五月の第四日曜日――ついに勝負の朝がやってきた。例の公園で、午前十時に六花と待ち合わせだ。
いつも通り朝六時前に起きて、体重を測る。
身長187㎝、体重は70㎏。もともとは120㎏あったことを考えれば、この半年で体重が半分近くにまで落ちたことになる。体脂肪率は11.7%、BMIは20.0で、痩せ気味の標準体重だ。
日々の過酷な食事制限と、膨大な量のトレーニングをこなしてきたおかげで、この異常な減量が成功したのだろう。
すぐにジャージに着替え、日課のランニングを始める。体が羽のように軽く感じ、全身に力がみなぎってくる。筋力、瞬発力、持久力、柔軟性、あらゆる面でフィジカルが過去最高の状態にあると断言できる。
この二か月間、成瀬は本当によく協力してくれた。僕のなけなしの財産を全て差し出したとはいえ、あんなもので釣り合うはずもない。僕の頼みを引き受けてくれた時の言葉通り、彼は本当に、自分の空き時間の全てを僕のために使ってくれたのだから。
毎日、気が遠くなるほど繰り返した1on1の攻防で、僕が勝ち越すことは一度もなかったが、それでもあの成瀬と互角に競り合えるようになっていた。
いつも通りのルーティーンを終えて、いよいよ公園へと足を向ける。
約束の時間の十分以上前に着いたのに、六花の方が先に来ていた。見慣れたピンク色のジャージを着て、髪をポニーテールにした六花が、笑顔で僕に駆け寄ってくる。
「おはよう、空くん。久しぶりだね」
「ああ……そうだな」
六花の顔を見た途端、何だか心臓がドキドキして、上手く言葉が出てこなくなった。
メッセージは毎日交換していたし、電話でもしょっちゅう話していた。でも、顔を合わせるのは二か月ぶりなんだから。
だが僕はすぐに、気を引きしめた。
「やれるだけのことはやってきた。今日は必ず勝たせてもらう!」
六花の顔を見つめ、きっぱりと宣言する。
そう、今は感慨に耽っている場合じゃない。まずは勝負のことだけを考えるんだ。これからも、彼女の隣に立つために。
六花は嬉しそうに頷いて、僕の頭のてっぺんから足の先までをじっくりと眺めた。
「それにしても空くん、見違えたね。どこのモデルさんかってくらいだよ。街を歩いてたらスカウトされそう」
「大袈裟だろ。まあ確かに痩せたし、筋肉も結構付いたけどな」
「それだけじゃないよ。背筋がピンと伸びてて、表情にも自信がみなぎってるもん」
「まあ、体幹を鍛えまくったからな」
僕の身長は187㎝、六花は165㎝。向かい合って立つと大人と子供だな、とあらためて思う。
六花はバスケ選手としては身長が低い部類に入るが、そのハンデを圧倒的な技量で克服してスター選手になったのだ。
とはいえ、僕との身長差は22㎝ある。当然、手足を伸ばせばリーチの差はもっと広がるわけだ。今日は、そのアドバンテージを容赦なく利用させてもらう。
「空くん、今日まで本当にお疲れさま。こんなに頑張ってくれて、正直びっくりしてるんだ。だから私は空くんが勝つことを願ってるけど、一切手は抜かないよ。私もバスケに嘘はつけないから」
「当然だ。手なんて抜かれてたまるかよ」
「うん。じゃあ、勝負だね!」
ジャンケンで負けた僕が先攻を譲り、六花にボールを投げた。
彼女はゴールを目指すために、僕はそれを阻止するために、二人同時に走り出す。
新緑を揺らす強い風を「青嵐」と呼ぶと、国語の授業で習ったのを思い出した。駆けて行く六花の姿が、華麗で爽やかで、まさに風のようだったから。
重心を低く保ったままでの高速移動は、まるで地を滑るよう。ボールを操るリズムは軽やかで、その動きは刻一刻と変化する。
成瀬のドリブルが全てを蹴散らす大型車の爆走なら、彼女のドリブルは地上を一瞬で吹き抜ける、一陣の風だ。
「でも、見えてるぞ。ずっとその動きを追ってきたんだからな!」
僕は六花の前に素早く立ちはだかり、両手を大きく広げて進路をブロックする。だが、彼女のドリブルがこの程度で止まるわけがない。次の瞬間、六花は右手から左手へボールを移すと見せかけ、素早く前方にボールを弾き出す。それと同時に、六花自身もまるで風のようにボールに迫る。
「抜いたよ!」
「甘い!」
六花が僕の脇をすり抜けようとしたその瞬間、僕は大きくステップを踏み、すかさず左腕を伸ばす。そしてボールは六花が追いつく寸前に、僕の手の中に収まった。
「わあ! すごいリーチ。空くん、やるね」
「プッシュクロスなら、前の勝負で見せてもらったからな。今回は対策済みだ!」
僕が六花の攻めを止めたので、スタートラインからのリスタートとなる。
今度は僕が攻める番だ。見てろよ、度肝を抜いてやる!
――いいか、遠慮は一切するな。男子選手のプレッシャーをかけていけ!
成瀬の言葉が脳裏をよぎる。ゴールまでの最短ルートを頭に描きながら、僕は全力でドリブルを始めた。リズミカルにボールを突きながら、全速力で直進する。もしこの勢いのまま六花に衝突すれば、確実に彼女を跳ね飛ばしてしまうだろう。
しかし、僕の突進は思いのほか早くスピードダウンした。六花はまるで怯むことなく、強固な壁のように僕の進路を遮ったのだ。
もちろん、本当に衝突して彼女を倒せばファウルになる。とはいえ、さすがの六花も少しは体がすくむだろうと期待していたのに、全く効果がなかった。僕はドリブルのリズムはそのままに、足を止めて六花のディフェンスと真正面から対峙する。
よし、ここはレッグスルーからのクロスオーバーで突破するか。僕は作戦を決め、すぐに行動に移した。
まずボールを右手から左手へと、足の間を通して素早く渡す。腕の長さを最大限に活かした、地面すれすれの位置でのレッグスルー。六花が反応するのを確認すると同時に、左へ行くと見せかけて右足を大きく踏み込む。相手の方向転換と同時に逆を突き、あとは一気にゴール下まで駆け抜ける!
だがその瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「なん……だって?」
たった今抜き去ったはずの六花が、何故か目の前にいるのだ。
さっきと同じように僕の前に立ちふさがって、さっきより嬉しそうに目をキラキラさせて。
「いいね、今の動き! 以前にはなかった緩急がついてる」
「抜けなきゃ意味がないけどな」
そう返しながらも、彼女に褒められたことは素直に嬉しかった。
よし、見てろよ。驚くのはここからだ!
成瀬から授かった秘策は、まずは一点、早い段階で先制すること。ならば勝負に出るタイミングはここしかない。
右手のドリブルを一瞬止め、左手に素早くボールを移す。このフロントチェンジに六花の目が反応して、体がわずかに左に動いた。今だ!
誘うように左足を浅く前へ出し、すかさず右足を大きく踏み込む。左に突っ込むと見せかけて、すぐさま右へと切り返すのだ。この一連の動きが相手の重心を崩す。
六花の体がわずかに揺れる。それが勝機の訪れを告げる合図だった。
地面を強く蹴って一気に右方向へと加速する。六花もすぐに反応するが、さっきの一瞬の遅れが勝敗を分け、僕は彼女を完全に抜き去った。
「抜いた!」
守る者のいないゴールは、やけに大きく見えた。その下めがけて全力で走り、リングに向かってシュートを放つ。
「やった……!」
ボールがゴールを通り過ぎた瞬間、思わずガッツポーズが出た。六花は驚いた表情で僕を見つめている。
「今のって、クロスジャブだよね? なんて鮮やかなジャブステップなの……」
六花の驚きと称賛に、僕は誇らしげな笑みを浮かべる。
クロスオーバーの応用技の一つ、クロスジャブ。ディフェンダーを二度、上手くすれば三度反応させて翻弄する技だ。それだけに、動作の連携が悪いと隙が生まれてしまう。確実に先制点を取るため、特に練習した技の一つだった。
「これで一対ゼロ。この調子でどんどん行くぞ!」
「そんなに甘いものじゃないよ? すぐに取り返すから!」
六花がより前傾姿勢になり、心持ち目線も鋭くなる。同じディフェンスながら、守りから攻めへとスイッチが切り替わったんだろう。だが、僕はそんな彼女に不敵な笑みを返し、ゆっくりとドリブルしながらコート中央へと進み出た。
「えっ?」
僕がピタリと足を止めたことに気づいて、六花の表情がわずかに困惑したものに変わる。シュートを打つにはまだ遠い距離なのに、僕が進む気配を見せないのだから無理もない。
「なるほど。私の体力を削る作戦ってわけね?」
「ああ。卑怯に見えるかもしれないが、今日はどうしても勝たせてもらう」
バスケットボールにおいて、身長差は覆しがたいアドバンテージだ。試合ではたった数㎝の身長差で辛酸を舐めることもある。まして22㎝の差ともなれば、六花にとってその壁はあまりにも大きい。
「遠い……ね」
六花は体を上下左右に絶え間なく動かして、僕の隙を狙ってくる。しかし、僕は冷静にその動きを視野に収めつつ、常に彼女とボールとの間に体を入れるように立ち回る。成瀬から教わった背中の壁、ジェイルだ。そしてボールは彼女から最も遠い位置で、しっかりとキープし続ける。
とうとう痺れを切らした六花が強引に切り込んできた。もちろんこの動きも織り込み済みだ。大事なのはオフハンドの使い方。空いている左手で彼女との距離を取って……え?
「きゃっ!」
「……柔らかい? って、わぁっ!」
六花の胸を鷲掴みにしてしまったことに気づいて、僕は慌てて手を引っ込める。六花はその隙を見逃さず、あっさりとスティールを決めた。
今の接触は僕のファウル扱いとなり、ゲームはリスタートとなる。左手にボールを抱え、右手で胸を押さえた六花は、少し怒ったような表情をしていた。
「その……六花、ごめん」
「何が?」
「いや、だから、胸を触ってしまって……。もちろん、わざとじゃないんだ」
「謝らなくていいよ。わざとでも構わないから」
「だから、わざとじゃないんだって! えっ?」
「そんなことより、ことバスケに関して、私を女の子扱いしてたら絶対に勝てないよ?」
プイっと横を向いた六花の顔が、さらに真っ赤に染まる。
「そんなことって……」
「そんなことは、そんなことだよっ!」
六花の顔はまだ真っ赤で、目元も恥ずかしそうに潤んでいるけど、表情は至って真剣で――ファウルというよりも、僕の受け答えに怒っているように見える。
彼女は上目遣いで僕を見ながら、ボソリとこう付け足した。
「私にとっても、今日が最後の勝負なんだからね? だから遠慮はしないし、使える手は全て使わせてもらうから」
「わかった。それはお互いさまだ」
僕の言葉に六花はこくんと頷くと、赤い顔を隠すようにうつむいて、そそくさとスタートラインに戻った。
再び六花に攻撃権が移る。六花が高速のドリブルで駆け上がり、僕は彼女の前に大きく両手を広げて立ちはだかる。
さあ、今度はどんなフェイントを仕掛けてくるつもりだ?
六花の動きを一瞬も見逃すまいと、彼女の動きに一瞬も遅れまいと、目を見開いて神経を研ぎ澄ます。
だがその時、これまで流れるようにスムーズだった六花の動きがピタリと止まった。
「えっ?」
それはほんの数秒のことだった。リズミカルに絶えず動き続けていた六花の左足が、数秒だけ地面に固定されたのだ。そのほんの一瞬のストップで、僕のリズムが狂わされ、体が泳がされてしまう。
六花はその隙に右足でコートを蹴って、大きく加速した。あっという間にゴール前まで切り込んで、鮮やかにシュートを決める。
「今のは、ヘビーステップって技。これで同点ね」
「くそっ!」
得点したため、攻撃権は六花のままでリスタートだ。
六花が、今度はゆっくりとしたドリブルで悠々と前に進んでくる。だが、僕が立ちはだかったその瞬間、彼女の動きが一変した。
六花の左足が大きく上がり、空中で素早く前後に動いた。一瞬にして軸足を入れ替えつつ、着地と同時にダッシュする。急激なリズムの変化に、僕の体がついていかない。
「まずい……!」
次の瞬間には、六花の背中はかなり先にあった。静から動への切り替えが鮮やかで、反応する間もなく抜かれたのだ。慌てて追いかける僕の視線の先で、彼女は軽やかにボールをリングへ放り込んだ。
「今のは、ただのリズムチェンジじゃないの。空中で足をシャッフルさせることで、ディフェンスのリズムを狂わせるんだ」
六花が涼しい顔で説明してくれる隣で、僕はギュッと拳を握る。
「これで逆転か……」
前半はディフェンスに徹して六花の体力を奪う作戦だったのに、彼女は息一つ切らしていない。
「空くん。そろそろ本気を出さないと、このまま終わっちゃうよ?」
六花が心配そうに僕の顔を覗き込む。直後、その肩がビクリと震えた。睨んだつもりはなかったけど、きっと僕は鬼のように怖い顔をしていたんだろう。
「ああ……悪いな、六花。ここからが僕の本気だ。もうお前が女の子だからって気づかいはしない。徹底的に潰しにかかるぞ!」
だが、そんな脅し文句みたいな宣戦布告に、六花はニコリと笑って見せた。
「うん! 空くんの本気の本気……死に物狂いの姿を私に見せて」
いつも通り朝六時前に起きて、体重を測る。
身長187㎝、体重は70㎏。もともとは120㎏あったことを考えれば、この半年で体重が半分近くにまで落ちたことになる。体脂肪率は11.7%、BMIは20.0で、痩せ気味の標準体重だ。
日々の過酷な食事制限と、膨大な量のトレーニングをこなしてきたおかげで、この異常な減量が成功したのだろう。
すぐにジャージに着替え、日課のランニングを始める。体が羽のように軽く感じ、全身に力がみなぎってくる。筋力、瞬発力、持久力、柔軟性、あらゆる面でフィジカルが過去最高の状態にあると断言できる。
この二か月間、成瀬は本当によく協力してくれた。僕のなけなしの財産を全て差し出したとはいえ、あんなもので釣り合うはずもない。僕の頼みを引き受けてくれた時の言葉通り、彼は本当に、自分の空き時間の全てを僕のために使ってくれたのだから。
毎日、気が遠くなるほど繰り返した1on1の攻防で、僕が勝ち越すことは一度もなかったが、それでもあの成瀬と互角に競り合えるようになっていた。
いつも通りのルーティーンを終えて、いよいよ公園へと足を向ける。
約束の時間の十分以上前に着いたのに、六花の方が先に来ていた。見慣れたピンク色のジャージを着て、髪をポニーテールにした六花が、笑顔で僕に駆け寄ってくる。
「おはよう、空くん。久しぶりだね」
「ああ……そうだな」
六花の顔を見た途端、何だか心臓がドキドキして、上手く言葉が出てこなくなった。
メッセージは毎日交換していたし、電話でもしょっちゅう話していた。でも、顔を合わせるのは二か月ぶりなんだから。
だが僕はすぐに、気を引きしめた。
「やれるだけのことはやってきた。今日は必ず勝たせてもらう!」
六花の顔を見つめ、きっぱりと宣言する。
そう、今は感慨に耽っている場合じゃない。まずは勝負のことだけを考えるんだ。これからも、彼女の隣に立つために。
六花は嬉しそうに頷いて、僕の頭のてっぺんから足の先までをじっくりと眺めた。
「それにしても空くん、見違えたね。どこのモデルさんかってくらいだよ。街を歩いてたらスカウトされそう」
「大袈裟だろ。まあ確かに痩せたし、筋肉も結構付いたけどな」
「それだけじゃないよ。背筋がピンと伸びてて、表情にも自信がみなぎってるもん」
「まあ、体幹を鍛えまくったからな」
僕の身長は187㎝、六花は165㎝。向かい合って立つと大人と子供だな、とあらためて思う。
六花はバスケ選手としては身長が低い部類に入るが、そのハンデを圧倒的な技量で克服してスター選手になったのだ。
とはいえ、僕との身長差は22㎝ある。当然、手足を伸ばせばリーチの差はもっと広がるわけだ。今日は、そのアドバンテージを容赦なく利用させてもらう。
「空くん、今日まで本当にお疲れさま。こんなに頑張ってくれて、正直びっくりしてるんだ。だから私は空くんが勝つことを願ってるけど、一切手は抜かないよ。私もバスケに嘘はつけないから」
「当然だ。手なんて抜かれてたまるかよ」
「うん。じゃあ、勝負だね!」
ジャンケンで負けた僕が先攻を譲り、六花にボールを投げた。
彼女はゴールを目指すために、僕はそれを阻止するために、二人同時に走り出す。
新緑を揺らす強い風を「青嵐」と呼ぶと、国語の授業で習ったのを思い出した。駆けて行く六花の姿が、華麗で爽やかで、まさに風のようだったから。
重心を低く保ったままでの高速移動は、まるで地を滑るよう。ボールを操るリズムは軽やかで、その動きは刻一刻と変化する。
成瀬のドリブルが全てを蹴散らす大型車の爆走なら、彼女のドリブルは地上を一瞬で吹き抜ける、一陣の風だ。
「でも、見えてるぞ。ずっとその動きを追ってきたんだからな!」
僕は六花の前に素早く立ちはだかり、両手を大きく広げて進路をブロックする。だが、彼女のドリブルがこの程度で止まるわけがない。次の瞬間、六花は右手から左手へボールを移すと見せかけ、素早く前方にボールを弾き出す。それと同時に、六花自身もまるで風のようにボールに迫る。
「抜いたよ!」
「甘い!」
六花が僕の脇をすり抜けようとしたその瞬間、僕は大きくステップを踏み、すかさず左腕を伸ばす。そしてボールは六花が追いつく寸前に、僕の手の中に収まった。
「わあ! すごいリーチ。空くん、やるね」
「プッシュクロスなら、前の勝負で見せてもらったからな。今回は対策済みだ!」
僕が六花の攻めを止めたので、スタートラインからのリスタートとなる。
今度は僕が攻める番だ。見てろよ、度肝を抜いてやる!
――いいか、遠慮は一切するな。男子選手のプレッシャーをかけていけ!
成瀬の言葉が脳裏をよぎる。ゴールまでの最短ルートを頭に描きながら、僕は全力でドリブルを始めた。リズミカルにボールを突きながら、全速力で直進する。もしこの勢いのまま六花に衝突すれば、確実に彼女を跳ね飛ばしてしまうだろう。
しかし、僕の突進は思いのほか早くスピードダウンした。六花はまるで怯むことなく、強固な壁のように僕の進路を遮ったのだ。
もちろん、本当に衝突して彼女を倒せばファウルになる。とはいえ、さすがの六花も少しは体がすくむだろうと期待していたのに、全く効果がなかった。僕はドリブルのリズムはそのままに、足を止めて六花のディフェンスと真正面から対峙する。
よし、ここはレッグスルーからのクロスオーバーで突破するか。僕は作戦を決め、すぐに行動に移した。
まずボールを右手から左手へと、足の間を通して素早く渡す。腕の長さを最大限に活かした、地面すれすれの位置でのレッグスルー。六花が反応するのを確認すると同時に、左へ行くと見せかけて右足を大きく踏み込む。相手の方向転換と同時に逆を突き、あとは一気にゴール下まで駆け抜ける!
だがその瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「なん……だって?」
たった今抜き去ったはずの六花が、何故か目の前にいるのだ。
さっきと同じように僕の前に立ちふさがって、さっきより嬉しそうに目をキラキラさせて。
「いいね、今の動き! 以前にはなかった緩急がついてる」
「抜けなきゃ意味がないけどな」
そう返しながらも、彼女に褒められたことは素直に嬉しかった。
よし、見てろよ。驚くのはここからだ!
成瀬から授かった秘策は、まずは一点、早い段階で先制すること。ならば勝負に出るタイミングはここしかない。
右手のドリブルを一瞬止め、左手に素早くボールを移す。このフロントチェンジに六花の目が反応して、体がわずかに左に動いた。今だ!
誘うように左足を浅く前へ出し、すかさず右足を大きく踏み込む。左に突っ込むと見せかけて、すぐさま右へと切り返すのだ。この一連の動きが相手の重心を崩す。
六花の体がわずかに揺れる。それが勝機の訪れを告げる合図だった。
地面を強く蹴って一気に右方向へと加速する。六花もすぐに反応するが、さっきの一瞬の遅れが勝敗を分け、僕は彼女を完全に抜き去った。
「抜いた!」
守る者のいないゴールは、やけに大きく見えた。その下めがけて全力で走り、リングに向かってシュートを放つ。
「やった……!」
ボールがゴールを通り過ぎた瞬間、思わずガッツポーズが出た。六花は驚いた表情で僕を見つめている。
「今のって、クロスジャブだよね? なんて鮮やかなジャブステップなの……」
六花の驚きと称賛に、僕は誇らしげな笑みを浮かべる。
クロスオーバーの応用技の一つ、クロスジャブ。ディフェンダーを二度、上手くすれば三度反応させて翻弄する技だ。それだけに、動作の連携が悪いと隙が生まれてしまう。確実に先制点を取るため、特に練習した技の一つだった。
「これで一対ゼロ。この調子でどんどん行くぞ!」
「そんなに甘いものじゃないよ? すぐに取り返すから!」
六花がより前傾姿勢になり、心持ち目線も鋭くなる。同じディフェンスながら、守りから攻めへとスイッチが切り替わったんだろう。だが、僕はそんな彼女に不敵な笑みを返し、ゆっくりとドリブルしながらコート中央へと進み出た。
「えっ?」
僕がピタリと足を止めたことに気づいて、六花の表情がわずかに困惑したものに変わる。シュートを打つにはまだ遠い距離なのに、僕が進む気配を見せないのだから無理もない。
「なるほど。私の体力を削る作戦ってわけね?」
「ああ。卑怯に見えるかもしれないが、今日はどうしても勝たせてもらう」
バスケットボールにおいて、身長差は覆しがたいアドバンテージだ。試合ではたった数㎝の身長差で辛酸を舐めることもある。まして22㎝の差ともなれば、六花にとってその壁はあまりにも大きい。
「遠い……ね」
六花は体を上下左右に絶え間なく動かして、僕の隙を狙ってくる。しかし、僕は冷静にその動きを視野に収めつつ、常に彼女とボールとの間に体を入れるように立ち回る。成瀬から教わった背中の壁、ジェイルだ。そしてボールは彼女から最も遠い位置で、しっかりとキープし続ける。
とうとう痺れを切らした六花が強引に切り込んできた。もちろんこの動きも織り込み済みだ。大事なのはオフハンドの使い方。空いている左手で彼女との距離を取って……え?
「きゃっ!」
「……柔らかい? って、わぁっ!」
六花の胸を鷲掴みにしてしまったことに気づいて、僕は慌てて手を引っ込める。六花はその隙を見逃さず、あっさりとスティールを決めた。
今の接触は僕のファウル扱いとなり、ゲームはリスタートとなる。左手にボールを抱え、右手で胸を押さえた六花は、少し怒ったような表情をしていた。
「その……六花、ごめん」
「何が?」
「いや、だから、胸を触ってしまって……。もちろん、わざとじゃないんだ」
「謝らなくていいよ。わざとでも構わないから」
「だから、わざとじゃないんだって! えっ?」
「そんなことより、ことバスケに関して、私を女の子扱いしてたら絶対に勝てないよ?」
プイっと横を向いた六花の顔が、さらに真っ赤に染まる。
「そんなことって……」
「そんなことは、そんなことだよっ!」
六花の顔はまだ真っ赤で、目元も恥ずかしそうに潤んでいるけど、表情は至って真剣で――ファウルというよりも、僕の受け答えに怒っているように見える。
彼女は上目遣いで僕を見ながら、ボソリとこう付け足した。
「私にとっても、今日が最後の勝負なんだからね? だから遠慮はしないし、使える手は全て使わせてもらうから」
「わかった。それはお互いさまだ」
僕の言葉に六花はこくんと頷くと、赤い顔を隠すようにうつむいて、そそくさとスタートラインに戻った。
再び六花に攻撃権が移る。六花が高速のドリブルで駆け上がり、僕は彼女の前に大きく両手を広げて立ちはだかる。
さあ、今度はどんなフェイントを仕掛けてくるつもりだ?
六花の動きを一瞬も見逃すまいと、彼女の動きに一瞬も遅れまいと、目を見開いて神経を研ぎ澄ます。
だがその時、これまで流れるようにスムーズだった六花の動きがピタリと止まった。
「えっ?」
それはほんの数秒のことだった。リズミカルに絶えず動き続けていた六花の左足が、数秒だけ地面に固定されたのだ。そのほんの一瞬のストップで、僕のリズムが狂わされ、体が泳がされてしまう。
六花はその隙に右足でコートを蹴って、大きく加速した。あっという間にゴール前まで切り込んで、鮮やかにシュートを決める。
「今のは、ヘビーステップって技。これで同点ね」
「くそっ!」
得点したため、攻撃権は六花のままでリスタートだ。
六花が、今度はゆっくりとしたドリブルで悠々と前に進んでくる。だが、僕が立ちはだかったその瞬間、彼女の動きが一変した。
六花の左足が大きく上がり、空中で素早く前後に動いた。一瞬にして軸足を入れ替えつつ、着地と同時にダッシュする。急激なリズムの変化に、僕の体がついていかない。
「まずい……!」
次の瞬間には、六花の背中はかなり先にあった。静から動への切り替えが鮮やかで、反応する間もなく抜かれたのだ。慌てて追いかける僕の視線の先で、彼女は軽やかにボールをリングへ放り込んだ。
「今のは、ただのリズムチェンジじゃないの。空中で足をシャッフルさせることで、ディフェンスのリズムを狂わせるんだ」
六花が涼しい顔で説明してくれる隣で、僕はギュッと拳を握る。
「これで逆転か……」
前半はディフェンスに徹して六花の体力を奪う作戦だったのに、彼女は息一つ切らしていない。
「空くん。そろそろ本気を出さないと、このまま終わっちゃうよ?」
六花が心配そうに僕の顔を覗き込む。直後、その肩がビクリと震えた。睨んだつもりはなかったけど、きっと僕は鬼のように怖い顔をしていたんだろう。
「ああ……悪いな、六花。ここからが僕の本気だ。もうお前が女の子だからって気づかいはしない。徹底的に潰しにかかるぞ!」
だが、そんな脅し文句みたいな宣戦布告に、六花はニコリと笑って見せた。
「うん! 空くんの本気の本気……死に物狂いの姿を私に見せて」