リツ花はクラス中の拍手に包まれていた。
出席日数が足りない彼女であっても学年度は籍が置かれていた。本来なら留年という処置になるらしいのだが、家庭の事情により中退という形で話がまとまったそうだ。
そのため、終業式をもって一足早い<門出>となった。
理由について本人からも担任の先生からも具体的な説明はなく、一身上の都合でクラスメイトは理解しただろう。
本当のことを知らなくても、嘘でも動物のためという咲良の説明が広まっていると嬉しいと思う。
そんな咲良は花束を渡してリツ花を抱きしめていた。
「咲良さん、きついですって......」
「そりゃあ君のすらっとした柔らかさはもうこれから味わえないのだからさ」
などと咲良はにやにやして語っている。彼女はリツ花の胸の辺りを頬ずりしているから、クラス中が笑いに包まれた。
意中の人は私の胸で遊ばないでなどと顔を赤らめて困っているが、笑い声の中ではかき消されそうになっていた。
それにしても、入学式の頃には見られない表情の変化だった。
黒板の前に立っているリツ花はホームルームで最後の挨拶をしている。もちろん、仕事については話さなかった。
「......私にはワケがあって。自分の環境から逃げ出すことはできませんでした」
教室の空気が静まり返る。
そして、リツ花はしっかりと顔を上げて瞳をまっすぐにして語った。
「......でも、どんなところで咲く花であっても、誰かが気づいてくれるの」
リツ花の言葉は、まるで僕に降り注ぐようだった。
僕が見つけた小さな花は、道端で誰にも気づいてもらえない。冬の寒さに凍えていても命を輝かせて立派に咲く。健気な姿は、霞む景色を彩るんだ。
みんなにはいつものクールな表情に見えただろう、でも僕にはどこか温かく力強い表情に見えたんだ。
彼女の言葉は、こうやって締めくくられた。
「大切な人のために、生きてください」
......皆が幸せでありますように。その願いを込めて。
ホームルームが終わってからリツ花に話しかけてくるクラスメイトがたくさんいた。最後くらいあいさつをしようという心意気が、どこまで彼女に響いていただろうか。
僕はその様子を眺めていると、ちらりと彼女の視線を感じた。
一緒に帰ろうって。
「こういうの社交辞令って言いますよね。その姿勢は立派なんだけど、咲良さんが抱きしめてくれた方が嬉しかったです......」
ふたりで下校しながら眺める空はきれいに晴れて、温かい日差しが降り注いでいた。
その空間の中にしばしの愚痴がこぼれている。
なるほど、微妙なところだったのだろう。
もう春の日が巡ってくる。
まるで、冬を生き延びたうさぎが駆け回るような、そんな嬉しさを感じさせた。
何度このイチョウ並木を歩いただろうか。
いつも移り変わる景色が僕たちを出迎えてくれた。その季節の彩りはまるで魔法が作り出しているような気がした。
楽しいときもそうでないときも、この通りとともに色んな出来事を駆け抜けてきた。
それは今日でひとときの終わりを迎える。
彼女が居ない風景はどんな色を僕に見せてくれるのだろうか、お互いにどんな生活を過ごすのだろうか。
リツ花は生きると言ってみせたけど、この先どうなるかなんて分かったようなものではないだろう。正直、あてのない道を歩んでほしくはない。
僕の心配は隠しきれないものだ。
自分の気持ちが伝わっているのかいないのか、リツ花は少し空を見上げて語ってくれた。
「私、よく夜空を見上げるのが好きでした。綺麗に輝く月を見て、今日は上弦の月だからもう少しで満月かなって数えてました」
彼女の心を思わせる綺麗な話題だ。
「自分自身のことを月に照らし合わせて考えることもたまにあって......。満月より欠けている月の方が好きなのですが、境遇が私らしくって。月が完成したら滅びるだけ、......永遠に未完成の方が私みたいなんだなって思ってたの」
立ち止まって空を眺めている。その瞳は少しずつ動いているみたいだった。まるで隠れている月を探すみたいに。
風がわずかな雲を動かしていた。月が顔を見せてくれるのだろうか、僕も付き合って顔を上げる。
「いつか完璧でありたいと、満月になりたいと思うようになっていました。それを歩くんに求めたかったんです」
人間は誰しも完璧な存在ではない。たまに間違うこともあるし、どんな言葉をかければ良いか分からないことだってある。
もしかしたら、みんなはもともとただの円弧なのかもしれない。結びつく存在を見つけることによって純粋な円に近づいていくのだと思う。
それが出逢いというものだ。
みんなを結び付けて、また傷つけて。僕らはそれを踏まえて成長していく。
皆で青春を過ごしたりするような、きらめく時間は消えてしまっても。これから成長していってほしい。
泣きたいときは泣きなよ、それを経てまたひとつ大きくなるのだから。
イチョウ並木の道はもう終点を迎えていた。ここを過ぎると駅が見えてくる。僕たちに別れの時間が迫っていた。
自分の心に耳をすませてみる。何か言いたいことがあるはずだ。それを、きちんと自分の言葉で口にしたい。
やっと、"月が綺麗ですね"に返答する言葉を見つけていた......。
「君に言いたいことがあるんだ」
僕の目はしっかりとリツ花の瞳をとらえた。彼女も雰囲気を感じたのだろう、僕の方をしっかりと見つめてくれた。
がんばってとは言いたくなかった。
すべて終わった後に、がんばったねと言わせてほしいんだ。
だから、言いたいことは、たったひとつだけ。
「いつか、また迎えにいきたい」
リツ花は頷いてくれた。そして、一呼吸置くと僕の手を取って路地に走り出した。何があったのか分からない。あっけに取られる僕を心地よい風が包む。
人手のないところで足を止めたリツ花は、右手を僕の頬に触れた。
「ありがとう。君はやっぱり温かいですね、情に溢れています......」
自然と見つめ合った表情は、嬉しさが溢れるようにはにかんでいた。化粧のない白い頬が自然な朱色に染まっている。
「これから、少しずつできるようになれる気がします。君が支えてくれたから」
そう告げる彼女の瞳は光に反射して、しっかりと見えた。
「また今度、抱いてください」
どきりとする言葉を恥ずかしげもなく晒す。いくらこんな路地裏でも勇気がいるものと思っていたら、彼女は慌てて言い方を直してくれた。
「いつか、また抱いてさらっていってください。やくそく、ですよ......」
本当の悲しみを知っているからこその愛に溢れて。
でも、これからの希望を望んでいるように。
彼女の瞳は七色の宝石のように優しく輝いていたんだ。
その瞳がゆっくりと閉じられて、僕たちは小さなキスをかわす。
触れたのは、たった一瞬だけ。でもその温かさは、柔らかさは。お互いの心の中に溶けていった。
「またあした」
ふたりの別れは、希望を込めて日常的な言葉をかけた。僕にも君にも、明日がありますように。
彼女は振り返って歩いていった。僕は揺れるロングヘアーをいつまでも見つめていた。
......残り香は、えもいわれぬ甘い香りがした。
彼女がいなくなってからの日々は僕の心に変化を迎えた。
まず、バイトをはじめた。小さなカフェでの時給というものはこれだけだという印象だが、しっかりと貯蓄しよう。
もちろん塾にも行くから時間の両立はなかなか大変だ。それでも、自分に鞭を打つように取り組んでいった。
「まったく、なんのために勉強するんだろうねぇ」
いつか聞いた台詞が僕の耳に響く。高校二年生になり、綾人と咲良はまたしても同じクラスになった。
相変わらず咲良は呟きながらプリントを写していて、この雰囲気がそのまま続いていくと嬉しい。
お互いの進路調査票は白紙のまま、一日いちにちを楽しく過ごしたいと思う。
「大人になるのはヤなことねえ。一年も前に戻りたいわー」
彼女がそう言っても、これは仕方のないことなのだが。でも、その言葉には一足先に卒業してしまった人への気持ちが溢れているような気がした。
「よし、決めた!」
何を? 綾人と僕はそろって咲良の顔を見る。
「放課後に勉強するの飽きたから、散歩行こう!」
あっけにとられる間もなく、彼女は席を立ち上がった。そのまま教室を出ていきそうな雰囲気だったので、こちらも慌てて教科書を片付けた。
ゴールデンウイークが終わり、少しずつ日差しは強くなっている。それに汗ばむ空気感だ。
バス通りを歩いているとその風景に小さな違和感が湧いてくる。
「ねえ、あのお店無くなってない?」
「そうだっけ、何があったっけ」
ふたりが首をかしげている。いざ変わってしまうと、もともとはなんの店舗だったか覚えていないことがあるだろう。でも僕は覚えている。以前、ここに入っていった人物に興味を持ったから。
「小さいペットショップだよ。どちらかというと餌とか用具ばかり売ってたけど」
咲良が感心したようにこちらを向いた。
「朝倉くん、よく覚えてるねえ。そういう細かい気づきっていうの、君の素敵なところだよ」
そして、そのまま裏路地に入っていく僕たちは足を止めてしまった。この辺りはいわゆる大人の街だったところだ。
それが、あらゆる店舗がもぬけの殻になっていた。あのバーも例外ではなかった。
「......無くなったんだね」
咲良がそっと小声でつぶやく。淋しさを募らせているのだろう、彼女の手が僕の腕に触れていた。
リツ花の足跡がどんどん消えていく。
虚しさを含んでいながらも、どこか鮮やかで颯爽とした風のようだった。
どれだけの生徒が彼女のことを覚えているだろうか。記憶は少しずつ霞んでいくものだから。それでも、少しの間でも共に過ごしたことには変わりない。
あんなに好きな人に出逢う季節はもうないだろう。
リツ花の分まで青春を過ごそう、それが愛しい人へ捧ぐ願い。
僕もリツ花も、小屋のうさぎだって確かに生まれた。
この時代に生きることは、紛れもない事実だと思う。
いつも心に太陽を持っていて。僕が君を照らして導いてあげられたらいいな。
もしも、リツ花とまた出逢える世界があったなら。
腕を伸ばして、受け止めてあげよう。
出席日数が足りない彼女であっても学年度は籍が置かれていた。本来なら留年という処置になるらしいのだが、家庭の事情により中退という形で話がまとまったそうだ。
そのため、終業式をもって一足早い<門出>となった。
理由について本人からも担任の先生からも具体的な説明はなく、一身上の都合でクラスメイトは理解しただろう。
本当のことを知らなくても、嘘でも動物のためという咲良の説明が広まっていると嬉しいと思う。
そんな咲良は花束を渡してリツ花を抱きしめていた。
「咲良さん、きついですって......」
「そりゃあ君のすらっとした柔らかさはもうこれから味わえないのだからさ」
などと咲良はにやにやして語っている。彼女はリツ花の胸の辺りを頬ずりしているから、クラス中が笑いに包まれた。
意中の人は私の胸で遊ばないでなどと顔を赤らめて困っているが、笑い声の中ではかき消されそうになっていた。
それにしても、入学式の頃には見られない表情の変化だった。
黒板の前に立っているリツ花はホームルームで最後の挨拶をしている。もちろん、仕事については話さなかった。
「......私にはワケがあって。自分の環境から逃げ出すことはできませんでした」
教室の空気が静まり返る。
そして、リツ花はしっかりと顔を上げて瞳をまっすぐにして語った。
「......でも、どんなところで咲く花であっても、誰かが気づいてくれるの」
リツ花の言葉は、まるで僕に降り注ぐようだった。
僕が見つけた小さな花は、道端で誰にも気づいてもらえない。冬の寒さに凍えていても命を輝かせて立派に咲く。健気な姿は、霞む景色を彩るんだ。
みんなにはいつものクールな表情に見えただろう、でも僕にはどこか温かく力強い表情に見えたんだ。
彼女の言葉は、こうやって締めくくられた。
「大切な人のために、生きてください」
......皆が幸せでありますように。その願いを込めて。
ホームルームが終わってからリツ花に話しかけてくるクラスメイトがたくさんいた。最後くらいあいさつをしようという心意気が、どこまで彼女に響いていただろうか。
僕はその様子を眺めていると、ちらりと彼女の視線を感じた。
一緒に帰ろうって。
「こういうの社交辞令って言いますよね。その姿勢は立派なんだけど、咲良さんが抱きしめてくれた方が嬉しかったです......」
ふたりで下校しながら眺める空はきれいに晴れて、温かい日差しが降り注いでいた。
その空間の中にしばしの愚痴がこぼれている。
なるほど、微妙なところだったのだろう。
もう春の日が巡ってくる。
まるで、冬を生き延びたうさぎが駆け回るような、そんな嬉しさを感じさせた。
何度このイチョウ並木を歩いただろうか。
いつも移り変わる景色が僕たちを出迎えてくれた。その季節の彩りはまるで魔法が作り出しているような気がした。
楽しいときもそうでないときも、この通りとともに色んな出来事を駆け抜けてきた。
それは今日でひとときの終わりを迎える。
彼女が居ない風景はどんな色を僕に見せてくれるのだろうか、お互いにどんな生活を過ごすのだろうか。
リツ花は生きると言ってみせたけど、この先どうなるかなんて分かったようなものではないだろう。正直、あてのない道を歩んでほしくはない。
僕の心配は隠しきれないものだ。
自分の気持ちが伝わっているのかいないのか、リツ花は少し空を見上げて語ってくれた。
「私、よく夜空を見上げるのが好きでした。綺麗に輝く月を見て、今日は上弦の月だからもう少しで満月かなって数えてました」
彼女の心を思わせる綺麗な話題だ。
「自分自身のことを月に照らし合わせて考えることもたまにあって......。満月より欠けている月の方が好きなのですが、境遇が私らしくって。月が完成したら滅びるだけ、......永遠に未完成の方が私みたいなんだなって思ってたの」
立ち止まって空を眺めている。その瞳は少しずつ動いているみたいだった。まるで隠れている月を探すみたいに。
風がわずかな雲を動かしていた。月が顔を見せてくれるのだろうか、僕も付き合って顔を上げる。
「いつか完璧でありたいと、満月になりたいと思うようになっていました。それを歩くんに求めたかったんです」
人間は誰しも完璧な存在ではない。たまに間違うこともあるし、どんな言葉をかければ良いか分からないことだってある。
もしかしたら、みんなはもともとただの円弧なのかもしれない。結びつく存在を見つけることによって純粋な円に近づいていくのだと思う。
それが出逢いというものだ。
みんなを結び付けて、また傷つけて。僕らはそれを踏まえて成長していく。
皆で青春を過ごしたりするような、きらめく時間は消えてしまっても。これから成長していってほしい。
泣きたいときは泣きなよ、それを経てまたひとつ大きくなるのだから。
イチョウ並木の道はもう終点を迎えていた。ここを過ぎると駅が見えてくる。僕たちに別れの時間が迫っていた。
自分の心に耳をすませてみる。何か言いたいことがあるはずだ。それを、きちんと自分の言葉で口にしたい。
やっと、"月が綺麗ですね"に返答する言葉を見つけていた......。
「君に言いたいことがあるんだ」
僕の目はしっかりとリツ花の瞳をとらえた。彼女も雰囲気を感じたのだろう、僕の方をしっかりと見つめてくれた。
がんばってとは言いたくなかった。
すべて終わった後に、がんばったねと言わせてほしいんだ。
だから、言いたいことは、たったひとつだけ。
「いつか、また迎えにいきたい」
リツ花は頷いてくれた。そして、一呼吸置くと僕の手を取って路地に走り出した。何があったのか分からない。あっけに取られる僕を心地よい風が包む。
人手のないところで足を止めたリツ花は、右手を僕の頬に触れた。
「ありがとう。君はやっぱり温かいですね、情に溢れています......」
自然と見つめ合った表情は、嬉しさが溢れるようにはにかんでいた。化粧のない白い頬が自然な朱色に染まっている。
「これから、少しずつできるようになれる気がします。君が支えてくれたから」
そう告げる彼女の瞳は光に反射して、しっかりと見えた。
「また今度、抱いてください」
どきりとする言葉を恥ずかしげもなく晒す。いくらこんな路地裏でも勇気がいるものと思っていたら、彼女は慌てて言い方を直してくれた。
「いつか、また抱いてさらっていってください。やくそく、ですよ......」
本当の悲しみを知っているからこその愛に溢れて。
でも、これからの希望を望んでいるように。
彼女の瞳は七色の宝石のように優しく輝いていたんだ。
その瞳がゆっくりと閉じられて、僕たちは小さなキスをかわす。
触れたのは、たった一瞬だけ。でもその温かさは、柔らかさは。お互いの心の中に溶けていった。
「またあした」
ふたりの別れは、希望を込めて日常的な言葉をかけた。僕にも君にも、明日がありますように。
彼女は振り返って歩いていった。僕は揺れるロングヘアーをいつまでも見つめていた。
......残り香は、えもいわれぬ甘い香りがした。
彼女がいなくなってからの日々は僕の心に変化を迎えた。
まず、バイトをはじめた。小さなカフェでの時給というものはこれだけだという印象だが、しっかりと貯蓄しよう。
もちろん塾にも行くから時間の両立はなかなか大変だ。それでも、自分に鞭を打つように取り組んでいった。
「まったく、なんのために勉強するんだろうねぇ」
いつか聞いた台詞が僕の耳に響く。高校二年生になり、綾人と咲良はまたしても同じクラスになった。
相変わらず咲良は呟きながらプリントを写していて、この雰囲気がそのまま続いていくと嬉しい。
お互いの進路調査票は白紙のまま、一日いちにちを楽しく過ごしたいと思う。
「大人になるのはヤなことねえ。一年も前に戻りたいわー」
彼女がそう言っても、これは仕方のないことなのだが。でも、その言葉には一足先に卒業してしまった人への気持ちが溢れているような気がした。
「よし、決めた!」
何を? 綾人と僕はそろって咲良の顔を見る。
「放課後に勉強するの飽きたから、散歩行こう!」
あっけにとられる間もなく、彼女は席を立ち上がった。そのまま教室を出ていきそうな雰囲気だったので、こちらも慌てて教科書を片付けた。
ゴールデンウイークが終わり、少しずつ日差しは強くなっている。それに汗ばむ空気感だ。
バス通りを歩いているとその風景に小さな違和感が湧いてくる。
「ねえ、あのお店無くなってない?」
「そうだっけ、何があったっけ」
ふたりが首をかしげている。いざ変わってしまうと、もともとはなんの店舗だったか覚えていないことがあるだろう。でも僕は覚えている。以前、ここに入っていった人物に興味を持ったから。
「小さいペットショップだよ。どちらかというと餌とか用具ばかり売ってたけど」
咲良が感心したようにこちらを向いた。
「朝倉くん、よく覚えてるねえ。そういう細かい気づきっていうの、君の素敵なところだよ」
そして、そのまま裏路地に入っていく僕たちは足を止めてしまった。この辺りはいわゆる大人の街だったところだ。
それが、あらゆる店舗がもぬけの殻になっていた。あのバーも例外ではなかった。
「......無くなったんだね」
咲良がそっと小声でつぶやく。淋しさを募らせているのだろう、彼女の手が僕の腕に触れていた。
リツ花の足跡がどんどん消えていく。
虚しさを含んでいながらも、どこか鮮やかで颯爽とした風のようだった。
どれだけの生徒が彼女のことを覚えているだろうか。記憶は少しずつ霞んでいくものだから。それでも、少しの間でも共に過ごしたことには変わりない。
あんなに好きな人に出逢う季節はもうないだろう。
リツ花の分まで青春を過ごそう、それが愛しい人へ捧ぐ願い。
僕もリツ花も、小屋のうさぎだって確かに生まれた。
この時代に生きることは、紛れもない事実だと思う。
いつも心に太陽を持っていて。僕が君を照らして導いてあげられたらいいな。
もしも、リツ花とまた出逢える世界があったなら。
腕を伸ばして、受け止めてあげよう。