皆さん、本日はわたしたちの歌をお聴きくださり、ありがとうございました」

 僕は舞台の上をぼんやりと眺めながら、ただ、止まらない胸の疼きに困惑するしかなかった。