その翌水曜日の放課後。校門をくぐりしばらく過ぎたところで立ち止まる。後ろを振り返ると高円寺さんの姿があった。僕が足を進めると、高円寺さんは自転車を手で押しながら距離を置いてついてくる。自転車の籠にはカバンを入れ、肩にはフルートのケースをかけていた。

 人目がなくなったところで合流し、ひとりぶんの隙間を空けて並び、千里の家へ続く坂道を登っていく。高円寺さんはだんだん息が上がってきたようだ。

「自転車を持つの、代わろうか?」

「いいっ!」 

 僕の気遣い空しく即答で断られた。すでに相当、神経が昂っているようだ。高円寺さんは僕と千里を引き離そうとしているのだから気持ちは臨戦態勢なのだろう。思い違いもはなはだしいけれど。

 僕と千里の意思は一致しているはずだから、勝ち負けで言うなら高円寺さんはすでに敗北が決定している。風車に立ち向かうドン・キホーテのように愚かなことだ。

 だからこれから迎える修羅場は、高円寺さんが自身の勘違いを認識し打ちのめされるシナリオでしかない。

 高円寺さんに視線を向けると、僕を上目遣いでじとっと見ている。

「っていうか京本くん、水曜日なのに喋ったよね、今」

「あたりまえだよ。別段、水曜日に口がきけなくなる呪いをかけられたわけじゃないから」

「ふーん、呪われているかと思っていたけど。あの子に」

「ひどい言いようだね。千里は魔女じゃない」

「こう言うと偏見みたいで悪いのかもしれないけどね」

 壁を張るようにそう言って高円寺さんは続ける。

「私はね、その千里ちゃんがほんとうに京本くんや周りの人のことを考えているとは思えないの。障害者って自分が生きていくだけでせいいっぱいだから、そんな余裕があるはずないよ。それに社会福祉の支援があるから、誰かが手助けしてくれるのがあたりまえって勘違いしているかもしれないし」

 彼女には彼女なりの主張があるのだと思う。確かに、そういう側面は現実としてあるのかもしれない。でも、千里は他人の気持ちを理解しようとする賢明さを持ち合わせている。「エンパシー」を意識しているのがその証拠だと、そう思いたい。

 そしてなにより、千里から光を奪ったのはこの僕自身なのだ。高円寺さんの発する、千里を否定する言葉は毒針のように僕の心臓を突き刺して苦痛をもたらす。

 千里の家に着き呼び鈴を鳴らすとおばさんが姿を見せた。高円寺さんに気づいてうやうやしく挨拶をする。もうひとりの来客については千里が伝えていたらしい。

「はじめまして、千里の母です」

「高円寺です。お初にお目にかかります。本日は千里さんにお会いしたく、おじゃまさせていただきます」

 このていねいな挨拶は良家のお嬢様の常識なのか。貼りつけた笑顔は立派な模造品のようだと感心する。僕は高円寺さんの不自然さに気づかれる前におばさんの注意を引きつける。

「おじゃまします。今日は賑やかになると思うんですけど、あまり気にしないでください」

 多少の修羅場であれば盛り上がっているということにしてごまかしたい。

「ほんと、女の子も遊びにきてくれるなんて、千里も楽しみにしているはずよ。さあ、どうぞあがって」

 おばさんは上機嫌だけど、高円寺さんは呼吸が落ち着かない上に、指先まで震えている。見るからにそのギャップが痛々しい。

 ノックをしてから部屋の扉を開けると、千里は行儀よく正座をして待ち構えていた。普段とは違う雰囲気に、臨戦態勢の様相だとうかがえる。

 高円寺さんと僕がおじゃまします、と言って部屋に踏み込むと、わざとらしく三つ指をついて挨拶をする。

 高円寺さんもフルートを置いてていねいに膝をついて向かい合う。ふたりは互いに頭を下げた。張りつめた空気の中、先に切りだしたのは千里だった。

「高円寺有紗さんですね。和也くんから話を聞いています。高校の同級生なんて羨ましいです。あたしは同じ学校には通えないもので」

「大変なんですね。苦労をお察しします」

 千里に気遣いながらもかすかに棘があったのを僕は聞き逃さなかった。まるで爪を隠して機会をうかがっている肉食動物のようでもある。けれど千里はひるむことがない。

「歩調からしますと、あたしよりはすこし背が高くてすらりとした方ですね。和也くんとの距離はすこしありましたね。でも、ていねいな歩き方は気品を感じさせました」

 廊下を歩く数歩の間に捉えたのだろう。千里は目が見えない分、残りの四感が異様に鋭い。高円寺さんもすかさず手を打ってきた。

「千里さん、あなたは水曜日の京本くんが、学校でどんなふうか知っているんですか?」

「え……?」

 千里の表情に一瞬、動揺が浮かんだ。千里は僕の学校での様子を知りたがっていた節がある。もしかしたら僕の抱く罪の気配を感じているのかもしれない。僕は即座に話の腰を折りにかかる。

「高円寺さん、それは千里とは関係な――」

「和也くんは黙っていて!」

 千里が僕の言葉をぴしゃりと遮った。

「あたし、高円寺さんと話をしているの。和也くんはしばらく、出て行ってくれないかな」

「えっ、なんで僕が?」

「いいから。終わったら後で話すから」

 毅然とした態度をみせる千里に、僕はそれ以上なにも言えなかった。おずおずと部屋を後にし、廊下で呆然とする。部屋の様子を探ろうと耳をそばだてる。

「聞き耳立てちゃだめだよー」

 僕の邪念を察したのか、千里は扉越しに釘を刺してきた。これが千里のエンパシーか。僕はあきらめて素直に廊下で勝負がつくのを待つことにした。

 胸の中でざわざわと波が立っている。さざなみよりは荒く、かといって荒波でもない、ぎりぎり溺れないくらいの波。いったいどうして、千里は僕をのけ者にしたのだろうか。

 意外にもふたりの会話は長く続いていた。疑問と不安が交錯する。声を荒らげたり叫んだりとか、そういう感情的な修羅場の様相ではなかった。