五月の第四日曜日――ついに勝負の朝がやってきた。例の公園で、午前十時に六花(りっか)と待ち合わせだ。

 いつも通り朝六時前に起きて、体重を(はか)る。
 身長187㎝、体重は70㎏。もともとは120㎏あったことを考えれば、この半年で体重が半分近くにまで落ちたことになる。体脂肪率は11.7%、BMIは20.0で、()せ気味の標準体重だ。
 日々の過酷な食事制限と、膨大な量のトレーニングをこなしてきたおかげで、この異常な減量が成功したのだろう。

 すぐにジャージに着替え、日課のランニングを始める。体が羽のように軽く感じ、全身に力がみなぎってくる。筋力、瞬発力、持久力、柔軟性、あらゆる面でフィジカルが過去最高の状態にあると断言できる。

 この二か月間、成瀬は本当によく協力してくれた。僕のなけなしの財産を全て差し出したとはいえ、あんなもので釣り合うはずもない。僕の頼みを引き受けてくれた時の言葉通り、彼は本当に、自分の空き時間の全てを僕のために使ってくれたのだから。

 毎日、気が遠くなるほど繰り返した1on1の攻防で、僕が勝ち越すことは一度もなかったが、それでもあの成瀬と互角に()り合えるようになっていた。

 いつも通りのルーティーンを終えて、いよいよ公園へと足を向ける。
 約束の時間の十分以上前に着いたのに、六花の方が先に来ていた。見慣れたピンク色のジャージを着て、髪をポニーテールにした六花が、笑顔で僕に駆け寄ってくる。

「おはよう、空くん。久しぶりだね」
「ああ……そうだな」
 六花の顔を見た途端、何だか心臓がドキドキして、上手く言葉が出てこなくなった。
 メッセージは毎日交換していたし、電話でもしょっちゅう話していた。でも、顔を合わせるのは二か月ぶりなんだから。

 だが僕はすぐに、気を引きしめた。
「やれるだけのことはやってきた。今日は必ず勝たせてもらう!」
 六花の顔を見つめ、きっぱりと宣言する。
 そう、今は感慨に(ふけ)っている場合じゃない。まずは勝負のことだけを考えるんだ。これからも、彼女の隣に立つために。

 六花は嬉しそうに頷いて、僕の頭のてっぺんから足の先までをじっくりと眺めた。
「それにしても空くん、見違えたね。どこのモデルさんかってくらいだよ。街を歩いてたらスカウトされそう」
「大袈裟だろ。まあ確かに痩せたし、筋肉も結構付いたけどな」
「それだけじゃないよ。背筋がピンと伸びてて、表情にも自信がみなぎってるもん」
「まあ、体幹(たいかん)を鍛えまくったからな」

 僕の身長は187㎝、六花は165㎝。向かい合って立つと大人と子供だな、とあらためて思う。
 六花はバスケ選手としては身長が低い部類に入るが、そのハンデを圧倒的な技量で克服してスター選手になったのだ。
 とはいえ、僕との身長差は22㎝ある。当然、手足を伸ばせばリーチの差はもっと広がるわけだ。今日は、そのアドバンテージを容赦なく利用させてもらう。

「空くん、今日まで本当にお疲れさま。こんなに頑張ってくれて、正直びっくりしてるんだ。だから私は空くんが勝つことを願ってるけど、一切手は抜かないよ。私もバスケに嘘はつけないから」
「当然だ。手なんて抜かれてたまるかよ」
「うん。じゃあ、勝負だね!」

 ジャンケンで負けた僕が先攻を譲り、六花にボールを投げた。
 彼女はゴールを目指すために、僕はそれを阻止するために、二人同時に走り出す。

 新緑を揺らす強い風を「青嵐(せいらん)」と呼ぶと、国語の授業で習ったのを思い出した。駆けて行く六花の姿が、華麗で爽やかで、まさに風のようだったから。
 重心を低く保ったままでの高速移動は、まるで地を滑るよう。ボールを操るリズムは軽やかで、その動きは刻一刻と変化する。
 成瀬のドリブルが全てを蹴散らす大型車の爆走なら、彼女のドリブルは地上を一瞬で吹き抜ける、一陣の風だ。
「でも、見えてるぞ。ずっとその動きを追ってきたんだからな!」

 僕は六花の前に素早く立ちはだかり、両手を大きく広げて進路をブロックする。だが、彼女のドリブルがこの程度で止まるわけがない。次の瞬間、六花は右手から左手へボールを移すと見せかけ、素早く前方にボールを弾き出す。それと同時に、六花自身もまるで風のようにボールに迫る。
「抜いたよ!」
「甘い!」
 六花が僕の脇をすり抜けようとしたその瞬間、僕は大きくステップを踏み、すかさず左腕を伸ばす。そしてボールは六花が追いつく寸前に、僕の手の中に収まった。

「わあ! すごいリーチ。空くん、やるね」
「プッシュクロスなら、前の勝負で見せてもらったからな。今回は対策済みだ!」

 僕が六花の攻めを止めたので、スタートラインからのリスタートとなる。
 今度は僕が攻める番だ。見てろよ、度肝(どぎも)を抜いてやる!

――いいか、遠慮は一切するな。男子選手のプレッシャーをかけていけ!

 成瀬の言葉が脳裏をよぎる。ゴールまでの最短ルートを頭に描きながら、僕は全力でドリブルを始めた。リズミカルにボールを突きながら、全速力で直進する。もしこの勢いのまま六花に衝突すれば、確実に彼女を跳ね飛ばしてしまうだろう。
 しかし、僕の突進は思いのほか早くスピードダウンした。六花はまるで(ひる)むことなく、強固な壁のように僕の進路を(さえぎ)ったのだ。

 もちろん、本当に衝突して彼女を倒せばファウルになる。とはいえ、さすがの六花も少しは体がすくむだろうと期待していたのに、全く効果がなかった。僕はドリブルのリズムはそのままに、足を止めて六花のディフェンスと真正面から対峙する。

 よし、ここはレッグスルーからのクロスオーバーで突破するか。僕は作戦を決め、すぐに行動に移した。
 まずボールを右手から左手へと、足の間を通して素早く渡す。腕の長さを最大限に活かした、地面すれすれの位置でのレッグスルー。六花が反応するのを確認すると同時に、左へ行くと見せかけて右足を大きく踏み込む。相手の方向転換と同時に逆を突き、あとは一気にゴール下まで駆け抜ける!
 だがその瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。

「なん……だって?」
 たった今抜き去ったはずの六花が、何故か目の前にいるのだ。
 さっきと同じように僕の前に立ちふさがって、さっきより嬉しそうに目をキラキラさせて。

「いいね、今の動き! 以前にはなかった緩急(かんきゅう)がついてる」
「抜けなきゃ意味がないけどな」
 そう返しながらも、彼女に()められたことは素直に嬉しかった。
 よし、見てろよ。驚くのはここからだ!

 成瀬から授かった秘策は、まずは一点、早い段階で先制すること。ならば勝負に出るタイミングはここしかない。
 右手のドリブルを一瞬止め、左手に素早くボールを移す。このフロントチェンジに六花の目が反応して、体がわずかに左に動いた。今だ!

 誘うように左足を浅く前へ出し、すかさず右足を大きく踏み込む。左に突っ込むと見せかけて、すぐさま右へと切り返すのだ。この一連の動きが相手の重心を崩す。
 六花の体がわずかに揺れる。それが勝機の訪れを告げる合図だった。
 地面を強く蹴って一気に右方向へと加速する。六花もすぐに反応するが、さっきの一瞬の遅れが勝敗を分け、僕は彼女を完全に抜き去った。

「抜いた!」
 守る者のいないゴールは、やけに大きく見えた。その下めがけて全力で走り、リングに向かってシュートを放つ。
「やった……!」
 ボールがゴールを通り過ぎた瞬間、思わずガッツポーズが出た。六花は驚いた表情で僕を見つめている。

「今のって、クロスジャブだよね? なんて鮮やかなジャブステップなの……」
 六花の驚きと称賛に、僕は誇らしげな笑みを浮かべる。
 クロスオーバーの応用技の一つ、クロスジャブ。ディフェンダーを二度、上手くすれば三度反応させて翻弄(ほんろう)する技だ。それだけに、動作の連携が悪いと隙が生まれてしまう。確実に先制点を取るため、特に練習した技の一つだった。
「これで一対ゼロ。この調子でどんどん行くぞ!」
「そんなに甘いものじゃないよ? すぐに取り返すから!」

 六花がより前傾姿勢になり、心持ち目線も鋭くなる。同じディフェンスながら、守りから攻めへとスイッチが切り替わったんだろう。だが、僕はそんな彼女に不敵な笑みを返し、ゆっくりとドリブルしながらコート中央へと進み出た。

「えっ?」
 僕がピタリと足を止めたことに気づいて、六花の表情がわずかに困惑したものに変わる。シュートを打つにはまだ遠い距離なのに、僕が進む気配を見せないのだから無理もない。

「なるほど。私の体力を削る作戦ってわけね?」
「ああ。卑怯に見えるかもしれないが、今日はどうしても勝たせてもらう」

 バスケットボールにおいて、身長差は(くつがえ)しがたいアドバンテージだ。試合ではたった数㎝の身長差で辛酸(しんさん)を舐めることもある。まして22㎝の差ともなれば、六花にとってその壁はあまりにも大きい。

「遠い……ね」
 六花は体を上下左右に絶え間なく動かして、僕の隙を狙ってくる。しかし、僕は冷静にその動きを視野に収めつつ、常に彼女とボールとの間に体を入れるように立ち回る。成瀬から教わった背中の壁、ジェイルだ。そしてボールは彼女から最も遠い位置で、しっかりとキープし続ける。

 とうとう痺れを切らした六花が強引に切り込んできた。もちろんこの動きも織り込み済みだ。大事なのはオフハンドの使い方。空いている左手で彼女との距離を取って……え?
「きゃっ!」
「……柔らかい? って、わぁっ!」
 六花の胸を鷲掴みにしてしまったことに気づいて、僕は慌てて手を引っ込める。六花はその隙を見逃さず、あっさりとスティールを決めた。

 今の接触は僕のファウル扱いとなり、ゲームはリスタートとなる。左手にボールを抱え、右手で胸を押さえた六花は、少し怒ったような表情をしていた。

「その……六花、ごめん」
「何が?」
「いや、だから、胸を触ってしまって……。もちろん、わざとじゃないんだ」
「謝らなくていいよ。わざとでも構わないから」
「だから、わざとじゃないんだって! えっ?」
「そんなことより、ことバスケに関して、私を女の子扱いしてたら絶対に勝てないよ?」
 プイっと横を向いた六花の顔が、さらに真っ赤に染まる。
「そんなことって……」
「そんなことは、そんなことだよっ!」

 六花の顔はまだ真っ赤で、目元も恥ずかしそうに潤んでいるけど、表情は至って真剣で――ファウルというよりも、僕の受け答えに怒っているように見える。
 彼女は上目遣いで僕を見ながら、ボソリとこう付け足した。

「私にとっても、今日が最後の勝負なんだからね? だから遠慮はしないし、使える手は全て使わせてもらうから」
「わかった。それはお互いさまだ」
 僕の言葉に六花はこくんと頷くと、赤い顔を隠すようにうつむいて、そそくさとスタートラインに戻った。

 再び六花に攻撃権が移る。六花が高速のドリブルで駆け上がり、僕は彼女の前に大きく両手を広げて立ちはだかる。
 さあ、今度はどんなフェイントを仕掛けてくるつもりだ?
 六花の動きを一瞬も見逃すまいと、彼女の動きに一瞬も遅れまいと、目を見開いて神経を研ぎ澄ます。
 だがその時、これまで流れるようにスムーズだった六花の動きがピタリと止まった。

「えっ?」
 それはほんの数秒のことだった。リズミカルに絶えず動き続けていた六花の左足が、数秒だけ地面に固定されたのだ。そのほんの一瞬のストップで、僕のリズムが狂わされ、体が泳がされてしまう。
 六花はその隙に右足でコートを蹴って、大きく加速した。あっという間にゴール前まで切り込んで、鮮やかにシュートを決める。

「今のは、ヘビーステップって技。これで同点ね」
「くそっ!」
 得点したため、攻撃権は六花のままでリスタートだ。

 六花が、今度はゆっくりとしたドリブルで悠々(ゆうゆう)と前に進んでくる。だが、僕が立ちはだかったその瞬間、彼女の動きが一変した。
 六花の左足が大きく上がり、空中で素早く前後に動いた。一瞬にして軸足を入れ替えつつ、着地と同時にダッシュする。急激なリズムの変化に、僕の体がついていかない。

「まずい……!」
 次の瞬間には、六花の背中はかなり先にあった。静から動への切り替えが鮮やかで、反応する間もなく抜かれたのだ。慌てて追いかける僕の視線の先で、彼女は軽やかにボールをリングへ放り込んだ。

「今のは、ただのリズムチェンジじゃないの。空中で足をシャッフルさせることで、ディフェンスのリズムを狂わせるんだ」
 六花が涼しい顔で説明してくれる隣で、僕はギュッと拳を握る。
「これで逆転か……」
 前半はディフェンスに徹して六花の体力を奪う作戦だったのに、彼女は息一つ切らしていない。

「空くん。そろそろ本気を出さないと、このまま終わっちゃうよ?」
 六花が心配そうに僕の顔を覗き込む。直後、その肩がビクリと震えた。睨んだつもりはなかったけど、きっと僕は鬼のように怖い顔をしていたんだろう。

「ああ……悪いな、六花。ここからが僕の本気だ。もうお前が女の子だからって気づかいはしない。徹底的に潰しにかかるぞ!」
 だが、そんな脅し文句みたいな宣戦布告に、六花はニコリと笑って見せた。
「うん! 空くんの本気の本気……死に物狂いの姿を私に見せて」