有澄(ありすみ)さん」
 低い声に呼び止められた。昼休み、教室を出たところで。
 声のほうに視線をやると、長身の男子生徒がいた。ネクタイの色で相手が下級生だと分かった。
 一年生に知り合いなんていたっけ……?
 しげしげと顔をのぞき込むと、相手はスッと視線を外した。ちょっと怒ったような、不貞腐れたような顔だ。
「僕に、なにか用?」
「あの、有澄七穂(ななほ)さん……」
「うん?」
 フルネームで呼ばれて、ちょっと驚いた。だって、僕は彼の名前を知らない。
 いや、でもどこかで見たような気がする。すらっとしてて、爽やかなイケメンで。うーーん、どこで会ったんだっけ?
「好きです」
「え?」
 ちょっと間抜けな声が出た。だって、予想もしていなかったから。 
「……勇気あるね。二年生の教室の前で告白するなんて」
 ひとの出入りも多い。たまたま、誰にも聞かれることはなかったけれど。
「すみません」
 ちょっと声が震えている。表情は、やっぱり不貞腐れたまま。
 あ、そうか。不貞腐れているんじゃなくて、緊張しているのか。 
「ここじゃ、話ができないから」
 そう言って、僕は彼を促した。
 本校舎から渡り廊下、旧校舎へと進む。彼は僕の後を大人しくついてきた。ちょっと後ろを歩いている。その様子が、しつけの行き届いた大型犬のように見えて微笑ましかった。
 旧校舎には美術室があるだけで、ほとんどひとの気配がない。
 部活でいつも使っている美術室に入って、僕は窓を開けた。湿った空気がすべり込んでくる。空は灰色の雲に覆われている。雨が降りそうな気配だ。
「名前」
「え?」
 窓の格子に触れながら、彼に名前を聞いた。
「僕は、君の名前も知らないんだけど?」
「……水村遊馬(みずむらあすま)です」 
「遊馬くんか……」
 ミズムラアスマ。んーー、やっぱり記憶にないな……。
「いきなりこんなこと言っても、困らせると思ったんですけど。俺、男だし……」
 遊馬くんはうつむいている。
 まぁ、困るのは確かだけど。断るのに気を使うなって思う。でもそれは、男だとか女だとかは関係がない。
 僕は、誰とも付き合う気はない。誰のことも好きにはならない。今までも、これからも。
「好き……なんです。すみません」
 気づいたら、彼の表情がより深刻なものになっていた。
「いや別に、そんな深刻に謝る必要はないんだけど……」
 弱ったなぁ……。断り方がむずかしい。こんなところに連れて来ないで、バッサリ切るべきだったのかな。なるべく穏便にしたいんだけど。
 長めの前髪をかき上げながら、どうしたものかと思い悩む。
 かすかに洟をすする音が聞こえて、目の前の遊馬くんを見上げる。きらりと光るものが頬を伝っている。僕は慌ててハンカチを取り出し、彼の頬に押し当てた。
「泣かないでよ」
「すみません」
「……泣き止んで?」
「無理です」
 誰かを泣かせたことなんて、初めてだった。慰め方なんて知らない。
 遊馬くんは、謝りながら「好きです」と言った。 
 小さな子供が母親に縋るみたいな、情けない声で「好き」を繰り返す。
「……ずるいよ」
 泣き落としはずるい。
「ごめんなさい」
 しゃくりあげる遊馬くんが、なんだか可哀想で。
「ともだち」
「え……?」
「友だち、なら。良いけど。そういう意味で、好きになるのはムリだと思う。それでも良ければ」
 あ、これは。もしかしたら残酷なことを言っているのかも。
 中途半端なことをするべきではないのかもしれない。言葉にしたあとで悔やんだ。
「本当ですか……!?」
 ハンカチを押し当てる手を握られた。思いのほか強い力で。
 生々しいぬくもりにドキリとする。
「あ、思い出した……」
「え?」
 先々月のことだ。四月の終わり。僕は放課後、美術室にいた。
 いつものように、絵を描いていて。汚れたパレットを洗うとしたとき、美術室の洗い場が混雑していたのだ。
「それで僕は、美術室を出て……」
 渡り廊下を歩いて、本館の洗い場でパレットを綺麗にした。
 そのとき、ぶつかってきた下級生がいた。相手の背中と、僕の肩が接触した。ほんの軽い衝撃だったけれど、僕は水道水を浴びた。
『おい、水村! 危ないだろ。ちゃんと前を見て歩けよ』
『うるさいな。あの、すみません……! 大丈夫ですか?』
 相手は二人組で、僕にぶつかったのがすらりとした長身の生徒だった。
 あのときも、ネクタイの色で相手が下級生だと分かったんだ。
「そういえば、こんな顔だったかも……」
 僕はひとりで納得しながら、目の前の整った顔立ちを観察する。
 ちょっと背伸びをして、遊馬くんの顔をじっくり検分する。
 僕が、あまりにも至近距離で見るものだから、彼は耐えきれず視線を逸らした。やたら瞬きが多い。あ、ちょっと耳が赤いかも。
「照れてる?」
「……別に」
 また、不貞腐れた顔になっている。
「ふふっ」
 自然と頬がゆるむ。遊馬くんの表情が、ますますしかめっ面になる。
 気づけば、雨が降り出していた。シトシトと、とても静かな雨だった。



 昼休みのカフェテリア。
 僕は、お気に入りのクロワッサンサンドを頬張った。
「ねーー、遊馬くんってさ」
 モグモグしながら、隣に座っている彼に寄り掛かった。トン、と肩が触れ合った瞬間、ビクリと遊馬くんの体が震える。
 ちらりと見ると、表情に動揺はなくて。
 でも、絶対に平然を装ってると思うな……。
 もう一度、パクリとクロワッサンサンドにかぶりつく。
「なんですか?」
「んーー、遊馬くんはさ。付き合ったら、そっけなくなるタイプなの?」
「つっ……! つ、付き合ってはないですよね……!?」
 遊馬くんが、アイスティーをふき出しそうになる。かなり目が泳いでいる。
「うん」
 そう。僕たちは、ただの友だち。
「なんで連絡くれないの?」
 メッセージのやり取りが続かないのだ。
 そもそも既読になるのに時間が掛かるし。返事は、とーーっても遅い。
「……迷惑かと思って」
 そう言って、明太子スパゲティをもそもそと食べる。
「ぜんぜん迷惑じゃないけど?」
「……たぶん、返信をするのは、これからも時間を要すると思います」
「なんで?」
 しばらく逡巡してから、観念したように小さくため息を吐く。
「七穂さんからメッセージが来ると、まずその事実に震えるっていうか。受け止めるのに時間がかかって……」
 それで、既読がなかなかつかないのか。
「七穂さんのメッセージを噛みしめるのにも時間が必要だし」
 おおげさだなーー!
「何度も読み返して。返信するのに下書きをして、それから……」
「下書き?」
「途中で送信しちゃうかもしれないので」
 なるほど。返信が遅い理由も分かった。
 ぽそぽそとしゃべりながら、明太子パスタをくるくるしている。大きい体に似合わず、遊馬くんは食べるのが遅い。
「そういえば、初めてメッセージをもらったときは笑ったな」
 思わず、僕は思い出し笑いをしてしまった。
「笑う要素はなかったと思うんですけど」
 くすくすと笑う僕を、遊馬くんがちらりと見る。
「いや、時候の挨拶だよ?」
 堅苦しい文面を見たとき、ちょっと目を疑った。
「親しき仲にも礼儀ありかと……」
「まだ、ぜんぜん親しくないけどね」
 ちょっと、いじわるを言ってみる。
 遊馬くんが分かりやすく落ち込んだので、僕は「嘘だよ」と肘でつついた。
「ちょっとは親しくなったもんね?」
 友だちになってから、今日でちょうど二週間。
 毎日、こうして一緒にお昼ごはんを食べている。
「……七穂さんのこと」
「ん?」
「少しは、詳しくなりました。たとえば、毎日クロワッサンサンドを食べてることとか」
 僕は、カフェテリアの入り口で売ってる、このクロワッサンサンドが好きだ。サクサクのクロワッサンと、シャキシャキのレタス。塩っけのあるハムと、濃厚なチーズ。それらが合わさって、最高に美味しいクロワッサンサンドになっている。
「僕は、ずっと同じものが好きなんだよ」
 かぶりついたら、口の端にマヨネーズが付着した。あ、このマヨネーズも好き。ちょっと辛子が入ってるやつ。
 マヨネーズを舌でぺろりと舐めた瞬間、遊馬くんと目が合った。大きく目を見開いた遊馬くんが、慌てて視線を逸らす。明太子パスタを一心不乱にフォークでくるくるしている。もうすっかりフォークにパスタは絡みついて、くるくるの必要はないんだけど。
「お、俺は……」
「うん?」
「親しくなるよも、もっと前の段階というか。早く、七穂さんに慣れたいです……」
 緊張したくない、ということなんだろう。
 真剣な顔でくるくるを続ける姿を見ていると、またしてもいたずら心が沸き上がる。
 フォークを握る遊馬くんの手の甲に、ちょんと指先で触れてみた。
「ちょっ……! な、なんですか……!?」
 遊馬くんが、椅子からずり落ちそうになっている。予想以上の反応だ。驚いてフォークを皿に投げ捨てた結果、きれいに巻き付いていたパスタが解けてしまった。
 ちょっと申し訳ないので、遊馬くんのかわりに僕がくるくるする。
「遊馬くんが、早く僕に慣れてくれたら良いなと思って」
 そう言って、僕はにっこりと笑った。
 こんな風に、ときどき挙動不審になる遊馬くんだけど、それはどうやら僕の前だけらしい。
 クラスメイトと一緒にいるときの彼は、すごく自然体だった。笑っている姿を見て、そういえば遊馬くんは爽やかイケメンだったなと思い出した。
 僕とぶつかったとき、隣にいた男子生徒と一番が良いようだった。かなり砕けた態度で接しているのを目撃して、ちょっと胸のあたりがもやもやした。遊馬くんが、渡り廊下で女子に囲まれているのを見たときも、同じ感覚に陥った。決して心地よいものじゃない。胃もたれに少し似ている。
 あまりにも胃がムカムカするので、僕は遊馬くんの名前を呼んだ。渡り廊下の端にいた僕の声が彼に届いた瞬間、遊馬くんは僕を探した。真剣な顔で、周囲をぐるりと見回していた。
 僕を見つけて、ホッとしたような、僕の前でだけ見せる不貞腐れたような顔になった。笑顔で手を振ったら、途端にアワアワし始める。
 ……なんか、可愛いな。
 自分よりもずっと背が高くて、男の子で、格好良いんだけど。謎に可愛い。小動物を見たときのような、胸がぎゅうっとする感じ。あの感覚に似ている。いつの間にか、僕の体の中にあったムカムカはどこかに消えていた。