家に帰ると、久々にピアノの音色が鳴り響いていた。今日はお兄ちゃんの帰りが早かったみたい。
医学部の講義は隙間のないスケジュールで、授業が終わった後も図書室で勉強しているらしい。
「ただいま、お兄ちゃん。珍しいね、こんなに早いの」
「おう、有紗か。おかえり」
お兄ちゃんはピアノを弾く手を止めてこちらを向き返事をした。二重で切れ長の目にシャープな顎のライン。ああ、実の兄ながらため息が出るほど芸術的。しかも頭が良いのだから、神様はえこひいきだ。
「今日は地域の病院見学で近くだったから、大学は寄らずに帰ってきた」
「へー、どこに行っていたの」
「満天堂病院、近場だからな」
「ほんとだね、偶然じゃない」
そこで私はふと、お兄ちゃんに尋ねてみようと思った。千里ちゃんの病気のことだから、さすがに本人には聞きづらい。
「ねえ、病気のことって、もう勉強しているの」
「ああ、授業ではまだだけど、夏休みの間にそれを完読したから、だいたいのことはな」
そう言ってお兄ちゃんは本棚を指さした。「それ」とはお父さんの分厚い医学書のことだった。しばらく本棚が空いていたと思ったら、お兄ちゃんが読んでいたのか。しかもさらりと完読したって言えるなんて、学びの次元が違う。医学部の中でもトップクラスの成績になっちゃうと思う。つくづく規格外で、私と同じ血を引いているとは思えない。ずるい、けれど大好き。
「じゃあ、お兄ちゃんに問題です。生まれたときは正常、でも子供のときに両眼がおかしくなって手術でとりました。なんの病気でしょう」
疑問に思っていた病気のことを、それとなくクイズっぽくしてみた。
お兄ちゃんは迷うことなく病名を口にした。
「ああ、推測すると『網膜芽細胞腫』だろうな」
一瞬で答えにたどり着いたので自信があるようだ。
「網膜芽細胞腫?」
「眼球を摘出するっていうことは、おそらく腫瘍だろうからな」
「でも、両眼がいっぺんにおかしくなるなんてこと、ほんとうにあるの?」
私が尋ね返すと、お兄ちゃんは立ち上がって医学書を本棚から取りだし、その病気のページを開いてみせる。
「医学書によるとだな、生まれた時点で有している異常な遺伝子がその病気の原因なんだ。だから、ほぼ同時に両眼に腫瘍ができることも多いらしい。生まれつきの運命っていうことだな」
「そうなんだ……」
「それに、眼だけじゃなくて、いろんな病気を併発しやすいっていう特徴があるらしい」
「へぇ……」
そう言われて不安がよぎり、千里ちゃんの顔を思い浮かべる。まぶたは閉じているけれど、不健康には見えない明るい表情。うん、彼女はきっと大丈夫。
「有紗の知り合いでそんな病気の人がいるのか?」
「あっ、いや、ちょっと小耳にはさんだだけ」
あわてて両手を目の前で振って否定するけれど、きっと気づかれていると思う。私は想像を働かせると、表情が固まってしまうらしいから。
「ありがとう、お兄ちゃん。一年生なのにそこまで勉強しているなんて、さすがだね」
「ああ、有紗も頑張れよ。勉強に部活もな」
「うん……」
お兄ちゃんはひと息ついてから真剣な表情で続ける。
「でもな、俺は俺、おまえはおまえ。だから、これが自分だって言える個性を見つけることが大事なんだよ」
そう言うお兄ちゃんは、私のことを本気で心配してくれている。お兄ちゃんほど出来が良くないから、心配されるのもしょうがない。でも、ちゃんと自分というものを見つけたい。
「人生っていうのは、いろんな人と出会ったり、なにかを生みだすことで、自分の輪郭を作ってゆく道のりのことだからな」
そんなことを言えるお兄ちゃんは、勉強や音楽を通じて自分を探すための旅をしているのだろうと思う。
それからの一週間は突風のように過ぎていった。
何度も京本くんに話しかけようとしたけれど、結局は会話の機会を逸してしまった。私はためらいがちだったし、彼のほうも私を避けているような節があった。
千里ちゃんと解明を約束した「水曜日の謎」にはまるで進展はなく、ふたたび千里ちゃんに会う日がやってきた。
その日、屋上での自主朝練は話ができる絶好のチャンスだと思っていたのに、結局、京本くんは現れなかった。だいぶ嫌われてしまったみたい。
それでも今日、京本くんとは千里ちゃんの部屋で鉢合わせすることになる。私を追い払ったと思っている京本くんがどんな反応をするのか、不安を通り越してそら恐ろしい。こうなったら、なんとしても緩衝剤がほしい。
途方に暮れた私は秘策を繰りだすことにした。これは最終手段で使うまいと思っていたけれど、いよいよ背に腹は代えられなくなった。
でも、実現できるだろうか? 覚悟を決めてダメモトで頼み込む。
「葉山くんお願い! 今日、一緒に来てほしいのっ!」
「どこへっ!」
「深窓の令嬢のおうち!」
「はいさっ!」
「なんで即答なのよっ!」
「水曜は部活、休みだからさっ!」
「そこだけ?」
葉山くんはいつにもまして豊作畑の表情で目を見開いた。まるで待っていましたと言わんばかりに。いや、そうなることを期待していた表情だ。
「どうせ京本と話せていなかったんだろ?」
「むぅ~りぃ~、避けられているから……」
見上げると、私をのぞき込む葉山くんは、まるで戦地に臨む武将のような勇壮な表情をしていた。
「やっと俺の出番かよ。最初っから自分ばっかりで解決しようと思わなきゃいいんだよ。俺だっておまえの気軽な友達だからな」
そのときの葉山くんは、不思議とちょっとだけ、本物のイケメンっぽく見えた。
医学部の講義は隙間のないスケジュールで、授業が終わった後も図書室で勉強しているらしい。
「ただいま、お兄ちゃん。珍しいね、こんなに早いの」
「おう、有紗か。おかえり」
お兄ちゃんはピアノを弾く手を止めてこちらを向き返事をした。二重で切れ長の目にシャープな顎のライン。ああ、実の兄ながらため息が出るほど芸術的。しかも頭が良いのだから、神様はえこひいきだ。
「今日は地域の病院見学で近くだったから、大学は寄らずに帰ってきた」
「へー、どこに行っていたの」
「満天堂病院、近場だからな」
「ほんとだね、偶然じゃない」
そこで私はふと、お兄ちゃんに尋ねてみようと思った。千里ちゃんの病気のことだから、さすがに本人には聞きづらい。
「ねえ、病気のことって、もう勉強しているの」
「ああ、授業ではまだだけど、夏休みの間にそれを完読したから、だいたいのことはな」
そう言ってお兄ちゃんは本棚を指さした。「それ」とはお父さんの分厚い医学書のことだった。しばらく本棚が空いていたと思ったら、お兄ちゃんが読んでいたのか。しかもさらりと完読したって言えるなんて、学びの次元が違う。医学部の中でもトップクラスの成績になっちゃうと思う。つくづく規格外で、私と同じ血を引いているとは思えない。ずるい、けれど大好き。
「じゃあ、お兄ちゃんに問題です。生まれたときは正常、でも子供のときに両眼がおかしくなって手術でとりました。なんの病気でしょう」
疑問に思っていた病気のことを、それとなくクイズっぽくしてみた。
お兄ちゃんは迷うことなく病名を口にした。
「ああ、推測すると『網膜芽細胞腫』だろうな」
一瞬で答えにたどり着いたので自信があるようだ。
「網膜芽細胞腫?」
「眼球を摘出するっていうことは、おそらく腫瘍だろうからな」
「でも、両眼がいっぺんにおかしくなるなんてこと、ほんとうにあるの?」
私が尋ね返すと、お兄ちゃんは立ち上がって医学書を本棚から取りだし、その病気のページを開いてみせる。
「医学書によるとだな、生まれた時点で有している異常な遺伝子がその病気の原因なんだ。だから、ほぼ同時に両眼に腫瘍ができることも多いらしい。生まれつきの運命っていうことだな」
「そうなんだ……」
「それに、眼だけじゃなくて、いろんな病気を併発しやすいっていう特徴があるらしい」
「へぇ……」
そう言われて不安がよぎり、千里ちゃんの顔を思い浮かべる。まぶたは閉じているけれど、不健康には見えない明るい表情。うん、彼女はきっと大丈夫。
「有紗の知り合いでそんな病気の人がいるのか?」
「あっ、いや、ちょっと小耳にはさんだだけ」
あわてて両手を目の前で振って否定するけれど、きっと気づかれていると思う。私は想像を働かせると、表情が固まってしまうらしいから。
「ありがとう、お兄ちゃん。一年生なのにそこまで勉強しているなんて、さすがだね」
「ああ、有紗も頑張れよ。勉強に部活もな」
「うん……」
お兄ちゃんはひと息ついてから真剣な表情で続ける。
「でもな、俺は俺、おまえはおまえ。だから、これが自分だって言える個性を見つけることが大事なんだよ」
そう言うお兄ちゃんは、私のことを本気で心配してくれている。お兄ちゃんほど出来が良くないから、心配されるのもしょうがない。でも、ちゃんと自分というものを見つけたい。
「人生っていうのは、いろんな人と出会ったり、なにかを生みだすことで、自分の輪郭を作ってゆく道のりのことだからな」
そんなことを言えるお兄ちゃんは、勉強や音楽を通じて自分を探すための旅をしているのだろうと思う。
それからの一週間は突風のように過ぎていった。
何度も京本くんに話しかけようとしたけれど、結局は会話の機会を逸してしまった。私はためらいがちだったし、彼のほうも私を避けているような節があった。
千里ちゃんと解明を約束した「水曜日の謎」にはまるで進展はなく、ふたたび千里ちゃんに会う日がやってきた。
その日、屋上での自主朝練は話ができる絶好のチャンスだと思っていたのに、結局、京本くんは現れなかった。だいぶ嫌われてしまったみたい。
それでも今日、京本くんとは千里ちゃんの部屋で鉢合わせすることになる。私を追い払ったと思っている京本くんがどんな反応をするのか、不安を通り越してそら恐ろしい。こうなったら、なんとしても緩衝剤がほしい。
途方に暮れた私は秘策を繰りだすことにした。これは最終手段で使うまいと思っていたけれど、いよいよ背に腹は代えられなくなった。
でも、実現できるだろうか? 覚悟を決めてダメモトで頼み込む。
「葉山くんお願い! 今日、一緒に来てほしいのっ!」
「どこへっ!」
「深窓の令嬢のおうち!」
「はいさっ!」
「なんで即答なのよっ!」
「水曜は部活、休みだからさっ!」
「そこだけ?」
葉山くんはいつにもまして豊作畑の表情で目を見開いた。まるで待っていましたと言わんばかりに。いや、そうなることを期待していた表情だ。
「どうせ京本と話せていなかったんだろ?」
「むぅ~りぃ~、避けられているから……」
見上げると、私をのぞき込む葉山くんは、まるで戦地に臨む武将のような勇壮な表情をしていた。
「やっと俺の出番かよ。最初っから自分ばっかりで解決しようと思わなきゃいいんだよ。俺だっておまえの気軽な友達だからな」
そのときの葉山くんは、不思議とちょっとだけ、本物のイケメンっぽく見えた。