僕はひと思いに頭を下げ、逃げるように病室を飛びだしていった。

 千里に拒絶された僕は、いったいどうすればいいのかわからず途方に暮れて、さまようように帰路につく。

 家にたどり着くまでの間、なにも考えることができず記憶がおぼろだった。

 黙って玄関を開けると、意外なことに母さんが腕を組んで待ち構えていた。憮然とした表情だったから、ひどく嫌な予感がする。

「和也、こっちに来なさい」

 母さんは重々しく口を開き、来客用の和室を指さす。ちいさい頃、怒られるならここ、という部屋だ。

 心当たりがあるとすれば、水曜日もアルバイトだと嘘をついていたこと、それから千里と会っているのを内緒にしていたことだ。

 でも、どんなに怒られても、言い返す気力はみじんもない。畳の上にじかに正座をし、母さんと向き合う。けれど目は合わせられなかった。

「和也……」

 母さんの声は震えていた。気の強い母さんのことだから、僕は一度や二度、引っぱたかれるのは覚悟している。歯を食いしばって身構えた。けれど母さんは僕にこうこぼす。

「ごめんね。千里ちゃんのこと、黙っていて……」

 はっとして顔を上げると、母さんは今にも泣きだしそうな顔をしていた。察するに、僕が千里と会っていることを知っていたようだ。

「高校に入学後、しばらくして楠さんから連絡があったのよ。和也が千里ちゃんに尽くしてくれているんだって、お礼を言われたの。ほんとうに、千里ちゃんに会いに行っていたのよね?」

 そうだったのか。母さんは僕の嘘を知りながら、あえて知らないふりをしてくれたのか。黙ってうなずくと、母さんはさらに続ける。声がひどく震えていた。

「千里ちゃん、可哀想よね。重い病気だって聞いたわよ。でも……」

 僕の手を取って強く握りしめた母さんは、瞳に涙をためていた。

 でもそれは、千里を思っての悲しみではなかった。母さんは嗚咽のような声を振り絞って僕に訴える。

「お願い、一緒に死のうなんて、絶対に思わないで。親は誰でも、自分の子にだけは不幸になってほしくないの。たとえどんなにずるいって思われても……」

 そう言って、はらはらと涙をこぼしながら崩れ落ちた。

 ああ、そうだったのか。僕の知らぬ間に裏でいろいろあったのか。

 千里は僕がまちがい(・・・・)を起こすのではないかと心配し、僕との間にあったことをおばさんに話した。そしておばさんを経由して母さんにも伝わってしまった、そういうことだろう。

 なんてことだ。なんてことをしてしまったんだ。病に苦しんでいる千里まで心配させてしまうなんて。

 そして僕は母さんに、おばさんと同じ悲しみを与えようとしていたのか。

 ひたいに手を当てて頭をもたげる。自分自身のふがいなさに心底、嫌悪感が込み上げてくる。

「グッ……ウッ……」

 どうして、悲しみって伝播していくんだろう。どうして、神様の意地悪なんかでみんなが苦しむのだろう。どうして――残されて生きなくちゃいけないのだろう。

 たまらず突っ伏して頭を床にこすりつけた。ぼたぼたと涙がこぼれて止まらない。

「母さん……ごめん……なさい……ッ! 僕は……僕はッ!」

 その夜、僕は重ねてきた罪の重さに押しつぶされながら、自分が自分でなくなるくらいに、ひたすら嗚咽をあげ続けた。



「なぁ京本、千里たんのお見舞いの後、いったいなにがあったんだよ」

「京本くん、まだ一日も学校に来ていないじゃない。下手をすると留年になっちゃうよ」

 土曜日の午後、葉山と高円寺さんは僕の家を訪れ、部屋を陣取って説得を繰り返していた。僕は布団に隠れたまま、ふたりの挙動をうかがう。

 新学期が始まって二週間、僕はいまだに学校にすら行けずにいた。ふたりはそんな僕を心配して、わざわざ足を運んでくれたらしい。

「せっかく千里たん、退院できたっていうのに。でも、千里たんまで『和也くんにはもう会えないよ』なんて言いだしちまっているからな」

「昨日、千里ちゃんの家におじゃましたんだけどね、おばさんは四人分のデザートを用意してくれたの。なんか申しわけなかったな……」

「有紗、ふたり分食べたくせに」

「ほらそこ、ひとこと多い!」

「俺は正直が取り柄なんだ。――でさあ、喧嘩なら仲直りしろよ」

「ほっといてくれよ。どうせ僕なんか千里の迷惑でしかないんだ……」

 布団の外で、あーあ、こりゃ重症だな、と葉山が呆れたような反応をしている。けれど、友達だからって千里と決裂した理由を言えるはずなんてない。僕はもう、千里とどんな顔をして会えばいいのかわからなかった。

 それでもあの屈託のない笑顔がまぶたの裏に焼きついている。千里の声も歌も、その残響がしっかりと耳の奥に残っていた。

 でも、僕は千里のそばにいられる権利なんかない。千里とふたりで過ごす水曜日は、僕にとってかけがえのない時間だった。その生きがいを失った僕は、ただのもぬけの殻でしかない。

 もう、自分に対する失望しかなかった。

 そのとき、高円寺さんのスマホがカバンの中で音楽を奏で始めた。布団の隙間から様子をうかがうと、高円寺さんはそれを取りだし画面に視線を落とした。

 とたん、表情がこわばり、目がおおきく見開かれる。

「千里ちゃんのお母さんからだ……」

 葉山も僕も息をひそめて耳を傾ける。高円寺さんは黒髪をかき上げて、スマホの受話口を耳に当てがう。

「はい、高円寺です」

 あわてふためいたような早口の声がもれてきた。ときどき、『千里』という単語が聞き取れたけれど、なんて言っているのかよくわからない。けれど聞いている高円寺さんの表情はどんどん青ざめてゆく。悪い予感しかしなかった。