空気を胸の中に取り込み、心を込めてそっとフルートに流し込む。管楽器独特の、直進性のある音が千里さんの部屋に広がる。

 自分では、うまく演奏できている気がした。けれど、千里さんが傾聴していたのは、ほんの数十秒だった。

「ありがとう、もういいや」

 突然、私の演奏を打ち切った。興味がわかない曲だったのかな、それともうまくなかったのかな、とすこし寂しさを覚える。

 千里さんは私の音色をはっきりとこう評した。
 
「高円寺さん、自分がどうしたらいいかわからないんだね。音がそう言っているよ」

 そのひとことに私の心臓は飛び上がった。どうしてわかるの? 誰にも明かさなかった胸の内を、音を聴いただけでたやすく見抜いてきた。

 研ぎ澄まされた感性は、ときに芸術をもたらし、ときに破滅に導くと聞いたことがある。千里さんの鋭い感性はなんだか怖い。でも――。

 ――この子は、私はどうすればいいのか、その答えを教えてくれるのかもしれない。

 そんな期待をさせられてしまうほどに、千里さんのひとことは説得力があった。

「じゃあ、お願いなんだけど、今度は千里ちゃん(・・・・・)の歌を聴かせてくれる? もしかしたら私の音楽のヒントになるかもって思って」

 つい、親しみを込めた呼び方をしてしまった。千里ちゃんはくすっと笑みを浮かべる。 

「へへー、そう言ってもらうと歌いがいがあるなぁ。ねえ、そしたら有紗ちゃん(・・・・・)って呼んでいい?」

 千里ちゃんも呼応してファーストネームで私を呼ぶ。嫌な気がしないどころか、ごく自然な呼び方に思えた。

「うん、構わないよ」

「ありがと。そしたら、来週の水曜日もうちに来ない?」

「えっ、でも……私が割り込んじゃ邪魔になっちゃうでしょ」

「それよりも和也くんの水曜日の謎を解かないと。気になって読書どころじゃなくなっちゃったよ」

「あっ、そうか。確かに集中できなくなるね」

「うん。だから、なるべく和也くんと仲良くなって、水曜日の謎を聞きだしてほしいんだ。お願い、有紗ちゃん」

 千里ちゃんの主張はすごくよくわかったので、私はその考えに乗ることにした。

「じゃあ、約束する。来週、必ず私も来るわ」

「わかった、ありがとね」

 千里ちゃんはそう言って小指を立てて差しだす。誰もが知る約束の儀式。指を絡め合うと、千里ちゃんはすこし照れたようで頬を赤らめた。なんだか子供みたいで可愛らしい。私も目の周りと頬が熱っぽくなってくる。

 こんな和やかな雰囲気を、京本くんは知るよしもないと思う。

「このことは京本くんには内緒ね。後で私からちゃんと伝えるから」

「わかっているって、有紗ちゃん」

「じゃあ、これ以上千里ちゃんのところにいると怪しまれちゃうから、今日は帰ることにするね」

「うん、それじゃまたね」

 立ち上がり部屋を後にする。千里ちゃんはにこやかな笑みを浮かべてちいさく手を振った。

 この部屋に踏み込む直前と比べたら、心の持ちようはまるで違っていた。先入観ってよくないし、たとえどんなに違いがあっても友達になれるのは素敵なことだな、って実感する。

 足取り軽く部屋を飛びだすと、そこにはお盆を持った京本くんがいて、あわやぶつかりそうになった。

 京本くんはとっさに身を引いて、マグカップの紅茶が跳ね上がる。

 気づかれないよう、あわててふてくされた顔をして京本くんを見上げる。私を疎ましく見る目に、沸騰するお湯のような反抗心が湧き上がってくる。

――きみの水曜日の謎、絶対に明かしてやるんだから。

 逃げるように早足で千里ちゃんの家を後にした。去り際に一度振り向いたけれど、塀が邪魔して部屋の中の様子はわからなかった。胸の中にもくもくと奇妙な希求心が湧いてきて、高まった私は帰り道の下り坂を勢いよく走りだしていた。

 京本くんの思っていること、苦しんでいることを知りたい。千里ちゃんと仲良くなってたくさんの話をしたい。もっと前向きで明るい自分になりたい。フルートで自分らしい音色を奏でたい。

 なりたい自分に欲張りなことは、悪いことなんかじゃないと思う。不自由でも頑張れる人は、できることをせいいっぱいにやって生きている。二の足を踏むのも、しっかりと地面を歩むのも、結局は自分の足ですることなんだ。

 ――よぉーし! 見ていろよ、京本和也!

 両手を空に向けて伸ばし、すこしだけ冷気の混ざる秋の空気を、思いっきり胸の中に吸い込んだ。