けれど、千里の洞察力は並ではない。わずかな空気の揺らぎすら捉えてしまう『エンパシー』が備わっている。
「いつも、読書の後に泣いていました。もう、時間がないことを悟っていたみたいでした」
「ほんとうに……?」
「はい」
僕は迷うことなく肯定する。
「だから僕は、隠しごとはせず、一緒に楽しんだり悲しんだりしたいです。入院中は暇でしょうし、千里が望めばいくらでも本を読んであげるつもりです」
皆の視線が僕に集まる。いまさら読書など、楽観的すぎると思われたのだろう。
でも、千里にとっては本の朗読を聴くときこそ、残酷な現実から逃れられる時間だと、僕はよくわかっていた。
けれどおばさんは困惑し、すがるように答える。
「だけど病状を伝えるのは、千里が自分から病気のことを知りたいと言いだすまで待ちたいと思うの。すこしでも懸念のない時間を延ばしてあげたいから。どうか、おねがい……」
「わかりました。もしもほんとうのことを伝えたら、僕らにも教えてください」
頭を下げて立ち上がりカバンを手にする。高円寺さんと葉山に目配せすると、ふたりも意図を理解したようで、すぐに手荷物をまとめた。早々に千里の家を後にする。
肩を震わせるおばさんの姿が、まぶたの裏に焼きついていた。きっとおばさんは、いままでの千里を思いだしながら、たくさん泣くのだろう。だから僕たちは、その場に居続けてはいけなかった。
とぼとぼと歩いていると、葉山は僕の肩に手を乗せて話しかけてきた。
「千里たんが回復したら、みんなでお見舞いに行こうな。京本、読む本をたくさん買ってこいよ」
「私も一緒にいく。早く千里ちゃんに会いたい。でも、京本くんとふたりだけの時間はちゃんと作ってあげるよ」
「悪いな、ふたりとも。僕も――早く会いたいよ」
つくづく千里は、みんなに大切にされてきたんだなと思う。
ただ、神様だけは――千里にひどく、意地悪だったみたいだ。
翌日、バイト先の本屋で棚の整理をしていると、店長の古本さんが無精髭を擦りながら僕に歩み寄ってきた。隣に並んで話しかけてくる。
「どうかしたのか、やけに表情が沈んでおるぞ」
「……わかりますか」
「ああ。わかりやすいからな」
僕は手を止め、古本さんに向き合う。勤務時間もおしまいなので、いつ言おうかと迷っていたことを、この場で切りだすことにした。
「あの……お願いがあります。しばらくバイトを休ませてほしいんです」
古本さんは銀縁眼鏡の奥から僕の顔をのぞき込む。定期試験とか旅行とか、そういった単純な理由ではないことは、僕の表情からすれば明白だったろう。
「ああ、構わんよ。だが、その後はここに来られるのかね」
「……わかりません」
「やはりな」
僕の迷いは古本さんにしっかりと伝わっていたようだ。
千里と会えるようになったら、できるだけそばにいてあげたい。
でも、その先、千里に本の物語を伝えられる未来があるのかどうか、僕にはわからない。
人は迷ったり行き詰まったとき、誰に、なにに手掛かりを求めるのだろうか。見上げると数多の本が並んでいる。僕は古本さんに尋ねた。
「古本さん、お聞きしたいんですが」
「なんだね、京本少年」
「あの……本を書く人って、どうして書きたいと思うんでしょうか」
古本さんは本棚をまじまじと見上げてこう語る。
「本とは、文字を運ぶ媒体にすぎない。
けれど、本は著者が抱いた思いを、ありのままの姿でとどめておくことができる。言葉という手段で。
だから本とは人生そのものの姿でもある。
そして本に書かれている物語は、人間の持つさまざまな感情を引きだし、自分がどんな存在であるかを知らしめてくれる、『心の鏡』でもある」
古本さんは最後に、それは俺の考えだがな、と言って鼻から息をもらした。
物語を朗読している間、千里は僕と同じように、世界を見ることのできる普通の女の子だった。僕と本の世界に飛び込み、知らない世界を旅し、同じ五感で情景を捉えていた。読んだ本の冊数だけ、僕らの人生は広がっていたのだ。
「あの……希望が持てるような物語の本を、たくさん買いたいんです。おすすめはどれですか」
尋ねると古本さんは本棚に視線を沿わせ、ところどころの本を手に取った。十冊ほど選んでカウンターに積み上げる。
「えっと……いくらですか」
「いらないよ。俺からの餞別だ。そのまま持っていけ」
そう言ってくれた古本さんはすこしだけ寂しそうだった。でも、それ以上はなにも聞かないでいてくれた。余計な詮索をしないことは、すごく優しいことなのだと切に感じる。
「ありがとうございます。この本、大切にします」
僕はただ感謝を伝え、古本屋を後にすることにした。最後に一度だけ振り返って、深々と頭を下げた。
その帰り、近くの公園に立ち寄って夜空を眺める。
千里のいない水曜日は孤独の荒野でしかない。僕はそこにたったひとり、取り残されるのだ。もう二度と触れることができなくなるのだ。千里の笑顔と歌声と――そして涙と。
千里の患った病気に思いを巡らせる。
かつて千里が目の病気を発症したとき、おばさんはどんな気持ちで手術を承諾したのだろうか。目が見えなくなっても、生きてさえいてくれればと、そう思ったのではないか。おおきな覚悟が必要だったのだろう。
だけど、別の病気で命を落とすことになるなんて。それは目が見えなくなるよりも重大なことだ。もしもそんなことになってしまったら――。
――僕が背負った罪の十字架は、いったいどうなってしまうのだろう。
「いつも、読書の後に泣いていました。もう、時間がないことを悟っていたみたいでした」
「ほんとうに……?」
「はい」
僕は迷うことなく肯定する。
「だから僕は、隠しごとはせず、一緒に楽しんだり悲しんだりしたいです。入院中は暇でしょうし、千里が望めばいくらでも本を読んであげるつもりです」
皆の視線が僕に集まる。いまさら読書など、楽観的すぎると思われたのだろう。
でも、千里にとっては本の朗読を聴くときこそ、残酷な現実から逃れられる時間だと、僕はよくわかっていた。
けれどおばさんは困惑し、すがるように答える。
「だけど病状を伝えるのは、千里が自分から病気のことを知りたいと言いだすまで待ちたいと思うの。すこしでも懸念のない時間を延ばしてあげたいから。どうか、おねがい……」
「わかりました。もしもほんとうのことを伝えたら、僕らにも教えてください」
頭を下げて立ち上がりカバンを手にする。高円寺さんと葉山に目配せすると、ふたりも意図を理解したようで、すぐに手荷物をまとめた。早々に千里の家を後にする。
肩を震わせるおばさんの姿が、まぶたの裏に焼きついていた。きっとおばさんは、いままでの千里を思いだしながら、たくさん泣くのだろう。だから僕たちは、その場に居続けてはいけなかった。
とぼとぼと歩いていると、葉山は僕の肩に手を乗せて話しかけてきた。
「千里たんが回復したら、みんなでお見舞いに行こうな。京本、読む本をたくさん買ってこいよ」
「私も一緒にいく。早く千里ちゃんに会いたい。でも、京本くんとふたりだけの時間はちゃんと作ってあげるよ」
「悪いな、ふたりとも。僕も――早く会いたいよ」
つくづく千里は、みんなに大切にされてきたんだなと思う。
ただ、神様だけは――千里にひどく、意地悪だったみたいだ。
翌日、バイト先の本屋で棚の整理をしていると、店長の古本さんが無精髭を擦りながら僕に歩み寄ってきた。隣に並んで話しかけてくる。
「どうかしたのか、やけに表情が沈んでおるぞ」
「……わかりますか」
「ああ。わかりやすいからな」
僕は手を止め、古本さんに向き合う。勤務時間もおしまいなので、いつ言おうかと迷っていたことを、この場で切りだすことにした。
「あの……お願いがあります。しばらくバイトを休ませてほしいんです」
古本さんは銀縁眼鏡の奥から僕の顔をのぞき込む。定期試験とか旅行とか、そういった単純な理由ではないことは、僕の表情からすれば明白だったろう。
「ああ、構わんよ。だが、その後はここに来られるのかね」
「……わかりません」
「やはりな」
僕の迷いは古本さんにしっかりと伝わっていたようだ。
千里と会えるようになったら、できるだけそばにいてあげたい。
でも、その先、千里に本の物語を伝えられる未来があるのかどうか、僕にはわからない。
人は迷ったり行き詰まったとき、誰に、なにに手掛かりを求めるのだろうか。見上げると数多の本が並んでいる。僕は古本さんに尋ねた。
「古本さん、お聞きしたいんですが」
「なんだね、京本少年」
「あの……本を書く人って、どうして書きたいと思うんでしょうか」
古本さんは本棚をまじまじと見上げてこう語る。
「本とは、文字を運ぶ媒体にすぎない。
けれど、本は著者が抱いた思いを、ありのままの姿でとどめておくことができる。言葉という手段で。
だから本とは人生そのものの姿でもある。
そして本に書かれている物語は、人間の持つさまざまな感情を引きだし、自分がどんな存在であるかを知らしめてくれる、『心の鏡』でもある」
古本さんは最後に、それは俺の考えだがな、と言って鼻から息をもらした。
物語を朗読している間、千里は僕と同じように、世界を見ることのできる普通の女の子だった。僕と本の世界に飛び込み、知らない世界を旅し、同じ五感で情景を捉えていた。読んだ本の冊数だけ、僕らの人生は広がっていたのだ。
「あの……希望が持てるような物語の本を、たくさん買いたいんです。おすすめはどれですか」
尋ねると古本さんは本棚に視線を沿わせ、ところどころの本を手に取った。十冊ほど選んでカウンターに積み上げる。
「えっと……いくらですか」
「いらないよ。俺からの餞別だ。そのまま持っていけ」
そう言ってくれた古本さんはすこしだけ寂しそうだった。でも、それ以上はなにも聞かないでいてくれた。余計な詮索をしないことは、すごく優しいことなのだと切に感じる。
「ありがとうございます。この本、大切にします」
僕はただ感謝を伝え、古本屋を後にすることにした。最後に一度だけ振り返って、深々と頭を下げた。
その帰り、近くの公園に立ち寄って夜空を眺める。
千里のいない水曜日は孤独の荒野でしかない。僕はそこにたったひとり、取り残されるのだ。もう二度と触れることができなくなるのだ。千里の笑顔と歌声と――そして涙と。
千里の患った病気に思いを巡らせる。
かつて千里が目の病気を発症したとき、おばさんはどんな気持ちで手術を承諾したのだろうか。目が見えなくなっても、生きてさえいてくれればと、そう思ったのではないか。おおきな覚悟が必要だったのだろう。
だけど、別の病気で命を落とすことになるなんて。それは目が見えなくなるよりも重大なことだ。もしもそんなことになってしまったら――。
――僕が背負った罪の十字架は、いったいどうなってしまうのだろう。