塞の神は、両膝を抱えて簸の川の岸に座り込んでいた。一人きりだ。
暗い。真っ暗だ。簸の川も今は何も映し出していない。そこにあるのは小さな瀬を作りながら走る穏やかな水流だけだ。それでも、塞の神は川面をじっと見つめていた。
北本武道に言われた言葉を思い出していた。
「あんたは、一人なのか? あんたには、家族はいないのか?」
私は、一人だ。いつも一人だ。私には家族はいない。だって私は……神様だから。塞の神だから。
ここでの時間の流れは生きてる人間の世界とは違う。それでも、ずいぶん長くここにいる。最初は……一番初めは……
気が付くともう、ここにいた。
あの時も、そしてあの時からずっと、ここは真っ暗だ。
真っ暗だったから、自分がどんな姿をしているのかわからなかった。ていうか、自分が何なのかもわからなかった。
怖くはなかった。怖いとか、淋しいとか、そういう感情もなかった、と思う。
しばらくすると、少し離れた場所に光が見えた。光。初めて見る、闇ではない物。
見る、ていうこと自体、その時が初めてだったと思う。
光は、ゆっくりと、自分の方へ近づいてきた。光の中に、人がいた。それが「人」ていう形なんだと、その時の私はまだ知らなかったけど。
男の人だった。「男」とか「女」とか、それも後になって知ったことだけど。
身体は、私よりずっと大きかった。黒い髪の毛があった。それを頭の左右でまとめてお団子にして、紐で結んでいた。やっぱり黒い、鼻髭と顎鬚を生やしていた。白い服を着て、緑色の、宝石? を連ねたネックレスをしていた。腰には剣を下げていた。
その人が私を見て、一度、大きくうなずいた。それから、横の方を指さした。
指さした方向にも、光が見えた。
その人が、その光に向かって歩き出した。私も後を追って、そっちに向かって歩いてた。自分に身体、形があるっていうことを初めて感じた。どんな形なのか、その時にはまだよくわからなかったけど。
そこには、水が流れていた。今、目の前にある、簸の川だ。
川の底が、光っていた。光の中を覗き込んでみると、いろいろな景色が見えた。それが、生きている人間の世界だった。
景色の中で、目の前の男の人と同じような形の人間が、歩いたり、寝たり、笑ったり、泣いたりしていた。
私は長い間、それを見ていた。
いつの間にか、白い服を着た男の人はいなくなっていた。
だんだんに、人間の世界のことが、わかるようになった。話している言葉も理解できるようになった。男の人、女の人、大人、子供。そんな違いもわかるようになった。
こんな場所を見てみたい、そう思うと、自分の思い通りの場所を見ることができた。
学校、ていうところに集まった女の子や男の子たちが、おしゃべりしたり、遊んだり、運動したり……そんな様子を見るのが、好きになった。自分もあの中に加わりたい……そう思った。
その時初めて、自分で自分の姿が見えた。川底に見えた子供たちと同じ、ピンク色の運動着、ジャージを着ていた。
黒くて長い髪があった。自分で頭の後ろにまとめて留めてみた。髪を留める物が欲しいと思うと、手のひらの中にゴム紐があった。
自分の顔を見てみたいと思うと、いつの間にか手鏡を持っていた。
自分の顔を写してみた。可愛いくない……て、思った。
自分でこういう姿になりたいって思うと、その通りの姿になることができた。誰かに見られてるわけじゃない。でも、自分が一番気に入っている、自分が一番好きな自分でいることにした。
やっぱり、ピンクのジャージ。顔は、前よりちょっと、かわいく。
そんな頃また、あの光と、その中の男の人が現れた。
私の目の前まで来ると、その人が、しゃべった。初めてしゃべった。きっと、私が言葉を理解できるようになるのを待っていたんだと思う。
その人が言った。自分は「塞の神」だと。
「塞」は、「塞ぐ」。つまり、進入を防ぐこと。もともとは、村と村を繋ぐ道の守り神で、他の村から悪い人や病が入り込まないようにするのが役目だったと。
でも、人々の住む世界が大きくなって、行き来する道もたくさんできて、そこ通る乗り物のスピードも速くなって、自分の仕事が追いつかなくなってしまった。そしたらいつの間にか、ここにいたんだ、て。ここは、生きてる人の世界と死んだ人の世界を繋ぐ通り道で、塞の神は今、ここで、この道の守り神をしているんだ、て。
その人が言うには、守る、ていうのは、生きている人の世界から死後の世界へ行く魂をせき止める、ていうことじゃなくて、実はその逆で、死後の世界から、人間の世界へ戻ろうとする魂を戻らせないようにすることで、それが自分の本当の仕事だ、て。
死後の世界へ行っても、生きていた世界に悔いや未練があって、それを忘れられなくて生きている世界へ戻ろうとする、そういう魂は後を絶たない。そこで、そもそもここを通る時に、生きてる世界の悔いや未練をなるべく解消してやったら、生きてる世界へ戻りたがる魂も少なくなるんじゃないかって、その人、塞の神さんはそう言った。
でも、時代が変わると悔いや未練の解消の仕方も変わってくる。最近では、自分の力では対応しきれなくなってしまった、そう言ってた。
だから、私にも、塞の神になってほしい、塞の神さんは、そう言った。
自分は、この道のもっと先で、死後の世界から戻ろうとする魂を追い返す仕事に専念する、だから私には、ここで、生きてる世界からやってくる魂の悔いや未練を、今風のやり方で解消する仕事をしてほしい、そう言った。
そんなこと言われても……
私は返事に困った。すると、塞の神さんが言った。
困った時は、必ず助けてもらえる。自分もそうだった。自分にこの仕事を授けてくれたもっと偉い神様がいて、その神様が必ず助けてくれる。そう言った。
それでも……
私が考えている間に、塞の神さんは行ってしまった。呼びとめる間もなかった。あっという間に、光になって、飛ぶような速さで行ってしまった。
私はまた一人になった。
あんなことを言われたけど、ここで何をすればいいのか、さっぱりわからなかった。
しばらくすると、女の人が歩いて来るのが見えた。今度は、塞の神さんが来たのとは反対の方向から。
背が高くて、きちんとしたパンツスーツを着た女の人だった。その時、声が聞こえた。優しい女の人の声だった。歩いて来る女の人の声かと思ったけど、そうじゃなかった。
その声は、ずっと上の方から聞こえていた。
その声が言った。簸の川を見なさい、って。
私が川を覗き込むと、川底が光って、人間の世界が映し出された。それは、今、こっちへ向かって歩いて来る女の人の生きていた世界だった。
すぐにわかった。その人が、何を心残りにしているのか、何をしたかったのかが。
でも私には、何をどうすればいいのかわからなかった。
その時また声がした。その人から、学びなさい、て。
その人は「司法書士」という仕事をしていた。人間の世界の法律の専門家だった。
その人から教えてもらった。人間の世界の、相続のことや、遺言のこと。その法律のこと。
でもそれをどうやって、実現すればいいのか……
するとまた声がした。今度は、私について。私の力について。
私は、この世とあの世を繋ぐことができた。ここの時間と、向こうの世界の時間を繋ぐことができた。
そして私は、その力で、その人の願いをかなえてあげることができた。
私はその人に言った。私といっしょに、ここで、塞の神の仕事してほしい、塞の神になってほしいって。
でも、断られた。それはきっと、神様が私に与えてくれた、私だけの仕事なんだ、て。
そしてその人も、あっち、死んだ人の世界へ行ってしまった。それから私は一人で、その人から教えてもらった知識と、私自身の力と、それから、時々上の方から聞こえてくるアドバイスで、「塞の神」を、勤めてきたんだ。
私のところへ来る人たちは皆、財産に関わる悔いを持った人たちだった。自覚してない人もいたけど。たぶん、私にアドバイスをくれる声の主がそう振り分けているんだと思う。
だから、家族のこととか、家族以外でも大切な人への思い、なんていうことも理解できるようになった。でも……
私には、家族はいない。大切に思う人も、いない。私はひとりだ。ひとりぼっちだ。
遠くから人が歩いて来るのが見えた。生きている人間の世界の方。
おかしいな……
ここに誰かが来るときは、その前に必ず声が聞こえた。いつもアドバイスをくれる、あの優しい女の人の声が。そして簸の川の川底が光って、その人の人生、その人の悔いや未練がわかった。だから、私がその人のために何をすればいいのかも、わかった。
でも今は、何の声もしない。簸の川も光らない。
でも……
私は立ち上がって、その人を待った。その人を迎える準備は、できてない。何を話せばいいのかもわからない。それでも……
その人が近づいてきた。女の人。五十歳くらいだろうか。青い光沢のあるドレスを着て、ネックレスをして、ハイヒールを履いていた。
その人は……微笑んでいた。私を見ながら、優しく微笑んでいた。
私のことを知ってるんだろうか。こんなことは初めてだ。いつもアドバイスをくれる、あの人だろうか? でも、ちょっと違う気がする。あの人が向こうから来るはずないし……
その人が私の目の前に立った。何を話せばいいのか……戸惑っている私に、その人の方から話しかけてくれた。微笑みながら、話しかけてくれた。
「お疲れ様」
「え?」
どういう意味だろう。わからなかった。
「そろそろ、交代の時期よ」
その人が言った。やぱり……わからない。
「あなたは……誰ですか?」
訊いてみた。
「私は、あなたの、姉よ」
「姉?」
「そう。お姉さん」
その人が言った。
「でも私には、姉妹とか、家族とか……」
「ううん、そんなことない」
その人は首を横に振った。優しく。微笑みながら。
「私とあなたは、双子だったの」
「……双子?」
「そう、一卵性双生児。私とあなたは、同じお母さんのお腹の中にいっしょにいたの」
「……」
「でも、お母さんのお腹の中で、どうしても、二人のうちどちらか一人しか生きることができなくなってしまって」
その人は、優しい声で続けた。
「その時あなたは、私に譲ってくれたの。人間として生きることを、私に譲ってくれたの」
わからなかった。自分には全然、記憶がなかった。
「おかげで私は、百年の間、幸せに暮らすことができた。そして今、その天寿を全うして、ここに来たの」
「百年?」
「そう。私はちょうど百歳で死んだの。今あなたが見ている私は、私の人生のちょうど真ん中、五十歳の私」
「五十歳……」
「私はあなたと同じように、自分の思うように姿を変えることができるの」
「そう……なんだ」
答えたけど、まだよくわからなかった。
「私、もう百年もここにいるっていうこと?」
「いいえ。あなたもわかってると思うけど、ここと向こうでは、時間の流れ方が違う。私が来たのは、あちらの世界ではもっとずっと未来から。そしてあなたが今度生まれるのは、今、現在の日本」
「私が……生まれる?」
「そう。今度は、あなたの番よ」
その人は、そう言った。
「え? 私の、番?」
「そう、あなたが、人間として、生きる番」
ようやく、その意味が呑み込めた。でも……そんなことって……
「お行きなさい。あちらへ」
そう言うと、その人は身体を横に向けて、一歩、後ろへ下がった。私に、道を開けるように。
そして、右手の手のひらを上に向けて、真っ直ぐに伸ばした。その人が来た方向、生きている人間の世界の方向に。
「い……いいの?」
「ええ。あなたがまたここに来るまで、私がここを守っていますから。たぶんそれは、今から百年くらい後のことになるでしょうけど」
「う……うん」
「わかったら、お行きなさい」
塞の神は、歩き出していた。その人が来た方向、生きている人間の世界に向かって。
遠くに、光が見えた。肥の川の光とは、違う。自分自身が今まで発していた光とも、違う。もっともっと、ずっとずっと、明るい、まぶしい、光。
足を止めて、振り返った。
「あの……私のお母さんは……それに、お父さんは……どんな人?」
「二人とも、とっても優しい人ですよ」
「私にも……その、彼氏とか、できるの?」
「きっと、できると思いますよ」
「結婚はするの? 子供はできるの? 私も、お母さんになるの?」
「さあ……それは、あなたが自分で体験していらっしゃい」
「……うん、わかった」
そう言って、塞の神はまた歩き始めた。
もう一度、振り返った。
「私……幸せに、なれる?」
「私は、幸せでしたよ。とっても」
その人が言った。優しく、微笑みながら。
その人は、光に包まれていた。暗闇の中で、その人だけ、明るい光に包まれていた。
前を向くと、そっちにも光があった。もっともっと、まぶしい、光。
人間の世界のことは、簸の川で見てきた。でもそれは、自分ではない誰かの世界。
遺言書を書かせるために、何度も行き来したこともある。でもそれも、自分ではない誰かが生きていた世界。
今、目の前に見える光は、これから自分が生きる、自分の、世界。
塞の神は、いや、今まで塞の神だった少女は、その光に向かって、歩き始めた。
(完)
*本作品中の相続・遺言に関する記載は2024年9月時点の日本国民法に基づいています。
実際の相続手続き、遺言書作成の際は弁護士、司法書士、信託銀行等の専門家に相談することをお勧めします。
暗い。真っ暗だ。簸の川も今は何も映し出していない。そこにあるのは小さな瀬を作りながら走る穏やかな水流だけだ。それでも、塞の神は川面をじっと見つめていた。
北本武道に言われた言葉を思い出していた。
「あんたは、一人なのか? あんたには、家族はいないのか?」
私は、一人だ。いつも一人だ。私には家族はいない。だって私は……神様だから。塞の神だから。
ここでの時間の流れは生きてる人間の世界とは違う。それでも、ずいぶん長くここにいる。最初は……一番初めは……
気が付くともう、ここにいた。
あの時も、そしてあの時からずっと、ここは真っ暗だ。
真っ暗だったから、自分がどんな姿をしているのかわからなかった。ていうか、自分が何なのかもわからなかった。
怖くはなかった。怖いとか、淋しいとか、そういう感情もなかった、と思う。
しばらくすると、少し離れた場所に光が見えた。光。初めて見る、闇ではない物。
見る、ていうこと自体、その時が初めてだったと思う。
光は、ゆっくりと、自分の方へ近づいてきた。光の中に、人がいた。それが「人」ていう形なんだと、その時の私はまだ知らなかったけど。
男の人だった。「男」とか「女」とか、それも後になって知ったことだけど。
身体は、私よりずっと大きかった。黒い髪の毛があった。それを頭の左右でまとめてお団子にして、紐で結んでいた。やっぱり黒い、鼻髭と顎鬚を生やしていた。白い服を着て、緑色の、宝石? を連ねたネックレスをしていた。腰には剣を下げていた。
その人が私を見て、一度、大きくうなずいた。それから、横の方を指さした。
指さした方向にも、光が見えた。
その人が、その光に向かって歩き出した。私も後を追って、そっちに向かって歩いてた。自分に身体、形があるっていうことを初めて感じた。どんな形なのか、その時にはまだよくわからなかったけど。
そこには、水が流れていた。今、目の前にある、簸の川だ。
川の底が、光っていた。光の中を覗き込んでみると、いろいろな景色が見えた。それが、生きている人間の世界だった。
景色の中で、目の前の男の人と同じような形の人間が、歩いたり、寝たり、笑ったり、泣いたりしていた。
私は長い間、それを見ていた。
いつの間にか、白い服を着た男の人はいなくなっていた。
だんだんに、人間の世界のことが、わかるようになった。話している言葉も理解できるようになった。男の人、女の人、大人、子供。そんな違いもわかるようになった。
こんな場所を見てみたい、そう思うと、自分の思い通りの場所を見ることができた。
学校、ていうところに集まった女の子や男の子たちが、おしゃべりしたり、遊んだり、運動したり……そんな様子を見るのが、好きになった。自分もあの中に加わりたい……そう思った。
その時初めて、自分で自分の姿が見えた。川底に見えた子供たちと同じ、ピンク色の運動着、ジャージを着ていた。
黒くて長い髪があった。自分で頭の後ろにまとめて留めてみた。髪を留める物が欲しいと思うと、手のひらの中にゴム紐があった。
自分の顔を見てみたいと思うと、いつの間にか手鏡を持っていた。
自分の顔を写してみた。可愛いくない……て、思った。
自分でこういう姿になりたいって思うと、その通りの姿になることができた。誰かに見られてるわけじゃない。でも、自分が一番気に入っている、自分が一番好きな自分でいることにした。
やっぱり、ピンクのジャージ。顔は、前よりちょっと、かわいく。
そんな頃また、あの光と、その中の男の人が現れた。
私の目の前まで来ると、その人が、しゃべった。初めてしゃべった。きっと、私が言葉を理解できるようになるのを待っていたんだと思う。
その人が言った。自分は「塞の神」だと。
「塞」は、「塞ぐ」。つまり、進入を防ぐこと。もともとは、村と村を繋ぐ道の守り神で、他の村から悪い人や病が入り込まないようにするのが役目だったと。
でも、人々の住む世界が大きくなって、行き来する道もたくさんできて、そこ通る乗り物のスピードも速くなって、自分の仕事が追いつかなくなってしまった。そしたらいつの間にか、ここにいたんだ、て。ここは、生きてる人の世界と死んだ人の世界を繋ぐ通り道で、塞の神は今、ここで、この道の守り神をしているんだ、て。
その人が言うには、守る、ていうのは、生きている人の世界から死後の世界へ行く魂をせき止める、ていうことじゃなくて、実はその逆で、死後の世界から、人間の世界へ戻ろうとする魂を戻らせないようにすることで、それが自分の本当の仕事だ、て。
死後の世界へ行っても、生きていた世界に悔いや未練があって、それを忘れられなくて生きている世界へ戻ろうとする、そういう魂は後を絶たない。そこで、そもそもここを通る時に、生きてる世界の悔いや未練をなるべく解消してやったら、生きてる世界へ戻りたがる魂も少なくなるんじゃないかって、その人、塞の神さんはそう言った。
でも、時代が変わると悔いや未練の解消の仕方も変わってくる。最近では、自分の力では対応しきれなくなってしまった、そう言ってた。
だから、私にも、塞の神になってほしい、塞の神さんは、そう言った。
自分は、この道のもっと先で、死後の世界から戻ろうとする魂を追い返す仕事に専念する、だから私には、ここで、生きてる世界からやってくる魂の悔いや未練を、今風のやり方で解消する仕事をしてほしい、そう言った。
そんなこと言われても……
私は返事に困った。すると、塞の神さんが言った。
困った時は、必ず助けてもらえる。自分もそうだった。自分にこの仕事を授けてくれたもっと偉い神様がいて、その神様が必ず助けてくれる。そう言った。
それでも……
私が考えている間に、塞の神さんは行ってしまった。呼びとめる間もなかった。あっという間に、光になって、飛ぶような速さで行ってしまった。
私はまた一人になった。
あんなことを言われたけど、ここで何をすればいいのか、さっぱりわからなかった。
しばらくすると、女の人が歩いて来るのが見えた。今度は、塞の神さんが来たのとは反対の方向から。
背が高くて、きちんとしたパンツスーツを着た女の人だった。その時、声が聞こえた。優しい女の人の声だった。歩いて来る女の人の声かと思ったけど、そうじゃなかった。
その声は、ずっと上の方から聞こえていた。
その声が言った。簸の川を見なさい、って。
私が川を覗き込むと、川底が光って、人間の世界が映し出された。それは、今、こっちへ向かって歩いて来る女の人の生きていた世界だった。
すぐにわかった。その人が、何を心残りにしているのか、何をしたかったのかが。
でも私には、何をどうすればいいのかわからなかった。
その時また声がした。その人から、学びなさい、て。
その人は「司法書士」という仕事をしていた。人間の世界の法律の専門家だった。
その人から教えてもらった。人間の世界の、相続のことや、遺言のこと。その法律のこと。
でもそれをどうやって、実現すればいいのか……
するとまた声がした。今度は、私について。私の力について。
私は、この世とあの世を繋ぐことができた。ここの時間と、向こうの世界の時間を繋ぐことができた。
そして私は、その力で、その人の願いをかなえてあげることができた。
私はその人に言った。私といっしょに、ここで、塞の神の仕事してほしい、塞の神になってほしいって。
でも、断られた。それはきっと、神様が私に与えてくれた、私だけの仕事なんだ、て。
そしてその人も、あっち、死んだ人の世界へ行ってしまった。それから私は一人で、その人から教えてもらった知識と、私自身の力と、それから、時々上の方から聞こえてくるアドバイスで、「塞の神」を、勤めてきたんだ。
私のところへ来る人たちは皆、財産に関わる悔いを持った人たちだった。自覚してない人もいたけど。たぶん、私にアドバイスをくれる声の主がそう振り分けているんだと思う。
だから、家族のこととか、家族以外でも大切な人への思い、なんていうことも理解できるようになった。でも……
私には、家族はいない。大切に思う人も、いない。私はひとりだ。ひとりぼっちだ。
遠くから人が歩いて来るのが見えた。生きている人間の世界の方。
おかしいな……
ここに誰かが来るときは、その前に必ず声が聞こえた。いつもアドバイスをくれる、あの優しい女の人の声が。そして簸の川の川底が光って、その人の人生、その人の悔いや未練がわかった。だから、私がその人のために何をすればいいのかも、わかった。
でも今は、何の声もしない。簸の川も光らない。
でも……
私は立ち上がって、その人を待った。その人を迎える準備は、できてない。何を話せばいいのかもわからない。それでも……
その人が近づいてきた。女の人。五十歳くらいだろうか。青い光沢のあるドレスを着て、ネックレスをして、ハイヒールを履いていた。
その人は……微笑んでいた。私を見ながら、優しく微笑んでいた。
私のことを知ってるんだろうか。こんなことは初めてだ。いつもアドバイスをくれる、あの人だろうか? でも、ちょっと違う気がする。あの人が向こうから来るはずないし……
その人が私の目の前に立った。何を話せばいいのか……戸惑っている私に、その人の方から話しかけてくれた。微笑みながら、話しかけてくれた。
「お疲れ様」
「え?」
どういう意味だろう。わからなかった。
「そろそろ、交代の時期よ」
その人が言った。やぱり……わからない。
「あなたは……誰ですか?」
訊いてみた。
「私は、あなたの、姉よ」
「姉?」
「そう。お姉さん」
その人が言った。
「でも私には、姉妹とか、家族とか……」
「ううん、そんなことない」
その人は首を横に振った。優しく。微笑みながら。
「私とあなたは、双子だったの」
「……双子?」
「そう、一卵性双生児。私とあなたは、同じお母さんのお腹の中にいっしょにいたの」
「……」
「でも、お母さんのお腹の中で、どうしても、二人のうちどちらか一人しか生きることができなくなってしまって」
その人は、優しい声で続けた。
「その時あなたは、私に譲ってくれたの。人間として生きることを、私に譲ってくれたの」
わからなかった。自分には全然、記憶がなかった。
「おかげで私は、百年の間、幸せに暮らすことができた。そして今、その天寿を全うして、ここに来たの」
「百年?」
「そう。私はちょうど百歳で死んだの。今あなたが見ている私は、私の人生のちょうど真ん中、五十歳の私」
「五十歳……」
「私はあなたと同じように、自分の思うように姿を変えることができるの」
「そう……なんだ」
答えたけど、まだよくわからなかった。
「私、もう百年もここにいるっていうこと?」
「いいえ。あなたもわかってると思うけど、ここと向こうでは、時間の流れ方が違う。私が来たのは、あちらの世界ではもっとずっと未来から。そしてあなたが今度生まれるのは、今、現在の日本」
「私が……生まれる?」
「そう。今度は、あなたの番よ」
その人は、そう言った。
「え? 私の、番?」
「そう、あなたが、人間として、生きる番」
ようやく、その意味が呑み込めた。でも……そんなことって……
「お行きなさい。あちらへ」
そう言うと、その人は身体を横に向けて、一歩、後ろへ下がった。私に、道を開けるように。
そして、右手の手のひらを上に向けて、真っ直ぐに伸ばした。その人が来た方向、生きている人間の世界の方向に。
「い……いいの?」
「ええ。あなたがまたここに来るまで、私がここを守っていますから。たぶんそれは、今から百年くらい後のことになるでしょうけど」
「う……うん」
「わかったら、お行きなさい」
塞の神は、歩き出していた。その人が来た方向、生きている人間の世界に向かって。
遠くに、光が見えた。肥の川の光とは、違う。自分自身が今まで発していた光とも、違う。もっともっと、ずっとずっと、明るい、まぶしい、光。
足を止めて、振り返った。
「あの……私のお母さんは……それに、お父さんは……どんな人?」
「二人とも、とっても優しい人ですよ」
「私にも……その、彼氏とか、できるの?」
「きっと、できると思いますよ」
「結婚はするの? 子供はできるの? 私も、お母さんになるの?」
「さあ……それは、あなたが自分で体験していらっしゃい」
「……うん、わかった」
そう言って、塞の神はまた歩き始めた。
もう一度、振り返った。
「私……幸せに、なれる?」
「私は、幸せでしたよ。とっても」
その人が言った。優しく、微笑みながら。
その人は、光に包まれていた。暗闇の中で、その人だけ、明るい光に包まれていた。
前を向くと、そっちにも光があった。もっともっと、まぶしい、光。
人間の世界のことは、簸の川で見てきた。でもそれは、自分ではない誰かの世界。
遺言書を書かせるために、何度も行き来したこともある。でもそれも、自分ではない誰かが生きていた世界。
今、目の前に見える光は、これから自分が生きる、自分の、世界。
塞の神は、いや、今まで塞の神だった少女は、その光に向かって、歩き始めた。
(完)
*本作品中の相続・遺言に関する記載は2024年9月時点の日本国民法に基づいています。
実際の相続手続き、遺言書作成の際は弁護士、司法書士、信託銀行等の専門家に相談することをお勧めします。