銀白色に輝くフルートをしっかりと握りしめ、屋上に続くリノリウムの階段を駆けのぼる。鋼鉄製の重厚なノブに手をかけ、腕に力を込めて扉を開いた。

 澄み切った空から降り注ぐ光線で風景がまっしろに塗りつぶされる。手のひらで光を遮り視界を取り戻すと、目前に広がる屋上の床は普段よりも眩しく感じられた。空を見上げると先週まで浮かんでいたアイスクリームのような雲はすっかり見当たらない。夏は潔く過ぎていったみたいで、頭上は果てのないセレストブルーで覆われている。

 秋の匂いの混ざった風がさらりと頬を撫でてゆく。いたずらっぽく髪を揺らしてから、不思議なほど軽やかに空へと還っていった。

 んーっ、気持ちのいい朝。首筋に滲んだ汗もすぐに乾きそう。

 視線を壁沿いの花壇に移すと、ビオラの花が鮮やかな色彩で咲き誇っている。

 その花壇の縁には腰掛けた男子生徒の姿があった。今日は水曜日だから、やっぱり彼はそこにいた。京本(きょうもと)和也(かずや)くん、城西高校一年生、私のクラスメートのひとりだ。

 彼は水曜日に限って、朝早く屋上に姿を見せるから、私のひとり朝練と鉢合わせになる。開いた本に視線を落とし、かすかに唇を揺らしている。読んでいる本は小型の文庫本で、あたかも朗読の練習をしているような雰囲気。自分の世界に没頭しているみたいで、読書をしているときの表情がとにかく真剣だ。

 けれど、どうして彼は水曜日だけ読書をするのか、理由はよくわからない。
 
 私の演奏を聴いているわけではないし、うっとうしく思っている様子もない。まるで耳に届いていないみたい。

 水曜日以外は、たいていおっとりというか、なんとなく気の抜けた表情をしているのに。

 ためらいを振り払って彼に声をかける。

「おはよう、気持ちのいい朝だね」

 あたりさわりのない挨拶をすると、彼はわずかに顔を上げて私に視線を向けた。一瞬、ほんの一瞬だけ目を細めてちいさな作り笑いを見せると、すぐさま真剣な表情に戻り、手にした本へと向き直る。水曜日の彼が挨拶を返さないことを、私はとっくに承知していた。

 フェンスに歩み寄り、広がる景色を一望する。今日は空気が澄んでいて、山々の辺縁と空の境界が明瞭だ。

 山の麓に広がる平野に、駅から放射状に伸びる幾何学的なアスファルトの造形が、森林の間を縫うように広がっている。私はこの自然と調和した街並みがお気に入りだ。つくづく、この月ケ崎の街に生まれてよかったと思う。

 気持ちが落ち着いたところで、手にしているフルートを掲げて唇にあてがう。胸いっぱいに大気を取り入れ、それからフルートに息を吹き込んだ。

 銀白色のフルートが震え、やわらかな音色が青空に向けて解き放たれる。

 私の演奏、京本くんにはどんなふうに聞こえているのかな? 部活の先輩には、素直で憎めないところが魅力的だよ、って褒められた音色なんだよ。

 でも、きみが答えてくれることは、きっとないと思う。

 だって、水曜日のきみは絶対に喋らないのだから。