「うん、いいよ。『コンチェルティーノ』だっけ。じゃあ、部屋の真ん中であたしのほうを向いて吹いて」

「はい、千里先生!」

 私はすっかり素直に千里ちゃんの言うことに従っている。千里ちゃんのレッスンが始まった。

「軽やかにさらさらと奏でて。気持ちで旋律を邪魔しちゃだめだよ」

「奔放に飛び跳ねるみたいに、自由に、楽しげに、軽やかに奏でて」

「最後は送り届けるように、自分の気持ちをもっと前に押しだして」

 千里ちゃんの教え方は、音楽の専門用語とは無縁だった。抽象的で感覚的な伝え方をしていて、初級者の私にとっては修正点がイメージしやすかった。

 形にとらわれない旋律の紡ぎ方。音楽を自分の心で奏でるって、こういうことなんだなと納得した。

 練習をしていたのは二十分ほどだった。その短い時間だけでも、私の中で演奏に対する見方がだいぶ変わった。

 葉山くんでさえ、珍しく私を褒めてくれた。

「すっげえ、見違える、いや聴き違える上達ぶりだぜ」

「そっ、そう……?」

「ああ、千里たん、マジ神ってるぜ。これならボンクラの有紗でさえ、上達できるはずだ」

 もとい、褒められたのは私ではなかった。

 厳しい目で葉山くんをにらむと、なんで? ってすっとんきょうな顔をした。この人を好きになる人がいたら、たぶん女神のような寛大な心のお方か、奇跡の同類、のどちらかしかありえない。

「有紗ちゃんの音色は飛翔力があるね。流れに乗ったらすごく伸びやかだよ」

 千里ちゃんは私の演奏をそんなふうに評してくれた。いままでの私は、まるで巣から飛び立つのを怖がっているひな鳥のようだった。でもこれからは、ちゃんと飛び立つための練習ができそう。

 それから葉山くんは、学校生活について千里ちゃんに語り始めた。サッカー部で練習に励んでいることや、どんな授業を受けているか、はたまた同級生の交遊関係まで。話し始めると止まらなかったけれど、冗談混じりで知らない世界のことを熱く語る葉山くんに、千里ちゃんは終始興味津々だった。クラスメートの私でさえ聞き手に回ってしまう。

 そのとき、部屋に近づく足音が聞こえた。扉の前でいったん止まり、中の気配をうかがっているようだった。葉山くんも気づいたようで、私と目を合わせて無言でうなずく。
 
 そろりと扉が開く。
 
 京本くんが姿を見せ、私たち三人を見てぎょっと目を丸くした。
 
 狼狽の色を浮かべ、喘ぎ声のような声でこう言う。
 
「なっ……なんでおまえまでここにいるんだよぉ……」

 ついに真の修羅場がきた。背中が冷たくなって、嫌な汗が吹き出る。

 お願い葉山くん、どうにかしてって心の中で念じる。

 葉山くんはひるむことなく、口をおおきな三日月にしてみせる。狙撃手のように京本くんを指さして声をあげた。

「京本おまえ、水曜日だってのに喋っているじゃーん!」

 よし、とりあえず先制攻撃。よくやったと葉山くんを心の中で讃える。

 葉山くんはすかさず追撃を仕掛ける。千里ちゃんの家に向かう途中、葉山くんが提案してくれた方法だ。

『京本がなにか言いだす前に、ゲームでもおっ始めればいいんだよ。巻き込んで、途中で逃げだせないようにしちゃえば、こっちのもんだ』

 すかさずふたりで手招きをして誘いをかける。

「ほら、みんな待っていたんだぞ、早く入ってこいよ。千里たんもゲームをやりたくてうずうずしているんだぞ」

「ゲームってなんだよ、葉山……」

 あからさまに動揺している京本くんは、ふらふらと部屋に入り、崩れるように千里ちゃんの隣に座り込んだ。

「『マインド・コネクト・ゲーム』だよ、おまえ、知っているだろ」

「知らないよ、そんなの……」

「じゃあ、説明してやるからな、よく聞いておけよ」

 葉山くんは絶対に知らないゲーム名をいい、有無を言わさず自分のペースに持ち込んだ。こういったところは天賦の才があると感心させられる。

『マインド・コネクト・ゲーム』とは、来る途中に葉山くんがアドリブで考えた、千里ちゃんを楽しませるためのゲーム。そのアイデア力は賞賛ものだ。人間、誰にどんな才能が眠っているかわからない。

 葉山くんはカバンからメモ用紙を取りだして見せる。

「いいか、ここに九枚のカードがある。俺と京本、それに有紗が三枚ずつな。ちなみにこのゲームは、これからなにするかを決めるためのものだ」

「……王様ゲームかよ」

「そんなわけないだろ、まあ聞けよ」

「……」

「このカードにそれぞれが『誰が』、『どこで』あるいは『なにを』、それから『どうする』についてひとつずつ書くんだ。もちろん、『誰が』はこの四人の誰か。全員を指定してもいい。『どこで』はどこでもいいけれど、必ず行ける場所。『なにを』あるいは『どうする』は必ず実行可能なこと。項目ごとに三人が書いた三枚のカードの中から一枚ずつ千里たんに選んでもらう。できた文章で指定された人は、必ずそれに挑戦するんだ」

 今の説明だけで京本くんも千里ちゃんもルールを理解できたと思う。

 聞いた千里ちゃんは、「わぁ、なんだか楽しそう」と、図らずも援護射撃をしてくれた。千里ちゃんが乗り気なら、京本くんが断れるはずはない。私自身も今知ったかのように「やってみたい!」と参加の姿勢を見せつける。

「ささ、満場一致だから始めようぜ」

 葉山くんは半ば強引にゲームを始める。京本くんの反論の余地なくメモ用紙が三枚、渡された。

 じつは私は葉山くんと結託していて、このゲームをすることも、書く内容も事前に決めていた。聞いたときは、ほんとうに実行できるか不安だったけれど、彼が大丈夫だと主張するから賭けてみることにした。でも、口裏合わせは今日だけにしようと条件をつけた。

 考えているふりをして、打ち合わせ通りのことを書き入れる。