数日後の午後、母ちゃんとともに緊張しながら待ち構えていると、零人と母親が病室にやって来た。

 俺の想像は、半分だけ当たっていた。
 
 母親は、零人とよく似た色白の美人だったが、服装もメイクもナチュラルで、静かなしゃべり方で、いくつもナイトクラブを経営している人のようには見えなかった。
 
 母二人は談話室に、俺と零人は屋上に移動した。
 
「お母さん、今日は仕事を休んだのか?」

「ううん。仕事は夕方から」

「そうか。零人のお母さん、すごくきれいだな」
   
「そう?」

「それに若い」

「若く見えるけど、実際はそうでもないよ」

「そうなの? でも、肌とかスベスベじゃん」

「それなりに努力はしてるんじゃないかな。客商売だし」

 俺は、ちょっと呆れて言う。

「お前、母親に対してはずいぶん素っ気ないな」

「そう?」

「零人はありがたみがわかってないんだよ」

「ありがたみって?」

「母親が若くてきれいなことがどれだけ貴重かっていうことだよ。俺の母ちゃんを見てみろよ」
   
 零人はきょとんとしている。

「え? 淳太のお母さん、やさしそうっていうか、実際に淳太が骨折して初めて会ったときもやさしかったよ。

 怒られるかと思ったら、笑顔で気にしなくていいのよって言ってくれて、すごく安心したし」
   
「そういうことじゃなく……」

 俺の母ちゃんは、新婚当時より10kg太ったとかいう体型で、ガハガハと大きな声で笑い、どこから見ても、ザ・おばちゃんといった風情だ。とてもすらりとして美しい零人の母親と同じ生き物だとは思えない。
 
「淳太のお母さん、僕は好きだけど」

 やっぱり零人には、俺の言う意味がわかっていないらしい。
 
「ま、いいけど」

「あ!」

 零人が突然声を上げた。

「何?」

「明日はもう金曜日だね」

「そうだな」

 零人はかわいい笑顔で言った。

「明日また、授業のノート持って来るね」

「うん」

「あと、何かおいしいものも」

「そんなに気を遣わなくていいよ」

「僕が食べたいんだもん。あ、そういえば、さっきママがわたした手土産はクッキーだよ。日持ちするものがいいからって」
   
「そうか。なんだか悪いな」

「悪いのはこっちだよ。僕のせいで、こんな大ケガして……」

 零人が、俺のギプスで固められた足を見下ろす。
 
「だからそれは俺が……って、こういうやり取りするの何回目だよ」

 俺たちは、どちらからともなく笑い出した。
 
 
 笑いが収まった頃、俺は、ふと思い出して言った。
 
「そういえば、そろそろゴールデンウイークが近いだろ」

「うん」

「今日の午前中、医者に、ゴールデンウイークに入るタイミングで退院したらどうかって言われたんだ」

「そうなの?」

「もちろん、当分の間は通院しなくちゃならないし、休みが終わっても、すぐには学校には行けないと思うけど」

「よかった、って言っていいのかどうかわからないけど」

「でも、退院していいくらいには回復してるってことだよ」

 零人が、ほっとしたようにほほえむ。
 
「そうか」

「零人は、ゴールデンウイークの予定は?」

 何げなく尋ねると、不意に零人の顔から表情が消えた。
 
「ないよ」

 恋人のことを、あるいは恋人が彼女と過ごすことを考えているのだろうか。
 
「あっ、じゃあ、俺に付き合ってくれないか? いや、付き合うっていうか、俺は家に帰ってもまだ何もできないし、またチャットとか……」

「いいよ。でも、チャットだけじゃなくて淳太の家に遊びに行きたい」

「え……?」

 零人が身を乗り出す。
 
「ダメ?」

 顔が近い。俺は、思わずのけぞりながら答える。
 
「む……むさくるしいところだぜ」

「別にいいよ」

「えっと、じゃあ、母ちゃんに聞いてみる」

 やがて、早くも病院の夕食の時間が近づいたので、俺たちは病室に戻る。
 
 ほどなく、母たちも談話室から戻って来た。
 
 母たちの間でも退院の話は出ていたらしく、さっき屋上でした話をすると、母ちゃんは「零人くんなら大歓迎よ」と笑い、零人の母親は、「すみません」と言いながら美しくほほえんでいた。
 
 俺が母ちゃんに頼んでおいた白鷺コウの本を受け取った零人は、母親とともに帰って行った。
 
 
 
 その夜の9時過ぎ。
 
(お前の魂胆などお見通しだ)

 小説の主人公、水村の決め台詞だ。
 
(よっ、名探偵!)

(病院の帰り、車の中でずっと読んでた)

(今日、車で来たの?)

(ううん。行きはママと駅前で待ち合わせて、帰りだけ)

(そうか)

(帰って来てからも、ご飯以外はずっと読んでた)

(そんなに急いで読まなくてもいいよ。返すのはいつでもかまわないから)

(だって面白いんだもん)

(そうか)

(ママがよかったねって)

(本のこと?)

(それもだけど、淳太のこと。いいお友達ができてよかったねって)

 あ……。
 
(淳太はひどい目に遭ったのに、僕ばっかりいい思いしちゃって)

(そんなことはない。俺だって、零人と仲良くなれてよかった)

 それは本当だ。零人が楽しそうにしていることも、それを零人の母親が喜んでいることも、すごくうれしい。
 
 だって俺は、零人のことが好きだから。
 
 
 
 翌日の午後。あいにくの雨で、俺たちは談話室にいる。
 
「はいこれ、今週のノート」

「サンキュー」

「それからこれ。今日はローディーズのハンバーガーにしてみたよ」

「おお!」

「スイーツのほうがよかった?」

「いや、ハンバーガーも大好き。こんなの病院じゃ絶対に出ないし」

 零人がにっこり笑う。
 
「よかった」

 授業のノートを受け取ることも、こうして一緒に時間を過ごすことも、いろんな話をすることも、いつしか当たり前のようになっている。
 
 でも、何げないふりをして話しながら、棘のように、いつもちくちくと俺の胸を刺す思い。
 
 最近はしょっちゅう俺と会っているが、その一方で、零人は恋人とも会っているのだろうか。
 
 だが、そんなこと、とても聞く勇気はない。というか、聞いて楽しい雰囲気を壊したくない。
 
「あ、じゃあ、飲み物買って来る」

 松葉杖をつかんで立ち上がろうとする俺を、零人が制する。
 
「いいよ、僕が買って来る」

「いいって。これもリハビリのうちだから。てか自販機すぐそこだし、どうってことねえよ」
   
「そうか」

「何にする?」

「じゃあ僕はレモンティー」

「オッケー」

 零人と過ごすことは楽しいし、どうやらそれは、退院した後も続くことになりそうだ。
 
 もちろんそれは、とてもうれしいことなのだが、本音を言えば、零人には恋人と別れてほしい。
 
 それに……。
 
 

 俺は、予定通り病院を退院した。
 
 家に帰っても、チャットは今まで通りだ。
 
(久しぶりの家はどう?)

(いつもの部屋じゃないから、なんか変な感じ)

 まだ階段の上り下りが難しいので、当分の間、一階の空いていた和室を使うことになったのだ。
 
(そうなんだ)

(でも、着替えとかノートパソコンとか、俺の部屋にあったものはだいたい持って来てある。それに本も)
   
 明日、零人がうちに来ることになっていて、シリーズ物以外の白鷺コウの本を貸す約束をしているのだ。
 
(淳太の家に行くの楽しみ)

(築20年のしょぼくれた木造住宅だぜ。タワマンに住んでるお坊ちゃまの来るようなところじゃない)
   
 お坊ちゃまとは、つまり零人のことだ。
 
(そんなことないでしょ。淳太が生まれ育った家を見てみたい)

 え……。
 
(恥ずかしいよ)

(変なの)

(明日、何時頃に来る?)

(お昼過ぎぐらいに)

(わかった)


 零人が初めて病院に来るときもそわそわしたが、彼が俺の家に来るのだと思うと、緊張の度合いは比べものにならない。
 
 しかも、こんなセンスのかけらもない部屋に迎え入れるなんて。
 
 しかたがないが、今の足の状態では、床に座ったり寝たりすることも難しいので、和室だというのに、畳の上に急遽用意してもらったパイプベッドが置いてある。
 
 
 
 翌日の昼過ぎ、ベッドに腰かけてドキドキしながら待っていると、ついに玄関のチャイムが鳴った。
 
 やがて廊下を近づいて来る足音が聞こえ、ふすまの向こうで母ちゃんの声がした。
 
「零人くんがいらしたわよ」

 そして、静かにふすまが開き、母ちゃんの後ろから白く小さな顔がのぞいた。
 
「こんにちは」

 いつも通りのかわいい笑顔だ。それに、ギンガムチェックのシャツとデニムもよく似合っている。
 
 ちなみに俺は、部屋着替わりのスポーツメーカーのロゴが入ったTシャツとハーフパンツだ。
 
「お、おう」

「お土産にケーキいただいたから、紅茶淹れて来るわね」

 母ちゃんはそう言って、廊下を戻って行った。
 
 俺は、これも急遽用意してもらった机の前のキャスター付きの椅子を指す。
 
「ええと、とりあえずそこに座って」

「うん」

「駅からの道はすぐにわかった?」

「うん。淳太が教えてくれた通りに来たら、ちゃんと来られたよ」

「そうか」

 零人は、こちらに向けた椅子にちょこんと腰かけてニコニコしている。
 
「えーと、畳にベッドとか変だよな」

「そんなことないよ。ケガしてるからでしょ?」

「うん。……あっ、白鷺コウの本、そこにあるからどれでも好きなのを持って行けよ」

 俺が机の上を指すと、零人が椅子ごとくるりと振り返った。
 
 あらかじめ用意してあるお菓子の横に、何冊も積み上げてある。
 
「わー、たくさんあるね。どれにするか迷うなぁ」

「順番に全部読めばいいじゃん」

「うん。ありがと」

 零人はこちらに背を向けたまま、本を手に取って見ている。
 
 俺は、その様子を不思議な気持ちで見つめる。俺の家に零人がいるなんて、これってホントに現実なのか?