とある休日の昼下がり。
僕は駅前にあるチェーン店のカフェに入ってアイスコーヒーを飲んでいる。
クラスメイトである綾人と映画を観る予定なのだが、たまたま早く到着してしまった。そのため時間をつぶさないといけないわけだ。
綾人はクラスでの座席が近いことからよく話す間柄になった。いつの頃からは覚えていないけれど、もう自然なものになっていた。
よく彼から話題を広げてくれる。
その種類は同じく部活に入っていない自分とは比べ物にならないもので、ゲームにスポーツに色んなことを日々楽しんでいる。彼のお気に入りのサッカーチームが勝利した次の日は、その選手の活躍についてたくさん話を聞かされたことがあった。
まるでアンテナが張っているように、話題の引き出しには事欠かない。そのバリエーションが面白くてつい話を聞いてしまう、とても面白いクラスメイトだ。
夕方という時間帯のせいか、カフェの座席はそこそこ埋まっている。
窓際にある二人用のテーブルには買い物帰りと思われる主婦が座ったところだった。これによって、自分の隣にあるカウンター席しか空いていなかった。
そこに座るひとりの影。
長い髪を揺らして席に座ったのは、誰でもない高月 リツ花だった。彼女は僕に気づいているのか気づいていないのか、まったく分からなかった。
何をするのかと思ったら、おもむろに数学の教科書を開いて勉強しはじめた。
カフェで勉強する学生は決して珍しいものではないが、ましてや今日は日曜日だ。
読んで字のごとく休む日でもあるし、どちらかというと学校の放課後に勉強するものだという印象がある。
高月が髪を手でかきあげた。
電灯が彼女の耳からうなじの辺りを照らして、白い肌がより一層僕の目に映る。つい見とれてしまって、声を掛けるのを忘れてしまった。
白という色は時に冷たい印象を与える。
他人と距離を取りたいという雰囲気を感じてしまい、出しかけた挨拶の声は無意識に飲んだコーヒーと一緒に飲み干してしまった。
アイスコーヒーの氷はいつの間にか溶けてしまっていた......。
映画を観終わった僕たちは、夕飯にハンバーガーを食べている。
僕は綾人にカフェでの出来事を話してみせた。頷きながら話を聞いていた彼は、高月の名前を出した途端、フライドポテトを取ろうとした手が止まった。
もっと深く聞きたい、彼の視線からはそんな念を深く感じる。
自分の口からはそんなに深く話せることはないけれど。
「お前、ホント羨ましいなぁ。なにも話さなかったのか?」
「なにも話さなかったよ」
「なんで?」
「なんでって言われても......」
正直言って、回答に困るものだ。
つい高月の横顔を見てしまった。そう言おうと思ったけれど、彼に話して良いのだろうか。なんだか秘密にしておきたいなと思ったから。
......もったいない、そう言い放って彼はハンバーガーを頬張った。
綾人はコーラで口の中を流して、しっかりと僕の方に視線を向けた。
それから、彼の熱弁がはじまるのだった。
「いいかい、歩くん。高月はクラスいちの美少女だぞ、高嶺の花だぞ」
はいはい、僕は黙ってうなずいた。
高月をひとつ例えるなら、しきりに目が行く女の子ということだろうか。
文庫本を開いているだけでも、その姿が様になっていて、なんだか気になってしまうものだ。
だが、親しみを持って話しかけられるかというのは別の話なのだと思う。
彼みたいに高月 リツ花とお近づきになりたい<隠れファン>は多い。
どこから話が広がったのかはわからないが、他のクラスの生徒も彼女に注目しているらしい。
高月が廊下を歩いているだけでも、その姿をちらりと見る生徒がいるのをよく見かけることがあった。彼女自体が引力を持っているかどうかは分からないが、一度その美しい黒髪の姿を視界に認めてしまうと、色々と考えてしまうだろう。
高月を知りたい、友達になりたい、それ以上の間柄になりたいと。
「......彼女の姿を想像してご覧なさい。
あのセーラー服の裾から見える腰回りとか最高じゃないか」
綾人はいつかしただろうか、しなかっただろうか。そんな話題をバーガーショップでも再現してみせた。
たしかに、高月の華奢なスタイルには少々目のやり場に困るところがある。彼女が体を動かす度に目を反らしたことが何度もあった。
ん? 今この話の展開は必要だろうか。
......聞かなかったことにしようと決めた。
「そんな彼女とカフェに入って勉強するなんて、それだけでデートじゃないか」
デート。
その言葉の響きに、なんだか不思議な違和感を覚えた。
他のクラスメイトだったら少しは期待しても良いのかもしれない、だけども高月と一緒に過ごすなんてまったく想像できなかった。
僕は視線だけで綾人に訊いてみた。君ならどうするんだい?
「そりゃ挨拶はちゃんとしないと。
そして一緒に勉強するよ、アイツは学校に来ていないんだからさ」
などと偉そうに語っている。
「お前、教えられるレベルだったっけ」
お互いにとても素晴らしい成績ではない。テストの点数は平均点かその少し上くらいなものだ。
「細かいことは良いんだよ、歩くん。一緒に勉強する、それだけで素晴らしいじゃないか。"ありがとう、君に教えてくれたところがテストに出たよ"って言われたら嬉しすぎて夜も眠れないぜ」
「そんなものかなぁ」
「お前も趣味のひとつでも持てば良いのに、デートできないじゃん」
そこを突かれても微妙なところではある。まあ自覚しているし、反論する必要があるわけでもなかった。
綾人の熱弁はまるで演説のように続いた。
次の日の教室はテストが近いため、独特の重い雰囲気に包まれていた。
今日は珍しく高月も出席していた。
だけども、彼女は授業中に目を開けているのか、開けていないのか。同じ姿勢のままじっとしている。僕はその姿が滑稽なものに見えて、なんだか気になってしまった。
授業を終えて、みんながぞろぞろと席を立った時。
綾人の体育が楽しみだという言葉は、僕の耳に入ったもののするりと抜けて消えてしまった。ある別の言葉に上書きされたからだ。
僕は高月に呼び止められて足を止めた。
「さっき、先生は何話してたの?」
「テストの範囲だよ。
え、......まったく聞いてなかったの?」
高月はこくんと首を縦に振った。
「目が悪いから全く黒板が見えなくて。
それに、寝てしまっていたから」
「え?」
その台詞はつかみどころが分からない。僕は困ってしまった。
その日の帰り道、僕の耳には機関銃のようにひっきりなしに声が響いていた。
「高月さんって、やっぱり何かが違うんだよね。
私から見ても羨望の気持ちになるっていうかー」
相変わらずの高月の話題に、ちょっと耳を離してしまいたくなる。
先ほどから一方的なトークを繰り広げているのは、クラスメイトの咲良だった。
彼女は明るくはきはきした性格の女子生徒だ。クラスの中ではよく男女問わず話しかけられている。また彼女自身もよく雑談みたいな会話を皆と広げている。
ちなみに、最初は名前の読みを"さくら"と間違えていたのは秘密だ。
「花が付いた名前なんてお洒落じゃないですかやだー」
などと咲良はひとりで語っている。さすがに突っ込みどころが分からない。
「な、気になるの分かるだろ?」
彼女の会話に相づちを打つのは綾人だ。彼と咲良は中学生からの同級生とのことで、明るい雰囲気がお互いに波長が合うのだろう。
異性が視線を寄せるならまだしも、女子生徒にも羨ましい気持ちで見られているのだろうか。高月というのはなんだか不思議な存在だなと思った。
「私より背が高いのに、同じ体重でさ。ホント不思議よ。
それでいて、朝とかなんかシャンプーだかトリートメントだかの香りとかするし。
お洒落だよねえ」
もし男の子にしたらイケメンなんだよねえ、とひとりで腕組みをしながら呟いている。
女子生徒に体重の話はなんだか厳禁な気がするけれど、彼女はしゃあしゃあと言って述べる。あまりツッコミをしないであげよう、僕はひとりでそう思った。
そういうものなのだろうか? 僕から言わせると、高月だって授業をよく受けている印象だし。恋愛的な要素として他人を見たことがないからなにもコメントのしようがないのだけど。
「違うの、高月さんは何かが違う気がするんだよ......」
昨日、高月がカフェで勉強している姿を思い出してみた。
実は、映画の帰りにちょっとだけ様子を見に行ったのだが、だいぶ遅い時間なのに彼女はまだ一生懸命に勉強していた。
咲良は勉強の物量を話題にしたいんじゃない。高月が放つ独特の雰囲気を知りたい、そんなことを感じた。それは、たぶんクラスメイトのほとんどが感じていることなのだろう。
彼女はひとつだけ言ってくれた。
「高月さんはね、......なんだかバレリーナみたいなんだよ」
信号機が赤に変わったタイミングなのか、自然とトークテーマが切り替わった。
「そういえば、なんでお前は高月に話しかけられるの?」
綾人の質問に対し、僕はつい首を捻ってしまった。
先ほどの休み時間のことだ。それは高月が先生の話を聞けていなくて困ったからだろうと思っていたのだが。よく考えると、彼女がクラスメイトに話しかけている姿を見たことがなかった。それが、自分に話しかけてきてくれたのだ。
高月とのはじめての接点はどこにあったのだろうか。
クラスメイトだから、少しの会話自体はあったと思うけれど。
小さなドラマすぎて思い出せなかった......。
この間のテストの結果は、言わずもがなという結果だった。
綾人や咲良、僕はそこそこの点数を取ったものの、一番高い点数を取ったのは高月 リツ花だった。
それは教師が点数を公表したわけではなく、咲良がこっそり彼女の点数を覗いたから判明したわけである。まるで探偵か忍者を思わせる隠密行動だった。
「ほんと、高月さんみたいな頭にはならないわぁ」
などと、咲良がこう言っても何かが違う気がする。
放課後の教室には咲良と綾人、僕の三人しか残っていない。
咲良は自分たちの手伝いを元に宿題のプリントを必死に解いている。授業中に提出できなかった彼女は、なんとか教師を説得して今日中に提出するという約束を取り付けていた。
未だに高月のことはよく理解ができない。
授業に出席しているのが少ないから、宿題のプリントを提出しているのかは正直よく分からない。それでいて、クラスメイトの皆も分かり切っているのだが、今回のように高い点数を出してしまう。
ちなみに、一学期の最後になると担任の先生が成績順位を述べるのだが、栄えある一位に上り詰めたのが高月だった。
高月はどういう勉強をしているのだろうか。
よくクラスの間では色んな噂が広まった。
家で自習してるんじゃないか、学校より塾を優先しているんじゃないか。こんな具合に。でも、彼女に興味をもたないせいでそれらは生まれてはすぐに消えてしまう。
咲良は参考に開いていた教科書を閉じて、自分に返してきた。
「助かったよ、ありがとう」
それだけ言い残して、咲良は職員室に走っていった。
ふたりと別れた僕は、下駄箱で靴を履き替えた。
そこで、高月 リツ花の姿を見たのだ。彼女は僕のことを見るなり足を止めて、こくんと頷いて挨拶をした。
どこへ行っていたのだろうか、裏手から正門へ周るルートを歩いていた。気になったけれど、特に質問する必要はないだろう。
ただふたりして歩いている。陸上部だろうか、街中をランニングしている姿とすれ違った。彼らの掛け声とは対照的に自分たちはいつも静かだ。
「......あら?」
空気がちがう、と高月が小さくつぶやいた。
すると、ついさっきまで曇りだった空から急に水滴が落ちてきたのだ。
それは彼女の鼻の頭にまず落ちる。数秒ぽつんと当たるだけだったと思うと、すぐに大きな音と共に大量に降ってきた。
あっという間のことだった。
僕たちは慌てて近くにあったコンビニの軒先に避難した。
あいにくお互い傘を持っていない。くすんだ色の空を見ながら肩で息を切っていると、僕の視界にあるものが見えた。
高月がハンカチを差し出していた。困ったように眉をひそめている表情は、自分のことを心配しているという色がありありと浮かんでいる。
だけども、ふたりしてもうこんなに濡れてしまっている。
彼女のセーラー服だってひどいものになっていた。ハンカチはもう意味を成さないだろうから、僕は静かに首を振った。
どうして、高月は僕のことを気にかけてくれるのだろう。
「だって、教科書を見せてくれたじゃないですか......」
......覚えてないの? 高月は首を傾げていた。
教科書を見せたのは、二学期がはじまってすぐだった。
その日は未だに蒸し暑い季節で、朝から気温が高い日だった。
数学の移動教室ということでいつもとは別の教室に入ると、高月はもう着席していた。暑いのは分かるけれど、何を思ったかスカートをぱたぱたと仰いでいる。
その中に視線が注目してしまったので、高月に気づかれないように慌てて自分の席に座った。
問題はそこじゃない。気持ちを落ち着かせるように窓の外を見ていた僕は、視界に映る風景の中でひとつの間違い探しを見つけたのだ。
高月の机に置かれていたのは、別の教科の教科書だったのだ。
「もしかしてだけど、間違って持ってきた?」
「......え? あ、そうみたい......」
僕の問いかけに高月は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしたと思ったら、亀が首を引っ込めるように、すぐに萎縮して縮こまりなぜか口をすぼめている。
そして、机の上と腕時計の間で引っ切り無しに目を泳がせていた。
「まあ、戻っても間に合わないと思うよ。僕でよければ見せてあげるから」
高月の返事も待たず、僕は机を彼女の方に近づけた。自分でよければというか、これは隣の席ならではの役目だろうと思ったのだ。
ここで高月はこくんと小さく頷いた。
つつがなく流れていく授業の中で、僕は何気に隣の席の生徒を眺めてみた。黒板に向かう瞳は真剣そのもので、ノートは事細かに書き留めている。複数のボールペンで彩られた字面さえ、なんだかスマートに見える。
この風景を写真のように切り出した姿はいたって普通の生徒だ。優等生のような雰囲気さえする。
当たり前みたいに授業を受けて、休み時間はクラスメイトと話すような姿を想像できるのに。
なぜ高月は普通じゃないのだろう、なぜ休まなければならない事情があるのだろうか。
青い空を背景に彼女の透き通った瞳にピントが合ってしまった。まるで時間が止まったように、いつの間にか彼女に惹き込まれていた......。
授業が終わると、高月は教科書を手に取って両手で差し出すように返してくれた。
その丁寧な所作をひとつひとつ見入ってしまう。
「......その、ありがとうございました」
高月は消え入りそうな声で言った。
すこし気恥ずかしながらも、きちんと感謝の気持ちが伝わってくる。そのおかげで僕の耳にはしっかりと聞き取れることができた。
これで分かったことがある。彼女なりに感情表現をしているのだ。それが、周りに届いていないだけなんだ。
些細な出来事すぎて、自分はよく覚えていなかった。
あれは困っていたから声を掛けただけだ。とりあえず謝っておこう。
高月は良いんですよ、と小さいながらもくすくすと笑っている。でも、少し気恥しそうに答えてくれた。
「興味本位じゃなくて話しかけてくれたのは、朝倉くんがはじめてでしたから」
人の興味を覚えるきっかけはとても些細で、なんだかおもしろかった。
高月とはじめて会話を広げられたような気がして、つい嬉しくなった。
だから、僕の口は思ったことがそのまま流れ出てきた。
「小屋のうさぎってだいじょうぶかな」
「だいじょうぶじゃないかしら。
少し奥まったところですし、風向きが間違ってなければ中に入り込んでくることはありません」
確信を持てているみたいに、自信満々に彼女が答えた。
「なるほど。でも一匹で可哀想だよね。
カップルでもいると良いのにね」
調子に乗って言葉にしてしまった。すると、高月は目を丸く開いてこちらをじっと見つめている。何か悪いことを言ったのだろうか。
「あの......。
じゃあ、うさぎの世話ってきちんとやってくれますか?」
少しおどおどしたような雰囲気で告げる。でも、その口調はお説教をしたいように少し強い気もした。
「オスとメスを入れたら、すぐに子供を作ってしまいます。
そして、その子供同士だって......」
高月の説明を聞いていると、薄々と言いたいことが薄々と分かってきた。これはネズミ算より子供が増えていく。
「ええ。なぜそうなるかって知っていますか? うさぎは繁殖することで種を残そうとします。どちらかというと食べられる立場ですから。
それに、ペットでは"うさぎは寂しいと死んでしまう"っていう流布が未だに残ってしまって。
ついついペットショップでつがいを買ってしまうのです、飼育のやり方も知らないで」
問題のある親に育てられたうさぎも可哀想だ。
後で知った話だが、夫婦が老後の楽しみとしてカップルを購入したものの数年間で百単位の数になってしまったというニュースがあったという。身の毛がよだつ話だ。
薄暗くなった話題を振り払おうと、慌ててトークテーマを切り替えた。
「まあ、一匹でもなんでも、可愛いことには変わりないよね」
「そうね。
子うさぎでもなんでも、愛されている姿というのは素晴らしいわ」
僕たちのかたわらで、木々が濡れて光っていた。
いつの間にか雨が止んで、晴れてきた空がその様子をくっきりと浮かび上がらせる。
高月は屋根の下から足を踏み出して、こちらに向けて振り返った。
ほのかに顔を出した太陽の光に照らされて、彼女の微笑みはいつも以上にきらめいて見えた。
つい心を掴まれそうになってしまう。
「......私、うさぎみたいに子供が欲しいんです。いつか、だれかと結婚したいな」
どきりとする言葉が僕の耳にふわりと響いた。
冗談でも雑談交じりのものでもなく、リアルな願望を誰かと分け合いたいのだろう。
ふと僕の頭に担任の先生の顔が浮かんだ。彼女のように今は女性が活躍する時代だ。それなのに、高月はお嫁さんになりたいという。箱入り娘みたいな古風な雰囲気がした。
青い世界が歩くふたりを照らす。
相変わらず会話は少ないけれど、それがふたりだけの時間なのだと思う。
花嫁姿の高月を想像するのは難しいけれど、結婚というのは人生のひとつの門出にあたる出来事だと思う。彼女は将来どんな人と結ばれるのだろうか。
......いつか、彼女の願いが叶いますように。
子供の頃に願っていた夢はなんだっただろうか。
イヤホンから流れてくる曲が、ふとこんなことを思い出させた。
小学生の教室となれば、大きくなったら何になりたいかという話題が出てくるだろう。クラスの中にはサッカー選手になりたいと答えた子がひとりくらいはいたと思う。
その子の言い方は、いかにも自信満々で、絶対になってみせるんだと意気込んでいた。
僕は彼のことを遠くから眺めていたが、特に羨望の眼差しで見ていたわけではなかった気がする。
彼は彼で、自分は自分だから。
幼いながらもそんなことを考えていた。
でも、自分はどんな回答をしたのかは全く覚えていなかった......。
「今まで考えていた夢を追いかけてもよいですし、小さい頃とは違っても、これからやりたいことを見つけるために。高校生活を楽しみましょう」
担任の先生は入学式の日に行われたホームルームで語ってくれた。
この時に見せてくれた笑みには、自分たち生徒へ向けた高校生活の期待が浮かんでいるようだった。
英語の授業を受け持つ女性の先生で、丁寧であり流暢な説明が人気らしい。自分の印象としては、雑談が多くて親しみやすいという雰囲気を感じている。どうやら教鞭だけで生徒が受け身にならないように、という彼女の取り組み方があるのだという。
そのおかげか、ほかの学年の生徒からもよく質問や相談を受けているみたいだ。
これから塾に向けて歩いている。
教育熱心な両親の影響で、二学期から塾に行くことになった。
夏休みになった途端、さまざまな塾のチラシを親に見せられた。
良い大学に入るんだよ、と言われても正直困ってしまう。綾人のように遊びたい気持ちがある訳じゃないけど、断り切れなかったのは残念だった。
そのせいなのかどうかはわからないけれど、自分がやりたいと思えることを見つけられない。
だから、小さい頃でもこれからでも、夢を見つけられた人は叶えてほしいと思っている。
道沿いには小さなペットショップがある。僕はそこに入っていく人物に興味をもった。
「こんにちは。なにしているの?」
僕は店内で高月 リツ花に声をかけた。
いつものことながら、彼女は話しかければあっさりとだけ答えてくれる。
「餌、ですよ」
こちらを振り返って答えてくれた彼女は興味深い回答をしてくれた。
帰宅途中なのだろう。
まだ制服を着ているのだが、固形のペレットやチモシーをたくさん抱えているので、なんだかギャップが面白かった。
「こんなに買うの?」
「......家でうさぎ飼ってるから」
そう言って高月はレジの方に小走りに向かっていった。
なんだか、話を急に打ち切られたような感じがしてしまう。僕はその場にぽつんと残された。
ある日の帰り道。
たまたまひとりで帰宅している僕はこれからの予定を考えていた。
特に宿題が出ているわけではなく、今日は塾の日ではなく。
つまり、家に着いたら暇になってしまう。勉強する気にはなれないから、適当にゲームでもやってテレビを観て過ごそうかと思う。
そんなことを考えていると、視線の先にとある光景が飛び込んできた。
「......困ります、そんなの」
なにかと思ったら、高月 リツ花が誰かと話しているようだ。
言葉通りの困惑している表情を見せていて、左手で右腕を掴んで少し怯えているような雰囲気まで醸し出している。
相手の方は、見たことないブレザーの制服を着ている男子生徒が二人組になっていた。
スポーツ系の部活でもやっているのだろうか、少し体躯の良い雰囲気のする彼らが必死に何かを話しかけているようだ。高月が萎縮してしまうのも無理はないような気がした。
「モデルみたいに綺麗じゃない? オレの家族がモデルの事務所やっててさ、紹介したいんだ。あ、まずカラオケでもさ、なんならお茶でも良いでしょ」
よく通る声が、僕の場所までも届く。
分かりやすいナンパだ。
それに、モデルの事務所なんてなんだか胡散臭い。そんなものは原宿か渋谷でやってほしいものだ。こんな住宅街では見たくない。
「勝手に話されても困ります......」
高月の声もここまで届いてしまっていた。
さて、どう対応したらよいものか。
見なかったことにはできないだろう、でも何も思いつかないのも事実だからつい迷ってしまう。
考え込んでいると、とある台詞が飛び込んできた。
「......今度文化祭行くからさ、また遊ぼうよ」
その言葉に反応して、僕は無心で歩き出していた。そのまま彼らのところに向かって行って高月の手を引いた。
そこに居る誰もが驚いているようだったが、僕は一方的に話を終わらせて立ち去ることにした。
「すみません、僕の連れなので。......ほら、映画を観に行こう」
「......え、あ。はい」
僕の歩調に合わせて、高月が小走りでその場を去った。
実のところは、彼らに肩を掴まれたり暴力を受けたりするのではないかと思ったが、そんなことはなくあっという間に結末を迎えてしまった。
「......あの、ありがとう」
手を引かれたままの高月が感謝を告げてくる。
そこには優越感も気まぐれもあったわけではない。これ以上騒ぎが大きくなってはいけないと思ったら、自然と歩き出していた。
着ている制服から高校が分かるものだし、特に女子生徒には人気のデザインの制服だ。だから文化祭や学校説明会には多くの来場者がいるらしい。それを差し引いたとしても、僕だって不思議だった。
「......あのう」
高月が何かを言いたげだ。なんだろうと彼女に視線を向けると、たったひとつだけ答えてくれた。
「......手、離してくれないかな」
あ。つい駅前のロータリーまでこのまま歩いてきたわけだ。慌てて手を離した。
それでも、高月は僕の前に立ったままだ。これで解放されたのだから真っ直ぐに帰れば良いものの、なんだかきょろきょろと視線をあちこちと動かしている。
高月は少しきょとんとした顔をしている。
少し気恥ずかしさを込めながら発せられた言葉によって、今度はこちらが豆鉄砲を喰らうことになるのだった。
「......映画、観に行くんじゃないの?」
時に、ひとつの結末は新しい出来事を呼び寄せる。
なぜか僕たちは映画館の前に居た。
隣に立つ高月 リツ花は興味深くチケット売り場のパネルを見ている。
ここは都心みたいに広くないから、公演しているのは準新作であろうアクション映画とアニメ映画のふたつだけだった。
ただ、そのどちらもすでに上演が始まっていて、次の開演までは2時間ほど待たなければいけない。
視界の縁ではそのチケットを買っている人がいた。カフェで時間をつぶすのだろう。
どうする? と、顔を隣に立つ人の方に向ける。
高月は本気で映画を観ようと思っているようで、じいっとパネルの方を見続けている。
やがて、首を色々な方向に振って辺りを見渡しはじめた。
小気味いいリズムを奏でるその動きは、まるでメトロノームを思い出させる。
「......あれが観たいです」
高月は隣のホールの方を見ながら答えた。僕は彼女に合わせて視線を向けた。
そこに貼られているポスターに、つい目をぱちくりさせてしまった。それは小さなバレエ団による公演だったのだ。
僕はあまり興味がないけれど、高月が言ったことだ。
やっぱり止めようというのも、映画のために何時間も待つのも妙な気分だ。ここでは彼女の話に乗っておくのが良い気がする。
それに、彼女の手を引いた時点で乗りかけた船というものだろう。
公演は週末に行われるみたいで、チケットはコンビニ決済で事前に買えるようだ。
正直言ってしまうと、貯めているお小遣いがすべて消えそうでとても出費は痛い。でも、その痛みは一瞬で消えてしまった。
「じゃあ、チケット買っておくから週末に会おうよ」
「いいの? でも、悪いんじゃないかしら......」
きょとんとした表情を見せた彼女に、僕は重ねて告げる。
「いや、自分も見てみたいかな......って」
それだけ言って、僕は彼女と別れて帰ることにした。
口から出た言葉はただの偽りなのかもしれない。
でも、今思っていることはたったひとつ。
高月が興味あるものを、見せてあげたい。
週末になった。
これまでは何も感じることができなかったが、今日の朝になってやっと思い浮かんだ単語があった。
デート。
僕は高月とデートをしようとしている。異性とふたりで出かけることなんてなかった僕の人生の中だ。
たとえば綾人に伝えたら、あっという間にクラス中に広まりそうだ......。
そしたら教室の中で孤立してしまうのかもしれない。
なぜこんな約束をしてしまったのだろう、自分の心を呪いながら駅前のロータリーに向けて歩いていた。
そこに、後ろから声をかけられた。
「朝倉くん、おはようございます」
はじめて見た高月の私服は白と群青色が組み合わさっているワンピースだ。
スカートの裾がふわりと揺れて。
パフスリーブの袖が可愛らしく思って。
若々しく見えるのはいつも通りだが、いつもよりスマートで知的な風にも見える。
こちらに向けて声をかけてくるものだから、もう緊張の糸が自分を縛り付けていた。
バレエというのは、ルネサンス期のイタリアで生まれた舞台芸術のひとつだ。
台詞が無い代わりにダンサーが見せる数多くの所作と音楽伴奏によって物語を紡ぎだす。
のちにフランスへロシアへと渡り、さまざまなバレエの様式や組織が生まれていく。日本へとやってきたのは1900年代初頭とされている。
王宮のための舞踊に由来するため、いつの時代も華やかな世界が観客の心を掴んで離さない。
「日本には海外みたいなバレエの学校はありません。その代わり、民間のスタジオや小規模の劇団がたくさんあって。......このバレエ団は知らないから、どんなものなのかなあ」
チケットを片手にフロアを歩く高月は嬉しそうに語っている。
少しだけ口角が上がり頬は少し赤く染まっているのが隣からもよく見えた。
演目は『不思議の国のアリス』だ。
ルイス・キャロルが書いた児童小説で、うさぎを追いかけたアリスが穴に落ちて不思議の国に迷い込み、その世界の中を冒険するストーリー。
読んでいなくても名前くらいは知っているはずだ。
その原型は著者が知人の少女であるアリスに向けて作ったものであり、とても気に入った彼女が書き溜めて欲しいと願ったという。
それから加筆を得て発表されることになり世界中に広まっていった。
僕が印象に残っているのは、ディズニーが製作したアニメ映画だ。なぜこのビデオをレンタルしたのかは覚えていないけれど。
異国情緒あふれるアリスの衣装が可愛く見えたものの、不思議の国に居たキャラクターや出来事は子供心でも理解できなかった。
「アリスの世界観にはたくさんの出来事が溢れているんだよ」
高月がこう説明してくれたところで天井の照明が暗くなった。公演がはじまる時間になったのだ。
舞台のスポットライトが点灯するきらめきはまるで星のよう。
彼女の瞳もキラキラと揺れていた。
公演を見終わった僕たちはカフェでコーヒーを飲んでいる。
高月はアイスコーヒーを飲む手を止めて、パンフレットを抱えていた。細い指でその表紙を撫でている。
微笑んだ表情で答えてくれた。
「これは宝物にしないとですね、......今日のところはありがとう」
出会ったばかりの人にすればあまり表情の変化は無いように見えるような高月の表情だろう、それでも彼女なりに喜んでいるのだ。
愛おしむようなその表情に、僕はつい見とれてしまった。
今日のホームルームは、だいぶ時間がかかっている。
いつもなら終わる時間帯を過ぎていても、文句を言う人は誰もいない。教室の隅にいる担任の先生も、怒る雰囲気でもなくクラス中の様子を見守っている。
「なるほど、模擬店ですか」
文化祭の出し物を決めるのだ。
実行委員を務める咲良が黒板に字を書いた。少し癖がある字だ。
色んな案が生まれては消えていき、今では劇と模擬店が残っている。いや、模擬店の方が強そうだ。
皆がここまで積極的に意見をするのは不思議なもので、その雰囲気を僕は眺めている。
これまで平穏な空気で進んでいたが、窓の外にある木々が小さな風で揺れた途端に教室の中にある風見鶏が音を立てて回転しだした。
「......はあ、"メイド喫茶"?」
咲良が少し上ずんだ声を上げて驚いた。
ひとりの生徒が口にした意見によって、クラスの中が不穏な空気になった。
誰かが「それはちょっと......」と小声を漏らしている。さすがに身勝手なのではないかと感じた。
ここで手を挙げたのが高月だった。
「えっと......。はじめての文化祭だから、皆さん盛り上がりたいのは分かります。
......でも」
高月はいったん言葉を区切った。誰もが発言を止めてその後先を見守っている。
そこから掛けられた声は、相変わらずの静かな口調だったが語尾が強くてしっかりと彼女自身の意思を言葉に乗せていた。
「私たちを見世物にするのは、困ります」
高月の言葉によって号令が掛けられたように、女子生徒が一気に意見を言うようになった。
力を合わせた女子たちは強い。メイド喫茶をやりたいと提案した彼は、今では沈められそうな船みたいだ。
僕は咲良の方を向いてみた。
彼女は実行委員という立場からか、女子の波に乗ろうとはしない様子だ。
「皆さん、静かにしなさい」
ここで手をたたきながら声を掛けたのは担任の先生だった。
「クラスはみんなで作るものです、一方的に話を進めて相手をないがしろにするのは良くありません。
それに、高月さんよく言ってくれたわね」
静かに語りかける姿に、波の勢いは収まったものの逆に静まり返ってしまう。誰もが意見できる空気ではなくなってしまった。
名前を呼ばれた高月は先ほどの威厳はどこに行ってしまったのか、萎縮している。
どうする? クラスの中の雰囲気はまるで無人島に遭難したような感じで、議論という航海ができず立ち往生してしまった。
咲良は出しかけた声を少し閉じた。たぶん、何かの意見を言いたいのだが、まだまとまり切れていないのだろう。
「......あのう」
静かな教室に、小さいながらも鶴の一声が響いた。
助け舟を出してくれたのは、ひとりの女子生徒だった。
背が低くていつもおとなしい。とても内向的な性格の彼女が意見を言うのは珍しかった。
「......あのですね、飲み物を出しながら劇を見せるのはどうでしょうか」
黒板の前にいる咲良は少し真顔を保っていたが、やがて眼を大きく開いてなるほどと頷いた。
「林ちゃん、一理あるわね。
劇をやりたい人とお店でグループが分けられるし、給仕する人は制服で済むし」
おずおずとした発言は、やがて大きな賞賛をもって迎えられる。意見を取りまとめる必要はもうなかった。クラス全体の雰囲気はもうまとまっていたのだから。
模擬店というのは、どのクラスでも出したがる人気の企画だ。それ故に何店舗しか通らない狭い門でもある。
「劇をアピールするなら企画を通せるかもしれないわ。
大きな会場を押さえてあげるから、期待して待っていなさい」
先生は両手を腰について自信ある言葉で締めくくった。生徒も先生も、何気にイベントが好きなのだろう。
ホームルームが終わって、皆がぞろぞろと帰りだしている。
僕は荷物をまとめながら咲良に声をかけた。今思いついたことを告げておこうと思ったのだ。
「給仕をする人さ、エプロンやスカーフでも付けてみたらどうかな。
統一感が出るし、良いと思うんだけど」
「あら、気の利くこと言ってくれるじゃない。
百均で買えるもんね」
足を止めた咲良は口角を上げて答えてくれた。
より良い意見を聞いたから、絶対に採用しようと意気込んでいる。そして、小さくありがとうと告げると高月の席に向かっていった。
僕の耳にふたりの会話が届く。
何やら楽しく話しているようで、嬉しさが顔を覗かせているみたいだ。その様子を見ながら、僕は教室を出ていった。
・・・
高月さん、と呼び掛けられて私はそちらに顔を向けた。
見ると咲良さんが小さく手を振りながら机の前に立ったところだ。
「ありがとうね」
「ありがとう、ですか? わたし、......何もしていないけれど」
またまた、そんなこと言っちゃって。と彼女はくすくすと笑っている。
「あんな立派な意見言っちゃって、惚れちゃったわ。
君って、自分の意思をしっかり持っているんだね」
咲良さんは美しいものを見たと言わんばかりの表情だ。別に私は月でも宝石でもないと思うのだけど。
「だって、私ウェイトレスの仕事やらされるのかなって思ったらつい言葉が出てた」
私は知らぬ間に少し身を引きながら答えていた。
いったい顔色はどんなだっただろうか。咲良さんは少し顔を覗き込むようにして答えてくれる。
「そんなに淋しい顔しなくていいんだよ。
我慢してたけどさ、私だって意見を言いたかったんだ。
どうせ男子は高月さんみたいな美人を使って、客寄せしたかったのよー」
男子うるさいもんね。こう告げる彼女に私はつい口に手を置いて笑い出した。
「高月さんの笑っているところはじめて見たかもね」
じゃあね、と声を上げて咲良さんは戻っていった。
私はイチョウ並木ひとり歩いていた。
やんわりとした風が私の髪を揺らしている。夏色の空は少し爽やかながらも、少し乾いた空気を感じさせた。
これから少しずつ秋になるのだろう。
女心と秋の空という言葉があった気がする。
私は、あんな風に表情が変わらないと思っていた。
でも、咲良さんは教えてくれた。私は淋しい顔をするときもあるけれど、笑うこともあるんだよって。
会話の花が咲いた。
それは何時ぶりのことだっただろうか。
そっか、これが高校生の私なんだ。
文化祭の前日は、準備の日として定められている。
その作業はひとつの怒号からはじまった。
「男子! 掃除くらいしなさーい!」
クラスメイトの咲良が声を上げている。でも、それは虚空に向けて叫んでしまい、一部の生徒はどこかに行ってしまった。
僕が想像したそのままの光景が目の前に映っている。
誰かしら作業をしない人は居ると思ったが、彼女に言わせると少しも許せないのだろう。
担任の先生によるアピールの結果なのか、隣の校舎にある空き教室を使うことができた。ここはいつもの教室より広めに作られていて、劇にも喫茶店にもうってつけの空間だろう。
ただし、普段使われていないため先ずは掃除をしなければいけなくなった。
「ちゃんとやっているじゃないか」
振り返って答えたのは綾人だ。彼は何やらスマートフォンを見ながらホウキをかけている。
「まあ、綾人はやっているわねえ。
......スマホ以外は」
「スマホで漫画を読むくらい良いだろう。
それに、視線がうるさい」
咲良の瞳はじいっと綾人をロックオンしていて、彼が少しでも休もうとするとすぐさま注意をするのだ。
「きちんと掃除をするのを、監視しているの。他の子のためにもね」
「意味が分からない。ホウキに顎なんか乗せちゃって、母親じゃあるまいしさあ」
周りで作業をしている僕らは、ふたりの様子を見ながらくすくすと笑っている。綾人は調子に乗るところがあるけれど、根は真面目だ。
「......っていうか、持ってるなら手伝って」
その意見は合っている。咲良はしっかりとした物言いをするのに、こう正論を言われると答えに詰まる所がある。彼女はあっという間に論破されてしまったが、周りの女子生徒が代わりにわたわたと動き出していた。
「私たちが手伝うからいいよ、咲良ちゃんは全体の監督をしててね」
すこし頬を膨らませ気味だった咲良は、しぶしぶと肩を下げた。
和気あいあいと作業が進む中で、高月は部屋の隅で折り紙の飾りを作っていた。
普段なら彼女は孤立していたんじゃないだろうか。
でも、その傍らにはこの間意見をまとめてくれた林がいる。これといって会話はしていないものの、特に悪い空気は感じない。
そこに咲良が合流して、三人楽しそうに作業をしている。僕は何気なくその様子を眺めていたら、呼び止められてしまった。
「朝倉くんもやる?」
咲良の声かけに連動して、高月の視線もこちらへと向く。その瞳は、楽しいから一緒にやろうと言わんばかりだ。
雑巾がけが終わってしまったから、今やるべき作業があるわけではなかった。
近くの椅子に座り、グループに混ぜてもらうことにした。
「なにを作っているの?」
僕の問いに、林は桜の花をお願いしたいと答えてくれた。演目の雰囲気に沿ったカラフルな花を数種類作るのだという。
はにかみながら鋏を持つ姿は、まさしく幼稚園の先生に見えてくる。
「私がやるんで、横から一緒に手を動かしてください。まず、対角線の一辺を折ってすじをつけます。次にもう一つの辺もです......」
ふむふむ。
「そしたら、一旦三角形にして、一枚だけめくって、印をつけるのです」
「......こう?」
「そう、三角形の頂点を下の辺につける感じですよ」
林の折るスピードは少し速いのだが、具体的な形を教えてもらえると助かる。
「今度は上にある左右の角に合わせるように、下の端を持っていきます」
......はて? もう一回説明をしてほしくなった。
ちょっともつれたふたりの会話に合の手を入れてくれたのが高月だった。
「下の端の中心はだいたいわかるでしょう? そこを起点に折る形です、その縁が上の頂点に触れるんですよ」
彼女はふわりとほほ笑んで、優しい口調で説明をしてくれた。
そして、続きの工程を終えて。鋏で曲線を切り出すのだという。林が改めて鋏を手にしたところだった。
ふと迷い込んだ客に教室中がざわめいた。
開けていた窓から蛾が入り込んでいた。皆の視線を浴びながらひらひらと舞い、壁の一角に張りついた。そこそこ大きい。
うろたえている生徒の中で、綾人があっという間に捕まえてしまった。
「ホント、こういう時は役に立つわねえ」
「......一言余計だなあ」
咲良と綾人の掛け合いに教室の中が笑いに染まった。見ると、高月もくすくすと笑っているようだ。
もしかしたら、彼女は少しずつクラスに馴染んでいるのかもしれない。
咲良が他のグループのところに行ってしまったので、飾り付けは自分たちの作業になった。
内装を考えるグループと協力して考えた配置案に沿って、折り紙の飾りを貼り付けていく。
低いところは難なく作業ができたものの、教室のドアの上などは高くて大変だった。
そのため、高月が椅子を持ってきてくれた。
「朝倉くん、ひとつずつ渡してください」
高月が椅子の上で伸びをするように腕を伸ばす。
指示に合わせて、僕は飾りを手渡していく。結果的に彼女が手元を見ながら作業するのを見上げる格好になった。
高月が身体を動かすたびに、僕は視線をそらさないといけなくなった。
それにしても、セーラー服というのはこんなに隙間が開くものだろうか。この高校に来たことを小さく後悔することになった。
当の彼女はまったく気づいていなかった。
やがて、飾りの足りない分を林に量産してもらって、すべての飾りつけが完了した。
随分と賑やかになった教室内を見渡すと、なかなか豪華な雰囲気がして嬉しいため息が出てしまう。
「やりましたね」
と、林が小さく答えた。
「......私、おばあちゃん子だった影響もあって。おままごとよりも折り紙が好きでした。いつか部屋中を折り紙で飾りたいって思ってたんですよ」
赤らめた頬に早口で説明する様子は嬉しいとも恥ずかしいともとれる表情だ。
何のことだろうか、小さく首を傾げてしまう。
ちらりと高月の顔を見ると、何のことだか分かったようだ。
微笑み合ったふたりは小さく手を挙げて、ハイタッチした。
高月の表情もずいぶん柔らかいものになっていて素敵だった。
文化祭当日。
こともあろうか、高月はホームルームまでに姿を現さなかった。
きっと、催しが気に入らないから来るのを止めたんじゃないかと誰か漏らしていた。メイド喫茶を推していた生徒のひとりがそういう事を言っていた。
だいぶ身勝手なことを言うものだ。
「まあ、言わせておきましょ」
声の主を軽くにらみながら、咲良は制服の上にエプロンを身に着けていた。
とは言いつつも、軽くため息を漏らしているようだ。その淋しさはホールを務めるメンバーにも広がっていた。
ちなみに、高月もホールを務めるうちのひとりで、ウェイトレス姿じゃなければやるとのことだった。咲良と一緒のチームだからというのもあるだろうなと想像してみる。
それでも作業をしなければならない。気合いを入れ直した咲良が身に着けているオレンジ色のエプロンが眩しかった。
午前中はなかなかの客入りがあったらしく、注文されたジュースの準備やゴミの分別などキッチン作業も忙しいものだった。
ブースの中で簡単に昼食を済ましていると、咲良に声を掛けられた。
「お疲れ様。君ひとりなの?」
他のメンバーも昼休みを過ごしていて、今この場所に居るのは自分だけだった。
食材のストックについて話しておいた方が良いかもしれない、軽く説明しておくことにした。
「......コップと皿は大丈夫だよ。ただ、飲み物に偏りがあるかも。ちょっと買い出しした方が良いかもしれない」
「あら、気の利くこと言ってくれるじゃない。じゃあ、裏のコンビニまでよろしくね」
午後の公演までに時間があるから、今のうちに行ってくるよと声をかけて席を立った。すると、僕の手に冷たいものが押し当てられた。
自販機で売っている缶コーヒーだった。
「君は砂糖入ってなくてもだいじょうかな?」
別に飲めないわけではないが、正直入っていると嬉しい。
ただ、咲良がそんな話をしたいわけじゃないのに気づくのには少し時間がかかってしまった。ゆっくり、少し湿り気のある口調で話してくれた。
「高月さん、どうしたんだろうね......。
昨日さ、林ちゃんと三人で駅まで帰ったんだよ。
少しずつ口を開くようになってきてくれて嬉しかったけど、学校に来たくないなんて、一言も言っていなかったな」
そうなんだね、と相づちを打つ自分の声も少し沈んでいる。
普段なら特に気にかけないところだが、今日はよりによってイベントの日だ。それに準備だってあんなに楽しそうにしていたのに。高月の瞳が僕の脳裏によみがえる。
「もし、高月さんになにか原因があるとしたら。私、話だけでも聞いてみたい」
周りを気に掛ける咲良らしい発言だ。切ないながらも、自信にあふれる表情が素敵だった。
もしかしたら、コーヒーのように甘くない話なのかもしれない。
ひとり裏門に向けて歩いていると、うさぎ小屋の中に見知った顔がいた。
高月 リツ花だった。彼女は小屋の中をきれいに履き掃除していた。
まさか、そんなことはないだろう。思わず小屋の前まで歩いていく。
こちらを振り返った高月は、ふふっと小さな声を漏らして話しかけてくれた。表情はいつもの通りあまり読み取れない。
「......見られちゃった、か」
僕たちは相変わらず小屋を隔てて会話している。この間の出来事が符合して、僕はひとつの可能性を口にした。
「もしかして、ペットショップで買ってたのって」
「そうだよ、この子のためなんだ」
高月は足元にいる白いうさぎに視線を落とす。うさぎはまったりとした表情で、ごろんと横になっている。
「ずっと、この子の世話をしているの?」
「そう、死んだら可愛そうだから。
時間があれば餌をあげているんだ」
彼女が優しい嘘をついていたのは分かったが、それは保健室登校ならぬうさぎ小屋登校のようだった。
だって、今日は......と声を掛けようとして口をつぐんでしまう。文化祭なんて、彼女の眼中には無さそうだったから。
高月は首を小さく横に振った。
「それは駄目なんです、時間が許さない」
......誰にも言えないことですから。そう言って彼女は掃除用具をきれいに片付けて、立ち去ってしまった。
また僕はひとり残された。
買い出しに行く用事をしばし忘れて、小屋の中にひとりでいる。
うさぎが顔を上げて、僕と目を合わせる。うさぎの瞳の中に高月の顔が映し出された気がした。秘密を覗き込んだような気分だ。
なにかバイトをしているのだろうか。僕はそれくらいの思考しか持ち合わせていなかった......。
僕はその日、たまたま早く登校した。
文化祭が終わった校舎は、開催する前と同じような静まり返った空気をしているような気がした。
教室まで歩いていると、水道のところにいる高月を見かけた。
朝早くから居るのも何時ぶりくらいだろうか。休む日は朝から姿を見ないから、途中から登校する姿も早退する姿も見たことがないのだ。
静かな所にいる高月は、まるでその場所に飾られている花瓶のようだ。
その印象の通り、なるほどと思った。花瓶を洗って水を取り替えているのだろう。担任の先生の趣味で、常に何かしらの花が一輪刺さっている。
先生は授業をはじめる前に、実際気づいたようだ。
「あら、誰か水を変えてくれたのね」
誰なのかしら? と先生が聞いても、反応する人はひとりもいなかった。
僕は優しい犯人の方に視線を向けてみる。でも、高月も自分ではないですよ、と言っていそうな雰囲気だ。
仕方ないと思ったのか、林が高月さんですとおずおずと答えていた。
「高月さん。こういうときは、自分から申し出なさい。......君は気の利いたことをしているのだから」
自慢して良いのよ、と告げる先生だったが、高月にはあまり響かないようだった。彼女が少し眉を曲げただけのように見えたのは気のせいだっただろうか。
とはいえ、たまに学校に通うこの人は誰とも話さない。
最近では高月に対して悪い印象を持っている生徒もいるらしい。
文化祭の出し物を決めるとき、はじめて彼女の声を聞いて意思の強さを感じ取った生徒もいるだろう。
でも、実際本番の日には現れなかった。
それでいて、不登校でありながらテストの日には現れて点を取っていく。
こんなに浮いてしまっているクラスメイトを視界に入れておきたくないという。
別にレベルの高い進学校というわけでないのだが、気になるものは気になるだろう。僕にも話が振られたことがあるのだが、さすがに共感することはできなかった。
次の授業の時間は清掃活動だ。
自分たちの高校はボランティア活動を重要視している。各クラスが持ち回りで1時間ずつ何かしらの活動を行うことになっていて、うちのクラスは学校の周りの清掃活動をすることになった。
軽く担任の先生の説明を受けて、皆が散っていった。
見ると、高月はさっそく歩道に出て手にしたトングで事細かに何かを拾っている。校門の辺りを掃除している僕からもその姿が良く見えた。でも、彼女はなにかきょろきょろとした様子を見せていた。
「どうしたの?」
「これなんですけど......」
自分の問いかけに高月が見せてくれたのはタバコの吸い殻だ。もうトングの穂先にいっぱいの量だ。
なぜ捨てないかというと、彼女のもう片手には燃えないゴミの袋を持っていたからだ。
「じゃあ、こっちに入れていいよ」
高月はありがとうと言って、こちらの燃えるゴミの袋に吸い殻を入れた。
そして、彼女はそのまま歩いていく。
なんだか楽しそうに思えたから、自分もそちらについて行くことにした。まるでRPGの冒険をはじめるようだった。
「高月さんさ、せめて車道歩くのやめない? 危ないよ」
「この時間、車あまり来ないんじゃないかしら」
そう言われてもなんだか心配だ。自分も車道に入っていった。
これでパーティーがふたりになった。
車道を歩いていると色々わかってくるもので、歩道の植え込みというものは細かいものが落ちていた。
時期的にツツジの花が咲く季節ではない。うっそうとした雰囲気がする中で、タバコの吸い殻や空き缶、ペットボトルまでたくさんのものが落ちている。
宝探しのアイテムがこの中に隠されていると思ったら、この作業も楽しく感じられるだろう。
高月は空き缶を中心に拾っているようだ。
「すごいたくさん落ちてるね」
僕の驚きにも彼女は表情ひとつ変えないで答える。
「ええ。でも、駅前の植え込みよりはマシですよ」
そういうものなのだろうか。
休日になると駅前を中心にボランティア活動が行われるらしい。休む日まで作業をしているとは、頭が下がる思いだ。
もしかしたら、高月にもそういう一面があるのだろう。
「いいえ、私がよく駅前を歩いているだけで......。それにお店でも......」
お店? 何のことなのか僕は高月の顔を見た。
すると、彼女は、あ、と小さく驚いて答えた。
「すみません......。今の忘れてください」
なんだか歯切れの悪い空気になった。別に詮索する気はないのだから良いのだけど。
「ちょっと、どこまで行ってたのよー!」
学校に戻ると、咲良のお𠮟りを受けた。どうやら、一番最後に戻ってきたのが自分たちだったようだ。つい調子に乗って拾いすぎてしまった。
燃えないゴミの袋は空き缶とペットボトルでいっぱいになっていて、高月の細い腕とは不釣り合いに見える。
高月はいつもこうだ。
このように細かい清掃活動を行ったほか、教室の掃除では休んでいる人の分まで机を運んだりどこからかチョークを補充したりしている。
皆が気づかないところまで細かく作業をしているのを見ることができるのだ。
そんな些細な優しさは評価されるべきなのに、誰も見ようとしないのかもしれない。
その日の放課後に帰宅していると、交差点のところで数人のグループを見つけた。
それはこの間みたいな他校の高校生ではなく、高月が他のクラスメイトと話していた。咲良と林だ。文化祭の飾り付け組がそのまま仲良くなっていて、なんだかおもしろい。
「朝倉くん!」
こちらに気づいた咲良が大きく手を振って呼び掛けている。少し声が大きすぎる。イヤホン越しでも響くし、なにより恥ずかしい。
「......どうしたの?」
彼女は待っていましたと言わんばかりに胸を張って答える。手には何かの紙が握られている。ファミレスのクーポンだ。
「クーポン付きのチラシが家に入っててさ、誰か誘おうと思ってふたりに声をかけたんだ。でもさ、行くなら最大人数までしっかりと割り引いてもらった方が良いでしょ?」
なるほど。
ちゃっかり者の彼女らしい説明だ。でも、自分で良いのだろうか。
「綾人じゃなくて良いの?」
......自分なんかより仲良いでしょう。と言おうと思ったが、少しだけ唇を尖らしながら被せ気味に答えられてしまった。
「なんか、好きな漫画の発売日が今日だって言ってて。すぐ帰っちゃったわ。
それに、林ちゃんが居るから君の方が合っているかも」
塾に行くまでなら付き合うのも悪くないだろう。時間というキーワードから、僕は高月の方をちらりと見た。
「......ファミレスっていうところは行ったことがないんだけど。今日は、少し時間ありますから」
視線からトスをもらった彼女が答える。その表情はあまり変わっていないようだが、どこか楽しそうにも思える。
高月の台詞とタイミングを合わせて、信号機が青に変わった。さあ行こう、と言う咲良の号令の元、駅に向かってイチョウ並木の道を歩き出した。
テーブルの上には各々が頼んだ飲み物と、サンドイッチの盛り合わせが並んでいる。その光景を見て、ただひとりを除いて萎縮している。
「何みんな固まっているのよ。みんなで食べると美味しいし、私お腹空いたんだから」
咲良は早速ひとつ取って食べた。高校生の女子はこんなに食べるものなのだろうか。
こちらに向いた咲良の視線が刺さる。"男の子なら食べるべき"という謎のテレパシーを感じて、僕は慌てて首を横に振る。
「本当においしそうね、私の分も食べて」
「高月さん、いつもそんなんでお腹空かないの? いろんな意味で痩せちゃうよ」
さりげなく譲った高月の昼食は、いつもコンビニのサンドイッチを食べている。毎日代わり映えしないという印象だ。
「ええ。......私、夜も食べないことが多いから」
それを聞いて、つい場の空気が静まり返る。他の座席の声が響いている。漫画の感想がどうのこうのと、良くこちらまで届いていた。
話の流れを変えようと、林が慌てながら口を開いた。
「そ、それにしても高月さん。アイスコーヒーにブラックなんて素敵ですね、まるで大人みたい」
「そ、そんなことはありませんよ......」
なぜか萎縮する高月に対して、咲良も話に参加する。
「ホントだよ、女子はみんな思っているんだから。それにしても、ビートルズを聴くなんて素敵だよ。流行りのJ-POPなんて眼がないって感じでかっこいいわ」
大人な人は、ますます眉を曲げてしまった。
ビートルズが話題に出たのは、今日の授業でのことだった。英語の教科書に題材として載っていて、先生は雑談交じりに10曲、曲名を挙げられる人はいないかと尋ねていた。
そこに細々と手を挙げて答えたのが高月だった。
先生は顔を喜ばせてその答えを歓迎していた。しかし、聞き終わった後にはため息交じりに声をかけていた。
「高月さん、もっと自身満々に言って良いのよ。あなたの好きなものなのだから」
自分の好きなものを言いだしづらいなんて、なんだか淋しさを感じてしまう。そう思ってしまい、つい高月の顔を見てしまった。他のふたりもそうしている。
「......お父さんが、好きだったから」
なるほど。家族の影響と言うのは大きいだろうな。
高月は珍しく自分から話を進めてくれた。
「......私、なんていうか。好きなものを、好きって言えなくて」
分かる気がしてしまった。咲良や綾人がいつもたくさんの話をしてくれるのは、それは聞き手となる存在がいるから成り立つようなものだ。
話し相手が居ない高月にしてみれば、それすら高い壁なのだろう。そして、自分の興味について話すのは、無駄にアピールをしてしまうからと考えてしまっているのかもしれない。
「またまた。掃除の時間だって細かくやっているじゃない、素敵だよ」
「それは、私が好きでやっているんですよ。ついつい細かく手を動かしてしまう癖は、小さい頃から自然と身に付いていました。......昔、小学生の頃に、その様子を見ていた先生が言ったの。"高月さんばかりに気を遣わせるんじゃありません"って......」
......そうじゃないと、彼女が傷つくでしょう? その言葉は幼い高月の心に刺さったという。
高月はよく好きで細かな作業をしていたのだという。
ただ、クラスメイトは彼女にやってもらえるからと全く手伝いもしなかった。
ひとりだけに重荷を背負わせている。
担任の先生はこう理解してしまった。だから"みんなで楽しく手を動かしましょう"というメッセージを伝えたはずなのに、上手く伝わらなかったのだろう。
それ以来、高月は何かをすると目立ってしまうからいやでしなくなってしまった。
「私、高月さんだからって思ってるよ」
咲良はサンドイッチを放り込みながら言った。高月が少し顔を上げた。
「そりゃ、クラスメイトなんて色んな人が居るわけだ。先生の言葉を借りるわけじゃないけど、それが混ざってうちのクラスが出来上がるわけだよね。自分のことを言うのは苦手でもさ、君は周りのことを見てるじゃない」
どこかの男子とは違うよね、そういう彼女の言葉に皆が笑ってしまった。高月も口に手を当てている。その様子を見て、僕はひとつのことを気づいたのだ。
高月は自然と会話を広げられている。まるでうさぎのように思えた。
飼われているうさぎは飼い主に慣れるまで感情表現を表に出さないという。文化祭の飾り付け組が、心にもカラフルな仕掛けを施したというのだろうか。
高月はみんなでいると会話に困ってしまうけれど、少人数ならそんなことはない。
ここで、高月が腕時計を見ながら立ち上がった。
「時間が無いから、ごめんなさい」
そっか、と咲良が手を振って声を掛けていた。どうだった、と尋ねている。......どうだった、と聞かれてもと彼女は少し困っている。やがて、ひとつの回答をみせた。
「......美味しかったです」
少し朱色に染まった頬ははにかんでいるようにも、感動しているようにも見える、不思議なものだった。こういうのを青春というのだろうか。と何気に考えてしまった。
ひとりいなくなったテーブルで、咲良が言った。
「私、高月さんと居ると和む気がする」
......あの子、自分が出している雰囲気が自分で分かっていないんだよ。そう語る彼女は、窓の外を眺めて少しうっとりする目線を見せていた。
夕陽に照らされた頬がきらめいている。それは、羨ましいとも見守っていたいとも、色んな気持ちが込められている気がした。
高月 リツ花が学校に居る日だけでも、きちんと接してあげよう。
みんなと別れた僕は、レンタル屋でビートルズのCDを借りることにした。
別に高月の興味を押さえておきたいわけでなかったが、やはり教えてくれるとこちらも興味がわくものだ。
CDを手にした瞬間、ひとつの言葉が僕の心によみがえる。
"お父さんが、好きだったから"
......"好きだったから"という言い回しが気になった。なぜ過去形なんだろうか。
特に深い意味がなければ良いのだが、ふとした心配が頭をよぎったんだ。
駅前のデパートにある文房具屋はとても広い。
正確には本屋の中にある文房具のコーナーなのだが。ここにはノートも、ボールペンひとつとっても、たくさんの種類があった。
たまたま目についたノートを手に取ってパラパラとめくってみる。
パステルカラーで彩られた表紙で、いかにも女の子が買いそうなデザインだ。ふと林の顔が頭に浮かぶ。
なんて言うか上手く説明はできないのだが、このノートは何かがちがう。ノート自体の厚みや紙の質だろうか。
だから、いつも買っている大学ノートを手に取った。
ボールペンの売り場に行って、いつも買っている黒のペンに手をのばしたところだった。
「あっ」
とお互いに声が出た。
そこには高月 リツ花が居て、偶然にも同じペンを買おうとしていた。
奇遇ですね、と本屋での出会いを思わせる言葉を思わず口にしてしまう。彼女も顔を赤くして少し困ったような様子だった。
「......こんなところ、見られるなんて思っていなくて」
なるほど。何が恥ずかしいのかよくわからないが。
「私、ここで売っているノートがお気に入りなので。いつもここで揃えています」
そう語る高月の手には、見たことのないノートの束とボールペンが3本握られていた。
手に取ろうとしていた黒いペンと同じ種類の青・赤・緑だ。そういえば、授業の時に見た時もなかなかカラフルな板書をしていた。
「私、文房具が好きで......。
これらは授業で使うから買うのですが、それ以外にもついつい店内を見ちゃいます」
もしかして文房具を見て回るのが好きなのだろうか、色んなアイテムをコレクションするようなファンが多いと聞く。
「......いいえ、私はお洒落とかカラフルな便利グッズやマスキングテープはあまり興味が無くて。やはり使いこなれたペンや手帳があれば十分なのです。特にシャープペンシルはお気に入りで、ずっと同じものを使っています。......でも」
そう言って、高月は振り返って背中側に視線を向けた。そこにはさまざまなメーカーのカラフルなボールペンが棚一面に並んでいる。
「こうしてカラフルなペンが並んでいるだけで、まるで私の世界が輝いて見えるような。
そんな気がしませんか」
と、くすくすと微笑みながら説明してくれた。
何気に高月がレジを終わらせるのを待って、一緒に本屋を出ることにした。
お互いに予定があるだろうからここで別れようと思ったのだが、後ろから新しい声をかけられるとは思っていなかった。
「あっ!」
声の方を振り返ると、そこには林がいた。
彼女は小さく手を振ってこちらに挨拶をすると、こちらに向けて小走りでやってきた。ちなみに、向かい合うとよくわかるのだが彼女は頭ひとつ分くらい背が小さい。
「こんにちはです......。あの、ふたりとも授業の備えは万端というところでしょうか」
別に不足しているから買っただけなのだけど。
すると、林は恥ずかしそうに顔をひそめてしまった。
どういうことだろうか。
少しの沈黙がみんなを包み込んだ後、林は少し上目遣いになって言い出した。
「おふたりは、毎日の授業がやりたいこと、なのでしょうか」
うん? 僕と高月はお互いの顔を見合わせた。そして、タイミングをそろえて答える。
「いや、そんなことはないよ」
「私もそういうつもりでは......」
いまいち話のポイントがよく分からない。どう話を広げようかと困っているところで、高月が話を振り出してくれた。
「林さん、学校きらいなの?」
「ううん。そんなことはないんだけど、何のためにやるのかなって」
その答えを聞いた高月が、そっか、と小さくつぶやいた。
「私ってみんなみたいに過ごしているわけじゃないですから。授業も、ホームルームも、発言するだけで勇気がいるのです」
文化祭の前の高月さん、かっこよかったですよ。と思い出しながら微笑んでいる。そんな彼女の瞳は羨望の眼差しだ。
当の本人は褒められているのに、困っている。相変わらずこの人は褒められるのに馴れていない。つい笑いたくなってしまう。
「......でも、本当に何もできなくて。私、走っていても、歩いていても転んじゃいそうだし」
と、林が下を向くのに合わせて、僕たちも視線を落とした。
なるほど。彼女の膝に絆創膏が貼られている。そういえば女子の体育は陸上競技をやっていると誰かが言っていた。
......そうねえ、と高月は口に手を置いて小さく考えた。
その後、少し身を掲げて林に視線を合わせて告げた。まるで、子供を諭すような親御さんの雰囲気だ。
「林さん、私たちは選んでこの高校に来たわけじゃないですか。だから授業を受けるのは当然しなければならないこと。みんながそうなのよ」
林はこくんと小さく頷いた。
「でもね、そこから何を吸収するかは私たち皆一緒じゃないの。みんながそれぞれ考えることがちがうように、林さんにしか気づくことができない、"何か"があるんじゃないかな」
林はううんと考え込みだした。
「何かと言われても、私......」
「ううん。君の声が、君の飾りが文化祭の成功に一役買ったのでしょう?」
文化祭の出し物を決めたとき、林の意見が鶴の一声となった。しかし、彼女はまだ納得していない様子だ。
「でも......。だって、私美術部じゃないし、私より素晴らしい絵を描く人なんてたくさんいるじゃないですか......」
高月はゆったりとしたペースで首を横に振った。そして諭すように告げる。
「そうじゃないんだよ。どれだけ素晴らしい絵を描けても、どんなにセンスがある人がいても。いちばん感動させられるのは、その舞台に適したアイディアを出せる人なのよ」
......私も林さんが飾り付けてくれたステージを見たかったな。こう告げる高月を前に、林の顔にはゆっくりと喜びの顔が生まれていった。
その気づきは、まさに林しか得られないものだ。また、飾りのアイディアは彼女が率先して生み出したものだ。
「絵画展みたいなのは難しいのかもしれないけれど。あなたは今まさしく美術の世界にいて、小さな一歩を踏み出しているの。今やりたいなら、やってみる。それだけではないでしょうか」
林はやっと感心するように微笑みだした。
「将来につなげられるかは、今日ここで見つける必要があるのでしょうか。
私も見つけられない、というよりも探していないという方が合っていますね。私たちは小鳥みたいに、日々興味あるものに飛んでいくの」
次第に林の瞳がきらきらとしている。
「いつしか飛んでいく道を見つけられれば素敵ですね。でも、これだけは言えるんじゃないかなあ」
......はじまったばかりなんだよ。その言葉はいつくしむべき優しさに満ちていた。
林はすっかり上機嫌になって帰っていった。
さあ帰ろうよと声をかけようとして、となりに立つ人物にそっと視線を投げてみる。
でも、その姿は先ほどの高月リツ花ではなかった。
魔法に縛り付けられたように、表情は硬く身体が小刻みに震えている。熱を出した子どもみたいに、うわごとで何かをつぶやいていた。
「......私が、しなければならないこと。......そんなこと、わからないよ」
まるで別人を見ているようだった。
どんな言葉をかけてあげればよいのかわからない。
......どうすればよいだろう? とりあえず肩をたたいてみた。
「! ......朝倉くん?」
「だいじょうぶ?」
ごめんなさいと彼女は頭を下げた。
もう帰ろうか。僕たちはゆっくりとエスカレーターの方に歩いて行った。
今までいろんな高月の姿を見てきた。
それでも、今日気付いてしまった。
彼女にはなにか秘密があるって。
今思えば、"時間が許さない"という台詞だって何か意味を持っているのだろう。
......僕は、いつかその世界の中に脚を踏み入れる。
咲良が顔を上げながら言い出した。
「まったく、なんのために勉強するんだろうねぇ」
授業の小テストが近い日だった。
学校の図書室に皆が集まっているのだが、その発起人である彼女にはあまりやる気が感じられなかった。
お互いに教科書やノートを広げているものの、6人掛けのテーブルを囲んでいつもと同じ雑談交じりの雰囲気になっている。あまり大きな声を出せなくても、細々と話すことなら大丈夫だろう。
「まあ、テストで良い点を取るためじゃないかな」
「それもそうなんだけどね」
綾人が返事をするも、咲良はなんだか微妙なようすだ。たぶん、彼女の中で納得いく答えを見つけられないのかもしれない。
すると、綾人が彼女のノートを指さして少し教えだした
「......ここは、その公式を使うんじゃないんだよ」
「あ、そっか」
こういうところはふたりならではの掛け合いだ。綾人は会話をしながら、良く相手のことを見ている。そのため、タイミング良く話題を切り替えられる。その自然な会話の仕方がつい気になってしまった。
ふたり合わせて同じタイミングでこちらを見た。何か? と表情だけで問いかけてくる。
「あ、いや......。こうやって勉強を教え合うのってはじめてだなって思って」
いつもこんな感じで話しているの? と上手く話題の流れを作っておいた。そういえば、彼らは中学生の頃からの同級生だった。
「まあ、そうだなあ。咲良っていつも一方的に話すけど、バイクのアクセルを踏んだみたいに。でも、ところどころでブレーキを入れたりここに標識があるぞって言ったり。自然と自分が様子を見ている感じかな」
「なによ、君だって勉強のスイッチが入らないからって書架を何周もくるくる回ってたじゃん。民間のパトロールじゃないんだし、タバコのポイ捨て禁止ですよじゃあるまいし」
お互いに例えがよく分からない。でも、ケンカしそうでしない雰囲気はいつ見ていても面白い。
ひとつ分かったことがある。綾人の教え方はすべてを解説するのではなく、ヒントだけを与えて相手に考えさせるようだ。
「......公式使ったら解けるようになったわよ」
少し気恥ずかしさを出しながら咲良が解き終わっていた。
そう言えば、と咲良がこちらを向いてきた。
「朝倉くんって、同じ中学校から上がってきた子とか居ないの?」
その言葉を聞いて、少し考える仕草をしてしまう。
クラスメイトと一緒というのはなかったし、同じ学年と言われてもまったく思いつくことはなかった。もしいたとしても、今までもこれからも接点がないだろう。
そこに、辞書がテーブルの上に置かれた。
みんな揃って、最後のひとりである高月の顔を覗き込んだ。
「......なんですか、みなさん」
高月は何がなんだか分からないという表情をしている。
それはたぶん、こちら側の台詞だ。今までの掛け合いを気にせず、辞書を持ち上げながら何ページもめくっていたのだから。
「......もしかして、高月さん。ずっと辞書見てたのかな」
少しの間をおいて、質問の意味を理解したのだろう。口に手を置いて答えてくれた。
「ええ。辞書を引くとつい周りが見えなくなってしまって」
あっけにとられる回答だ。こんな人、今まで出会ったことがなかった。
「でも、ほんとテストの点数高くて素敵だよねぇ」
「......普通だったよ」
高月がとくに得意なのは英語の教科だ。
普通と言われても、何か特別なことがあるんじゃないかと思ってしまう。
「うーん......。いつも問題は教科書を参考にしているから......だいたい出そうな問題を想像できたっていうだけで」
高月は珍しく話を広げてくれた。
授業は英文の訳を問われているから教科書を読んで予習をしておかないといけない。授業中の彼女はよどみなく答えていた気がする。
「ある程度読めるようになると、何が問題になるか分かりますよ。それに、辞書を引くでしょう? 意味だけを見るんじゃないんですよ。例文を読んで、"使い方を理解する"のが大切なの」
高月は少しながらも微笑みながら答えてくれた。
そして清書しているノートを見せてくれた。そこには英語の文章が並んでいて、複数の色のボールペンで単語の関係性や例文などが書かれている。
まるで絵やレポートのように綺麗な雰囲気だ。
地道に解いているのも伺えるが、もしかしたら好きな教科なのかもしれない。苦手意識というものがそもそもないのだろう。
しばらくして、壁に掛かっている時計が目についた。
まだ下校時間には早いけれど、今日は塾に行かないと行けない日だ。
皆にごめんと言って片付けをはじめることにする。綾人と咲良にとっては普通の光景だ。ふたりは軽くあいさつをするだけで勉強を続けていた。
だがしかし、高月は動かしている手を止めた。
僕の方を見て硬直するように数秒固まっていると、自分の腕時計を見だした。まるでにらみつけるように。
その仕草をついまじまじと見てしまう。
「ごめんなさい、私も行かなきゃいけないので」
と言い、慌てて教科書をしまいだした。
まったく予想していなかった急展開に、そこに居る皆が高月のことを見つめてしまっていた。
駅に続くイチョウ並木の道をふたり歩いている。
イチョウの葉はまだ緑のままだけど、やんわりと吹いている風が季節の進みを感じさせる。
こうして成り行きで一緒に下校することが、僕たちふたりの関係性であるけれど。
なんだか今日の高月は少し早歩きだ。まるで風をまとっているように少しひんやりとした冷たい雰囲気を感じてしまう。
だから、雑談をしようにもついためらってしまう。
とはいえ無言でいるのもなんだか落ち着かない。少し早足になりながら高月に尋ねてみた。
「さっきのノートすごかったね。きれいにまとめることなんでやったことないよ」
この質問はほとんどが出まかせだった。
本当は彼女の用事について聞いてみたかった。こないだの文房具屋での出来事が心に残っているから。
でも、他人のプライベートには踏み込めない。誰だって触れられてはいけない一面があるだろう。
「まあ、好きな教科ですからね」
前を向きながら高月は答えてくれた。
「やっぱり将来のためなんじゃないでしょうか。やりたい仕事を見つけられなくても、未来が分からなくても」
楽しいなって思える教科があるだけで人は幸せなんだと彼女は教えてくれた。
僕はこれといって得意も不得意もない成績だ。
彼女みたいに得意なものを見つけてみたいと素直に思った。
ふとした疑問が浮かんだ。
なぜ、高月はこのような考えに至ったのだろうか。
普通の高校生にはたどり着かないような意見が生まれる理由がどこかにあると思う。
......たとえば、高月の小さい人生の中に。
「そうそう、英語といえば。こないだのビートルズちゃんと答えててすごかったじゃん」
出まかせは少し膨らんでいった。
「まあ、好きな曲ですからね」
そういうものなのだろうか。
「知っていますか? ビートルズが日本をはじめとした世界ツアーに出たのって、プロデューサーからの熱いオファーがあったからという裏話があります」
「それって注目されてるってことじゃん」
「なるほど、そういう一面もありますね。......でもね。私はそういう風には見えないな」
タイミングを合わせてバスが通り抜けた。
巻きあがった風はどこか悲壮な感情を思わせる空気を生み、不思議と彼女の声以外のものが聞こえなくなった。
誰かにやらされているんじゃないか、高月の意見は反論ともとれるものだった。
やらされていること。自分からやりたいこと。
その台詞から、僕はある話題を思いついた。
「これから塾に行くんだけど、それは確かに今やっておかないといけないかな。何かしらの将来に繋がってくれるといいね」
......親に無理矢理入れられたけど。と言うとふたりしてくすりと笑った。
そう言えば、家族について話題に出すこことははじめてのようなな気がする。
だけども、自分のことすら話しづらい彼女に聞いてみても良いのだろうか。父親のことだってふとした淋しさが蘇るのに。
しばらくしているうちに、そのトスを受け取ってしまった。
やがて、重い口が開かれる。
「母は......」
そこに、こちらに向けて呼び掛けられる声が聞こえた。
「高月さーん!」
その声に僕たちは振り返る。
道路の向こう岸から見たことのない制服の女子生徒がこちらに向けて大きく手を振っていた。
少しウェーブのかかるセミロングの少女は、車の行き来が途切れたタイミングを見計らって、こちらに小走りに渡ってくる。
そしてこちらの顔色をうかがうこともせずに、彼女は微笑んだ表情で語りだした。
「高月さんだよねえ、おなじ中学のさあ。今度みんなでクラス会するんだけど、君もどうかな?」
となりに自分がいるのだが。あまり話を聞いてしまうのも申し訳ないから、よそ見をしながら話を聞き流すことにした。
「私、行けないかな。桃さんがいないから......」
「え、でもあの子はしょうがないじゃん。そうだとても、クラス会はひとりでも参加者が多いと楽しいんだよー」
きっと楽しいと思うよ。そう押されていた高月だったが、考えることもせずに首を横に振っていた。
「私には、あの子しかしませんから」
同じ中学だといった少女は、しゅんとした表情をして去っていった。
高月は彼女を見送ることもせずに、そのまま歩き出した。間近に見る横顔は、懐かしさも感じられず、どこか渇いている様子だった。
「私、友達いませんでしたから」
一言だけ教えてくれた言葉は、いびつな淋しさを感じさせる台詞だった......。
・・・
私は控室の中にいた。
その隅っこで両膝を抱えて、ひとりで小さく丸くなっている。
頭の中に思い浮かべていたのは、透き通るような青い空だった。
誰もが、その下で笑っている。
まるで太陽に輝く向日葵のように。風にそよぐ名もなき花たちのように。
私も、空に向けて立派に花を咲かせる気持ちになっていた。空を思わせるあの子の前では健気に咲くことができる。
でも、私が咲かそうとしていた花は、いつの間にかしぼんでしまった。
そのあこがれは、遠ざかる思い出になってしまったから。
もう、無情の悲しみを抱いてそのまま眠りにつきたかった......。
「......キャロルちゃん?」
先輩のバニーガールから、そう呼びかけられているのはこの耳がはっきりと聞き取っている。
でも、この身体を動かすことができなかった。
「おーい、キャロル?」
いらついた彼女は、私を無理矢理立たせようと腕を力強く引っ張った。その小さな背丈からは思い浮かべることのできない、強い力だった。
床から引き剝がされた私は涙を浮かべながらも、仕事をするしかなかった。
私の隣に、あの人が居れくれたらよかったのに。
このバーで働くのは、今生活しているのは。
思い出を消すためなんだ......。
視線の先にいる彼女は、おぼろげに窓の外を眺めている。
ランチタイムだというのに、少しだけ手を付けたサンドイッチを再び手にする様子は見られない。
「......歩、どうした?」
綾人に呼び掛けられて、僕は視線を彼に戻した。ごめんと彼の話を聞く姿勢をつくる。
でも、彼の話は半分ほどしか聞いていなかった。先ほどまで眺めていた彼女、高月 リツ花のことが気になってしょうがなかったからだ。
この間の帰り道、高月は中学生のクラスメイトと再会した。なんでもクラス会をやるというのだが、高月はその誘いを断っていた。そして、友達がいなかったと自分に告げる。
その台詞は本物のものなのだろうか。中学の友人が居ない自分に気を遣っただけなのとは思えないほどにリアルな言い方だった気がする。
僕の脳裏に、彼女を心配する言葉が生まれていた。
"誰のために本当の君を捨てるの?"
・・・
高校生のランチタイムというのは、いつも賑やかな空気をしている。
私を何に例えるかと言われれば、その空気の中にたたずむ一輪草だろうか。
太陽の方に首を向けることはできず、私が顔を上げた方角へひたすらと向いていることしかできない。まるで教室の窓際に咲いている小さなものだ。
そんなことを考えながら、私はいつも教室の中を眺めている。窓から入ってくる風が私の長い髪を揺らした。まあ、時にはこちらを向いて微笑んでくれる人も居なくはないか。ちょうど、彼女のように。
咲良さんはたまにこちらに向けて話しかけてくれる。先ほどまで林さんと話していた気がするのに。私はなんでもないよと静かに返したところだ。
「高月さんさあ、今週の土曜日空いてるかな。駅前の神社でお祭りやるから行かない? 林ちゃんも一緒だよ」
なるほど。この提案をしたかったのだろう。そう考えるとなんだか嬉しい。
正直言うと好きなイベントだ。最後に行ったのはいくつの年だっただろうか、父に手を引かれてオレンジの灯りの下を歩いていた気がする......。
「ほら、高月さん。なんか考えこんじゃってだいじょうぶ?」
顔の前で手をひらひらと揺らしてくれて、私は正気に戻った。
慌てて鞄から手帳を出して予定を確認した。できるだけ、咲良さんに中身を見られないように。
「興味あるんだけど、ごめんなさい」
あいにく別の予定があったため、私は正直に頭を下げた。
見ると、咲良さんは困った様子も見せていなかった。むしろなんだか納得したような感じだった。
「ふふ。いつも大変そうだもんね。別に気にしなくていいんだよ。先に入れた予定が優先っていうし。やっぱり参加できそうだったら教えてね、いつでも待っているから」
ウインクをして咲良さんは戻っていった。
土曜日になった。
まだ秋になりきれない蒸し暑い空気が流れて、風鈴をちりんと鳴らする。いつ買ったんだっけ? と、私はベッドの上に寝転んでその様子をずっと眺めていた。
時間があるのに、なかなか勉強する気分にはなれなかった。かといって読書するのも興に乗らない。居間にしか置かれていないテレビからは何かのドラマの音がうっすらと流れてくる。
首を部屋の中に向けて、テーブルの上に置かれている時計に目をやった。出掛ける時間まではあと2時間くらいといったところだろうか。
先に入っている予定なんか、なければ良いのに。私は小さいため息をついた。
でも、なんで誘ってくれたのだろうか。私なんかのために。
そう言えば、ふたりの私服というものは見たことがなかった。
放課後にファミリーレストランに行くのも制服だから、想像するのは難しいか。もしかしたら、浴衣かもしれない。
お洒落なアイテムを持っているのは羨ましいなあ。私も小さい頃に買ってもらうようおねだりをしたかった。
「これが飲みたい!」
と父に願ったのは、サイダーの瓶だ。浴衣を買ってもらうのは子供心に申し訳なく思って、つい妥協をしてしまう。こういう日くらいは贅沢して良いと言われるのに。
空の瓶に転がるビー玉は、手の届かないお月さまのように思えたんだ。駄々をこねて中から取り出してもらったものは、今はどこに失くしてしまったんだっけ。
記憶を手繰り寄せられないまま、いつの間にかうたた寝をしてしまった......。
夕方の空は薄暗い色をしていた。
うっすらと祭り囃子が聴こえてくる。気分だけでも味わいたいから、ちょっと寄り道をしてみようと思ったんだ。
神社の前にある大通りを歩きながらその様子を眺めてみると、皆楽しそうに微笑んでいる様子がうかがえる。やはり、イベントというものは楽しいものだと改めて認識させられる。
......すると、曲がり角に差し掛かったところで人とぶつかりそうになった。でも、何かがおかしい。
早く立ち去りたいという雰囲気を出している、明らかに客ではない男性。
その人が異質であるというメッセージを含んだ叫び声。
私は咄嗟に状況を判断し、男性が走っている最中に足払いをかけた。すると、彼は一気にバランスを崩し慌てだした。
そこに、体当たりをかける。彼は歩道の上に顔から倒れ込んだ。
必死に右腕を掴むと、その手に小さな巾着が握られていた。やはりスリだったのだ。
「そこのお姉さん、ありがとうございますー! って、高月さん!?」
お姉さんでもないけれど、声の方に顔を上げてみた。こちらに向けてやってきたのは、息を切らしながら走ってくる咲良さんと林さんだった。
すぐに警備員が現れて犯人はあっけなく確保された。事態が収まっていくまで私たちはお互いを見つめ合っていた、まさかこんな偶然があるなんて。
隅のベンチで、ふたりは状況を説明してくれた。
「私、ふと声を掛けられたんです。前触れもなく"お着物が汚れています"って。でも、どこも汚れてなんかいないし。後ろのスカートの裾だと思って振り返った瞬間でさ」
林さんが巾着から視線を離した瞬間に奪っていったのだという。お金は大した金額しか入っていなかったそうだけど、スマートフォンに気づかれたら危なかっただろう。個人情報が盗まれたら被害は計り知れないそうだから。
「それにしても、高月さん! かっこよかった!」
と咲良さん。まるで映画のアクションシーンでも観たような眼差しを向けてくる。
私はヒロインでも何でもないのだから、その視線は眩しすぎる。
「私、たまたま通りかかっただけですから......」
「えー、またまたぁ。あんなすぐに判断できるなんてさ。高月さんはかっこいいんだ、って学校で言いふらしちゃうぞ」
などとひとりで腰に手をついて高らかと笑っている。恥ずかしいから止めて欲しい。私の顔は知らない間にみずみずしい果物のように赤くなってしまった。
「でもさ、持つべきものは友だちだよね!」
彼女が口にした言葉に私は一瞬戸惑った。今まであまり味わったことのない響きだから......。
そこに声をかけられた。犯人を確保した警備員だった。
「えっと、そこのお嬢さん。一応お話をお聞かせください、すぐ済みますから」
「え、あ。はい」
それじゃあね、と私は事務所に行くために彼女らと別れた。その背中越しに、ふたりのために生まれた言葉を口にしていた。
「友だちは、助けるものですから......」
ほとんど衝動的だった。
週が明けて学校に行くと、教室の中で林さんが待っていた。
彼女はこちらの姿に気づくと、自分の席を立って私の机の前にぽつんと立った。
何かしら? と表情を伺うと、これまた恥ずかしそうに顔を赤くしている。発表会をする前の小学生みたいな表情が愛らしかった。
「......咲良さんが言いふらすのは、私が食い止めておきました。でも、私を助けてくれたことには変わらないのです」
というわけでこちらをどうぞ、と差し出してきたのは小さな紙袋だった。中を見て良いのと訊くと、小さくこつんとうなづいた。
それは、サイダーだった。缶に入ったものが2本も。
「ほんとうはビー玉のポンするやつが美味しいんですけど、あいにく持ってこれないので」
「十分嬉しいですよ」
ありがとうございます! と林さんは満面の笑みで答えてくれた。
「そ、それじゃあもうひとつだけ話を聞いてもらって良いですか?」
なぁに? と訊くと、答えはとてもシンプルだった。
「今日、ランチご一緒しませんか? あとで咲良さんにも話しておきますので」
「もう、しょうがないですね」
くすくすと笑いながら答えるしかなかった。もちろん答えはひとつしかない。
嬉しそうに席に戻る彼女を見送って、もう一度サイダーを手に取った。フルーツのフレーバーというのは美味しそうだ。帰ったら冷やしてみたい。
爽やかな空気が窓から入って、私の髪を揺らしていた。