「ああ、風が吹くと砂埃で目を傷める人が増えて、そういう人たちは生計を立てるために三味線を弾くんだってさ。それからめぐりめぐって桶屋が儲かるっていう理屈だよ。江戸時代は目が悪いと音楽家になるのが一般的だったらしいんだ」
「へー、ことわざに背中を押してもらえた気がする! でも、和也くんってとっても話しやすいよね。おしゃべり好きなの?」
千里は陽だまりのような、やわらかな笑顔を浮かべた。僕もつられて口元がぎこちなく緩む。
「いやそれがぜんぜん。女の子とこんなに話したことなんか、人生のどこを探したってなかったよ」
「へぇ、意外。あたしに会いに来るくらいだから社交的な人かと思っていたのに」
「そうじゃない、友達だってほとんどいないし」
自分でそう言ってから、ほんとうに仲の良い友達がいないことにいまさら気づく。
「それも意外~! そしたらあたしが和也くんの人生でナンバーワンの話し相手だねっ! ふふ~ん、なんだか勝った気分!」
「ははっ、デフォルトで免疫がついているからだろうね」
「うんっ。和也くんはあたしのライト・フレンドだよ!」
――ライト・フレンドか。
そう言った千里は、僕に対して友達としての親しみと期待を抱いたようだった。僕はいつも他人との間に見えない壁を作ってしまうのに、千里はたったひとことで軽々と壁を越えてきた。
思えば合唱祭の歌だってそうだ。心の奥をつかむような声質、僕の深層に触れてくるようなビブラート。千里は他人の心を動かす個性を持っているのだろうか。
「特別支援学校には高校受験ってないんだよね?」
「うん。だから来年は高校生。校舎は一緒なんだ。制服は変わるけど」
「ああ、あの臙脂色のやつだね」
「うわぁ詳しいね、ひょっとして和也くん、ちまたで言うところの制服マニア?」
「そんなわけないよ! さっき高校生も見かけたから。なかなかスタイリッシュな制服だったよ」
「やった! ダサかったらどうしようって思っていたんだ。……見えないから」
そうだ、彼女は制服のデザインすら楽しめないんだ。
「ごめん。悪いこと言ったみたいで」
「いいよ。楽しみが少ないのはしかたないよ。でも、和也くんは楽しいことってある? 部活とかやっているの?」
「ううん、やってない。インドア神を信仰している。……って、小説に出てきた冗談だけどさ」
「あはは、インドア神って暗そうな神様! でも、読書好きなの?」
訊かれて答えをためらう。文字を読めない千里に読書の話などもってのほかだ。
「……うん、まあ。だけど、そんな崇高な文学じゃないよ。エンタメの小説だよ」
「へえ、どんなのがあって、どんなのが好きなの?」
千里は好奇心が旺盛なのか、本の世界に興味津々のようだ。しかたなく言葉を選んで口を割ると、千里の表情はさらに爛々としてくる。
「ねえ、もっと詳しく教えてくれない?」
「あっ、ああ……」
尋ねられるままに物語のジャンルや既読の本について説明する。その間、千里は真剣そのものの表情で聞き入っている。
拙い解説が終わるまで、千里はずっと僕の口元に注意を向けていて、しかも夢中になっているのか、徐々に距離が詰まってきた。僕は微妙に後ずさりしながら一定の距離を保つ。
「いいなぁ、和也くんはいろんな物語が読めて」
「まあ、みんながみんな、面白い作品だってわけじゃないけどね。好みってあるから」
読めない本に憧憬を抱かれても申しわけないので、ネガティブな意見に寄せてみたものの、その作戦はまるで効果なしだった。千里は犬が匂いを嗅ぐように、さらに顔の距離を詰めてくる。
「あたしも本を読んでみたいなー。点字だとなかなか進まないし、道徳的な物語ばっかりでつまらないし」
「活字を読むのって目が疲れるから、万人におすすめはできないよ。寝落ちだってしょっちゅうだしさ」
なんとかかわそうとするが、千里はスッポンさながらに本の話題に食いついて離れない。
「なんだか、物語の世界があたしを呼んでいる気がするんだけど」
「ぜんぜん呼ばれてないから。万一呼ばれたら、留守だって言っておくから」
じりじりと迫りながら羨ましいと連呼する千里は明らかに不自然だった。僕はそのしつこい態度から千里の狙いに気づいてしまったのだ。
それは、千里の立場になってみれば明快な意図に思えた。千里が言うところの『エンパシー』とは、こういうことかもしれない。
そう、千里は僕が提案するのを待っているに違いないのだ。『本、読んであげようか?』と。
けれどそんなこと、安請け合いできるはずがない。単行本を一冊朗読するのにどれだけの時間と労力が必要なのか。でも、千里はきっとそれをわかって訊いている。自分からお願いするのは厚かましいから、僕に自主的に答えさせようとしている。きっとそういうことだ。
意図を察した僕の警戒心が発動する。千里のやわらかい頬を両手で挟み、顔を引き離しにかかる。
「はい、読書の話はここまで。思春期男子に近づきすぎるのはいろいろ危険だぞ」
「むぎゅう~。せっかくその思春期男子の匂いを味わっていたのにぃ」
「嗅いでいたのかよ。今度来ることがあったら、朝飯にキムチ納豆食べてくるから覚悟しておくんだな」
「ひっど!」
千里はぷぅと唇を尖らせて怒ってみせる。閉眼しているから、キスシーンの演技のようにも見えかねない。いけない、危険な想像を頭から追い払う。
そのとき、背後でぎぃ、と扉が開く音がした。振り返るとおばさんが飲み物とロールケーキを載せた盆を手に、あっけにとられた顔をしている。まさに、見てはいけないものを見てしまったという表情だ。
なんてバッドタイミングだ!
「あっ、えっ、わたし、おじゃまでしたよね……? ごめんなさいっ!」
おばさんは壮大に気まずさを浮かべ、逆再生するかのように廊下を後ずさりしていった。
「ちっ、違います……ッ!」
僕の顔は瞬間湯沸かし器になり、頭のてっぺんから蒸気が吹きだした。
けれど、あわてふためく僕とは対照的に、千里は僕の手のひらに挟まれたまま、不思議そうな表情を浮かべていた。
「へー、ことわざに背中を押してもらえた気がする! でも、和也くんってとっても話しやすいよね。おしゃべり好きなの?」
千里は陽だまりのような、やわらかな笑顔を浮かべた。僕もつられて口元がぎこちなく緩む。
「いやそれがぜんぜん。女の子とこんなに話したことなんか、人生のどこを探したってなかったよ」
「へぇ、意外。あたしに会いに来るくらいだから社交的な人かと思っていたのに」
「そうじゃない、友達だってほとんどいないし」
自分でそう言ってから、ほんとうに仲の良い友達がいないことにいまさら気づく。
「それも意外~! そしたらあたしが和也くんの人生でナンバーワンの話し相手だねっ! ふふ~ん、なんだか勝った気分!」
「ははっ、デフォルトで免疫がついているからだろうね」
「うんっ。和也くんはあたしのライト・フレンドだよ!」
――ライト・フレンドか。
そう言った千里は、僕に対して友達としての親しみと期待を抱いたようだった。僕はいつも他人との間に見えない壁を作ってしまうのに、千里はたったひとことで軽々と壁を越えてきた。
思えば合唱祭の歌だってそうだ。心の奥をつかむような声質、僕の深層に触れてくるようなビブラート。千里は他人の心を動かす個性を持っているのだろうか。
「特別支援学校には高校受験ってないんだよね?」
「うん。だから来年は高校生。校舎は一緒なんだ。制服は変わるけど」
「ああ、あの臙脂色のやつだね」
「うわぁ詳しいね、ひょっとして和也くん、ちまたで言うところの制服マニア?」
「そんなわけないよ! さっき高校生も見かけたから。なかなかスタイリッシュな制服だったよ」
「やった! ダサかったらどうしようって思っていたんだ。……見えないから」
そうだ、彼女は制服のデザインすら楽しめないんだ。
「ごめん。悪いこと言ったみたいで」
「いいよ。楽しみが少ないのはしかたないよ。でも、和也くんは楽しいことってある? 部活とかやっているの?」
「ううん、やってない。インドア神を信仰している。……って、小説に出てきた冗談だけどさ」
「あはは、インドア神って暗そうな神様! でも、読書好きなの?」
訊かれて答えをためらう。文字を読めない千里に読書の話などもってのほかだ。
「……うん、まあ。だけど、そんな崇高な文学じゃないよ。エンタメの小説だよ」
「へえ、どんなのがあって、どんなのが好きなの?」
千里は好奇心が旺盛なのか、本の世界に興味津々のようだ。しかたなく言葉を選んで口を割ると、千里の表情はさらに爛々としてくる。
「ねえ、もっと詳しく教えてくれない?」
「あっ、ああ……」
尋ねられるままに物語のジャンルや既読の本について説明する。その間、千里は真剣そのものの表情で聞き入っている。
拙い解説が終わるまで、千里はずっと僕の口元に注意を向けていて、しかも夢中になっているのか、徐々に距離が詰まってきた。僕は微妙に後ずさりしながら一定の距離を保つ。
「いいなぁ、和也くんはいろんな物語が読めて」
「まあ、みんながみんな、面白い作品だってわけじゃないけどね。好みってあるから」
読めない本に憧憬を抱かれても申しわけないので、ネガティブな意見に寄せてみたものの、その作戦はまるで効果なしだった。千里は犬が匂いを嗅ぐように、さらに顔の距離を詰めてくる。
「あたしも本を読んでみたいなー。点字だとなかなか進まないし、道徳的な物語ばっかりでつまらないし」
「活字を読むのって目が疲れるから、万人におすすめはできないよ。寝落ちだってしょっちゅうだしさ」
なんとかかわそうとするが、千里はスッポンさながらに本の話題に食いついて離れない。
「なんだか、物語の世界があたしを呼んでいる気がするんだけど」
「ぜんぜん呼ばれてないから。万一呼ばれたら、留守だって言っておくから」
じりじりと迫りながら羨ましいと連呼する千里は明らかに不自然だった。僕はそのしつこい態度から千里の狙いに気づいてしまったのだ。
それは、千里の立場になってみれば明快な意図に思えた。千里が言うところの『エンパシー』とは、こういうことかもしれない。
そう、千里は僕が提案するのを待っているに違いないのだ。『本、読んであげようか?』と。
けれどそんなこと、安請け合いできるはずがない。単行本を一冊朗読するのにどれだけの時間と労力が必要なのか。でも、千里はきっとそれをわかって訊いている。自分からお願いするのは厚かましいから、僕に自主的に答えさせようとしている。きっとそういうことだ。
意図を察した僕の警戒心が発動する。千里のやわらかい頬を両手で挟み、顔を引き離しにかかる。
「はい、読書の話はここまで。思春期男子に近づきすぎるのはいろいろ危険だぞ」
「むぎゅう~。せっかくその思春期男子の匂いを味わっていたのにぃ」
「嗅いでいたのかよ。今度来ることがあったら、朝飯にキムチ納豆食べてくるから覚悟しておくんだな」
「ひっど!」
千里はぷぅと唇を尖らせて怒ってみせる。閉眼しているから、キスシーンの演技のようにも見えかねない。いけない、危険な想像を頭から追い払う。
そのとき、背後でぎぃ、と扉が開く音がした。振り返るとおばさんが飲み物とロールケーキを載せた盆を手に、あっけにとられた顔をしている。まさに、見てはいけないものを見てしまったという表情だ。
なんてバッドタイミングだ!
「あっ、えっ、わたし、おじゃまでしたよね……? ごめんなさいっ!」
おばさんは壮大に気まずさを浮かべ、逆再生するかのように廊下を後ずさりしていった。
「ちっ、違います……ッ!」
僕の顔は瞬間湯沸かし器になり、頭のてっぺんから蒸気が吹きだした。
けれど、あわてふためく僕とは対照的に、千里は僕の手のひらに挟まれたまま、不思議そうな表情を浮かべていた。