日曜日の昼下がり。俺たちは、病院の屋上のベンチに並んで腰かけている。
たくさんの洗濯物が風にはためいているが、人影はいない。
初めて見た零人の私服は、淡いブルーのシャツにチノパン。パンツの裾からのぞく、細く白い足首がまぶしい。
ごく普通の服装なのに、零人が着ていると、なぜかおシャレでかわいく見えるから不思議だ。
俺はといえば、もはやすっかり着なれた、病院からレンタルしている甚平のできそこないみたいなダサい病衣姿。
「率直に言うけど」
「うん」
「俺はそいつとは別れたほうがいいと思う」
「そう言うと思った」
「そうか。で、零人はどう思ってるんだ?」
「それは……」
零人は口ごもる。横を見ると、うつむいた零人の茶色がかった髪が、ふわふわと風に揺れている。
「零人の気持ちも、わからないではない。好きな気持ちは、そう簡単に抑えられないってこともわかってるつもりだ」
零人が、はっとしたように顔を上げてこちらを見た。
まともに目が合って、一瞬、濡れた瞳に目を奪われた後、俺はあわてて視線をそらす。
「だけど、そんな関係をずっと続けてるなんて、やっぱりダメだよ。相手の女性にだって失礼だとは思わないのか?」
「それはそうだけど……」
「まさか、相手の女性も、零人の存在を知ってるなんてことはないよな?」
もしもそうなら、よけいに絶対に別れるべきだ。
「さすがに、それはないよ」
それでもやっぱり、別れるべきだ。
「そんな卑怯なやつの、どこがそんなにいいんだよ……」
零人が鼻をすする音がした。見ると、目元を拭っている。
俺だって泣きたい。
「零人だって、今の状態に満足してるわけじゃないだろ?」
「そうだけど……」
「それでも別れられないのか? 好きだから?」
零人がこくりとうなずく。
「じゃあ、なんで俺に打ち明けたんだ?」
「話を、聞いてほしかったから」
「そいつだって零人の話を聞いてくれるんだろ? だったら俺なんかに言わず、そいつに直接言えばいいじゃないか。
そいつに、こんなの嫌だって!」
「だって……」
俺は虚しくなって、深いため息をついた。
「言えないよな。本音を言って、じゃあ別れようって言われたら困るもんな」
零人がこちらを見る。俺は、零人の顔を正面から見ながら言った。
「俺はそいつの身代わりなのか?」
「そんな……」
零人の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
二人の間を、風が吹き抜ける。
「帰る」
零人は、涙を拭いながら立ち上がり、エレベーターに向かって歩いて行く。
ああ、終わった……。
ずっと密かに思い続けていた零人と、ようやく親しくなれたと思ったら、たった6日で終わりかよ。
俺はベンチに腰かけたまま、零人の細い背中が、エレベーターのドアの向こうに消えて行くのを見送った。
しばらく立ち上がることができず、ふと我に返ったときには、西の空の縁がサーモンピンクに染まっていた。
俺は、屋上から病室に戻るエレベーターの中で、さっき自分が言った言葉を思い返し、一人自嘲する。
「俺はそいつの身代わりなのか?」
あんな恥ずかしいこと、よく言ったもんだ。
俺が恋人の代わりになんてなれるはずがないじゃないか。俺なんて、身代わり以下だ。
きっと零人は、胸の中にたまったものを発散することができれば、相手は誰でもよかったんだ。
もう二度と零人と話すことはないだろう。
そう思っていたのに、9時過ぎに、いつものようにスマホが震えた。
嘘だろ?
(昼間はごめん。淳太は僕のためを思って言ってくれたのに)
(いや)
(痛いところを突かれて、言葉が出なかったんだ)
(そうか)
(僕のこと、呆れてるよね)
(そんなことはない)
(でも、淳太のこと、身代わりだなんて思ってない)
(そうだよな)
身代わりだなんておこがましい、っていうのも変だが。
(淳太と仲良くなれたこと、ホントにうれしいと思ってる)
(うん)
(僕のこと怒ってる?)
(いや、怒ってない)
俺が怒っているのは、零人を平気で傷つけている、彼の恋人に対してだ。
(じゃあ、これからも仲良くしてくれる?)
(うん)
(毎晩チャットもしてくれる?)
(うん)
(よかった)
なんなんだよ、この展開は。
そう思いつつ、俺はにやけていた。
いろいろ納得できないことはあるものの、やっぱりまだ零人のことが好きだし、嫌われたくない。
(俺もきつく言い過ぎたかも。ごめん)
(いいよ。ちゃんと話を聞いてくれるのも、ちゃんと叱ってくれるのも淳太だけ)
ああもう、またそんなかわいいことを……。
(また屋上で話そうな。今度はああいう話じゃなく)
(うん。あそこ、気持ちいいね)
(だよな)
(今度は屋上で話しながらスイーツ食べよう)
(うん)
(明日行ってもいい?)
(週末に来るんじゃないのか?)
(週末じゃないとダメ?)
(そんなことはないけど)
むしろうれしいが、毎週1回金曜日に、1週間分のノートを持って来るということなのだと思っていた。
(迷惑?)
(まさか!)
エクスクラメーションマークに精一杯の思いを込めたつもりだ。
(よかった。じゃあ明日、学校の帰りに行くね)
(うん。待ってる)
(眠くなった?)
(全然)
(じゃあもうしばらく話そう)
俺はふと、これってなんだか恋人同士の会話みたいだと思い、またもにやける。
(今も一人?)
(うん)
(お母さんはどういう仕事してるの?)
(ナイトクラブをいくつか経営していて、夜はいつも各店舗を回ってる。今度また、新しくダイニングバーを開くんだって)
なんと……。イメージしていたのとまったく違っていた。
(忙しそうだな)
(うん。定休日以外はあんまり話すヒマもない)
(小さい頃から?)
(うん)
ずっとそんな生活をして来たのか。
俺は、零人の深い孤独に思いをはせる。
こんな俺でも、零人の寂しさを埋めることができるだろうか……。
翌日の午後。俺たちは、再び屋上のベンチに腰かけている。
零人が、膝の上の高級そうな平たい紙製の箱を開けた。
「これ、トリュフチョコだよ」
箱の中には、宝石のようなチョコレートがびっしり並んでいる。
「おー、すげえな。うまそう」
「ママがお店のお客さんにもらったんだって。暑くて溶けちゃったら困ると思ったけど、今日は涼しくてよかった」
俺は、無邪気に話す零人の横顔に目をやる。
「お母さんのこと『ママ』って呼ぶんだな」
「あ……」
零人の頬に、さっと赤みが差した。
俺は思わずにやける。
「零人らしくていいと思うぜ」
零人が恥ずかしそうに箱を差し出す。
「食べて」
「うん。……んっ、うまい」
「僕も。……おいしー」
俺たちは、しばしチョコレートを堪能する。
「あのね」
「うん」
「ママに淳太のこと話した」
「え?」
「高校に入って初めて友達ができたって」
「ほー」
「でも、僕のせいでケガをして入院したって言ったら、今度お見舞いに行くって」
だらしなくベンチにもたれていた俺は、それを聞いてあわてて体を起こす。
「そんな、お見舞いなんていいよ」
「そういうわけにはいかないよ。淳太のお母さんにもご挨拶したいって」
「マジか……」
零人の母親ってどんな人だろう。零人に似た美人で、ナイトクラブをいくつも経営しているんだから、きっと妖艶でゴージャスで……。
「もっと食べて」
「あ、うん」
「あのね、白鷺コウの小説、読んでみたよ」
「へえ、どうだった?」
「すごく面白かった。水村がカッコいいし」
水村というのは、白鷺コウが書いているシリーズ物のミステリーの主人公で、一匹狼の探偵だ。
「だろ?」
「まだ1冊しか読んでないけど、ほかのも読んでみようかな」
「だったら、俺のを貸すよ。水村シリーズは全巻持ってるから。
今度母ちゃんに病院に持って来てもらう」
「ホント? うれしい」
そう言って俺を見る顔がめちゃめちゃかわいい。
零人は、再び前を向いて話し出す。
「前に菅平豊太郎を読んでるって言ったでしょ?」
「うん」
恋人に勧められて、と言っていた。
「ホントは難しくてよくわからなかったんだ。でも、彼に喜んでほしくてがんばって読んだ」
「なるほど」
恋人の話が出たとたん、今まで楽しかった気持ちが一気に冷める。
「彼、大学の文学部で近代文学を専攻してたんだって。それで、よくそういう話をしていて、彼が好きな小説がどんなのか知りたくて」
「そうか」
「でも、つまらなかった。白鷺コウのほうが100倍面白いよ」
「そうか……」
零人は、どこか満足そうにほほえみながら空を見上げている。
これはどういうことなんだろう。零人はただ、純粋に小説の好みについて話しているだけなのだろうか。
そこに何か別の意味が含まれているのではないかと思ってしまうのは、深読みのし過ぎだろうか……。
たくさんの洗濯物が風にはためいているが、人影はいない。
初めて見た零人の私服は、淡いブルーのシャツにチノパン。パンツの裾からのぞく、細く白い足首がまぶしい。
ごく普通の服装なのに、零人が着ていると、なぜかおシャレでかわいく見えるから不思議だ。
俺はといえば、もはやすっかり着なれた、病院からレンタルしている甚平のできそこないみたいなダサい病衣姿。
「率直に言うけど」
「うん」
「俺はそいつとは別れたほうがいいと思う」
「そう言うと思った」
「そうか。で、零人はどう思ってるんだ?」
「それは……」
零人は口ごもる。横を見ると、うつむいた零人の茶色がかった髪が、ふわふわと風に揺れている。
「零人の気持ちも、わからないではない。好きな気持ちは、そう簡単に抑えられないってこともわかってるつもりだ」
零人が、はっとしたように顔を上げてこちらを見た。
まともに目が合って、一瞬、濡れた瞳に目を奪われた後、俺はあわてて視線をそらす。
「だけど、そんな関係をずっと続けてるなんて、やっぱりダメだよ。相手の女性にだって失礼だとは思わないのか?」
「それはそうだけど……」
「まさか、相手の女性も、零人の存在を知ってるなんてことはないよな?」
もしもそうなら、よけいに絶対に別れるべきだ。
「さすがに、それはないよ」
それでもやっぱり、別れるべきだ。
「そんな卑怯なやつの、どこがそんなにいいんだよ……」
零人が鼻をすする音がした。見ると、目元を拭っている。
俺だって泣きたい。
「零人だって、今の状態に満足してるわけじゃないだろ?」
「そうだけど……」
「それでも別れられないのか? 好きだから?」
零人がこくりとうなずく。
「じゃあ、なんで俺に打ち明けたんだ?」
「話を、聞いてほしかったから」
「そいつだって零人の話を聞いてくれるんだろ? だったら俺なんかに言わず、そいつに直接言えばいいじゃないか。
そいつに、こんなの嫌だって!」
「だって……」
俺は虚しくなって、深いため息をついた。
「言えないよな。本音を言って、じゃあ別れようって言われたら困るもんな」
零人がこちらを見る。俺は、零人の顔を正面から見ながら言った。
「俺はそいつの身代わりなのか?」
「そんな……」
零人の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
二人の間を、風が吹き抜ける。
「帰る」
零人は、涙を拭いながら立ち上がり、エレベーターに向かって歩いて行く。
ああ、終わった……。
ずっと密かに思い続けていた零人と、ようやく親しくなれたと思ったら、たった6日で終わりかよ。
俺はベンチに腰かけたまま、零人の細い背中が、エレベーターのドアの向こうに消えて行くのを見送った。
しばらく立ち上がることができず、ふと我に返ったときには、西の空の縁がサーモンピンクに染まっていた。
俺は、屋上から病室に戻るエレベーターの中で、さっき自分が言った言葉を思い返し、一人自嘲する。
「俺はそいつの身代わりなのか?」
あんな恥ずかしいこと、よく言ったもんだ。
俺が恋人の代わりになんてなれるはずがないじゃないか。俺なんて、身代わり以下だ。
きっと零人は、胸の中にたまったものを発散することができれば、相手は誰でもよかったんだ。
もう二度と零人と話すことはないだろう。
そう思っていたのに、9時過ぎに、いつものようにスマホが震えた。
嘘だろ?
(昼間はごめん。淳太は僕のためを思って言ってくれたのに)
(いや)
(痛いところを突かれて、言葉が出なかったんだ)
(そうか)
(僕のこと、呆れてるよね)
(そんなことはない)
(でも、淳太のこと、身代わりだなんて思ってない)
(そうだよな)
身代わりだなんておこがましい、っていうのも変だが。
(淳太と仲良くなれたこと、ホントにうれしいと思ってる)
(うん)
(僕のこと怒ってる?)
(いや、怒ってない)
俺が怒っているのは、零人を平気で傷つけている、彼の恋人に対してだ。
(じゃあ、これからも仲良くしてくれる?)
(うん)
(毎晩チャットもしてくれる?)
(うん)
(よかった)
なんなんだよ、この展開は。
そう思いつつ、俺はにやけていた。
いろいろ納得できないことはあるものの、やっぱりまだ零人のことが好きだし、嫌われたくない。
(俺もきつく言い過ぎたかも。ごめん)
(いいよ。ちゃんと話を聞いてくれるのも、ちゃんと叱ってくれるのも淳太だけ)
ああもう、またそんなかわいいことを……。
(また屋上で話そうな。今度はああいう話じゃなく)
(うん。あそこ、気持ちいいね)
(だよな)
(今度は屋上で話しながらスイーツ食べよう)
(うん)
(明日行ってもいい?)
(週末に来るんじゃないのか?)
(週末じゃないとダメ?)
(そんなことはないけど)
むしろうれしいが、毎週1回金曜日に、1週間分のノートを持って来るということなのだと思っていた。
(迷惑?)
(まさか!)
エクスクラメーションマークに精一杯の思いを込めたつもりだ。
(よかった。じゃあ明日、学校の帰りに行くね)
(うん。待ってる)
(眠くなった?)
(全然)
(じゃあもうしばらく話そう)
俺はふと、これってなんだか恋人同士の会話みたいだと思い、またもにやける。
(今も一人?)
(うん)
(お母さんはどういう仕事してるの?)
(ナイトクラブをいくつか経営していて、夜はいつも各店舗を回ってる。今度また、新しくダイニングバーを開くんだって)
なんと……。イメージしていたのとまったく違っていた。
(忙しそうだな)
(うん。定休日以外はあんまり話すヒマもない)
(小さい頃から?)
(うん)
ずっとそんな生活をして来たのか。
俺は、零人の深い孤独に思いをはせる。
こんな俺でも、零人の寂しさを埋めることができるだろうか……。
翌日の午後。俺たちは、再び屋上のベンチに腰かけている。
零人が、膝の上の高級そうな平たい紙製の箱を開けた。
「これ、トリュフチョコだよ」
箱の中には、宝石のようなチョコレートがびっしり並んでいる。
「おー、すげえな。うまそう」
「ママがお店のお客さんにもらったんだって。暑くて溶けちゃったら困ると思ったけど、今日は涼しくてよかった」
俺は、無邪気に話す零人の横顔に目をやる。
「お母さんのこと『ママ』って呼ぶんだな」
「あ……」
零人の頬に、さっと赤みが差した。
俺は思わずにやける。
「零人らしくていいと思うぜ」
零人が恥ずかしそうに箱を差し出す。
「食べて」
「うん。……んっ、うまい」
「僕も。……おいしー」
俺たちは、しばしチョコレートを堪能する。
「あのね」
「うん」
「ママに淳太のこと話した」
「え?」
「高校に入って初めて友達ができたって」
「ほー」
「でも、僕のせいでケガをして入院したって言ったら、今度お見舞いに行くって」
だらしなくベンチにもたれていた俺は、それを聞いてあわてて体を起こす。
「そんな、お見舞いなんていいよ」
「そういうわけにはいかないよ。淳太のお母さんにもご挨拶したいって」
「マジか……」
零人の母親ってどんな人だろう。零人に似た美人で、ナイトクラブをいくつも経営しているんだから、きっと妖艶でゴージャスで……。
「もっと食べて」
「あ、うん」
「あのね、白鷺コウの小説、読んでみたよ」
「へえ、どうだった?」
「すごく面白かった。水村がカッコいいし」
水村というのは、白鷺コウが書いているシリーズ物のミステリーの主人公で、一匹狼の探偵だ。
「だろ?」
「まだ1冊しか読んでないけど、ほかのも読んでみようかな」
「だったら、俺のを貸すよ。水村シリーズは全巻持ってるから。
今度母ちゃんに病院に持って来てもらう」
「ホント? うれしい」
そう言って俺を見る顔がめちゃめちゃかわいい。
零人は、再び前を向いて話し出す。
「前に菅平豊太郎を読んでるって言ったでしょ?」
「うん」
恋人に勧められて、と言っていた。
「ホントは難しくてよくわからなかったんだ。でも、彼に喜んでほしくてがんばって読んだ」
「なるほど」
恋人の話が出たとたん、今まで楽しかった気持ちが一気に冷める。
「彼、大学の文学部で近代文学を専攻してたんだって。それで、よくそういう話をしていて、彼が好きな小説がどんなのか知りたくて」
「そうか」
「でも、つまらなかった。白鷺コウのほうが100倍面白いよ」
「そうか……」
零人は、どこか満足そうにほほえみながら空を見上げている。
これはどういうことなんだろう。零人はただ、純粋に小説の好みについて話しているだけなのだろうか。
そこに何か別の意味が含まれているのではないかと思ってしまうのは、深読みのし過ぎだろうか……。