子供の頃に願っていた夢はなんだっただろうか。
 イヤホンから流れてくる曲が、ふとこんなことを思い出させた。
 小学生の教室となれば、大きくなったら何になりたいかという話題が出てくるだろう。クラスの中にはサッカー選手になりたいと答えた子がひとりくらいはいたと思う。
 その子の言い方は、いかにも自信満々で、絶対になってみせるんだと意気込んでいた。
 僕は彼のことを遠くから眺めていたが、特に羨望の眼差しで見ていたわけではなかった気がする。
 彼は彼で、自分は自分だから。
 幼いながらもそんなことを考えていた。
 でも、自分はどんな回答をしたのかは全く覚えていなかった......。
「今まで考えていた夢を追いかけてもよいですし、小さい頃とは違っても、これからやりたいことを見つけるために。高校生活を楽しみましょう」
 担任の先生は入学式の日に行われたホームルームで語ってくれた。
 この時に見せてくれた笑みには、自分たち生徒へ向けた高校生活の期待が浮かんでいるようだった。
 英語の授業を受け持つ女性の先生で、丁寧であり流暢な説明が人気らしい。自分の印象としては、雑談が多くて親しみやすいという雰囲気を感じている。どうやら教鞭だけで生徒が受け身にならないように、という彼女の取り組み方があるのだという。
 そのおかげか、ほかの学年の生徒からもよく質問や相談を受けているみたいだ。
 
 これから塾に向けて歩いている。
 教育熱心な両親の影響で、二学期から塾に行くことになった。
 夏休みになった途端、さまざまな塾のチラシを親に見せられた。
 良い大学に入るんだよ、と言われても正直困ってしまう。綾人のように遊びたい気持ちがある訳じゃないけど、断り切れなかったのは残念だった。
 そのせいなのかどうかはわからないけれど、自分がやりたいと思えることを見つけられない。
 だから、小さい頃でもこれからでも、夢を見つけられた人は叶えてほしいと思っている。
 
 道沿いには小さなペットショップがある。僕はそこに入っていく人物に興味をもった。
「こんにちは。なにしているの?」
 僕は店内で高月 リツ花に声をかけた。
 いつものことながら、彼女は話しかければあっさりとだけ答えてくれる。
「餌、ですよ」
 こちらを振り返って答えてくれた彼女は興味深い回答をしてくれた。
 帰宅途中なのだろう。
 まだ制服を着ているのだが、固形のペレットやチモシーをたくさん抱えているので、なんだかギャップが面白かった。
「こんなに買うの?」
「......家でうさぎ飼ってるから」
 そう言って高月はレジの方に小走りに向かっていった。
 なんだか、話を急に打ち切られたような感じがしてしまう。僕はその場にぽつんと残された。



 ある日の帰り道。
 たまたまひとりで帰宅している僕はこれからの予定を考えていた。
 特に宿題が出ているわけではなく、今日は塾の日ではなく。
 つまり、家に着いたら暇になってしまう。勉強する気にはなれないから、適当にゲームでもやってテレビを観て過ごそうかと思う。
 そんなことを考えていると、視線の先にとある光景が飛び込んできた。
「......困ります、そんなの」
 なにかと思ったら、高月 リツ花が誰かと話しているようだ。
 言葉通りの困惑している表情を見せていて、左手で右腕を掴んで少し怯えているような雰囲気まで醸し出している。
 相手の方は、見たことないブレザーの制服を着ている男子生徒が二人組になっていた。
 スポーツ系の部活でもやっているのだろうか、少し体躯の良い雰囲気のする彼らが必死に何かを話しかけているようだ。高月が萎縮してしまうのも無理はないような気がした。
「モデルみたいに綺麗じゃない? オレの家族がモデルの事務所やっててさ、紹介したいんだ。あ、まずカラオケでもさ、なんならお茶でも良いでしょ」
 よく通る声が、僕の場所までも届く。
 分かりやすいナンパだ。
 それに、モデルの事務所なんてなんだか胡散臭い。そんなものは原宿か渋谷でやってほしいものだ。こんな住宅街では見たくない。
「勝手に話されても困ります......」
 高月の声もここまで届いてしまっていた。
 さて、どう対応したらよいものか。
 見なかったことにはできないだろう、でも何も思いつかないのも事実だからつい迷ってしまう。
 考え込んでいると、とある台詞が飛び込んできた。
「......今度文化祭行くからさ、また遊ぼうよ」
 その言葉に反応して、僕は無心で歩き出していた。そのまま彼らのところに向かって行って高月の手を引いた。
 そこに居る誰もが驚いているようだったが、僕は一方的に話を終わらせて立ち去ることにした。
「すみません、僕の連れなので。......ほら、映画を観に行こう」
「......え、あ。はい」
 僕の歩調に合わせて、高月が小走りでその場を去った。
 実のところは、彼らに肩を掴まれたり暴力を受けたりするのではないかと思ったが、そんなことはなくあっという間に結末を迎えてしまった。
「......あの、ありがとう」
 手を引かれたままの高月が感謝を告げてくる。
 そこには優越感も気まぐれもあったわけではない。これ以上騒ぎが大きくなってはいけないと思ったら、自然と歩き出していた。
 着ている制服から高校が分かるものだし、特に女子生徒には人気のデザインの制服だ。だから文化祭や学校説明会には多くの来場者がいるらしい。それを差し引いたとしても、僕だって不思議だった。
「......あのう」
 高月が何かを言いたげだ。なんだろうと彼女に視線を向けると、たったひとつだけ答えてくれた。
「......手、離してくれないかな」
 あ。つい駅前のロータリーまでこのまま歩いてきたわけだ。慌てて手を離した。
 それでも、高月は僕の前に立ったままだ。これで解放されたのだから真っ直ぐに帰れば良いものの、なんだかきょろきょろと視線をあちこちと動かしている。
 高月は少しきょとんとした顔をしている。
 少し気恥ずかしさを込めながら発せられた言葉によって、今度はこちらが豆鉄砲を喰らうことになるのだった。
「......映画、観に行くんじゃないの?」



 時に、ひとつの結末は新しい出来事を呼び寄せる。
 なぜか僕たちは映画館の前に居た。
 隣に立つ高月 リツ花は興味深くチケット売り場のパネルを見ている。
 ここは都心みたいに広くないから、公演しているのは準新作であろうアクション映画とアニメ映画のふたつだけだった。
 ただ、そのどちらもすでに上演が始まっていて、次の開演までは2時間ほど待たなければいけない。
 視界の縁ではそのチケットを買っている人がいた。カフェで時間をつぶすのだろう。
 どうする? と、顔を隣に立つ人の方に向ける。
 高月は本気で映画を観ようと思っているようで、じいっとパネルの方を見続けている。
 やがて、首を色々な方向に振って辺りを見渡しはじめた。
 小気味いいリズムを奏でるその動きは、まるでメトロノームを思い出させる。
「......あれが観たいです」
 高月は隣のホールの方を見ながら答えた。僕は彼女に合わせて視線を向けた。
 そこに貼られているポスターに、つい目をぱちくりさせてしまった。それは小さなバレエ団による公演だったのだ。
 僕はあまり興味がないけれど、高月が言ったことだ。
 やっぱり止めようというのも、映画のために何時間も待つのも妙な気分だ。ここでは彼女の話に乗っておくのが良い気がする。
 それに、彼女の手を引いた時点で乗りかけた船というものだろう。
 
 公演は週末に行われるみたいで、チケットはコンビニ決済で事前に買えるようだ。
 正直言ってしまうと、貯めているお小遣いがすべて消えそうでとても出費は痛い。でも、その痛みは一瞬で消えてしまった。
「じゃあ、チケット買っておくから週末に会おうよ」
「いいの? でも、悪いんじゃないかしら......」
 きょとんとした表情を見せた彼女に、僕は重ねて告げる。
「いや、自分も見てみたいかな......って」
 それだけ言って、僕は彼女と別れて帰ることにした。
 
 口から出た言葉はただの偽りなのかもしれない。
 でも、今思っていることはたったひとつ。
 
 高月が興味あるものを、見せてあげたい。



 週末になった。
 これまでは何も感じることができなかったが、今日の朝になってやっと思い浮かんだ単語があった。
 デート。
 僕は高月とデートをしようとしている。異性とふたりで出かけることなんてなかった僕の人生の中だ。
 たとえば綾人に伝えたら、あっという間にクラス中に広まりそうだ......。
 そしたら教室の中で孤立してしまうのかもしれない。
 なぜこんな約束をしてしまったのだろう、自分の心を呪いながら駅前のロータリーに向けて歩いていた。
 そこに、後ろから声をかけられた。
「朝倉くん、おはようございます」
 はじめて見た高月の私服は白と群青色が組み合わさっているワンピースだ。
 スカートの裾がふわりと揺れて。
 パフスリーブの袖が可愛らしく思って。
 若々しく見えるのはいつも通りだが、いつもよりスマートで知的な風にも見える。
 こちらに向けて声をかけてくるものだから、もう緊張の糸が自分を縛り付けていた。
 
 バレエというのは、ルネサンス期のイタリアで生まれた舞台芸術のひとつだ。
 台詞が無い代わりにダンサーが見せる数多くの所作と音楽伴奏によって物語を紡ぎだす。
 のちにフランスへロシアへと渡り、さまざまなバレエの様式や組織が生まれていく。日本へとやってきたのは1900年代初頭とされている。
 王宮のための舞踊に由来するため、いつの時代も華やかな世界が観客の心を掴んで離さない。
「日本には海外みたいなバレエの学校はありません。その代わり、民間のスタジオや小規模の劇団がたくさんあって。......このバレエ団は知らないから、どんなものなのかなあ」
 チケットを片手にフロアを歩く高月は嬉しそうに語っている。
 少しだけ口角が上がり頬は少し赤く染まっているのが隣からもよく見えた。
 
 演目は『不思議の国のアリス』だ。
 ルイス・キャロルが書いた児童小説で、うさぎを追いかけたアリスが穴に落ちて不思議の国に迷い込み、その世界の中を冒険するストーリー。
 読んでいなくても名前くらいは知っているはずだ。
 その原型は著者が知人の少女であるアリスに向けて作ったものであり、とても気に入った彼女が書き溜めて欲しいと願ったという。
 それから加筆を得て発表されることになり世界中に広まっていった。
 僕が印象に残っているのは、ディズニーが製作したアニメ映画だ。なぜこのビデオをレンタルしたのかは覚えていないけれど。
 異国情緒あふれるアリスの衣装が可愛く見えたものの、不思議の国に居たキャラクターや出来事は子供心でも理解できなかった。
「アリスの世界観にはたくさんの出来事が溢れているんだよ」
 高月がこう説明してくれたところで天井の照明が暗くなった。公演がはじまる時間になったのだ。
 舞台のスポットライトが点灯するきらめきはまるで星のよう。
 彼女の瞳もキラキラと揺れていた。



 公演を見終わった僕たちはカフェでコーヒーを飲んでいる。
 高月はアイスコーヒーを飲む手を止めて、パンフレットを抱えていた。細い指でその表紙を撫でている。
 微笑んだ表情で答えてくれた。
「これは宝物にしないとですね、......今日のところはありがとう」
 出会ったばかりの人にすればあまり表情の変化は無いように見えるような高月の表情だろう、それでも彼女なりに喜んでいるのだ。
 愛おしむようなその表情に、僕はつい見とれてしまった。