高円寺さんが憔悴していることにやっと気づいた。僕はわずかに残された正常な思考の片隅で、千里の足取りをなんとなく察していた。

「でも、千里は一度、僕の家がある駅に降りていたはずなんだ」

「えっ、そうなの?」 

「家には来なかったけれど、駅員さんがそれらしい人を見たって言っていたから。だから帰りの途中、電車の中で気を失ったんだと思う」

「それならいったい、なんのために……」

「わからない……ぜんぜん、わからないよ……」

 僕の心情はまさに自分で吐いた言葉の通りだった。千里がなにを考えているのかわからない。千里と再会したことがほんとうに良かったのかわからない。そしてなにより――こんな僕に存在価値があるのか、まるでわからなかった。

 ただ、僕は願うことしかできないでいる。

 千里が命を繋ぎ止め、もう一度笑顔を取り戻すことを。
 
 

 それから数日して、おばさんから直接、僕あてに電話があった。おばさんは涙ながらにこう言った。

「和也くん、千里はもう、退院できそうもないの。だからどうか、千里のことを引きずらないで、自分の人生を大切にしてね……」

 まるで念押しをしているみたいだった。僕はただ、はいそうですか、おばさんも無理しないでくださいと返事をし、自分から電話を切った。

 千里は今、痛かったり苦しかったり、病気と闘っているはずなのに、僕は僕を押し潰そうとする十字架の重さに耐えるだけでせいいっぱいだった。

 けれど、高円寺さんと葉山からのメールは容赦なく毎日届いた。『今日の千里ちゃんは具合がいいから一緒に散歩したよ』とか、『今日の千里たんはおやつのプリンを口にしてくれたぞ』とか。僕はそのメールを無視し続けた。

 罪を犯した人間が人生に投げやりになる気持ちはよくわかった。時間が経てば経つほど彼らが僕のことを怒っているんじゃないかと疑心暗鬼になり、いつまでたっても学校に行けずにいた。

 もう、千里にまつわる記憶をすべて消してほしいとさえ思ったくらいだ。

 そんなある日、葉山からこんなメールが届いた。

『千里たん、今は落ち着いているから、ちょっとだけ外泊できるらしい。今度の日曜日、絶対に行ってみたいところがあるんだってさ』

 行きたい場所がどこを指すのか気になったけれど、わざと引っかかるような言い方をしたのは僕を誘いだす手口に違いない――と、やり過ごすにはそう思うしかなかった。

 それ以来ふたりからの連絡はなく、日曜日がやってきた。



 その日の朝、葉山は予告なく僕の家に現れた。

 応対せず門前払いにしようとしたけれど、母さんが「そうもいかなそうよ」と言うからしかたなく顔だけは見ることにした。葉山が食い下がったらしい。

 部屋に案内された葉山は、布団に身を隠す僕を見るやいなや憤激して問い詰めてくる。

「おい、京本、何度連絡をしても返事しないってどういうことだ!」

 うんざりだと思い頭を隠して答える。

「……放っておいてくれよ。どうせ僕はろくでなしの役立たずだよ」

 葉山は布団を強引にはぎとり、僕の胸ぐらをがっしりとつかんだ。ひたいが触れるほどに顔を寄せて声を張りあげる。

「おまえなぁ、自分が千里たんにとってどういう存在だかわかっているのかよ!」

「……まあ、死神かもしれないな。千里は僕に会わないほうが良かったんだよ。たぶん、ずっと昔からさ」

「なに言っているんだ! せめて今日は千里たんに会ってやれよ。俺はおまえを連れだすためにここにきたんだからな」

「……葉山、おまえもいい加減気を利かせてさ、千里を家族と一緒に過ごさせてあげなよ。この期に及んで僕らがいたって、どうせ邪魔なだけだよ」

 葉山は瞳に熱を(たぎ)らせ、つかんだ胸ぐらを激しく揺さぶる。

「おい、おまえと千里たんの間には、誰も立ち入れないような絶対的な世界があるんだろ。だから千里たんを元気にしてやれるのは、おまえ以外の誰でもねえんだよ!」

 あまりの必死な訴えにのっそりと顔を上げると、哀願ともとれる痛々しい葉山の表情が目に映った。

「京本……これは俺の後生の頼みだッ! おまえじゃなきゃだめだってこと、わかってくれ」

「でも僕は千里に嫌われたんだ。千里が会うって言うはずないよ……」

「いや、千里たんは有紗が説得するはずだ。ここで千里たんと会わなかったら、おまえも千里たんも取り返せない後悔を背負うことになるんだぞ。だから俺は、俺は……」 

 葉山は柄にもなく声を詰まらせ瞳を潤ませている。葉山がぎゅっとまぶたを閉じると、その頬をひとすじの雫が伝った。僕は正直、葉山の涙に面食らった。

「なんでおまえが泣くんだよ……」

 葉山は腕でごしごしと目をこすって涙をふき取る。その腕で拳を作って僕の目の前に突きだした。

「馬鹿野郎! これが泣かずにいられるかよ。おまえは千里たんと会うか、この場で俺に殴り殺されるか、今すぐどっちかを選べ!」

 その気迫は恐ろしいものだった。断ったらほんとうにやられかねない雰囲気だ。

 けれど、なりふり構わず僕を説得する葉山の姿はやけに男らしく見えた。そこまで自分をさらけ出して言ってくれるやつなんて、滅多にいるものじゃない。つくづくいい友達を持ったなと思う。

 思い返せば僕らに繋がりができたのは千里のおかげだった。

 今度はそのふたりが僕と千里を繋げてくれようとしているのだ。そんなふたりの熱意に、胸の中にぽっと灯りが点いた気がした。

 そうだ、もしも僕たちの繋がりが、絆が、友情が確かなものならば。

 高円寺さんは必ず、千里を連れてくる。

「……わかったよ」

 僕は決心を固めて立ち上がる。葉山はぱあっと表情を眩しくして、僕の両肩を力強くつかんだ。