「なーんだ。まっ、そんなわけないわよね。ごめんね、おばさん変な勘違いしちゃって」

 僕はかろうじて冷静さを取り戻したが、今度はおばさんの顔が林檎のように紅潮している。

「千里、あんまり馴れ馴れしくしないの。和也くんに迷惑でしょ」

「はぁ~い」

 とりあえず、匂いを嗅がれていたのを僕がかたくなに拒否したところだったということで、誤解は解けて丸く収まった。後ろめたさがないことをアピールするために、堂々とリビングでロールケーキをいただくことにした。

 テーブルで向かい合うおばさんは頬杖をついて、まじまじと僕の顔を眺めている。千里は着替えてからにすると言っていったん自分の部屋に戻っていた。

「千里、今日はなんだかとっても楽しそう。もしよかったらまた遊びに来てね」

 そう言って目を細めたおばさんは僕に期待をしているようだけれど、それは正直、的外れだ。

 いくら千里が気軽(ライト)友達(フレンド)と言ってくれたとはいえ、大人になってゆく僕らがふたりだけで部屋に閉じこもっているのは怪しすぎる。かと言って、目の見えない彼女を連れて出かける権利なんて僕にはないし、事故が起きたら責任を負えるはずもない。

 千里は気さくに話ができる相手という気はしたけれど、さまざまな制約が弊害となって、普通の友達を続けられるなんて思えない。障害者が健常人と交流するには努力と覚悟が必要だろうけど、逆もまたそうなのだ。僕は今日一日で千里の生活が自分とはだいぶ違うことを実感した。

 だから、互いは互いの生活を尊重しなくてはいけない。千里には千里の進路があって、僕には受験勉強と、その先には新しい高校生活が待っている。

 それに千里と会い、話ができたことで、この街を訪れた目的はじゅうぶんに達成できていた。だから、千里とはもう会うことはないかもしれない。受験を控えた僕に千里が無理を言うことはないだろうし、連絡があったとしても言い訳はいくらでもある。

 けれど気になることは解決しておきたいので、おばさんに尋ねる。

「千里さん、いったいどんな病気だったんですか? 母からはなにも聞かされていなくて……」

 おばさんは包み隠さず教えてくれた。関係が途絶えた理由をわかってもらう意図があったのだろう。

「両眼にできるできものみたいなもの。正直、もうちょっと発見が早ければ放射線治療だけでよかったかもしれなかったの」

「目を失わなくて済んだっていうことですか」

「うん。最初、目がおかしかったことを隠していたみたいなの。あんまり顔を合わせなくなったと思ったら、両眼が白っぽくなっていたのよ。おかしいとは思ったけれど、ちゃんと見えるから大丈夫って言って、病院に行くのを嫌がっちゃってねぇ……」

 おばさんは思いだすように天井を見上げるが、瞳がかすかに揺らいでいた。ずっと後悔して心を痛めているんだなと気づいた。その表情に僕も胸の奥がぎゅっと苦しくなる。視線をロールケーキに移して気づかないふりをした。

 戻ってきた千里は、シンプルなトレーナーとデニム生地のパンツの、カジュアルな格好をしていた。定位置さえ決めておけば、着替えは問題なくこなせるらしい。でも、面倒なボタンのない服は予想通りだった。

 手探りで椅子を確認し、ちょこんと僕の隣に座る。慎重にテーブルの上に指を沿わせて皿とカップを発見した。紅茶はティーカップではなく、安定感のある肉厚のマグカップに注がれている。カップの周囲に指を巡らせて持ち手を見つけ、慎重に温度を確かめた。その様子を横目に見ながら、深い森の中を探索するような毎日なんだなと苦労を察する。

「では、いっただきまーす!」

「それでは僕もいただきます」

 ロールケーキを口にして、生地がふわふわでおいしいね、と感謝を込めた感想を言うと、千里も嬉しそうに口元を緩めた。飲み込んだあと、何気なく僕に問いかけてきた。

「ねーねー、和也くんは携帯持っているよね」

「あっ、うん」

 僕は反射的に返事をしてから、しまったと思った。もしも聞かれたら、ないと答えるつもりだったのに。

「そしたらさ、電話番号教えてくれる?」

 やっぱりそうだ、しかも母親の手前、断るのは礼儀知らずに思われるだろう。尋ね方もこの場で聞いたことも、連絡先を入手するための作戦だったのかもしれない。今後の交流はなさそうだと思っていたけれど、観念して電話番号を伝える。

 千里はポケットから携帯電話を取りだし、僕が伝えた番号を入力する。画面を見ずに指先の記憶だけでボタンをプッシュするさまは、手品師のように鮮やかに見えた。カバンの中の携帯電話が僕を呼んだけれど、それはすぐに止んだ。

「今の電話、あたし。ちゃんと登録しておいてね」

 自分の番号を伝えると同時に、僕の番号が正しいことも確認したようだ。かすかに浮かべた笑みが、どれほどの期待感を込めているのか僕にはわからない。

 千里は僕の携帯電話の番号を何度か反芻し、最後に、よし覚えたと小声を発した。昔は電話番号など頭で覚えたものだと、父が僕に話したことを思いだした。

 おやつのお礼を言い、ふたりに別れを告げて帰路につく。そのときは、千里にはもう会わないのだろうと思っていた。誘われたときの言い訳だけは準備しておくつもりだった。

 けれど、結局はふたたび千里の家を訪れることになる。

 予想に反して千里からは一度も電話がなかったけれど、ふたたび会う決心をしたのは僕自身だった。

 人生には、自分の未来を決定づけるターニングポイントがどこかに存在するという。そのときは気づかないけれど、時が過ぎると気づくことのようだ。登ってきた山道を振り返って眺める地上の景色のようなものらしい。

 そして間違いなく、この一日が僕にとってのターニングポイントだった。

 僕は、今の千里と会ったことで気づいてしまったのだ。僕自身が、過去におおきな過ちを犯していたことに。

 それは僕が自分の目玉をえぐりとって千里に捧げたいと思うほどの、果てしなく深い罪だった。