文化祭の前日は、準備の日として定められている。
その作業はひとつの怒号からはじまった。
「男子! 掃除くらいしなさーい!」
クラスメイトの咲良が声を上げている。でも、それは虚空に向けて叫んでしまい、一部の生徒はどこかに行ってしまった。
僕が想像したそのままの光景が目の前に映っている。
誰かしら作業をしない人は居ると思ったが、彼女に言わせると少しも許せないのだろう。
担任の先生によるアピールの結果なのか、隣の校舎にある空き教室を使うことができた。ここはいつもの教室より広めに作られていて、劇にも喫茶店にもうってつけの空間だろう。
ただし、普段使われていないため先ずは掃除をしなければいけなくなった。
「ちゃんとやっているじゃないか」
振り返って答えたのは綾人だ。彼は何やらスマートフォンを見ながらホウキをかけている。
「まあ、綾人はやっているわねえ。
......スマホ以外は」
「スマホで漫画を読むくらい良いだろう。
それに、視線がうるさい」
咲良の瞳はじいっと綾人をロックオンしていて、彼が少しでも休もうとするとすぐさま注意をするのだ。
「きちんと掃除をするのを、監視しているの。他の子のためにもね」
「意味が分からない。ホウキに顎なんか乗せちゃって、母親じゃあるまいしさあ」
周りで作業をしている僕らは、ふたりの様子を見ながらくすくすと笑っている。綾人は調子に乗るところがあるけれど、根は真面目だ。
「......っていうか、持ってるなら手伝って」
その意見は合っている。咲良はしっかりとした物言いをするのに、こう正論を言われると答えに詰まる所がある。彼女はあっという間に論破されてしまったが、周りの女子生徒が代わりにわたわたと動き出していた。
「私たちが手伝うからいいよ、咲良ちゃんは全体の監督をしててね」
すこし頬を膨らませ気味だった咲良は、しぶしぶと肩を下げた。
和気あいあいと作業が進む中で、高月は部屋の隅で折り紙の飾りを作っていた。
普段なら彼女は孤立していたんじゃないだろうか。
でも、その傍らにはこの間意見をまとめてくれた林がいる。これといって会話はしていないものの、特に悪い空気は感じない。
そこに咲良が合流して、三人楽しそうに作業をしている。僕は何気なくその様子を眺めていたら、呼び止められてしまった。
「朝倉くんもやる?」
咲良の声かけに連動して、高月の視線もこちらへと向く。その瞳は、楽しいから一緒にやろうと言わんばかりだ。
雑巾がけが終わってしまったから、今やるべき作業があるわけではなかった。
近くの椅子に座り、グループに混ぜてもらうことにした。
「なにを作っているの?」
僕の問いに、林は桜の花をお願いしたいと答えてくれた。演目の雰囲気に沿ったカラフルな花を数種類作るのだという。
はにかみながら鋏を持つ姿は、まさしく幼稚園の先生に見えてくる。
「私がやるんで、横から一緒に手を動かしてください。まず、対角線の一辺を折ってすじをつけます。次にもう一つの辺もです......」
ふむふむ。
「そしたら、一旦三角形にして、一枚だけめくって、印をつけるのです」
「......こう?」
「そう、三角形の頂点を下の辺につける感じですよ」
林の折るスピードは少し速いのだが、具体的な形を教えてもらえると助かる。
「今度は上にある左右の角に合わせるように、下の端を持っていきます」
......はて? もう一回説明をしてほしくなった。
ちょっともつれたふたりの会話に合の手を入れてくれたのが高月だった。
「下の端の中心はだいたいわかるでしょう? そこを起点に折る形です、その縁が上の頂点に触れるんですよ」
彼女はふわりとほほ笑んで、優しい口調で説明をしてくれた。
そして、続きの工程を終えて。鋏で曲線を切り出すのだという。林が改めて鋏を手にしたところだった。
ふと迷い込んだ客に教室中がざわめいた。
開けていた窓から蛾が入り込んでいた。皆の視線を浴びながらひらひらと舞い、壁の一角に張りついた。そこそこ大きい。
うろたえている生徒の中で、綾人があっという間に捕まえてしまった。
「ホント、こういう時は役に立つわねえ」
「......一言余計だなあ」
咲良と綾人の掛け合いに教室の中が笑いに染まった。見ると、高月もくすくすと笑っているようだ。
もしかしたら、彼女は少しずつクラスに馴染んでいるのかもしれない。
咲良が他のグループのところに行ってしまったので、飾り付けは自分たちの作業になった。
内装を考えるグループと協力して考えた配置案に沿って、折り紙の飾りを貼り付けていく。
低いところは難なく作業ができたものの、教室のドアの上などは高くて大変だった。
そのため、高月が椅子を持ってきてくれた。
「朝倉くん、ひとつずつ渡してください」
高月が椅子の上で伸びをするように腕を伸ばす。
指示に合わせて、僕は飾りを手渡していく。結果的に彼女が手元を見ながら作業するのを見上げる格好になった。
高月が身体を動かすたびに、僕は視線をそらさないといけなくなった。
それにしても、セーラー服というのはこんなに隙間が開くものだろうか。この高校に来たことを小さく後悔することになった。
当の彼女はまったく気づいていなかった。
やがて、飾りの足りない分を林に量産してもらって、すべての飾りつけが完了した。
随分と賑やかになった教室内を見渡すと、なかなか豪華な雰囲気がして嬉しいため息が出てしまう。
「やりましたね」
と、林が小さく答えた。
「......私、おばあちゃん子だった影響もあって。おままごとよりも折り紙が好きでした。いつか部屋中を折り紙で飾りたいって思ってたんですよ」
赤らめた頬に早口で説明する様子は嬉しいとも恥ずかしいともとれる表情だ。
何のことだろうか、小さく首を傾げてしまう。
ちらりと高月の顔を見ると、何のことだか分かったようだ。
微笑み合ったふたりは小さく手を挙げて、ハイタッチした。
高月の表情もずいぶん柔らかいものになっていて素敵だった。
文化祭当日。
こともあろうか、高月はホームルームまでに姿を現さなかった。
きっと、催しが気に入らないから来るのを止めたんじゃないかと誰か漏らしていた。メイド喫茶を推していた生徒のひとりがそういう事を言っていた。
だいぶ身勝手なことを言うものだ。
「まあ、言わせておきましょ」
声の主を軽くにらみながら、咲良は制服の上にエプロンを身に着けていた。
とは言いつつも、軽くため息を漏らしているようだ。その淋しさはホールを務めるメンバーにも広がっていた。
ちなみに、高月もホールを務めるうちのひとりで、ウェイトレス姿じゃなければやるとのことだった。咲良と一緒のチームだからというのもあるだろうなと想像してみる。
それでも作業をしなければならない。気合いを入れ直した咲良が身に着けているオレンジ色のエプロンが眩しかった。
午前中はなかなかの客入りがあったらしく、注文されたジュースの準備やゴミの分別などキッチン作業も忙しいものだった。
ブースの中で簡単に昼食を済ましていると、咲良に声を掛けられた。
「お疲れ様。君ひとりなの?」
他のメンバーも昼休みを過ごしていて、今この場所に居るのは自分だけだった。
食材のストックについて話しておいた方が良いかもしれない、軽く説明しておくことにした。
「......コップと皿は大丈夫だよ。ただ、飲み物に偏りがあるかも。ちょっと買い出しした方が良いかもしれない」
「あら、気の利くこと言ってくれるじゃない。じゃあ、裏のコンビニまでよろしくね」
午後の公演までに時間があるから、今のうちに行ってくるよと声をかけて席を立った。すると、僕の手に冷たいものが押し当てられた。
自販機で売っている缶コーヒーだった。
「君は砂糖入ってなくてもだいじょうかな?」
別に飲めないわけではないが、正直入っていると嬉しい。
ただ、咲良がそんな話をしたいわけじゃないのに気づくのには少し時間がかかってしまった。ゆっくり、少し湿り気のある口調で話してくれた。
「高月さん、どうしたんだろうね......。
昨日さ、林ちゃんと三人で駅まで帰ったんだよ。
少しずつ口を開くようになってきてくれて嬉しかったけど、学校に来たくないなんて、一言も言っていなかったな」
そうなんだね、と相づちを打つ自分の声も少し沈んでいる。
普段なら特に気にかけないところだが、今日はよりによってイベントの日だ。それに準備だってあんなに楽しそうにしていたのに。高月の瞳が僕の脳裏によみがえる。
「もし、高月さんになにか原因があるとしたら。私、話だけでも聞いてみたい」
周りを気に掛ける咲良らしい発言だ。切ないながらも、自信にあふれる表情が素敵だった。
もしかしたら、コーヒーのように甘くない話なのかもしれない。
ひとり裏門に向けて歩いていると、うさぎ小屋の中に見知った顔がいた。
高月 リツ花だった。彼女は小屋の中をきれいに履き掃除していた。
まさか、そんなことはないだろう。思わず小屋の前まで歩いていく。
こちらを振り返った高月は、ふふっと小さな声を漏らして話しかけてくれた。表情はいつもの通りあまり読み取れない。
「......見られちゃった、か」
僕たちは相変わらず小屋を隔てて会話している。この間の出来事が符合して、僕はひとつの可能性を口にした。
「もしかして、ペットショップで買ってたのって」
「そうだよ、この子のためなんだ」
高月は足元にいる白いうさぎに視線を落とす。うさぎはまったりとした表情で、ごろんと横になっている。
「ずっと、この子の世話をしているの?」
「そう、死んだら可愛そうだから。
時間があれば餌をあげているんだ」
彼女が優しい嘘をついていたのは分かったが、それは保健室登校ならぬうさぎ小屋登校のようだった。
だって、今日は......と声を掛けようとして口をつぐんでしまう。文化祭なんて、彼女の眼中には無さそうだったから。
高月は首を小さく横に振った。
「それは駄目なんです、時間が許さない」
......誰にも言えないことですから。そう言って彼女は掃除用具をきれいに片付けて、立ち去ってしまった。
また僕はひとり残された。
買い出しに行く用事をしばし忘れて、小屋の中にひとりでいる。
うさぎが顔を上げて、僕と目を合わせる。うさぎの瞳の中に高月の顔が映し出された気がした。秘密を覗き込んだような気分だ。
なにかバイトをしているのだろうか。僕はそれくらいの思考しか持ち合わせていなかった......。
その作業はひとつの怒号からはじまった。
「男子! 掃除くらいしなさーい!」
クラスメイトの咲良が声を上げている。でも、それは虚空に向けて叫んでしまい、一部の生徒はどこかに行ってしまった。
僕が想像したそのままの光景が目の前に映っている。
誰かしら作業をしない人は居ると思ったが、彼女に言わせると少しも許せないのだろう。
担任の先生によるアピールの結果なのか、隣の校舎にある空き教室を使うことができた。ここはいつもの教室より広めに作られていて、劇にも喫茶店にもうってつけの空間だろう。
ただし、普段使われていないため先ずは掃除をしなければいけなくなった。
「ちゃんとやっているじゃないか」
振り返って答えたのは綾人だ。彼は何やらスマートフォンを見ながらホウキをかけている。
「まあ、綾人はやっているわねえ。
......スマホ以外は」
「スマホで漫画を読むくらい良いだろう。
それに、視線がうるさい」
咲良の瞳はじいっと綾人をロックオンしていて、彼が少しでも休もうとするとすぐさま注意をするのだ。
「きちんと掃除をするのを、監視しているの。他の子のためにもね」
「意味が分からない。ホウキに顎なんか乗せちゃって、母親じゃあるまいしさあ」
周りで作業をしている僕らは、ふたりの様子を見ながらくすくすと笑っている。綾人は調子に乗るところがあるけれど、根は真面目だ。
「......っていうか、持ってるなら手伝って」
その意見は合っている。咲良はしっかりとした物言いをするのに、こう正論を言われると答えに詰まる所がある。彼女はあっという間に論破されてしまったが、周りの女子生徒が代わりにわたわたと動き出していた。
「私たちが手伝うからいいよ、咲良ちゃんは全体の監督をしててね」
すこし頬を膨らませ気味だった咲良は、しぶしぶと肩を下げた。
和気あいあいと作業が進む中で、高月は部屋の隅で折り紙の飾りを作っていた。
普段なら彼女は孤立していたんじゃないだろうか。
でも、その傍らにはこの間意見をまとめてくれた林がいる。これといって会話はしていないものの、特に悪い空気は感じない。
そこに咲良が合流して、三人楽しそうに作業をしている。僕は何気なくその様子を眺めていたら、呼び止められてしまった。
「朝倉くんもやる?」
咲良の声かけに連動して、高月の視線もこちらへと向く。その瞳は、楽しいから一緒にやろうと言わんばかりだ。
雑巾がけが終わってしまったから、今やるべき作業があるわけではなかった。
近くの椅子に座り、グループに混ぜてもらうことにした。
「なにを作っているの?」
僕の問いに、林は桜の花をお願いしたいと答えてくれた。演目の雰囲気に沿ったカラフルな花を数種類作るのだという。
はにかみながら鋏を持つ姿は、まさしく幼稚園の先生に見えてくる。
「私がやるんで、横から一緒に手を動かしてください。まず、対角線の一辺を折ってすじをつけます。次にもう一つの辺もです......」
ふむふむ。
「そしたら、一旦三角形にして、一枚だけめくって、印をつけるのです」
「......こう?」
「そう、三角形の頂点を下の辺につける感じですよ」
林の折るスピードは少し速いのだが、具体的な形を教えてもらえると助かる。
「今度は上にある左右の角に合わせるように、下の端を持っていきます」
......はて? もう一回説明をしてほしくなった。
ちょっともつれたふたりの会話に合の手を入れてくれたのが高月だった。
「下の端の中心はだいたいわかるでしょう? そこを起点に折る形です、その縁が上の頂点に触れるんですよ」
彼女はふわりとほほ笑んで、優しい口調で説明をしてくれた。
そして、続きの工程を終えて。鋏で曲線を切り出すのだという。林が改めて鋏を手にしたところだった。
ふと迷い込んだ客に教室中がざわめいた。
開けていた窓から蛾が入り込んでいた。皆の視線を浴びながらひらひらと舞い、壁の一角に張りついた。そこそこ大きい。
うろたえている生徒の中で、綾人があっという間に捕まえてしまった。
「ホント、こういう時は役に立つわねえ」
「......一言余計だなあ」
咲良と綾人の掛け合いに教室の中が笑いに染まった。見ると、高月もくすくすと笑っているようだ。
もしかしたら、彼女は少しずつクラスに馴染んでいるのかもしれない。
咲良が他のグループのところに行ってしまったので、飾り付けは自分たちの作業になった。
内装を考えるグループと協力して考えた配置案に沿って、折り紙の飾りを貼り付けていく。
低いところは難なく作業ができたものの、教室のドアの上などは高くて大変だった。
そのため、高月が椅子を持ってきてくれた。
「朝倉くん、ひとつずつ渡してください」
高月が椅子の上で伸びをするように腕を伸ばす。
指示に合わせて、僕は飾りを手渡していく。結果的に彼女が手元を見ながら作業するのを見上げる格好になった。
高月が身体を動かすたびに、僕は視線をそらさないといけなくなった。
それにしても、セーラー服というのはこんなに隙間が開くものだろうか。この高校に来たことを小さく後悔することになった。
当の彼女はまったく気づいていなかった。
やがて、飾りの足りない分を林に量産してもらって、すべての飾りつけが完了した。
随分と賑やかになった教室内を見渡すと、なかなか豪華な雰囲気がして嬉しいため息が出てしまう。
「やりましたね」
と、林が小さく答えた。
「......私、おばあちゃん子だった影響もあって。おままごとよりも折り紙が好きでした。いつか部屋中を折り紙で飾りたいって思ってたんですよ」
赤らめた頬に早口で説明する様子は嬉しいとも恥ずかしいともとれる表情だ。
何のことだろうか、小さく首を傾げてしまう。
ちらりと高月の顔を見ると、何のことだか分かったようだ。
微笑み合ったふたりは小さく手を挙げて、ハイタッチした。
高月の表情もずいぶん柔らかいものになっていて素敵だった。
文化祭当日。
こともあろうか、高月はホームルームまでに姿を現さなかった。
きっと、催しが気に入らないから来るのを止めたんじゃないかと誰か漏らしていた。メイド喫茶を推していた生徒のひとりがそういう事を言っていた。
だいぶ身勝手なことを言うものだ。
「まあ、言わせておきましょ」
声の主を軽くにらみながら、咲良は制服の上にエプロンを身に着けていた。
とは言いつつも、軽くため息を漏らしているようだ。その淋しさはホールを務めるメンバーにも広がっていた。
ちなみに、高月もホールを務めるうちのひとりで、ウェイトレス姿じゃなければやるとのことだった。咲良と一緒のチームだからというのもあるだろうなと想像してみる。
それでも作業をしなければならない。気合いを入れ直した咲良が身に着けているオレンジ色のエプロンが眩しかった。
午前中はなかなかの客入りがあったらしく、注文されたジュースの準備やゴミの分別などキッチン作業も忙しいものだった。
ブースの中で簡単に昼食を済ましていると、咲良に声を掛けられた。
「お疲れ様。君ひとりなの?」
他のメンバーも昼休みを過ごしていて、今この場所に居るのは自分だけだった。
食材のストックについて話しておいた方が良いかもしれない、軽く説明しておくことにした。
「......コップと皿は大丈夫だよ。ただ、飲み物に偏りがあるかも。ちょっと買い出しした方が良いかもしれない」
「あら、気の利くこと言ってくれるじゃない。じゃあ、裏のコンビニまでよろしくね」
午後の公演までに時間があるから、今のうちに行ってくるよと声をかけて席を立った。すると、僕の手に冷たいものが押し当てられた。
自販機で売っている缶コーヒーだった。
「君は砂糖入ってなくてもだいじょうかな?」
別に飲めないわけではないが、正直入っていると嬉しい。
ただ、咲良がそんな話をしたいわけじゃないのに気づくのには少し時間がかかってしまった。ゆっくり、少し湿り気のある口調で話してくれた。
「高月さん、どうしたんだろうね......。
昨日さ、林ちゃんと三人で駅まで帰ったんだよ。
少しずつ口を開くようになってきてくれて嬉しかったけど、学校に来たくないなんて、一言も言っていなかったな」
そうなんだね、と相づちを打つ自分の声も少し沈んでいる。
普段なら特に気にかけないところだが、今日はよりによってイベントの日だ。それに準備だってあんなに楽しそうにしていたのに。高月の瞳が僕の脳裏によみがえる。
「もし、高月さんになにか原因があるとしたら。私、話だけでも聞いてみたい」
周りを気に掛ける咲良らしい発言だ。切ないながらも、自信にあふれる表情が素敵だった。
もしかしたら、コーヒーのように甘くない話なのかもしれない。
ひとり裏門に向けて歩いていると、うさぎ小屋の中に見知った顔がいた。
高月 リツ花だった。彼女は小屋の中をきれいに履き掃除していた。
まさか、そんなことはないだろう。思わず小屋の前まで歩いていく。
こちらを振り返った高月は、ふふっと小さな声を漏らして話しかけてくれた。表情はいつもの通りあまり読み取れない。
「......見られちゃった、か」
僕たちは相変わらず小屋を隔てて会話している。この間の出来事が符合して、僕はひとつの可能性を口にした。
「もしかして、ペットショップで買ってたのって」
「そうだよ、この子のためなんだ」
高月は足元にいる白いうさぎに視線を落とす。うさぎはまったりとした表情で、ごろんと横になっている。
「ずっと、この子の世話をしているの?」
「そう、死んだら可愛そうだから。
時間があれば餌をあげているんだ」
彼女が優しい嘘をついていたのは分かったが、それは保健室登校ならぬうさぎ小屋登校のようだった。
だって、今日は......と声を掛けようとして口をつぐんでしまう。文化祭なんて、彼女の眼中には無さそうだったから。
高月は首を小さく横に振った。
「それは駄目なんです、時間が許さない」
......誰にも言えないことですから。そう言って彼女は掃除用具をきれいに片付けて、立ち去ってしまった。
また僕はひとり残された。
買い出しに行く用事をしばし忘れて、小屋の中にひとりでいる。
うさぎが顔を上げて、僕と目を合わせる。うさぎの瞳の中に高月の顔が映し出された気がした。秘密を覗き込んだような気分だ。
なにかバイトをしているのだろうか。僕はそれくらいの思考しか持ち合わせていなかった......。