ドラマのワークショップ途中に抜け出した翌日から、乙木は前と同じように学校に登校し始めるようになった。心配していた違約金なんかは、幸運にもかからなかったらしい。
碧生から聞いたところによると、乙木が碧生の相手役を辞退したという形で、何事もなくオーディションは行われたそうだ。碧生の相手役は、舞台俳優として活躍中の人に決まったとか。
乙木がいる、これまで通りの生活が戻ってきた放課後の教室では、鈴木と曽根田が相変わらず乙木をチラチラと垣間見ては騒いでいる。
「やーっぱ目の保養なら乙木が1番だわあ」
「ねー!」
楽しそうに話している鈴木と曽根田。その様子を見ていた苺は「みっくんのほうがイケメンだし〜」とスマホを弄りながら呟いた。
みっくんが碧生と付き合っているということを、俺は未だに苺へ伝えていない。伝えたところでショックを受けるだけだろうし、他人のセクシュアリティを勝手に吹聴するのは、性格が悪いと自負している俺でさえ憚る行為だったから。結論は、苺がそのうち推し変するのを祈るしかない、だった。
「苺ぉ、今日これから新作ラテ飲みに行くっしょ?」
苺の元へ、凛が話しながら歩いて来る。大手喫茶店チェーンの季節限定ドリンクを飲みに行くようだ。苺は「もち!」と言い、「春斗と空は?」と俺にも尋ねてきた。春斗は元気よく「はいはーい!」と片手を挙げている。
「俺はこのあと部活あるし、3人で行ってこいよ」
最初から行くつもりなんてなかった俺は、部活を言い訳に断った。苺は気分を害することもなく、フラットな口調で「あっそー。じゃあね、また明日ぁ」と言い教室を出ていく。
「おー、おつおつー」
別れの挨拶を3人にする。春斗は手を振り返してきたが、凛は相変わらず俺のことを無視していた。
結局、凛との仲は修復出来ないまま月日が過ぎようとしている。その間に凛には彼氏が出来て、俺は乙木と両想いになったけど、どうしても俺は自分の醜い部分と似た面を持つ凛を好きにはなれないし、凛は俺の内面にがっかりしたままだったようだ。
みんな仲良くなり幸せになりました。そんな都合のいい展開、ほとんどの人には訪れないし、そんなものは幻想だ――凛との関係が、そのことに気づかせてくれた。亀裂の入った関係性は大体が元には戻らないし、人生に一発逆転のチャンスなんてそうそう転がっていない。不幸のままなんとか希望を見出してなあなあに日常を過ごしている人が大半だろう。
それに、乙木と両想いになった後の俺がものすごく幸せになれたか、といわれると違う。
ただ、無理をして笑うことはやめた。それだけでいいんだと最近は思い始めている。諦めにも似た感情だったが、不思議と悪くはなかった。弟みたいになれないからこそ、乙木は俺のことを好きになってくれたからだ。
つらい時は、星凪がくれた言葉を思い出した。
――替えの効く人間なんて、本当はひとりもいないんだからさ。空、君もね
俺たちは付属品なんかじゃなくて、オリジナルの「霜中空」と「乙木星凪」なんだ。そのことを思い出すだけで、これまでよりも明日が来ることが楽しみになった。
「乙木、部活に行こう」
席に座ったまま、窓の外を眺めていた乙木に声を掛ける。乙木はゆっくりとこちらを振り返って「うん。ねえ、空。なんか忘れてない?」と言った。
「え、何が」
「な、ま、え」
乙木は丁寧に一音ずつ区切って囁いた。俺はそれが何を示しているのか瞬時に悟ってしまい、顔がぶわっと熱を帯びる。俺、いま顔真っ赤かも。
乙木が俺に「好き」と言ったあの日から、俺は乙木に「いい加減、空も俺のこと名前呼びしてよ」と言われていた。あの乙木星凪の1番親密な相手として選ばれた気がして、正直気分はよかった。でも、実際に呼ぶとなると話は別ものだ。
教室にはまだクラスメイトが何人か残っている。気恥ずかしくて、「星凪」なんて呼べそうになかった。
「……早く行くぞ!」
やっぱり乙木を名前呼びするには、まだ早いみたいだ。俺は乙木の手を掴んで慌てて教室を出た。
***
3年生が引退してからの美術部は、驚くほど居心地のよい場所になった。原因はわかりきっている。俺と仲の悪かった野村元部長がいなくなったからだ。今では、他の部員たちも好意的に話しかけてくるようになった。
「あ、乙木君と霜中君だ。今日も仲良いね」
2年生の先輩が、にこにこと微笑みながら俺と乙木に声をかけてくる。乙木はいつものように我関せずといった態度で、キャンバスに向かって黙々と手を動かしている。苦笑いをしてから、「仲良しですよー」と俺は先輩に笑いかけた。
すると、周りにいた同学年の女子が「ねえ、ヤバくない?」「ね、ね、マジ萌える」とにわかに騒ぎ始めた。
なんだ? ざわつき出した美術部の異様な雰囲気に困惑して、あたりを見回す。そして、近くにいた顔見知りの原田さんにわけを聞くことにした。
「ねえ、原田さん。なんでみんなして俺と乙木を見て内緒話してんの……?」
「えっ、あの、そ、それはあ……」
原田さんは口籠もりながらも、答えを教えてくれた――なんでも、現在のここ美術部では「乙木のファン」派閥と、「霜中×乙木のカップリングファン」派閥の2大派閥が出来ていたらしい。なんじゃそりゃ。
「あ、カップリングというのは……」
「あーBLね」
原田さんの説明を相槌で遮ると、原田さんは「知ってるの!?」とでも言うように目を剥いて驚いた。
「霜中君、BLって意味わかる……?」
「ボーイズラブでしょ。男同士の恋愛もの」
俺がそう答えると、原田さんは「ヒッ、キモくてごめんなさい」と何故だか謝り出した。意味がわからない原田さんの言動に頭を傾げて、「別にキモくないだろ」と言うと、原田さんは口を抑えて「ひええ〜!」と呻いている。それから、嬉々とした顔、かつ早口で話を続けた。
「霜中君ってBLもイケる口なんですか!?」
「うん。家族が漫画とか小説とか、よく買ってるからさー。俺もたまに読むよ。ほら、あの最近ドラマ化したやつとか」
「ドラマ! ど、どのドラマですかね……」
「あー……『流れ星に3回、お願いした。』ってやつ」
「ホシサン! いいですよねえ〜!」
あのドラマは「ホシサン」と略されているらしい。人の名前みたいでちょっと間抜けだな、と思ってしまう。原田さんは根っからのBL好きみたいだし、弟が「ホシサン」の主演なんて話したら騒ぎになりそうだったので、事実は伏せてやんわりと誤魔化して話した。
俺と原田さんがひとしきり「ホシサン」の話をしていると、周りで会話を聞いてた部員たちが集まり口々に「ホシサン」の話をし始めた。
「受け役にまさかの碧生君を起用で話題になったよね〜」「BLドラマなのに演技力に期待出来そうって言われてるし――」「あの漫画は胸キュン台詞満載で――」
お喋りが止まらない。俺がきっかけで盛り上がってしまった「ホシサン」談義をどう終わらせようかと悩んでいると、乙木が筆を止めて立ち上がった。
「ねえ。楽しそうなのはいいことだけどさ、君たちもそろそろ手を動かしたら」
乙木の静かな声での叱責に、部員みんな「ハイ……」と頷く。鶴の一声、ならぬ乙木の一声だ。さっきまで騒いでいた女子たちは、頭を切り替えたようにテキパキとキャンバスを用意して、筆を走らせ始めた。
乙木に向かって「ありがとう」の意味を込めた笑顔を作ると、乙木は人差し指と中指を自分の目に当ててからその二本指をこちらへ向けてくる。洋画の中でよく出てくる「お前を見ているぞ」ポーズだ。乙木、そんな仕草するんだ。またひとつ知った乙木星凪の側面に驚きながらも、思わず笑ってしまう。
儚げ美人がコミカルな動きをしたのがツボで、俺はそれからしばらくの間、笑い続けていた。
***
ある休日の朝、俺は学校もないのに早い時間に起きて、電車に乗っていた。今日は乙木と映画を見に行く約束をしている。たぶん、俗に言う「デート」ってやつなんだろう。地面に足がついているのかも定かじゃないくらい浮ついている心を宥めながら、車内のモニターで目的の駅があと何個先なのかを確認する。他に眺めるものもなくて、そのままモニターを見つめていると、映像はテレビの番組宣伝に切り替わった。
「『流れ星に3回、お願いした。』主役、浅葱優衣人役に決まりました霜中碧生です! 大人気な漫画作品が原作ということでプレッシャーもありますが、誠心誠意を込めて演じます。ぜひ見てくださいね!」
モニターの中では、碧生が爽やかに笑っている。乙木と俺が騒動を巻き起こしてしまった例のドラマは、順調に撮影が進んでいるようだった。ドラマの撮影の合間に家へ帰って来た弟の話を思い出す。
――再来月には放送始まるよ。ほんとは放送前に記者会見開きたかったんだけどねえ、事務所に止められちゃった
碧生の当初の計画では記者会見でゲイだとカミングアウトする予定だったが、ブレイクを果たして今や事務所の稼ぎ頭の「霜中碧生」というブランドを、事務所は徹底管理したいらしい。碧生は少し不満そうにしていたものの、「まっ、いつかは言えるよね!」と楽観的に笑っていた。両親はそんな碧生を全面的にサポートする、と今から意気込んでいる。
碧生と両親は相変わらず仲良しだ。反対に、俺と両親との関係は更にぎこちないものになった。俺が突然、「孫は期待しないで」と宣言したからだ。それを言った日の両親の面食らった顔は、ちょっと笑えた。俺が歯向かうとは露ほどにも思っていなかったのか、家族の中に同性愛者が2人もいたら世間体がよくないと思ったのか、正解はわからない。俺が弟のように両親と仲良く出来る日はいつまで経っても来ないんだと思う。それでも、前よりは碧生と腹を割った会話が出来るようになった――それだけで充分だった。
「――次は、飛魚海岸駅、飛魚海岸駅です」
電車の中に流れてきたアナウンスを聞いて、顔を上げる。目的地に着いた。はやる気持ちのままに、ホームに降り立ち、改札口を抜ける。
駅の入り口を見渡すと、既にそこには乙木がいた。黒のシンプルなパンツに、チェック柄のカーディガンを羽織っている。有名なブランドのものだと一目にわかる。ブランド品で身を固め、憂いを帯びた目でどこか遠くを見つめている乙木の姿は、モデルみたいで、当たり前だけど周りから注目されていた。「芸能人かな?」「顔キレー」と通りすがりの人たちの囁き声が聞こえてくる。このまま乙木を放っておくと誰かに声をかけられてしまいそうで、焦って駆け寄った。
「ごめん乙木、待たせた?」
そう言って乙木の前で片手を挙げると、乙木は微笑みかけてから、何故かじとりとした目で睨んできた。
「空、そうじゃないよね」
「え?」
「な、ま、え」
いつかの時と同じように、乙木は一音ずつ区切って発音した。名前で呼べ、というすごい圧を乙木から感じる。遅れてきた上、名前呼びも出来なかったら、乙木にがっかりされるよな。そんな保身と、なけなしの勇気を持って俺は口を開いた。
「……せ、星凪」
呼んだ途端、かあっと身体が熱くなる。猛烈に恥ずかしい。穴があったら入りたい。そう思う俺とは裏腹に、乙木は満足そうに頷いた。
「よく出来ました」
乙木は微笑んでから、「行こうか」と言って歩き出す。行き先は、前に2人で授業を抜け出した時に向かった場所、ミニシアターだった。あの時はどんよりした気持ちで向かってたのに、今は晴れた日の朝の空気みたいに清々しい気分だ。
品がいいのにどこか懐かしい入り口から、暖かな色のライトに照らされた室内へと入る。前に来た時のように、壁に貼られた上映中作品のポスターを眺めた。
「これ見よっか」
ヒューマンドラマっぽい邦画のポスターを指差して言うと、乙木は頷く。見たところ、「霜中碧生」と「星月アヤネ」の名前もなさそうだ。
ひと安心して、チケットとドリンクを注文する。にこやかな館内スタッフからドリンクを2つ受け取り、スクリーンへ向かった。
今日は休日だからか、小さいスクリーン内にちらほらとお客さんが座っている。1人用の席が3つとカップル用のソファ席がひとつ空いていて、一瞬迷う。周りの目もあるし、どっちに座ろうか。決めかねて俺が立ち止まっている隙に、乙木がさっさとソファ席に腰を下ろしてしまった。そして、「なんで座らないの」とでも言うようにこちらを見上げている。気恥ずかしくなりながら、俺は乙木の隣に座った。
しばらくしてから上映が始まった映画は、ほっこりする中に切なさも含んでいる、片田舎のとある家族の話だった。誤算だったのは、カメオ出演で星月アヤネが出てきたことだ。
「……悪い。違う映画にすればよかったな」
映画を見終わってから、開口一番に謝る。乙木は苦笑いをして「ポスターに名前も出てなかったし、わかりようがなかったよ。いい映画だったし良しとしよう」と言った。
「昼飯、どこに食べに行く?」
腕時計を見ながら、乙木に尋ねる。映画が朝の10時過ぎに始まったので、現在の時刻は13時前だ。飯どきとしてはちょうどいい。ただ、このミニシアターの周りにはあまりご飯屋がなかった。
「学校近くのいつものとこ、行こうよ」
乙木が言う「いつものとこ」とは、三里ヶ浜高校前駅近くにある、ファーストフード店のことだ。学校帰りにしょっちゅう行っている場所だけど、デートで行くにはそぐわない気がして、聞き返す。
「そんな安い飯でいいのか? もっとちゃんとしたとこも行けるのに」
「空が教えてくれた場所だから、あの店がいいんだよ」
まるでドラマみたいな台詞を言われ、「あ、そう……」としか返せなくなる。乙木の頭の中の辞書に「照れ」という文字はないらしい。ストレートな愛情表現で捻くれ者の俺でさえ黙らすとは。やっぱり乙木には敵わない。
ミニシアターから出ても黙っていると、「照れてる? 可愛い」なんて乙木がからかってきた。さすがに「可愛いのはお前のほうだろ」と反論する。乙木は少し目を見開いてから、夜が明けて朝が来た瞬間みたいに笑った。
特別な人間でもない俺が、こうして乙木星凪の隣にいれることは、当たり前なんかじゃない。きっと奇跡に近い、偶然。それでもこの星は手放したくない。そんな願いを込めて、乙木の手を握る。
こちらを見上げてきた乙木の瞳の中には、クラスの人気者でもなく、霜中碧生の兄でもなく、ただの霜中空が笑っていた。
碧生から聞いたところによると、乙木が碧生の相手役を辞退したという形で、何事もなくオーディションは行われたそうだ。碧生の相手役は、舞台俳優として活躍中の人に決まったとか。
乙木がいる、これまで通りの生活が戻ってきた放課後の教室では、鈴木と曽根田が相変わらず乙木をチラチラと垣間見ては騒いでいる。
「やーっぱ目の保養なら乙木が1番だわあ」
「ねー!」
楽しそうに話している鈴木と曽根田。その様子を見ていた苺は「みっくんのほうがイケメンだし〜」とスマホを弄りながら呟いた。
みっくんが碧生と付き合っているということを、俺は未だに苺へ伝えていない。伝えたところでショックを受けるだけだろうし、他人のセクシュアリティを勝手に吹聴するのは、性格が悪いと自負している俺でさえ憚る行為だったから。結論は、苺がそのうち推し変するのを祈るしかない、だった。
「苺ぉ、今日これから新作ラテ飲みに行くっしょ?」
苺の元へ、凛が話しながら歩いて来る。大手喫茶店チェーンの季節限定ドリンクを飲みに行くようだ。苺は「もち!」と言い、「春斗と空は?」と俺にも尋ねてきた。春斗は元気よく「はいはーい!」と片手を挙げている。
「俺はこのあと部活あるし、3人で行ってこいよ」
最初から行くつもりなんてなかった俺は、部活を言い訳に断った。苺は気分を害することもなく、フラットな口調で「あっそー。じゃあね、また明日ぁ」と言い教室を出ていく。
「おー、おつおつー」
別れの挨拶を3人にする。春斗は手を振り返してきたが、凛は相変わらず俺のことを無視していた。
結局、凛との仲は修復出来ないまま月日が過ぎようとしている。その間に凛には彼氏が出来て、俺は乙木と両想いになったけど、どうしても俺は自分の醜い部分と似た面を持つ凛を好きにはなれないし、凛は俺の内面にがっかりしたままだったようだ。
みんな仲良くなり幸せになりました。そんな都合のいい展開、ほとんどの人には訪れないし、そんなものは幻想だ――凛との関係が、そのことに気づかせてくれた。亀裂の入った関係性は大体が元には戻らないし、人生に一発逆転のチャンスなんてそうそう転がっていない。不幸のままなんとか希望を見出してなあなあに日常を過ごしている人が大半だろう。
それに、乙木と両想いになった後の俺がものすごく幸せになれたか、といわれると違う。
ただ、無理をして笑うことはやめた。それだけでいいんだと最近は思い始めている。諦めにも似た感情だったが、不思議と悪くはなかった。弟みたいになれないからこそ、乙木は俺のことを好きになってくれたからだ。
つらい時は、星凪がくれた言葉を思い出した。
――替えの効く人間なんて、本当はひとりもいないんだからさ。空、君もね
俺たちは付属品なんかじゃなくて、オリジナルの「霜中空」と「乙木星凪」なんだ。そのことを思い出すだけで、これまでよりも明日が来ることが楽しみになった。
「乙木、部活に行こう」
席に座ったまま、窓の外を眺めていた乙木に声を掛ける。乙木はゆっくりとこちらを振り返って「うん。ねえ、空。なんか忘れてない?」と言った。
「え、何が」
「な、ま、え」
乙木は丁寧に一音ずつ区切って囁いた。俺はそれが何を示しているのか瞬時に悟ってしまい、顔がぶわっと熱を帯びる。俺、いま顔真っ赤かも。
乙木が俺に「好き」と言ったあの日から、俺は乙木に「いい加減、空も俺のこと名前呼びしてよ」と言われていた。あの乙木星凪の1番親密な相手として選ばれた気がして、正直気分はよかった。でも、実際に呼ぶとなると話は別ものだ。
教室にはまだクラスメイトが何人か残っている。気恥ずかしくて、「星凪」なんて呼べそうになかった。
「……早く行くぞ!」
やっぱり乙木を名前呼びするには、まだ早いみたいだ。俺は乙木の手を掴んで慌てて教室を出た。
***
3年生が引退してからの美術部は、驚くほど居心地のよい場所になった。原因はわかりきっている。俺と仲の悪かった野村元部長がいなくなったからだ。今では、他の部員たちも好意的に話しかけてくるようになった。
「あ、乙木君と霜中君だ。今日も仲良いね」
2年生の先輩が、にこにこと微笑みながら俺と乙木に声をかけてくる。乙木はいつものように我関せずといった態度で、キャンバスに向かって黙々と手を動かしている。苦笑いをしてから、「仲良しですよー」と俺は先輩に笑いかけた。
すると、周りにいた同学年の女子が「ねえ、ヤバくない?」「ね、ね、マジ萌える」とにわかに騒ぎ始めた。
なんだ? ざわつき出した美術部の異様な雰囲気に困惑して、あたりを見回す。そして、近くにいた顔見知りの原田さんにわけを聞くことにした。
「ねえ、原田さん。なんでみんなして俺と乙木を見て内緒話してんの……?」
「えっ、あの、そ、それはあ……」
原田さんは口籠もりながらも、答えを教えてくれた――なんでも、現在のここ美術部では「乙木のファン」派閥と、「霜中×乙木のカップリングファン」派閥の2大派閥が出来ていたらしい。なんじゃそりゃ。
「あ、カップリングというのは……」
「あーBLね」
原田さんの説明を相槌で遮ると、原田さんは「知ってるの!?」とでも言うように目を剥いて驚いた。
「霜中君、BLって意味わかる……?」
「ボーイズラブでしょ。男同士の恋愛もの」
俺がそう答えると、原田さんは「ヒッ、キモくてごめんなさい」と何故だか謝り出した。意味がわからない原田さんの言動に頭を傾げて、「別にキモくないだろ」と言うと、原田さんは口を抑えて「ひええ〜!」と呻いている。それから、嬉々とした顔、かつ早口で話を続けた。
「霜中君ってBLもイケる口なんですか!?」
「うん。家族が漫画とか小説とか、よく買ってるからさー。俺もたまに読むよ。ほら、あの最近ドラマ化したやつとか」
「ドラマ! ど、どのドラマですかね……」
「あー……『流れ星に3回、お願いした。』ってやつ」
「ホシサン! いいですよねえ〜!」
あのドラマは「ホシサン」と略されているらしい。人の名前みたいでちょっと間抜けだな、と思ってしまう。原田さんは根っからのBL好きみたいだし、弟が「ホシサン」の主演なんて話したら騒ぎになりそうだったので、事実は伏せてやんわりと誤魔化して話した。
俺と原田さんがひとしきり「ホシサン」の話をしていると、周りで会話を聞いてた部員たちが集まり口々に「ホシサン」の話をし始めた。
「受け役にまさかの碧生君を起用で話題になったよね〜」「BLドラマなのに演技力に期待出来そうって言われてるし――」「あの漫画は胸キュン台詞満載で――」
お喋りが止まらない。俺がきっかけで盛り上がってしまった「ホシサン」談義をどう終わらせようかと悩んでいると、乙木が筆を止めて立ち上がった。
「ねえ。楽しそうなのはいいことだけどさ、君たちもそろそろ手を動かしたら」
乙木の静かな声での叱責に、部員みんな「ハイ……」と頷く。鶴の一声、ならぬ乙木の一声だ。さっきまで騒いでいた女子たちは、頭を切り替えたようにテキパキとキャンバスを用意して、筆を走らせ始めた。
乙木に向かって「ありがとう」の意味を込めた笑顔を作ると、乙木は人差し指と中指を自分の目に当ててからその二本指をこちらへ向けてくる。洋画の中でよく出てくる「お前を見ているぞ」ポーズだ。乙木、そんな仕草するんだ。またひとつ知った乙木星凪の側面に驚きながらも、思わず笑ってしまう。
儚げ美人がコミカルな動きをしたのがツボで、俺はそれからしばらくの間、笑い続けていた。
***
ある休日の朝、俺は学校もないのに早い時間に起きて、電車に乗っていた。今日は乙木と映画を見に行く約束をしている。たぶん、俗に言う「デート」ってやつなんだろう。地面に足がついているのかも定かじゃないくらい浮ついている心を宥めながら、車内のモニターで目的の駅があと何個先なのかを確認する。他に眺めるものもなくて、そのままモニターを見つめていると、映像はテレビの番組宣伝に切り替わった。
「『流れ星に3回、お願いした。』主役、浅葱優衣人役に決まりました霜中碧生です! 大人気な漫画作品が原作ということでプレッシャーもありますが、誠心誠意を込めて演じます。ぜひ見てくださいね!」
モニターの中では、碧生が爽やかに笑っている。乙木と俺が騒動を巻き起こしてしまった例のドラマは、順調に撮影が進んでいるようだった。ドラマの撮影の合間に家へ帰って来た弟の話を思い出す。
――再来月には放送始まるよ。ほんとは放送前に記者会見開きたかったんだけどねえ、事務所に止められちゃった
碧生の当初の計画では記者会見でゲイだとカミングアウトする予定だったが、ブレイクを果たして今や事務所の稼ぎ頭の「霜中碧生」というブランドを、事務所は徹底管理したいらしい。碧生は少し不満そうにしていたものの、「まっ、いつかは言えるよね!」と楽観的に笑っていた。両親はそんな碧生を全面的にサポートする、と今から意気込んでいる。
碧生と両親は相変わらず仲良しだ。反対に、俺と両親との関係は更にぎこちないものになった。俺が突然、「孫は期待しないで」と宣言したからだ。それを言った日の両親の面食らった顔は、ちょっと笑えた。俺が歯向かうとは露ほどにも思っていなかったのか、家族の中に同性愛者が2人もいたら世間体がよくないと思ったのか、正解はわからない。俺が弟のように両親と仲良く出来る日はいつまで経っても来ないんだと思う。それでも、前よりは碧生と腹を割った会話が出来るようになった――それだけで充分だった。
「――次は、飛魚海岸駅、飛魚海岸駅です」
電車の中に流れてきたアナウンスを聞いて、顔を上げる。目的地に着いた。はやる気持ちのままに、ホームに降り立ち、改札口を抜ける。
駅の入り口を見渡すと、既にそこには乙木がいた。黒のシンプルなパンツに、チェック柄のカーディガンを羽織っている。有名なブランドのものだと一目にわかる。ブランド品で身を固め、憂いを帯びた目でどこか遠くを見つめている乙木の姿は、モデルみたいで、当たり前だけど周りから注目されていた。「芸能人かな?」「顔キレー」と通りすがりの人たちの囁き声が聞こえてくる。このまま乙木を放っておくと誰かに声をかけられてしまいそうで、焦って駆け寄った。
「ごめん乙木、待たせた?」
そう言って乙木の前で片手を挙げると、乙木は微笑みかけてから、何故かじとりとした目で睨んできた。
「空、そうじゃないよね」
「え?」
「な、ま、え」
いつかの時と同じように、乙木は一音ずつ区切って発音した。名前で呼べ、というすごい圧を乙木から感じる。遅れてきた上、名前呼びも出来なかったら、乙木にがっかりされるよな。そんな保身と、なけなしの勇気を持って俺は口を開いた。
「……せ、星凪」
呼んだ途端、かあっと身体が熱くなる。猛烈に恥ずかしい。穴があったら入りたい。そう思う俺とは裏腹に、乙木は満足そうに頷いた。
「よく出来ました」
乙木は微笑んでから、「行こうか」と言って歩き出す。行き先は、前に2人で授業を抜け出した時に向かった場所、ミニシアターだった。あの時はどんよりした気持ちで向かってたのに、今は晴れた日の朝の空気みたいに清々しい気分だ。
品がいいのにどこか懐かしい入り口から、暖かな色のライトに照らされた室内へと入る。前に来た時のように、壁に貼られた上映中作品のポスターを眺めた。
「これ見よっか」
ヒューマンドラマっぽい邦画のポスターを指差して言うと、乙木は頷く。見たところ、「霜中碧生」と「星月アヤネ」の名前もなさそうだ。
ひと安心して、チケットとドリンクを注文する。にこやかな館内スタッフからドリンクを2つ受け取り、スクリーンへ向かった。
今日は休日だからか、小さいスクリーン内にちらほらとお客さんが座っている。1人用の席が3つとカップル用のソファ席がひとつ空いていて、一瞬迷う。周りの目もあるし、どっちに座ろうか。決めかねて俺が立ち止まっている隙に、乙木がさっさとソファ席に腰を下ろしてしまった。そして、「なんで座らないの」とでも言うようにこちらを見上げている。気恥ずかしくなりながら、俺は乙木の隣に座った。
しばらくしてから上映が始まった映画は、ほっこりする中に切なさも含んでいる、片田舎のとある家族の話だった。誤算だったのは、カメオ出演で星月アヤネが出てきたことだ。
「……悪い。違う映画にすればよかったな」
映画を見終わってから、開口一番に謝る。乙木は苦笑いをして「ポスターに名前も出てなかったし、わかりようがなかったよ。いい映画だったし良しとしよう」と言った。
「昼飯、どこに食べに行く?」
腕時計を見ながら、乙木に尋ねる。映画が朝の10時過ぎに始まったので、現在の時刻は13時前だ。飯どきとしてはちょうどいい。ただ、このミニシアターの周りにはあまりご飯屋がなかった。
「学校近くのいつものとこ、行こうよ」
乙木が言う「いつものとこ」とは、三里ヶ浜高校前駅近くにある、ファーストフード店のことだ。学校帰りにしょっちゅう行っている場所だけど、デートで行くにはそぐわない気がして、聞き返す。
「そんな安い飯でいいのか? もっとちゃんとしたとこも行けるのに」
「空が教えてくれた場所だから、あの店がいいんだよ」
まるでドラマみたいな台詞を言われ、「あ、そう……」としか返せなくなる。乙木の頭の中の辞書に「照れ」という文字はないらしい。ストレートな愛情表現で捻くれ者の俺でさえ黙らすとは。やっぱり乙木には敵わない。
ミニシアターから出ても黙っていると、「照れてる? 可愛い」なんて乙木がからかってきた。さすがに「可愛いのはお前のほうだろ」と反論する。乙木は少し目を見開いてから、夜が明けて朝が来た瞬間みたいに笑った。
特別な人間でもない俺が、こうして乙木星凪の隣にいれることは、当たり前なんかじゃない。きっと奇跡に近い、偶然。それでもこの星は手放したくない。そんな願いを込めて、乙木の手を握る。
こちらを見上げてきた乙木の瞳の中には、クラスの人気者でもなく、霜中碧生の兄でもなく、ただの霜中空が笑っていた。