自分の気持ちを自覚したら、見える世界が変わった。
というより、遊馬くんのことしか見えなくなった。メッセージが来てないかな? って、ベッドでゴロゴロしながら無駄にスマートフォンを確認したり、いざメッセージをもらったらテンションがあがって無駄に絵文字を乱打したり。
遊馬くんの予定は、シフトでみっちり埋まっていたので、会いたいときはカフェに行った。ラテのモコモコの泡は、いつも可愛いラッコだった。ラッコの背景にハートマークを見つけたときは、思わず天を仰いだ。
あぁ、胸が痛い……。
そんなことをしていたら、あっという間に夏休みが終わってしまった。
いつものお昼休み。カフェテリアで、隣には遊馬くんがいる。
今日、遊馬くんはソースカツ丼を食べている。箸使いが美しいことに今さら気づく。そして、なによりキラキラしている。おかしい。人間はむやみやたらに輝いたりしないはずなのに。
クロワッサンサンドをかじりながら、遊馬くんをぼけーーっと見ていたら、急に目が合った。
「そんなに見られたら、食べにくいんですけど……」
遊馬くんが苦笑いしている。しょうがないなっていう顔で見下ろされて、僕はドギマギしてしまった。
「べ、別に……? そんなに見てないよ?」
苦しまぎれに言う僕の二の腕を、遊馬くんの肘がつつく。
思わず、ドキンと心臓が反応する。
「ちょっと距離、近くない……?」
あまりにも至近距離だ。ぴっちりとくっついている。
「いつもこれくらいですよ」
「そ、そう……?」
「初めにこの距離にしたの、七穂さんですから」
そうだっけ。
あ、たぶん。オロオロする遊馬くんを見るのが楽しくて、ぐいぐい近づいたような気がする。
「七穂さん、クロワッサンが制服についてます」
「え?」
遊馬くんに指摘されて確認すると、本当にクロワッサンがポロポロとこぼれていた。真っ白い制服に付着している。
払おうとした僕の手よりも早く、遊馬くんの手が伸びる。
「ひゃ……!」
びっくりして、思わず声が出た。
「さ、触るなら、前もって言ってよ……!」
「触ってないですよ」
「嘘!」
「制服にしか触ってません」
それは、触ったって言うんだよ……!
むうっとした顔で遊馬くんを見上げる。
「七穂さんだって、予告なくベタベタ触ってくるじゃないですか」
「それは! 否定できないけど……!」
僕と遊馬くんが軽い小競り合いをしていると、目の前に大きな壁が現れた。
「あ、熊……」
遊馬くんが、その壁に向かってつぶやく。
「目立ってるぞ」
壁がしゃべった……! と思ったけれど、よく見ると壁ではなく人間だった。
彼は、遊馬くんの幼馴染だ。二メートル近い体躯なので、あだ名が「熊」になったらしい。野生の熊というより、大きなぬいぐるみのイメージに近い。思わず「クマさん」と呼びたくなる感じなのだ。
「場所をわきまえろよ」
「どういう意味だ?」
「公共の場でイチャイチャするなと言ってるんだ」
小声でクマさんが忠告してくる。
「イチャイチャなんてしてないけど? ですよね、七穂さん」
遊馬くんに同意を求められ、僕はうなずいた。
「そうだよ。ぜんぜん普通だよ」
「え、普通なんですか……?」
どういうわけか、クマさんはドン引きしているらしい。
「でも、ピッタリくっついてますよね? 至近距離でなにか言い合ったり、見つめ合ったりしてますよね?」
クマさんの意見を聞いて、僕は思わず赤面した。
周囲からは、そんな風に見えているのか……。
「別にいいだろ」
「良くないぞ。周りのこともちゃんと考えろ。ただならぬ雰囲気を察して、他の生徒は遠巻きにしてるんだからな」
「うるさいな。俺たちは二人で楽しくご飯を食べてるだけなんだよ」
遊馬くんとクマさんの会話を聞いていると、少しずつこめかみがピクピクと反応を始めた。
……なんか、すっごく仲が良いね?
僕といるときより、遊馬くんは砕けた口調だった。「友だち」より「幼馴染」のほうが近しい関係のように思うのは、僕だけだろうか。
なんか、面白くない……。
僕は、するりと腕を伸ばした。隣にいる遊馬くんに向かって。
彼の左腕に自分の右腕を絡めた。なんでもないふりをして、食べかけのクロワッサンサンドを頬張る。
クマさんが目を剥いた。なにか言いかけたけれど、諦めたようにため息を吐く。
「あ、七穂さん。やりましたよ。ほら、熊が退散して行きます」
遊馬くんは楽しそうだ。大きなクマさんの背中を指さしている。クマさんの後ろ姿には、気のせいか疲労がにじんでいた。
「遊馬くん。『熊が退散』なんて言ったら、本当のクマさんみたいだよ」
もぐもぐと咀嚼しながら、自分が絡めた腕のことは意識しないようにする。きっと、オロオロしてしまうと思うから。
……今さらだけど、遊馬くんの気持ち分かるな。オロオロしていた彼の気持ち。
クロワッサンサンドをかじりながら、味に集中! と、僕はひたすら自分に言い聞かせていた。
✤
ある日の夕方、学校から帰ったら自宅に母がいた。
「めずらしいね。たいてい夜遅いのに」
「仕事、早退したのよ」
そう言った母の顔は、いつもと違っていて。ひどく強張っていた。
すぐに、何かあったのだと悟った。
「どうしたの」
「……あのひとが、亡くなったらしいのよ」
あのひと、というのは父のことだ。
「どうして……?」
突然のことで、頭が真っ白になる。
「それが、よく分からないの。突然、倒れたらしくて……」
病気だという話は、特に聞いていなかった。
自分の呼吸がずいぶん浅いことに気づく。ぼんやりしながら、山陰の家へ行く準備をした。
明日は、学校に行けない。
明後日も、ムリかもしれない。
いや、明後日は土曜日だから。もともと学校は休みだ……。
ふいに、遊馬くんの顔が浮かんだ。
メッセージを送らないと。明日は一緒にお昼ごはんを食べられないって、伝えないと。
スマートフォンを持つ手が震える。メッセージで事情を説明した。うまく指が動かなくて、長文を送ったら脱力してしまった。
着信に気づいて、我に返る。
「もしもし……」
「七穂さん……? 大丈夫ですか?」
「うん……。びっくりして、あの、それでね。メッセージで送った通りなんだけど、明日は学校に行けないんだ。だから、遊馬くんとお昼ごはんが食べられないんだよ。ごめんね」
「……それは、残念ですけど。大丈夫ですから、七穂さんが帰ってきたら、また一緒に食べましょう」
遊馬くんの声が、穏やかで優しい。たぶん、僕を落ち着かせるためだと思う。
「ありがとう。すぐに戻ってくるから」
翌朝、母と二人で山陰に向かった。始発電車はがらんとしている。まだ、現実のような気がしない。
父の最期は、心筋梗塞であっけないものだったという。
僕は、父が五十を過ぎて出来た子供だった。それでも「死」というのは、まだずっと遠くにあると思っていた。
あの広い家の主で、唯一の権力者だった父。傲慢で、尊大で、冷酷だった父。
その父が、死んだ。
✤
知らないひとの家みたいだ。
久しぶりに足を踏み入れたとき、そう思った。瓦屋根の大きな屋敷も、手入れされた庭も、何も変わっていない。母と一緒に東京へ出るまで、確かにこの家で暮らしたのに、まるで他人の家のようだと感じた。
「東京からわざわざ、ご苦労様です」
父の正妻の冷たい声にびくりとする。
「……ご無沙汰しています」
「何かあれば、手伝いのひとに申し付けてください」
他人行儀だなと思ったけれど、仕方ない。このひとにとって僕は本当に他人で、夫の愛人が生んだ子どものひとりに過ぎない。
僕はずっと、この広い家で他人のように扱われてきた。ひとりぼっちだった。
だって、母は南京錠がついた部屋の中……。
「七穂」
母の声にハッとする。
「大丈夫? あなた、顔色が真っ青だけれど……」
僕はかぶりを振った。
「ぜんぜん平気だよ」
僕が、しっかりしないと。
今、この家の中で母を守れるのは僕だけだ。
「おい、七穂」
ふいに呼び止められて振り返ると、長兄がいた。ずっと「一」だった、正妻の長男だ。
「相変わらず、お綺麗な顔だな」
「……お久しぶりです」
綺麗、と言いながら汚いものでも見る目つきだった。
「まだ高校生だったか? 俺には、どこかの成金の愛人にしか見えないんだがな。売女の母親と同じように、売春か愛人稼業で稼いだらどうだ? そのいやらしい顔なら、よほど金になるだろう」
長兄は、相変わらずだ。
「お前、色目を使うなよ? 参列者が淫売のお前に誘惑されないか心配で、俺は喪主どころじゃないんだからな」
僕が睨むと、肩をすくめて去っていった。
「……七穂、ごめんね」
「母さんが謝ることじゃないよ。もう、ここに来るのも、あのひとたちと関わるのもこれが最後だ」
だから、もう大丈夫。
火葬が終わると、すぐに荷物をまとめて、僕と母は屋敷を後にした。
もう二度と、ここには来ない。
新幹線に乗ったら急に力が抜けた。ずっと気を張っていて、疲れたのだろう。僕は座席に身を預けるようにして、いつの間にか眠ってしまっていた。
ふと気がつくと、終わったはずの告別式の最中にいた。
父が穏やかな顔で横たわっている。まるで眠っているみたいだった。そんな顔で死ぬなんて許せないと思った。
たくさん傷をつけたくせに。
もっと苦しんで欲しかった。
こんなことなら、いっそ僕が殺したかった。
仄暗い感情が、体にあちこちからあふれてくる。真っ黒な塊が怪物になって、大きな口を開ける。その怪物に喰われそうになったとき、ふいに声が聞こえた。
『七穂さん』
……遊馬くんだ。
振り返ると小さな人影が見えた。だんだん近づいてくる。人影はキラキラしていて、ひどく眩しかった。世界が真っ白になるくらいに眩しくて、僕は目を閉じた。
まるで飛び起きるようにして、新幹線の座席から体を起こした。
呼吸が荒い。びっしょりと汗をかいていた。
かたく握りしめた手の中に、スマートフォンがあった。メッセージを開くと、遊馬くんがいた。いくつかのラッコと、文字の羅列。
そうだ。僕には、遊馬くんがいる……。
強く握りしめていたせいで、手がしびれていることに今さら気づく。
うまく力が入らない指で「今日中に帰ります」とメッセージを送った。すぐに既読になり、返信がくる。
『待っています』
その文字を見たとき、泣きたくなった。ぎゅんと喉の奥が痛い。
帰りたい、と、どうしようもないほど強く思った。遊馬くんに会いたい。僕を待っていてくれるひとのところに帰りたい。
最寄り駅に着いたときには、すっかり深夜になっていた。
母とはそのまま駅で別れた。「これから友だちに会う」と言ったら心配していたけれど、僕はどうしても今日中に遊馬くんの顔が見たかった。
駅舎に留まってしばらくすると、霧のような雨が降ってきた。
足音が近づいてきて、遊馬くんの姿を見つけたとき、僕は胸が苦しくなった。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
優しい顔をしている。遊馬くんだけが、世界から切り離されたようにくっきり見える。
「急に、雨が降ってきました」
「そうだね」
隣に座った遊馬くんの髪から、雫がポタリと落ちる。
彼の頬を伝う雨を、僕は拭った。
ぽつりぽつりと、子どものころ頃の話をする。ごく自然に打ち明けていた。遊馬くんはずっと、黙って話を聞いてくれていた。
話しているあいだは苦しかったけど、仄暗い感情に支配されることはなかった。真っ黒な怪物が姿を現すこともない。
「誰のことも好きなっちゃいけないと思ってた」
「どうしてですか」
「自分の中にも、父と同じものがある気がしてたから……」
父の異常な支配欲を知っている。母が監禁され、暴力を受ける姿を見て育った。
「……いつだったか、七穂さん俺のこと『守りたい』って言ってくれたじゃないですか」
「うん」
遊馬くんが子どものころ、ずっと寂しかったんだって知ったとき。僕が守ってあげるんだって思った。
「そんな風に思うひとが、好きなひとを傷つけるはずないです」
遊馬くんが優しく、けれど力強く言い切る。
「……僕は」
「はい」
僕は。
何度も言いかけては止める僕を、遊馬くんは決して急かしたりしなかった。
「遊馬くんのことが好き」
やっと気持ちを伝えることができた。
遊馬くんが、嬉しそうに微笑む。
「俺も七穂さんのことが好きです」
「……もう『友だち』じゃ、なくなっちゃうね?」
「そうですね……」
遊馬くんが視線を逸らす。覗き込もうとしても、顔を背ける。
あ、これは照れてる。
「恋人だね」
ごくり、と遊馬くんの喉が鳴った。
「恋人の響きはやばいです。独占欲が爆発しそう……」
「これからは、僕が守ってあげるね」
「俺は、やっぱり守られる側なんですか?」
「うん。だって、告白するだけで泣いちゃう子だもん」
だから、大切に僕が守ってあげるんだ。
肩を抱かれて、僕はごく自然に遊馬くんの腕の中におさまった。
僕も腕を伸ばして、彼の体を抱きしめる。手を握り合う。
霧のような雨が降り続いている。音もなく静かに。
「……傘、二人とも持ってなかったね」
「そうですね。でも、もう必要ないです」
遊馬くんがいるから、いらない。もう傘はいらないんだ。
離れないように、ぴったりと体を寄せ合う。遊馬くんの体から熱が伝わる。じんわりと温かい。決して届かないはずの体の奥のほうまで、満たされていく感じがする。
僕がきゅっと手に力を入れると、遊馬くんもちゃんと握り返してくれた。それだけで僕は、全身がしびれるくらいに幸せだった。
<了>
というより、遊馬くんのことしか見えなくなった。メッセージが来てないかな? って、ベッドでゴロゴロしながら無駄にスマートフォンを確認したり、いざメッセージをもらったらテンションがあがって無駄に絵文字を乱打したり。
遊馬くんの予定は、シフトでみっちり埋まっていたので、会いたいときはカフェに行った。ラテのモコモコの泡は、いつも可愛いラッコだった。ラッコの背景にハートマークを見つけたときは、思わず天を仰いだ。
あぁ、胸が痛い……。
そんなことをしていたら、あっという間に夏休みが終わってしまった。
いつものお昼休み。カフェテリアで、隣には遊馬くんがいる。
今日、遊馬くんはソースカツ丼を食べている。箸使いが美しいことに今さら気づく。そして、なによりキラキラしている。おかしい。人間はむやみやたらに輝いたりしないはずなのに。
クロワッサンサンドをかじりながら、遊馬くんをぼけーーっと見ていたら、急に目が合った。
「そんなに見られたら、食べにくいんですけど……」
遊馬くんが苦笑いしている。しょうがないなっていう顔で見下ろされて、僕はドギマギしてしまった。
「べ、別に……? そんなに見てないよ?」
苦しまぎれに言う僕の二の腕を、遊馬くんの肘がつつく。
思わず、ドキンと心臓が反応する。
「ちょっと距離、近くない……?」
あまりにも至近距離だ。ぴっちりとくっついている。
「いつもこれくらいですよ」
「そ、そう……?」
「初めにこの距離にしたの、七穂さんですから」
そうだっけ。
あ、たぶん。オロオロする遊馬くんを見るのが楽しくて、ぐいぐい近づいたような気がする。
「七穂さん、クロワッサンが制服についてます」
「え?」
遊馬くんに指摘されて確認すると、本当にクロワッサンがポロポロとこぼれていた。真っ白い制服に付着している。
払おうとした僕の手よりも早く、遊馬くんの手が伸びる。
「ひゃ……!」
びっくりして、思わず声が出た。
「さ、触るなら、前もって言ってよ……!」
「触ってないですよ」
「嘘!」
「制服にしか触ってません」
それは、触ったって言うんだよ……!
むうっとした顔で遊馬くんを見上げる。
「七穂さんだって、予告なくベタベタ触ってくるじゃないですか」
「それは! 否定できないけど……!」
僕と遊馬くんが軽い小競り合いをしていると、目の前に大きな壁が現れた。
「あ、熊……」
遊馬くんが、その壁に向かってつぶやく。
「目立ってるぞ」
壁がしゃべった……! と思ったけれど、よく見ると壁ではなく人間だった。
彼は、遊馬くんの幼馴染だ。二メートル近い体躯なので、あだ名が「熊」になったらしい。野生の熊というより、大きなぬいぐるみのイメージに近い。思わず「クマさん」と呼びたくなる感じなのだ。
「場所をわきまえろよ」
「どういう意味だ?」
「公共の場でイチャイチャするなと言ってるんだ」
小声でクマさんが忠告してくる。
「イチャイチャなんてしてないけど? ですよね、七穂さん」
遊馬くんに同意を求められ、僕はうなずいた。
「そうだよ。ぜんぜん普通だよ」
「え、普通なんですか……?」
どういうわけか、クマさんはドン引きしているらしい。
「でも、ピッタリくっついてますよね? 至近距離でなにか言い合ったり、見つめ合ったりしてますよね?」
クマさんの意見を聞いて、僕は思わず赤面した。
周囲からは、そんな風に見えているのか……。
「別にいいだろ」
「良くないぞ。周りのこともちゃんと考えろ。ただならぬ雰囲気を察して、他の生徒は遠巻きにしてるんだからな」
「うるさいな。俺たちは二人で楽しくご飯を食べてるだけなんだよ」
遊馬くんとクマさんの会話を聞いていると、少しずつこめかみがピクピクと反応を始めた。
……なんか、すっごく仲が良いね?
僕といるときより、遊馬くんは砕けた口調だった。「友だち」より「幼馴染」のほうが近しい関係のように思うのは、僕だけだろうか。
なんか、面白くない……。
僕は、するりと腕を伸ばした。隣にいる遊馬くんに向かって。
彼の左腕に自分の右腕を絡めた。なんでもないふりをして、食べかけのクロワッサンサンドを頬張る。
クマさんが目を剥いた。なにか言いかけたけれど、諦めたようにため息を吐く。
「あ、七穂さん。やりましたよ。ほら、熊が退散して行きます」
遊馬くんは楽しそうだ。大きなクマさんの背中を指さしている。クマさんの後ろ姿には、気のせいか疲労がにじんでいた。
「遊馬くん。『熊が退散』なんて言ったら、本当のクマさんみたいだよ」
もぐもぐと咀嚼しながら、自分が絡めた腕のことは意識しないようにする。きっと、オロオロしてしまうと思うから。
……今さらだけど、遊馬くんの気持ち分かるな。オロオロしていた彼の気持ち。
クロワッサンサンドをかじりながら、味に集中! と、僕はひたすら自分に言い聞かせていた。
✤
ある日の夕方、学校から帰ったら自宅に母がいた。
「めずらしいね。たいてい夜遅いのに」
「仕事、早退したのよ」
そう言った母の顔は、いつもと違っていて。ひどく強張っていた。
すぐに、何かあったのだと悟った。
「どうしたの」
「……あのひとが、亡くなったらしいのよ」
あのひと、というのは父のことだ。
「どうして……?」
突然のことで、頭が真っ白になる。
「それが、よく分からないの。突然、倒れたらしくて……」
病気だという話は、特に聞いていなかった。
自分の呼吸がずいぶん浅いことに気づく。ぼんやりしながら、山陰の家へ行く準備をした。
明日は、学校に行けない。
明後日も、ムリかもしれない。
いや、明後日は土曜日だから。もともと学校は休みだ……。
ふいに、遊馬くんの顔が浮かんだ。
メッセージを送らないと。明日は一緒にお昼ごはんを食べられないって、伝えないと。
スマートフォンを持つ手が震える。メッセージで事情を説明した。うまく指が動かなくて、長文を送ったら脱力してしまった。
着信に気づいて、我に返る。
「もしもし……」
「七穂さん……? 大丈夫ですか?」
「うん……。びっくりして、あの、それでね。メッセージで送った通りなんだけど、明日は学校に行けないんだ。だから、遊馬くんとお昼ごはんが食べられないんだよ。ごめんね」
「……それは、残念ですけど。大丈夫ですから、七穂さんが帰ってきたら、また一緒に食べましょう」
遊馬くんの声が、穏やかで優しい。たぶん、僕を落ち着かせるためだと思う。
「ありがとう。すぐに戻ってくるから」
翌朝、母と二人で山陰に向かった。始発電車はがらんとしている。まだ、現実のような気がしない。
父の最期は、心筋梗塞であっけないものだったという。
僕は、父が五十を過ぎて出来た子供だった。それでも「死」というのは、まだずっと遠くにあると思っていた。
あの広い家の主で、唯一の権力者だった父。傲慢で、尊大で、冷酷だった父。
その父が、死んだ。
✤
知らないひとの家みたいだ。
久しぶりに足を踏み入れたとき、そう思った。瓦屋根の大きな屋敷も、手入れされた庭も、何も変わっていない。母と一緒に東京へ出るまで、確かにこの家で暮らしたのに、まるで他人の家のようだと感じた。
「東京からわざわざ、ご苦労様です」
父の正妻の冷たい声にびくりとする。
「……ご無沙汰しています」
「何かあれば、手伝いのひとに申し付けてください」
他人行儀だなと思ったけれど、仕方ない。このひとにとって僕は本当に他人で、夫の愛人が生んだ子どものひとりに過ぎない。
僕はずっと、この広い家で他人のように扱われてきた。ひとりぼっちだった。
だって、母は南京錠がついた部屋の中……。
「七穂」
母の声にハッとする。
「大丈夫? あなた、顔色が真っ青だけれど……」
僕はかぶりを振った。
「ぜんぜん平気だよ」
僕が、しっかりしないと。
今、この家の中で母を守れるのは僕だけだ。
「おい、七穂」
ふいに呼び止められて振り返ると、長兄がいた。ずっと「一」だった、正妻の長男だ。
「相変わらず、お綺麗な顔だな」
「……お久しぶりです」
綺麗、と言いながら汚いものでも見る目つきだった。
「まだ高校生だったか? 俺には、どこかの成金の愛人にしか見えないんだがな。売女の母親と同じように、売春か愛人稼業で稼いだらどうだ? そのいやらしい顔なら、よほど金になるだろう」
長兄は、相変わらずだ。
「お前、色目を使うなよ? 参列者が淫売のお前に誘惑されないか心配で、俺は喪主どころじゃないんだからな」
僕が睨むと、肩をすくめて去っていった。
「……七穂、ごめんね」
「母さんが謝ることじゃないよ。もう、ここに来るのも、あのひとたちと関わるのもこれが最後だ」
だから、もう大丈夫。
火葬が終わると、すぐに荷物をまとめて、僕と母は屋敷を後にした。
もう二度と、ここには来ない。
新幹線に乗ったら急に力が抜けた。ずっと気を張っていて、疲れたのだろう。僕は座席に身を預けるようにして、いつの間にか眠ってしまっていた。
ふと気がつくと、終わったはずの告別式の最中にいた。
父が穏やかな顔で横たわっている。まるで眠っているみたいだった。そんな顔で死ぬなんて許せないと思った。
たくさん傷をつけたくせに。
もっと苦しんで欲しかった。
こんなことなら、いっそ僕が殺したかった。
仄暗い感情が、体にあちこちからあふれてくる。真っ黒な塊が怪物になって、大きな口を開ける。その怪物に喰われそうになったとき、ふいに声が聞こえた。
『七穂さん』
……遊馬くんだ。
振り返ると小さな人影が見えた。だんだん近づいてくる。人影はキラキラしていて、ひどく眩しかった。世界が真っ白になるくらいに眩しくて、僕は目を閉じた。
まるで飛び起きるようにして、新幹線の座席から体を起こした。
呼吸が荒い。びっしょりと汗をかいていた。
かたく握りしめた手の中に、スマートフォンがあった。メッセージを開くと、遊馬くんがいた。いくつかのラッコと、文字の羅列。
そうだ。僕には、遊馬くんがいる……。
強く握りしめていたせいで、手がしびれていることに今さら気づく。
うまく力が入らない指で「今日中に帰ります」とメッセージを送った。すぐに既読になり、返信がくる。
『待っています』
その文字を見たとき、泣きたくなった。ぎゅんと喉の奥が痛い。
帰りたい、と、どうしようもないほど強く思った。遊馬くんに会いたい。僕を待っていてくれるひとのところに帰りたい。
最寄り駅に着いたときには、すっかり深夜になっていた。
母とはそのまま駅で別れた。「これから友だちに会う」と言ったら心配していたけれど、僕はどうしても今日中に遊馬くんの顔が見たかった。
駅舎に留まってしばらくすると、霧のような雨が降ってきた。
足音が近づいてきて、遊馬くんの姿を見つけたとき、僕は胸が苦しくなった。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
優しい顔をしている。遊馬くんだけが、世界から切り離されたようにくっきり見える。
「急に、雨が降ってきました」
「そうだね」
隣に座った遊馬くんの髪から、雫がポタリと落ちる。
彼の頬を伝う雨を、僕は拭った。
ぽつりぽつりと、子どものころ頃の話をする。ごく自然に打ち明けていた。遊馬くんはずっと、黙って話を聞いてくれていた。
話しているあいだは苦しかったけど、仄暗い感情に支配されることはなかった。真っ黒な怪物が姿を現すこともない。
「誰のことも好きなっちゃいけないと思ってた」
「どうしてですか」
「自分の中にも、父と同じものがある気がしてたから……」
父の異常な支配欲を知っている。母が監禁され、暴力を受ける姿を見て育った。
「……いつだったか、七穂さん俺のこと『守りたい』って言ってくれたじゃないですか」
「うん」
遊馬くんが子どものころ、ずっと寂しかったんだって知ったとき。僕が守ってあげるんだって思った。
「そんな風に思うひとが、好きなひとを傷つけるはずないです」
遊馬くんが優しく、けれど力強く言い切る。
「……僕は」
「はい」
僕は。
何度も言いかけては止める僕を、遊馬くんは決して急かしたりしなかった。
「遊馬くんのことが好き」
やっと気持ちを伝えることができた。
遊馬くんが、嬉しそうに微笑む。
「俺も七穂さんのことが好きです」
「……もう『友だち』じゃ、なくなっちゃうね?」
「そうですね……」
遊馬くんが視線を逸らす。覗き込もうとしても、顔を背ける。
あ、これは照れてる。
「恋人だね」
ごくり、と遊馬くんの喉が鳴った。
「恋人の響きはやばいです。独占欲が爆発しそう……」
「これからは、僕が守ってあげるね」
「俺は、やっぱり守られる側なんですか?」
「うん。だって、告白するだけで泣いちゃう子だもん」
だから、大切に僕が守ってあげるんだ。
肩を抱かれて、僕はごく自然に遊馬くんの腕の中におさまった。
僕も腕を伸ばして、彼の体を抱きしめる。手を握り合う。
霧のような雨が降り続いている。音もなく静かに。
「……傘、二人とも持ってなかったね」
「そうですね。でも、もう必要ないです」
遊馬くんがいるから、いらない。もう傘はいらないんだ。
離れないように、ぴったりと体を寄せ合う。遊馬くんの体から熱が伝わる。じんわりと温かい。決して届かないはずの体の奥のほうまで、満たされていく感じがする。
僕がきゅっと手に力を入れると、遊馬くんもちゃんと握り返してくれた。それだけで僕は、全身がしびれるくらいに幸せだった。
<了>