『銀河鉄道の夜』――誰もが知る宮沢賢治の代表作。

 主人公のジョバンニが友人のカンパネルラとともに銀河鉄道で宇宙を旅する物語。聞き手を幻想的な銀河の世界に導いてくれるし、カンパネルラとの交流が読者にさまざまな感情をもたらしてくれる。
 
 けれど物語の舞台がどんな世界なのか、そしてこの物語をどんなふうに解釈するかは聞き手の想像力次第だ。活字の物語はひとつでも、創られる世界は読み手の数だけ存在する。だから読み物は面白い。
 
 僕が本を読みだすと、千里は物語を静かに聴き始める。ときおり、うん、うんと納得するようにちいさな相づちを打っている。

 物語が中盤に差しかかったところで、千里は僕の背中にもたれかかってきた。長い時間聴いているにはそのほうが楽なのだろうと思い、僕は素直に受け入れる。背もたれ付きの座椅子は結局、使う必要がなくなったので放置されていた。

 背中と背中が合わさると、とくん、とくんと波打つ千里の鼓動が感じられる。僕の拍動もまた、千里に伝わっているのだろう。

 千里の体温で僕の背中はほんわりと温められる。まるで芝生の上に降りそそぐ麗らかな日差しのようで心地良い。

 ふたりが同じ空間にいて、同じ世界で意識を共有する。そんな奇妙な時間が滔々(とうとう)と流れてゆく。

 しばらくして扉がノックされた。それでも千里は僕にもたれかかったまま身動きしない。扉が開いて現れたおばさんは僕らを見て一瞬、驚いたようだけど、すぐさま柔和な笑顔に戻る。

 しずしずとそばに歩み寄り、ふたり分の紅茶とシフォンケーキが載ったお盆をそっと目の前に置く。朗読を続けていた僕は、段落の狭間で区切りをつけ、「ありがとうございます、喜んでいただきます」と感謝を伝える。千里も気づいてお礼を口にした。

 部屋を後にするおばさんは、扉をそっと閉めながら、恥ずかしそうにちいさな会釈をした。おじゃまだったかしら、と言いたげに思えた。ただ、僕に千里の面倒を見る権利を与えてくれたのは救いだった。

 喉が疲弊して声がかすれてきたところで、千里が「そろそろ休憩にしたほうがいいんじゃない」と提案する。

 千里は僕の背中からいったん離れ、おやつの載ったお盆を慎重に手で探る。お盆まで案内しようと千里の手を浅く握ると、千里も僕の手を握り返した。

 千里はマグカップにたどり着くと、しっかりとそれをつかんで持ち上げる。紅茶をひとくち喉に通す。心ここにあらずという雰囲気のままで、ぽろりと僕に尋ねる。

「あたしの分のおやつ、いる?」

「ううん。ひとつあればじゅうぶんだよ。それ以上はいいや。食欲ないの?」

「物語を聞いていたら、それだけでお腹いっぱいになってきた気がするの」

「じゃあ僕も、シフォンケーキは後にしようかな」

「えー、同調しなくたっていいんだよ、和也くんはライト・フレンドなんだからさ」

 千里はそう言うけれど、僕自身はそんなふうに思えるわけがない。なぜなら、僕が背負った十字架はあまりにも重いものだからだ。

 それでも、あくまで気軽な友達として振る舞わなければならない。僕が背負っている罪を千里に気づかれたら、それこそ千里まで心を痛めてしまうに違いない。
 
 千里の閉じたまぶたの顔に視線を送ると、続きを想像しているのか表情がころころと変化している。次の展開が待ちきれないらしい。

「じゃあさ、読み終わったら一緒に食べようよ」

「うん、そうする。でも、ずっと読んでいるの、大変じゃない?」

「ちょっと大変だけど……でも、気分がいいんだ。ただ読んであげるだけなのに、なかなか楽しくなってきた」

「和也くん、声が優しくてなんだかいいなぁ。それに聴いているだけで、鮮やかな風景が見えてくる感じがするよ」

 そう言って満面の笑みを僕に向ける。その無邪気な表情に、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。

「ああ、そうだね。僕が見えている風景ときっと一緒だ」

「本の物語の中では、目が見えても見えなくても、平等に世界を描けるもんね~」

「いいこと言うじゃん。今ここに新たな名言が生まれたね。じゃあ、そろそろ物語の続きを見に行こうか(・・・・・・)

「やった! 和也くん、頑張ってね」

 腰を据えると、千里も無言でさっきまでいた場所に戻り、ふたたび僕の背中によりかかる。ちゃっかりと僕をレギュラーの背もたれに認定したようで遠慮の欠片すらなくなっていた。

 物語の続きを朗読し始めると、千里は息をひそめて僕の声を傾聴する。物語が進んでいく間、僕らは確かに同じ空間の中にいて、等しい時間の流れを共有していた。ジョバンニとカンパネルラ、そして彼らを取り巻く登場人物が舞台の中でドラマを演じてゆく。僕たちは観客として物語の行く末を見守っている。

 ふと、僕は奇妙な感覚に気づいた。あれほど僕を苦しめていた胸の中の呵責が、いつの間にか薄らいで姿を見せなくなっていたのだ。しだいに僕自身が羽毛のように軽くなって、宙を漂っているような気分になる。心が軽くなるとは、こういうことなのだろうか。きっと、千里の願いに応える穏やかな時間の中では、僕の罪が赦されているのだろう。

 さっきまでの青空はいつの間にか茜色に衣替えをしていて、開いた本もやわらかなオレンジに染められていた。地平線に手を伸ばした太陽が、ひとつになった僕らの影を無地の壁に映しだす。物語はいよいよ佳境を迎えていた。

 僕は高鳴る胸をなだめながら、じっくりと噛み締めるように言葉を紡いでゆく。いよいよフィナーレが近づいている。

『どこまでも行ける切符』を手にしたジョバンニは、『ほんとうの幸い』がいったいなんなのか、その答えを探しながら現世へと戻ってゆく。そして最後にはカンパネルラのたどった運命が明かされる。

 読み終わったところで吐いた息は、思いのほか熱がこもっていた。気づくと千里は鼻をすすっていて、かすかな身震いが背中に伝わってきた。振り向いて千里の様子をうかがうと顔を伏せたまま身じろぎひとつしないでいる。

 悲しい結末の物語。けれど、どんな不自由があっても未来には未知の世界も、そしてまだ知らない幸せもあるはずだと、僕は千里に伝えたくてこの物語を選んだのだ。

 僕の想いは千里の心に届いただろうか、そうであってほしいと願う。