歩くんと一緒にいる時だけ、私はリツ花でいられる。
 頭からキャロルを追い出してくれる。
 
 私がここにいるのはもちろん母親の影響があるからだ。
 しぶしぶ今日もこの沼に足を踏み入れた。
 まったく、彼女は何を考えているのだろうか。赤ちゃんというものは、母親が産んだ宝物だと思っているのだけど......。
 
 ブラウスのボタンを外したタイミングで、控室の扉が開いた。
 そこにカレンが入ってきたところだった。
 
  ・・・
 
 カレン。
 それがあたしにつけられた源氏名。
 キャロルよりも小さい身長ながら、彼女より大きな胸のふくらみにメリハリのついた身体のライン。
 それがチャームポイントの、大人びた美しさ。
 
 キャロルは本当の名前を持っているのに、あたしはなにも持っていなかった。
 
 あたしは親の顔を知らない。
 置き去りにされていたって施設の人が教えてくれた。
 だから、あたしにつけられた名前もゆりかごもニセモノなんだ。
 
 幼い頃は、別にそれが変わっているとは思っていなかった。
 あれはいくつくらいの年だっただろうか、ある母の日が近い日だった。
 給食のメニューにカレーが出ていた。
 そこそこ仲の良いクラスメイトが"お母さんに料理を作ってあげるんだよ"と話していたのが聞こえた。
 もう名前を思い出せないけれど、短めのツインテールが愛らしい印象の子だった。
 家族っていいなあ、とあたしもやってみたくなった。
 でも、その気づきが自分自身にからみつく。
 あたしには、お母さんがいない。もちろんお父さんもいない。家に帰ってもただ育ててくれた<別人>がいるだけ。
「学校から帰ったらうちに来て遊ぼうよ」
「ううん、やっぱり遊ぶのやめるよ」
 その子に声をかけられてもあたしは拒否することを選んだ。ほかの子どもと違うんだ、って気づいてしまったから。
 その日から嫌いなメニューといえばカレーになってしまったんだ。
 
 高校までは何とか進学したけれど、負い目のある自分は払拭できなかった。
 
 それが決定的になったのは、たったひとつの夜の出来事だ。
 あろうことか、育ててくれた父親があたしに手を出してきたから。酒乱なところは心配していたけど、まさかこんなことになってしまうなんて。
 逃げるように部屋に駆け込んで、ありとあらゆるものをスーツケースに詰め込むとそのまま家を飛び出した。
 
 ある年の、冬の日だった。
 あたしはハンバーガーショップの片隅にいた。
 空腹をセルフの水だけでしのぎ、身体はどうしようもなく震えてうずくまっていた。
 親の同意なしでもできたバイトはなかなか続かなくて、ネットカフェで寝泊まりできる回数も減っていった。
 外ではみぞれ混じりになっているようだ、ほんとうに東京の雨は冷たい。
 
 どれくらいそうしていただろう。
 そこに、コトリと小さな音が響く。
 ちらりと顔を上げてみると、とある男性の姿が瞳に映った。
「......食べるか?」
 そうやって差し出してくれたハンバーガーに無我夢中でかぶりついた。その味は今でも忘れない。
 
 あたしに手を差し伸べてくれたのが<地下の国>のマスターだった。
 
 バニーガールたちの間で売上金や呼び込んだ客などなにかと競い合っていた。
 この美貌をつかいだしたら、あっという間に頭角を現すことができた。男たちの注目を集めるのがこんなに気持ちいいなんて。アイドルならあたしがセンターだ。
 うさぎに角はないけれど、高々と掲げて自慢しよう。
 狭いアパートからおさらばしたい、お洒落なバッグがもっとほしい。そんなことを考え出したら、いつの間にか男の世界に入り込んでしまった。
 ここはあたしが輝けるステージだ。
 
 ......それなのに。
 ご指名が最近入ってきた娘に少しずつ注がれていくようになっていた。
 穢れを知らない透き通った身体。
 宝石のように美しい瞳。
 今日やっと気づいた。彼女に嫉妬してしまうなんて思いもしなかった。あたしは、キャロルが嫌いなんだ。
 
  ・・・
 
「......なんですかカレン。そんなに私のことを見つめて」
「ああ、ごめんなさい。つい、ね」
 バーの控室を開けると、キャロルが着替えているところに出くわした。その華奢なラインを見つめてしまった。
 ついって......、そうつぶやくキャロルにあたしの口から自然と言葉が生まれていた。嫉妬の気持ちが形を成したよう。
「いいわよね、キャロル。最近調子よさそうね」
「そんなことないですよ」
 ふうん。控室に入りながら続きの言葉を投げかける。
「だって、入ったころには見られない感じだもの。まさか、男でもできたのかしら......」
 ......抱いてもらっちゃいなさいよ、その台詞をちょうど彼女の耳元で囁く形になった。
 
 ここで仕打ちをくらうとは思っていなかった。
 キャロルの平手があたしの頬に目掛けて飛んでくる。
 その表情は、今まで見られないものだった。怒りとも怯えとも混ざっているようすで、涙を浮かべながら言ったのだ。
「......好きになった人だけ。私が抱いてほしいのは、私が好きになった人だけ」
 本気のキャロルに、あたしはうろたえることしかできなかった。
 
 ・・・
 
 冬の空はどこか物悲しい。
 そんな印象を抱きながら高校の帰り道を歩いている。隣にいる人物もどこか物思いな表情だ。いつもなら好き放題に話す彼女なのに、顔をうつむき加減にしている。
「......あそこにしようか」
 そう言って()()が指さしたのは、小さな公園だった。
 ふたり並んでベンチに腰かける。目の前にはブランコやジャングルジムが並んでいる普通の公園なのだが、どれも所々に錆が見られる。誰も寄り付かないような雰囲気はまるで結界が張られているように物静かだ。
 
 咲良は鞄から小さな手提げ袋を差し出すと、僕に差し出した。
「どうしたの、これ?」
「......朝倉くんにあげる。早いけど、クリスマスだから」
 受け取りなさいよ、と少し照れくさそうに小声で言う咲良に僕は黙って頷いた。
 そのまま開けると、小さなクッキーが入っていた。そのロゴは駅前のデパートのやつだ。
 だけども、彼女の視線が僕を掴んで離さない。ベンチの脇にクッキーの包みを置くと、僕は彼女に視線を合わせて黙って頷いた。
「......君だから話がしたい。私、あれは高月さんだと思うんだ。絶対に見間違いなんかじゃないよ......」
 咲良はとある日、退屈を持て余してしまい駅ビルでウィンドウショッピングを続けていたという。
 それがエスカレートしてしまい、路地裏に迷い込んでしまった。
 遠くから聞こえてきた声の方を見ると、ビラを配っているリツ花を目にしたのだという。
 話しかけてみようかと思ったのはたった一瞬で、気づいたら逃げるように走りだしていた。
 その日は涙が止まらなかったそうだ......。
 
 公園のベンチに冷たい風がやんわりと吹く。
「私、なんだか悔しくてさ......。女子の鏡である高月さんがだよ、あんな仕事をしているなんて」
 まるで鏡の国にいるリツ花のようだと、咲良が告げた。まさか仕事をしている彼女を見ている人物がいたなんて悲しかった。
 僕は仕方なく本人から聞いた話をかいつまんで説明していった。
 話のひとつひとつを頷いてくれた咲良は空を見上げる。納得したであろう表情は切ないながらもどこか澄んだように晴れていた。
「......そっか、そうだよね。秘密にしてあげなきゃだね」
 黒にひっくり返ったオセロは、白に塗り直さないといけない。計画は、いつか実行しよう。