僕は千里が現実に戻ってくるのを、そっと待つことにした。

 千里はふいに、風の囁くような声で歌い始めた。登場人物たちの未来を願う、澄みきったきれいな声だった。物語を終えた後の歌はまるで映画のエンドロールのようだった。

 朗読した僕も、歌でいろどりを添える千里も、この物語の一部を描いているのではないかという気がした。歌がオレンジに彩られる部屋を満たしてゆく。

 ――I cannot tell you just how much I need you

 ――But may be tomorrow, my dream will come true, on and on...

 僕が聴いたことない曲だった。日本語の歌だけど、その中に織り込まれた英語の歌詞は、ヒロインの想いであり、千里の想いを映しだしているかのように感じられた。

 どれだけきみが必要なのか、言葉になんてできない。でも、私の夢は明日、きっとかなう。そういう意味の歌詞だった。

 千里の歌は、魂がこもっていると思う。心の奥底まで心地よく響いて、僕の錆びた琴線を優しく撫でてくれる。

 歌が終焉を迎えたところで千里はしみじみと言う。

「いい物語だったね。希望の持てる終わり方だったなぁ……」

「ああ。読み終わったらロス感が半端ないよ」

 千里も同意してうなずく。気に入ってもらえたようで正直、嬉しい。

 歌った曲について尋ねると、それはアルフィーというグループの、「夢の終わりに」という曲で、僕が生まれるよりもずっと昔に作られた曲とのこと。記憶している数多の音楽の中から、物語に合う一曲を選んで歌ったのだという。

「その曲、今も持っているんだ」

 千里は身を起こしクローゼットへ向かう。

 扉を開くと、クローゼットの奥には三段重ねのおおきなCDラックがあり、中にはCDケースがずらりと並んでいた。ポータブルのCDプレイヤーも置いてある。慣れさえすれば手探りで操作できそうなシンプルなものだ。

「もう要らないっていう人からもらっていたら、たまっちゃって。でも、どれも捨てられないんだ」

「コレクションみたいなものだね。大切に取っておきなよ」

 ラックの中からケースをひとつ手にとって僕に手渡す。ジャケットを確認すると、その曲が収録されているアルバムだった。すべての置き場所を覚えているらしい。

「全部歌えるけれど、読めないから題名がわからない歌もたくさんあるの」

「そっか。でも、新曲は少ないんだね。ほしくならない?」

「いいの。昔の曲って、歌詞を大切にしている感じがするから好き」

 目が見えない千里にとっては、人気のイケメン歌手の歌だとか、流行りのドラマの主題歌だとか、そういうことはどうでもいいのだろう。時代も歌手も言語も関係なく、気に入った曲を感性のままに選んで聴く、そんな楽しみ方をしているのか。

「……ねえ、千里。訊いてもいい?」

 僕は千里の心に忍び込むように、そっと尋ねた。

「僕と一緒にいるの、もし嫌じゃなかったら、ずっとでもいい?」

 千里の歌がはたと止まる。空気が妙な湿り気を帯びた。しばらく逡巡したあと、ぽつりとこぼす。

「まだ、そんなこと、わからないから(・・・・・・・)……」

「えっ……」

 千里の言う「わからない」という意味がわからず僕は動揺した。千里は僕の不安を察したのか、あわてて話題を切り替える。

「っていうか、高校生活が始まったら、あたしだけじゃなくて、ちゃんと友達作るんだよ!」

「いいよ、別に誰ともつるみたくないし……」

「だーめ、ただでさえこの前、友達少ないって言っていたんだし。だからあたしのことは水曜日だけにしてね」

 千里はやっぱり、かたくなに水曜日以外を拒否する。おそるおそる千里の内心をうかがう。

「ひょっとして、煩わしいと思っている……?」

「そんなことないよ。水曜日は毎週ちゃんと来てほしいよ!」

 真剣な表情をして言い返す千里に僕は心底安堵した。

 だって、もしそうできなければ、僕は生きていくことが苦痛でしかなくなる。このふたりだけの水曜日を過ごすことは、僕が十字架の重圧から解放される唯一の手段に違いないのだから。

「うん、必ず来るよ。僕は千里のライト・フレンドなんだから」

 僕の返事に千里はにこりと穏やかな笑みを返す。でもきっと、僕の言いたかったことは千里には伝わっていないだろう。

 僕は千里の暗闇に光を灯すため、いくらだって自分を犠牲にできる。だからどうか、僕を気軽(LIGHT)友達(FRIEND)ではなく、(RIGHT)友達(FRIEND)と思ってくれないだろうか。

 千里を支えてあげることこそが、僕が生きてゆく目的なのだから――。