しばらくして、どういうわけかフルートの音色が聞こえてきた。けれどその音色はほんの一分も経たないうちに止んだ。それからふたたび話を続けている雰囲気。どのような駆け引きが繰り広げられているのだろうか。

「あら、お取り込み中?」

 声をかけられて振り返ると、三人分のカステラと紅茶を準備したおばさんが立ちすくんでいる。

「そうみたいです。女の子同士の秘密の会話みたいで、僕は追い出されました」

 さりげなく苦笑いをして、ふたりの関係が穏便だとほのめかす。僕のせいで、おばさんにまで余計な心配はかけたくない。

「じゃあ、冷めちゃうかもしれないけれど、これ、和也くんに任せていいかしら。そろそろ買い物に行かないといけないの」

「あっ、はい。いつもごちそうさまです」

 慎重にお盆を受け取る。

「食べ終わったらそのまま置いておいてね。そんなに時間はかからないから」

「せめて台所までは持っていきます」

「あら、そうしてくれると助かるわ。じゃあ、お言葉に甘えてお願いね」

 それからおばさんは買い物に出たようで、とりあえず安堵した。

 突然、千里の部屋の扉が勢いよく開き、高円寺さんが部屋を飛び出してきた。ぶつかりそうになり咄嗟に身を引くと、マグカップの紅茶が跳ね上がった。

 気づいた高円寺さんは足を止め、上目遣いで僕をにらむ。その目は怒りなのか悲しみなのか、僕に対して明らかに非難的だった。気まずそうに頭を下げると、なにも言わず僕の横をすり抜け、逃げだすように立ち去っていった。

 高円寺さんは千里と僕の間の強固な関係を思い知らされ、孤立した空気に耐えられなくなったのだろう。気の毒だけど、そうなることは目に見えていた。

 家を出ていったのを見届けてから千里の部屋に戻る。まだ正座のままの千里は清々しい顔をしていて、僕の存在に気づくと、「おまたせ、ちょっと長かったね」とあどけない笑顔を浮かべる。

 結果から察するに、千里の圧倒的な勝利に見えた。これで高円寺さんが千里に干渉してくることは二度とないだろう。まさに願ったり叶ったりの結果だ。

 ただ、いったいどうやって高円寺さんを黙らせたのか。

「千里、お疲れ様。高円寺さんが音を上げたみたいだけど、ふたりでなにを話していたのかな。それにフルートの音色まで聞こえたんだけど」

「ヘヘヘ、知りたい?」

「そりゃあ知りたいよ。知る権利もあるしさ。終わったら教えてくれるって言ったじゃん」

「ふーん、じゃあ教えてあげない」

 千里は悪戯っ子さながらの意味ありげな笑みを浮かべる。

「なんでだよ。気になって夜眠れなくなる」

「眠れなかったら、めいっぱい読書できるじゃない」

「こらこらごまかさない。それでどうだったの」

「だから教えたくないんだってば」

 千里は笑顔を崩すことはない。けれど様子が普段とは明らかに違っていた。

「僕がなにか気に障ることした?」

「うん。和也くんだって学校でのことぜんぜん教えてくれないじゃん。だからあたしだって秘密のベールに包まれていることがひとつやふたつあったっていいよね」

 そんな思いがけない主張をしてきた。いったい、ふたりの間になにがあったというのだ。

「和也くんはあの子のこと、どう思っているの? 朝、フルートの演奏を聴いているんだってね」

 表情は笑顔のままだけれど、千里はなぜか僕に反抗している。けれど、僕と高円寺さんとの間で、千里に後ろめたいことなどあるはずはない。

「ただ水曜日の朝、屋上で鉢合わせになっているだけだよ。別段一緒にいたいわけじゃないし、好きでも嫌いでもない。空気みたいなものだよ」

「へぇー、唯一の友達かも、って思ったのに」

「いいよ、僕は千里さえいれば。ほかに友達はいらない」

 本心からそう思っているので抵抗はなかった。欲を言えば千里に喜んでほしかった。けれど千里は、僕が思うほど嬉しそうな反応はしなかった。それどころか、表情の雲行きが徐々に怪しくなっている。

「ちゃんと友達を作りなよ、って言ったじゃない。実行してくれないんだったら、あたしは和也くんのこと嫌いになるよ」

 千里の言動は身勝手に思えたけれど、言っていることは千里自身のわがままではない。千里の気持ちがますますわからなくなる。

「まぁ、そこまで言うなら、同級生とちゃんと仲良くするよ」

「青春時代は短いんだからね。ちゃんとアオハルを味わうんだよ」

「わかったよ。ちゃんと高校生らしくするよ」

「うん、よろしい。それでこそ和也くんだね」

 納得した千里はそろそろと僕に近寄り腕を握る。無理やり腕を手繰りよせて小指の場所を確認した。自分の小指で僕の小指を絡めとり、ぎゅっと力を入れる。

「はい、指切りげんまん、嘘ついたら……へへ、どんな罰かはあたしに決めさせてね」

 そう言われると針千本より恐ろしい。僕をどうする気だろうか。ただ、かすかに震える千里の小指は、冗談では済まされないような、せつなる願いが込められているように思えた。

「もうすぐ夕方になるのかな。空気が変わってきたから、そろそろ帰る頃?」

「まあね。でもよかったら、すこしだけ本を読んであげようか」

「ううん、疲れたから今日はいいや。だけど、お願いがあるんだ」

「お願い?」

「あたし、これでも頑張ったんだよ。だから、ちょっとだけ甘えさせてもらいたいな」

 千里は頬を紅潮させ、すりすりと僕との距離をつめる。今度はなんの要求だろうか、僕の心臓はびっくりしている。

「一回ぐらい、膝枕してほしいんだ。お母さんいないし、チャンスでしょ?」

「膝枕って……膝に頭乗せるあの行為のこと?」

「うん。ちっちゃい頃、お父さんにやってもらったことがある」

 千里にとっては背中あわせの発展型になるのだろうか? しかも、そんな甘々なシチュエーションを僕に演じさせるというのか? 全身の毛穴から冷や汗が噴きだす。

 千里の部屋は一階だけど、ブロック塀が壁になって外から見られることはない。とはいえ、恋人関係でもないのにそんなことをして良いのだろうか。

 戸惑っていると、千里は堂々と布団の上に横になり、僕の膝の上に頭をすり寄せた。千里の中ではもはや決定事項らしいので観念する。

「……じゃあ、五分だけ、な」

「むぅ、けち! でも、ありがとね」

 お礼を言われてしまったのでしかたない。あぐらをかき、膝の上に千里の頭を乗せる。千里は照れながらも安心したような顔をしている。

 ああ、ほんとうにこうしてもらいたかったんだな。

 僕はそっと赤茶色のくせっ毛を撫でてあげる。千里は僕の手のひらの感触を味わっているようだった。

 ふいに、千里の閉じたまぶたからぽろりと涙がこぼれた。ガラスケースに飾られた宝石のような、すこぶるきれいな涙だった。僕は気づいてもなにも言わなかった。ただ、その一粒の透明感に見とれていた。

 気持ちが緩んで泣くなんて、高円寺さんとの対峙は、ひどく緊張したのだろうなと察する。そう思い、僕は予定よりも長く、千里の希望を叶えてあげた。すこしは千里の役に立てたようで嬉しいし、ふたりの聖域は堅守できたようで安堵した。