翌日、学校に行くと何やらクラス中がざわついていた。鞄を机の横にかけながら、近くにいるクラスメイトの話に耳をそばだてる。噂話をしているのは女子の鈴木と曾根田だ。
「見た? 昨日の乙木の写真」
「美術部のやつでしょ、見た見た。あれ美術部の先輩がやらかしたらしいよ」
「それマジ!? エグいわー」
「付き合ってんのかな」
「え、無理無理。顔面偏差値違い過ぎるじゃん」
 鈴木は美術部の先輩を嘲笑う口調で言った。はっきりとは言葉にはしていなかったが、「あんなモブ顔が乙木クラスの男と付き合ってるわけない」とでも言いたそうだ。
 美術部の先輩というと、昨日の放課後に乙木と話していたあの女の先輩だろうか。確かに乙木に比べればお世辞にも綺麗とは言えない。文化部に100人はいそうな平凡な容姿だった。でも、先輩がこんな言われようをされる必要はない。犯人は俺だから。
「2人ともなんの話してんの~?」
 鈴木と曾根田の机に両手を置き、いかにも親しそうな笑顔を2人に向けた。狙い通り、2人は瞬時に「霜中だあ、おはよー」と甲高い作り声で挨拶してくる。
 曾根田はすかさずスマホをこちらへ向けて「霜中はこれ見た? 乙木の隠し撮り」と尋ねてきた。
「やばくない? うちらだって乙木にこんなことしないのにさー。先輩だからって許されないっしょ」
「それな」
 憤慨している曾根田に、うんうんと同意する鈴木。乙木星凪は美形でみんなから注目されているものの、性格面で近寄りがたいところがあるので、わかりやすくモテてはいなかった。入学当初はチャレンジャーな女子数人が彼に告白していたが、全てバッサリと断られていたので、なんとなく「誰も乙木星凪に触れてはならない」とでもいうような、暗黙の了解が出来上がっていたのだ。だから、同じクラスの女子である鈴木たちが怒るのも無理はない。乙木の写真を盗撮したのが美術部の先輩ではないことを知っている俺は、ほんの少し優越感で心が弾んだ。
「……あーこれね! 撮ったの俺だよ。乙木が俺をモデルに絵を描くって言ったから、特別に写真上げてもいいって許可貰ったんだ」
 すらすらと淀みなく台詞が唇から紡がれる。俺の言葉を聞くと、「えーっ!」とあちこちから驚きの声が上がった。鈴木と曾根田はもちろん、クラス中の人間が話を聞くために俺を取り囲む。
「どういうこと、霜中ついに乙木とまで仲良くなったの」
「さすが空!」
「なんであたしらにそのこと黙ってたわけ?」
 苺、春斗、凛からも驚かれる。凛は特に不満そうだ。チェリーレッドのリップが塗られた唇を、子供みたいに曲げている。
「ごめんって。写真上げたの俺のサブアカウントでそんなにフォロワーいないし、後で話せばいいかなと思ってた」
 こんな大騒ぎされるとは。そう呟くと、苺が「当たり前じゃん! 乙木の人気舐め過ぎ~、自分もモテるからって」と嫌味を吐いてきた。
 俺が乙木星凪を下に見たことなんて、一度もない。それどころかきっとこのクラスの誰よりもわかっている。乙木ほどの存在に自分が追いつけるはずがないことを。
 苺に言い返そうと口を開けたその時、教室の後ろ側の扉が開いた。乙木星凪だ。乙木は教室中の視線が自分へと集まったのを不思議そうに見回してから、ふっと視線を逸らして、自分の席へと座る。
「ねえ乙木、霜中に許したんならうちらもあんたの写真撮ってもいーい?」
 曾根田が媚びるような上目遣いで、乙木の目の前に迫った。俺の浅はかな嘘は、あっという間に露呈しそうだ。そんな焦りと、乙木に軽薄な態度を見せた曾根田が気に食わなくて、歯をギッと噛み締める。
 乙木はこちらを見つめて、一瞬考える素振りを見せた。そして静かに「……だめ」と、ひとことだけ発する。期待を込めて乙木の返事を待っていた曾根田は、とても悔しそうに「ケチ!」と叫び、さっさと自分の席へと戻っていった。後ろの席に座る鈴木とひそひそ話しながら乙木と俺のことを見ているから、恐らく悪口でも言っているに違いない。
 それにしても、なんで乙木は写真は盗撮だと話さなかったんだ? まあでも、自分のついた嘘がバレなくてよかった。ひとまず安心していたところで、乙木に腕を掴まれた。
「こっち、来て」
 間近に乙木星凪がいる。掴まれた腕から伝わる彼の体温が、夢ではないと教えてくれる。バクバクとうるさいくらいに高鳴る鼓動の理由は、恐怖なのか、興奮なのか。これから盗撮と嘘の件で非難されるというのに、俺ときたら「乙木星凪の瞳って名前の通りに星みたいだ。吸い込まれそう。むしろ吸い込まれて、あの輝きのひとかけらになりたい」なんてことを考えていた。

 ***

「それで……気持ちよかった? みんなからの注目を浴びれて」
 乙木は、屋上に到着するなりそう言った。冷たい眼差し。ひやりと背筋が凍る。乙木は言葉数が少ないが、確実に人の心を抉ることに長けているようだ。
「わかりやすい嘘って、逆に不快じゃなくなるんだな、って。君のおかげで知れたよ。ありがとう」
 言い終わってから、彼はにっこりと微笑む。もちろん皮肉だろう。乙木はフェンスをバックにして、ドラマの台詞みたいなことを言ってから満足したように屋上入口の扉を開けようとする。もうすぐ始業時間だから教室に戻るつもりだろう。でも、せっかく2人きりになれたチャンスを、まだ終わらせたくない。乙木がドアノブを回し終わる前に、手を重ねた。
「誤解だって。注目を浴びたいとかじゃなくて、美術部の先輩に冤罪を被せるわけにいかないと思ったから話しただけだよ」
「誤解? あの写真を盗撮したのは霜中だろ」
「それは……そう、だけど」
 盗撮のことを突かれると、何も言い返せない。犯罪行為だったし、SNSに許可もなく載せたのは完全にアウトだ。昨日の俺はどうかしてた。
 何も言わない俺を、乙木は無機質な表情で見つめてくる。こんな時でさえ、彼は綺麗だった。今日はあいにくの曇り空で、レフ版替わりになる光源もないのに、まるでクリスマスツリーのてっぺんについてるお星様みたいに、ピカピカと光っている。
「謝りもしないんだね」
 いつもの癖で乙木の美貌にうっとりしていると、乙木は呆れたようにため息を吐いた。慌てて「ごめん」と頭を下げたが、自分でもとってつけたような謝罪だなと思う、酷い謝り方だった。
「別にいいけど。こっちも許可なく絵のモデルにしたし」
「あ、ああ、あれね」
 どうして俺の絵を描いたんだ、と聞こうとしたけど、その前に珍しく乙木が長い言葉で話し出した。
「俺が星月アヤネの息子だってことさえばらさなければ問題ないから。でも写真は消せよ」
「え、星月アヤネって、あの有名な女優の!?」
「……知らないのに俺の写真を撮ったの?」
 じゃあ、なんのために。乙木は目線で訴えかけてくる。なんのためにってそりゃ、保存用、観賞用、使う用に……と本音をぶちまけるわけにもいかず、答えを求められた俺のこめかみからは、汗が噴き出した。
 沈黙の中、キンコンカンと無情にも始業のチャイムが鳴る。いつものように乙木は俺を無視して去ってしまうかと予想した。が、意外にも彼はじっとこちらを凝視したまま、俺の返答を待っていた。
「お、乙木が気になるからっ、仲良くなりたくて」
 嘘ではない。気になるし、仲良くなりたい。だって俺の周りで本当に魅力的な人間は乙木星凪だけだから。
「俺と友達になりたいの?」
 悪意もなく、不思議そうに尋ねる乙木。「友達」という響きに少しだけ、躊躇いはしたものの、素直に頷く。
 友達になりたいのか、イエス。でも、友達の関係だけで満足できるのかと言われると、ノーだ。
 乙木は自分やほかの有象無象の人間とは違う。ありきたりではない、確固たる己だけの世界観を持っている。乙木の外見は当たり前に好きだ。綺麗なものを嫌う人は少ない。けれど外見以上に、彼の言動から垣間見える、根幹みたいなものに惹かれている。その世界に触れてみたくなる。それは、燃え盛る炎を見てると危ないとわかってるのに手を突っ込みたくなる、あの現象にも似た気持ち。火がうねるたびに柔らかそうだなって思って。触れたくなっちゃって。我慢できなくなって、手を伸ばしてみることにした。
「乙木と昼飯食べられたら楽しいだろうなーって、毎日妄想してた」
 今回は純度100%の本音だった。いつも昼休みになると消えてしまう乙木のことを、探していた。言ってからさすがにキモ過ぎる発言だったな、と反省する。でも乙木は「変な人だね」と困ったように微笑むだけだった。
「じゃあ、とりあえず昼ご飯一緒に食べてみる?」
「マジ、いいの!?」
「うん」
「あのさっ、乙木はなんのパンが好き? 買ってくるよ」
 調子に乗ってそんな質問をすると、乙木は答えようか迷うみたいに唇をきゅっと結ぶ。それから蚊の鳴くような声で囁いた。
「……メロンパン」
 たぶん、その時の俺の顔はデロデロに溶けていたと思う。乙木は頬を紅潮させたまま、屋上の扉を開け、足早に階段を駆け降りていった。

 ***

 乙木は約束を破らず、昼休みになっても姿を消さなかった。教室の机を向かい合わせて、不格好な5角形を作る。そして無言で佇んでいる乙木を手招きして、席に座らせた。
「乙木ってこれまで昼休みどこにいたん?」
 最初に口を開いたのは春斗だ。グループの凛と苺はいまだ「いつのまに空と乙木仲良くなったの」と疑わしい目を向けてきていたが、春斗だけはとりあえずこの場を盛り上げようと思ったらしい。
「視聴覚室。映画、見てた」
「映画が好きなんだ」
 なるほど、と頷きながら心の付箋にメモする。美術部所属だし、アートも好きだし、芸術全般に興味があるのかもしれない。
「つーか視聴覚室って生徒が勝手に使っていいもんなの」
 不機嫌な顔をした凛が、これまた不機嫌な声で言う。春斗がせっかくやわらげた空気が、一気に凍ってしまった。乙木は何も言わず、ただ黙っている。そんな態度にもイラついたのか、凛は「チッ」と舌打ちをした。「おい、凛」と咎めたけど、凛はそっぽを向いて「チョココロネのチョコ部分さー、少なくね」なんて関係ない話を苺にし始める。
 高校生にもなって、子供染みたマネをよくするよな。凛が乙木に対して嫌な態度を取る理由には、薄々気づいている。だけど、すぐに彼女も目が覚めるはずだ。俺なんか、夢中になる必要のない存在だった、って。
 凛のことはさておき、この険悪な雰囲気を払拭するため、乙木にパンを差し出すことにした。
「そうだ、はい。これ乙木の分のパンな。メロンパンと、あと俺のイチオシ! からあげパン!」
「でた~空の持ちネタ~」 
 春斗がいつものように俺を揶揄う。身長が高く子供らしさがあんまりない俺が、からあげパンに執着しているのが面白いらしい。俺と春斗の身内ノリに、乙木は「持ちネタ?」と不思議そうに聞き返してくる。そりゃそうだ。除け者みたいに扱ってしまったかもしれないと、俺は独りでに焦った。
「あー、俺、顔に似合わず子供っぽい食いもんが好きでさ。毎日からあげパン食ってんだけど、こいつらがいつも揶揄ってくんだよ。いきなりこんな話されてもわかりづらかったよな。ごめん」
 誠心誠意を込めて説明すると、乙木はぱちくりとまばたきをひとつしてから、「……意外」と呟いた。
「何が?」
「霜中って、ずっと適当な嘘ばかり話してるなと思ってたから」
「え、印象最悪じゃん。俺」
 ショックを受けて目を見開くと、乙木は「ふふ」と口元に手の甲を添えて、お上品に笑った。
「今のほうがずっといいよ。俺、本当のことだけを話す人が好き」
「へ、へー……そう、そういう人が好きなんだ」
 乙木の「好き」の言い方が可愛過ぎて、声がみっともなく震える。可愛い、可愛い、今すぐにでも叫び出したい。喜びを隠そうと努力したけど、どうにも顔がにやけてしまう。俺と乙木の顔を交互に見ていた春斗なんて、あまりにも俺がデレデレしているからか、「うわあ」と苦笑いしている。
 そのまましばらくの間、俺がへらへらと笑っていると、凛がいきなりバンッ、と机を叩いて立ち上がった。明らかにキレている。
「……ムカつく! 苺、今日はあっちで食べよ」
「ええ~!? 待ってよ、凛ってば」
 教室の反対側へと凛は苺の手を引き歩き去っていく。あいつはアンガーマネジメントという概念を知らないのか。俺よりよっぽどお子様だろ、とため息を吐いた。春斗は心配そうに凛の後ろ姿を見つめている。
「あちゃー……空、後で凛の機嫌取りに行けよ」
「え、俺?」
「そりゃお前だろ! 凛はお前のことが好きなんだから」
「俺のことなんて好きになってもしょうがないのにな」
「空、それはあんまりじゃん。凛は確かに大した理由もなくお前のこと好きになったかもしれないけどさ。友達なんだから、もうちょっと優しくしてやれよ」
 春斗はいつになく真剣な口調で凛を擁護した。ひょっとしたら、春斗は凛のことが好きなのかもしれない。5月にして友達グループ内でドロドロの恋愛劇とか、やめてくれよ……。頭を抱えたくなったけど必死に堪え、なんとか「気を持たせるほうが残酷だろ」とだけ言った。
 凛の俺に対する感情は、季節の変わり目にかかる風邪みたいなものだ。俺に特別な付加価値なんてないこと、俺自身が一番よくわかっている。小学生の頃は足が速い男子がモテる、あの現象に似たもの。背が高くて、明るくて、話してて馬が合うから。凛の好意の理由はその程度なんだろう。凛には悪いけど、俺は凛の期待に応えられる男じゃない。好きな人もいるし、そのうちきっぱり断らないと。それがお互いのためだ。
 無言でからあげパンを貪り食う。そんな俺を見て、乙木は「俺は嘘の気持ちで優しくするより、今みたいに突き放すほうがマシだと思うよ」なんてことを、ぽつりと呟いた。
 乙木はどうも「嘘か、本当か」で善悪の判断をつけているらしい、と昨日今日の彼の態度から感じる。もそもそとメロンパンを齧っている乙木を見つめる。知れば知るほど、気になる。
 そうして俺が乙木を見つめていると、春斗が机に肘をつきながら呻いた。
「乙木までひでえよ……女の子には嘘でも優しくしたくない?」
「ない」
「ないのかー」
 乙木に一蹴された春斗は、机の上に完全に突っ伏す。この2人の価値観は全くの逆方向のようだ。
 からあげパンを3つも食い終えた俺は、包み紙をクシャクシャに丸めてから、乙木に向き直る。もうひとつ謝罪しないといけないことがある。
「てか乙木、ごめんな。俺から昼飯一緒しよって誘ったのに、仲間割れして居心地悪かったよな」
 両手を合わせて「ほんとごめん!」と頭を下げたものの、乙木はあっけらかんと「いや、悪くはなかった」と言う。机に突っ伏したままの春斗が「えー、メンタルつよ」と横槍をいれてくる。けれど、乙木は気にする様子もなく言葉を続けた。
「ひとつわかったこともあるし」
「何?」
「霜中は俺のことが好きってこと」
 突然の爆弾発言に、俺は絶句した。