そのとき、僕の胸中に薄気味悪い感覚が込み上げてきた。ぞわぞわと血管の中を虫が這いずって蝕むような、ひどくおぞましい感覚だ。

 この感覚を僕はよく知っている。千里の光を僕が奪ったのだと認識したときと同じだ。

 そう、僕は自分の中に、恐ろしい考えが浮かんだことに気づいてしまったのだ。

 それは残酷な現実の裏で僕を(あざけ)るような、まがまがしい期待(・・)だった。僕が想像してしまった不穏な異物の正体は、『もしも千里がいなくなれば、僕の罪も消えるという皮肉な因果(・・・・・・・・・・・・・・・)』だったのだ!

 ――もしかしたら僕は、一瞬でも千里が消えることを期待してしまったのか? 千里が死んだら十字架の荷重から解放されると、そんなことを考えてしまったのか?

 必死に頭を横に振り、浮かんだ邪念を打ち消そうとする。でも、どす黒いタールのように、その考えが脳裏にへばりついて剥がれない。

 ――嫌だ! そんな卑怯で、身勝手で、残酷なことを考えてしまうなんて! 

 胸の拍動が急激に加速する。しだいに頭から血の気が引き、視界が暗転する。自分への怒りと嫌悪感で吐き気を催し、胃が締め上げられるように痛んだ。

 その場で吐いた。何度も何度も吐いて、それでも収まらないエゴに対する忌避感が、僕の心身を侵してゆく。
 
「はぁっ、はぁっ……僕はッ、僕は――ッ!」

 ――千里がいなくなって、僕だけ罪を免れて生きるなんて、そんな自分を許せるはずがない。そんなふうにしてまで、生きていたくなんかない。僕は千里のために人生を投げ打つ覚悟をしたはずなんだ!

 ――con te io li rivivr?

 ――con te partir?

 ふと、合唱祭で千里の歌った歌の一節が心の中に流れた。同時にある思いが、泡のように心の奥底から沸き起こる。

 ――そうだ、この僕の決心を証明する方法が、たったひとつだけある。

 僕は決意した。まぎれもなく、人生最大の決断だ。

 ――千里。どうか、僕の願いを聞き入れてくれないだろうか。



 年が明け、冬休みも残り数日となった頃、おばさんから連絡が入った。

『もうしばらくで退院できるの。もしよかったら、お見舞いに来られるかしら』

 順調に回復しているようでとりあえずは安堵した。入院中、僕は千里に連絡を取ることはしなかったし、千里からも連絡は来なかった。正月を挟んでの入院だったのでお父さんがずっとそばにいたらしく、だから男子にお見舞いに来られるのは気まずかったのかもしれない。

 僕はあらためておばさんに尋ねたけれど、病状についてはまだ明かしていないという。だから病気のことは知らないふりをして、三人で会いに行くことにした。結託して病状を隠していることが、悪いことのように感じてしまう。



「みんな、久しぶり~。やっと会えたね」

 パジャマ姿の千里はベッド上で起き上がっていて、僕らが部屋に入ると同時に顔をほころばせた。足音で誰がきたのか、すでにわかっていたようだ。まだ点滴に繋がれていたけれど、ボトルは一本だけの軽装備だった。

「いよっ千里たん、だいぶ元気になったな。一時はどうなるかと思ったぜ」

「ほんとほんと。私もすごく心配したのよ」

「あはは、ごめーん。なんか、『胃潰瘍』で出血したらしくてさ。夏目漱石さんと同じ病気なんだってねー」

「あっ、そう、そうだったんだ。危なかったね、医学が進歩していてよかったぁ~」

 高円寺さんは千里に見えていないのに、おおげさに胸を撫でおろす仕草をする。薄い仮面を被ったような会話はまるで騙し合いのようで、聞いているだけで胸の奥がちくちくする。

 僕はふと、ベッドサイドのテーブルに携帯電話とボイスレコーダーが置いてあることに気づいた。

「千里、入院中に歌の練習をしていたの?」

「え、歌の練習って?」

「ボイスレコーダーがあるからさ」

「あっ、ああ――そうだね、するつもり、でっ、でもまだしてないよ!」

 千里はすこしだけしどろもどろになる。そこで葉山が歩み寄り、置かれたボイスレコーダーを手に取った。

「じゃあ、せっかくだから千里たんへの応援メッセージを吹き込んでおくか」

 そう言ってボタンを押そうとすると、千里はあわてて声をあげた。

「やめて、押さないでっ!」

 千里にしては珍しく、焦燥感を含んでいる声だった。葉山は驚いてすぐさまボイスレコーダーをテーブルに戻す。

「あっ、ああ、悪かったな、勝手にいじって」

 千里はボイスレコーダーを両手で握り、抱きしめるように胸元に収めた。

 葉山と高円寺さんは千里の様子に眉根を寄せた。けれど、僕にはその反応の意味がはっきりと理解できた。きっとこれも『エンパシー』っていうやつだ。胸がぎゅっと絞られるように苦しくなる。

 このボイスレコーダーは、千里に渡した日のままなのだろう。千里にとっては、僕らがなんの不安や怖れもなく、ただ純粋に笑っていられたあのときの会話が、なによりの宝物のはずだ。

 だから入院中、僕らが吹き込んだ声を懐かしむように聴いていたのだと思う。

 つまりボイスレコーダーを使わないでほしいというのは、宝物を消さないでほしい、ということなのだ。

 僕は空気を察して話題を逸らすことにした。

「千里、入院中は暇だろうと思って、本をたくさん持ってきたんだ。後で読んであげるよ」

「わぁ、嬉しいよぉ!」

 それからしばらく、他愛のない――正確に言えば、病状に触れない無難な、という意味の――話をしていたけれど、葉山と高円寺さんは長居せず切り上げることにしたようだ。

「じゃあ、俺らはそろそろおいとまするわ」

「えっ、もう帰っちゃうの? つまんな~い」