「今日の放課後、屋上に来てくれる?」

 ある日、吉凶不明なひとことが書かれたメモが僕の手に収められた。渡してきたのは一学期に隣の席だった葉山だ。なんの気なしの表情をしておきながら、内心になんらかの思惑があるのは見え見えだ。

 場所を屋上に指定してきたこと、それから葉山のルートということは――高円寺さん、その顔が真っ先に浮かんだ。

 授業が終わるやいなや屋上へ向かう。アルバイトがあるから話がこじれるのは御免こうむりたい。早く済ませよう。

 厚い雲で覆われた空は今にも泣きだしそうだ。いつも座っている花壇の縁に腰をかけて待つと、現れたのはやっぱり高円寺さんだった。いったい僕になんの用だろうか。

 もしかしたら告白、みたいな可能性もちらっとだけ考えたけれど、それは違うとすぐにわかった。むっつりとした表情で、僕に不満か、あるいは怒りを向けているようだったからだ。僕がなにか悪いことをしたのだろうか。ああ、水曜日の朝、無視し続けたからいよいよ機嫌を損ねたのか。

 すぐさま決着をつけようと思い、顔を合わせるやいなや腰を上げて歩み寄り、軽く頭を下げて謝る。

「無視してごめん。だけど、最初からなにも口を聞かなかったらよかったんじゃない」

「私、そんなこと言ってないんだけど。あと、謝るのは私のほうだから」

 むっとしたままそう言う高円寺さんの意図が、僕にはよくわからない。

「えっと……どういうこと。バイトがあるから手短に済ませてほしいんだ」

 高円寺さんは荒ぶる心を落ち着けようとしているのか、胸に手を当てておおきく息を吸ってからひと思いに尋ねた。

「京本くん、あの女の子(・・・・・)とはどういう関係なの?」

「は? あの女の子って誰?」

 この学校に仲の良い女子なんてひとりもいないから、思わずすっとんきょうな声で返事をしてしまう。それから時間差で千里の顔が浮かんだ。もしかしたらと疑念を抱くと同時に高円寺さんの追撃がきた。

「ごまかさないでよ。目の見えない子よ、水曜日に会いに行っている子」

 そのひとことで、僕の警戒心が一気に発動した。僕の後をつけて千里の存在を突き止めたらしい。謝るのは私のほう、というのは尾行したことを言っていたのだ。

 でもそれを知ってなにをするつもりなのか。興味本位で詮索するのは勝手だけど、僕らの関係に土足で踏み込んでくるのは許せない。事情も知らない連中を千里に、僕たちの聖域に干渉させたくなんかない。

「……そのことなら放っておいてくれないか。高円寺さんには関係ないことだよ」

「そんなことないっ!」

 振り絞るように反論した高円寺さんの声は震えている。

「だって、見てられないんだもん。水曜日の京本くんは、とっても苦しそう。息ができなくて必死にあがいているように見えるの」

 それは意外な言動だったものの腑に落ちた。

 ああ、やっぱり僕が苦しそうに見えると言っていたのは、高円寺さんだったのか。

 優しさがあるなら気づいても知らないふりをしてほしかったと心底思う。僕は無言でにらみつけたけれど、彼女の詰問はとどまることを知らない。

「京本くん、家が遠いのにこの高校に入学したのは、きっとあの子がこの街にいるからだよね? あの子が京本くんを縛って苦しめているのよね?」

 高円寺さんの言っていることの前半は当たっている。そのことに僕はすこしだけ驚いた。けれど、高円寺さんはそんな僕の様子から的を射ているのだと確信したようで、瞳が一瞬、深い濡羽色になる。

 ただ、僕が苦しんでいるのは自分自身が生みだした罪への呵責のせいだ。でも、そのことは誰にも打ち明けられるはずがない。たとえ千里に対しても。

 僕は押し黙ってやり過ごそうとしたけれど、高円寺さんは厳しい視線を向け、低く重たい声でこう言う。

「……水曜日、喋らないのは彼女のためなんでしょ?」

 そのひとことに胸がかっと熱くなる。

 高円寺さんは僕の覚悟を知らないのに、ずけずけと禁断の領域に踏み込んだ。激しい拒絶を覚えて思わず声をあげる。

「なにも知らないのに、僕と千里の間に入ってこないでくれ!」

「その女の子、千里さんっていうのね。呼び捨てにするなんてよっぽど仲がいいみたいね」

 くっ、失言してしまったか。僕にとってふたりの関係を知られることは、聖域が荒されるのと同義だ。だったらなおさら突き放さなくては。

「それに僕はきみが思っているようなことで苦しんだりなんかしてない! 千里と一緒にいようって決めたのは僕自身だ!」

 高円寺さんも感情が決壊したようで怒涛の反論をする。

「じゃあ聞くけど、いつまでそうするつもりなの? 私には、京本くんが自分を犠牲にして満足しているようにしか思えないの。でも、京本くんの人生は誰かのためじゃなくて、京本くんのためにあるんじゃないの?」

「千里のための人生だったらなにが悪いんだ! 誰かの力になって生きることを否定するなんて、高円寺さんのほうがひどいじゃないか!」

 怒号した僕も高円寺さんも、そろって肩で息をしていた。高円寺さんはしだいに顔が崩れ、目には涙が浮かんでくる。僕に向かって意外な心情を吐露してきた。

「……私にだって苦しいことはあるんだよ。自分が情けなくて、でもどうしようもなくて。だから私、京本くんを見ていると、胸がズキズキするの。私と京本くん、どこか似ているんじゃないかなぁ、って……」

 恵まれているように見える彼女にも、どうやら彼女なりの悩みがあるらしい。けれど、高円寺さんの悩みはあくまで高円寺さんのものであって、僕が背負った罪の十字架とはまるで関係がない。

 弱さを露呈した表情を目の当たりにし、僕はおもむろに冷静さを取り戻した。息を整え、そっと断絶の言葉を告げる。

「……水曜日の朝、もうここには来ない。だから僕のことは放っておいてくれないか」

 それだけ伝えたら、もう話すことはない。高円寺さんの横を通り過ぎ出口へと向かう、そのときだった。

「待って!」

 背後から肩をつかまれ呼び止められた。必死の声に驚いて振り向くと、高円寺さんは目を真っ赤にして僕をにらみつけていた。

「その子に直接、会わせてくれないかな。私がその子の本心を聞きだしてあげるから」

 千里の本心。それは僕が知りたくて、けれど触れなかったことでもある。

 でも、女の子同士だからといって、千里が高円寺さんに本心を打ち明けるなんてありえない。僕は浮かんだ残照のような希望をうち消した。

 ただ、もしも千里が僕との時間をこよなく大切に思っているのなら、そこに高円寺さんが立ち入るのを拒絶するだろう。千里が拒めば高円寺さんは詮索をあきらめ、僕らの聖域は死守できる。そう思い、意志を固めて返事をした。

「僕はいいよ、千里に聞いてみる」