うさぎは何を見て跳ねるのか

 青色とも黒色とも表現することのできない色が空を染め上げている。
 私はそれを見ようともせず、星空の傘の下で丸まって横になっている。
 静かな空間に、ひとつの声が届くのだった。
「......ちゃん。......りっちゃん」
 その声はどこかきれいな歌声のようで。
 昔懐かしい、故郷のような優しさに溢れていて。
 私は、ゆっくりと目を開いて、"りっちゃん"と声をかける彼女に視線を合わせる。中学校の制服に身を包んだ彼女は、こちらを向いたままにこにことしている。
「まるでうさぎみたいに可愛い姿だったよ」
 そう言ってやさしい微笑みを見せてくれた。
 何時ぶりだろう? 久しぶりに顔を合わせるはずなのに、私は君のことをしっかりと覚えている。えくぼのある姿はあの日のまま変わっていなかった。
 彼女がゆっくりと口を開いた......。



 私はここで目が覚めた。
 ベッドの上でゆっくりと身体を起こすと、少し開いている窓が視界に入った。
 ああ、そうか。これは窓から入ってきていた夜風の仕業なのだろう。
 風変わりでも、とても心地よい夢だった。
「......うさぎみたい、か」
 私はそう呟くと、両手を上にあげて頭に当ててみた。
 ちょうどうさぎの耳のような感じになった。ウォームホワイトのパジャマ姿の私は、まるで学校で飼っているうさぎに見えるだろうな。
 うさぎが集音するように、軽く目を閉じて周りの音に注目してみる。
 雨粒が降り注ぐ音。
 微かに聞こえる車の音。
 人気のない家の中では、それだけしか聞こえてこなかった。

 居間の灯りをつける。時計に目をやると、朝9時を回ったところだった。
 袋からバターロールをひとつ取りだして、マグカップにミルクを注いだ。平日のこんな時間に朝ごはんを食べる高校生は私だけだろうな。
 もう学校が始まっている時間なのは分かっているけれど。今日は何をしているのだろうか、全く気にならなかった。
 母親は出社の日だろうか。昨日は家で仕事してたと思うけど。
 まあ、<彼女>の事情なんて知らないからどうでも良いのかもしれない。
 この寂しさが、いつもの私だから。

 午前中の空いている時間に勉強をするのは、もう私の中でお決まりになっていた。
 英語は教科書を軽く読むだけで解けてしまうのに、他の教科はなかなかこうもいかない。数学の問題を解くのは何回目だろうか。こう回すことで、私はテスト対策を、成績を維持している。
 おかげで視力はだいぶ下がってしまった。
 りっちゃん勉強しすぎだってと、彼女だったら笑うような反応を見せてくれるだろうな。
 でも、ガールをしているという秘密については笑い流してくれない気がする。
 もちろん、誰にも言えないことだけど。彼女を目の前にしたら、つい言ってしまいそうで怖いんだ。
 少し開けている窓から雨粒が吹き込んできた。
 季節外れの台風はルートが地域を掠めるから数日は雨の影響から逃れられない。先ほどから雨音が強くなっていた。
 もうそろそろ出なきゃいけないのに、と私はベランダに出て少し空を見上げてみた。私の服に少しずつ雨粒が染みてくる。
 たぶん、私の秘密はこんな感じでべったりと心の痕を残すのだろうな。
 こっそりうさぎの世話をしているのがちょうどいいんだ。
 
 窓を閉めて部屋に戻ってきた。
 濡れた衣類を脱ごうと、部屋着であるカットソーの裾に手をかける。その瞬間、私の身体に、自分の指先からの熱が伝わるのを感じたんだ。
 これが他人のものだったら、気持ち悪いだろうか。ふとこんなことを考えた。
 それは、いつか訪れるであろう愛の行為かもしれない......。

 相変わらず、雨は止んでくれなかった。
 モノクロームの空に、私が広げる青が映えている。この傘の色のように、澄んだ青空を期待したことはあっただろうか。
 雨が降っても、雪が降っても。私には関係のないことなのだから。
 仕事は待っていてくれないのだ。
 少し寄り道して、学校の裏門から入っていった。授業中の時間帯だけど、かすかに聞こえてくる授業の声はなく、凪の日みたいに静かだった。もしかしたら、台風だからと早めに帰らされたのかもしれない。
 そっか、また私ひとりが残された。
 
 幸い、うさぎは濡れていなかった。明日掃除を頑張ることにして、今日は餌をあげるだけにしておこう。
 私は目の前にいる存在にそっと手を伸ばす。その子は安堵しているように横になってくれた。体温の温かさに、つかの間だけど気分が晴れてくる。
 "なぜ私はここに居て、うさぎを撫でているのでしょう"
 だれかに、その問いをしたことがあったっけ。でも、たまには自分に向けて放つ質問でもあるのだ。もふもふした姿が愛らしいと思ったことはない。むしろ生死が伴うもの、それが生き物。
 "この子が死んだら、可愛そうだから"
 以前、私が口にした言葉がそのままの答えだと思う。それは、りっちゃんが交わした約束なんだ。



 (もも)さんという女の子がいた。
 彼女が私につけてくれたニックネームが、"りっちゃん"だった。
 中学生にもなって気恥ずかしさがあったけど、その音の響き、呼んでくれることの嬉しさが何よりも心地よい。
 困った人を見かけては話しかけているし、誰からも話しかけられている。クラスの誰もがその姿を認めていた。
 小鳥が羽根を広げるよう。
 少し広がっている髪型が利発な雰囲気を、小さなえくぼが対照的に幼げのある表情を与えていて、可愛らしいと思ったんだ。
 
 ある日、私は図書室で本を読んでいた。
 この静かな空間がなによりも落ち着くんだ。
 私は相変わらず人付き合いが下手なまま成長出来ていなかった。中学校というものは地域の小学校から生徒が集まるせいか、何かと息苦しい気がする。
 この世界は、私だけのもの。
 こんな私に桃さんが話しかけてくるなんて思いもしなかった。私が顔を上げると、彼女が図書室の入り口からこちらを見ていた。
「だめだよ、たまには教室に居ないと」
「人がいるのって苦手だから」
 私は軽く首を横に振りながら答えた。
「そうね、私も分かるよ。男子うるさいもんね」
 彼女は特に怒る雰囲気をするわけでもなく、図書室に入ってくる。そして、私の前の席に座ると話題を広げてくれた。
「アリス、私も好きだよ。挿絵は怖いけどさ、こんな賑やかな世界行ってみたいな」
「わかってくれるの? なんだか嬉しいな」
 テーマパークがあったら出かけたいなという彼女に、私はディズニーランドですら上手く想像できなかった。まったく外の世界にはうとい。
「絶叫マシンは私もきらいだけどね。でもさ、ちょっとカラフルな雰囲気のするカフェなら楽しそうじゃん」
 そうだね、と私も合の手を入れる。
 ここで私は彼女が持っているものに気付いた。
 プリントの束を抱えているというところは、職員室にでも行く途中なのだろう。それなのに、見かけては話しかけてくれたわけだ。
「いけない! 先生のところ行かなきゃだから。じゃあね、りっちゃん」

 最初はただ話しかけてくれただけだろう。クラスメイトのひとりだから。
 でも、そうじゃなかったと知るのはそれからしばらく経った日だ。

 中学生ともなれば、しばし相手を意識するようになる。
 音楽の授業のときだった。男子生徒や先生は隣の部屋に行っていて、女子生徒だけがピアノを囲んでいた。
 皆でコーラスを歌い終わったあと、隣の子が気になる男子がいるなどと話している。聞き流していたら、まさか話を振られてしまった。
「高月さんって誰かいないのー?」
 話題はわかっているのに返答の仕方がわからない。どう返そうか困っていると、ほかの子も話題に加わってしまった。
「え、高月さんかわいいのにもったいないなあ」
 かわいい? 私が?
「そうだよ、女子がみんなそう思ってるよ」
「わたしもきみにだったら告白されてみたいなあ」
 そんなこと言われても、私は微笑をつくることしかできなかった。
 
 思えばこの出来事が異性について考えるはじめての機会だったと思う。
 でも、付き合うってなんだろう。結婚はしなきゃいけないのかもしれないけれど、まだまだよくわからない。
「......あ」
 ふと鞄の中を開けてみて、よりによって筆箱を忘れているのに気付いた。
 かわいいなんて言われてしまって、なんとなく調子が悪い。
 仕方なく階段を登って、一番近くの教室まで向かう。教室に入ろうとしたところで、とある会話が聞こえてきた。
「......なあ、オレ付き合いたい子がいるんだけど」
 クラスメイトの男子が数人で何か話している。なんだか教室に入る気にはなれず、私はドアの隅で様子を伺ってしまう。
「......高月ってよくないか」
「たしかに、見た目はいいね」
 こともあろうことか、私について話している。私は硬直してしまい、その場から動けなくなってしまった。
「でも、高月ってさ......」
 なにを話すんだろう。否応なしに、私は聞き耳を立ててしまう。鼓動が高くなって鳴りやまない。
「......誰とも話さないし、暗いだけじゃん。付き合ってもつまんないと思うけど」
 私はその場から走って逃げだした。
 悲しい。ただその言葉だけを身に纏っている私は何も考えられなかった。

 階段の踊り場で人とぶつかった。
 それが桃さんだったのだ。彼女は私の身体を受け止めると、目を丸くしてこちらの表情を伺う。
 そして少しだけ教室の中をのぞくと、何をあろうかその中に入っていった。
「君たち、何を話してたの?」
 私はドアの隅からおどおどと中の様子を見守るしかなかった。
「今聞こえたけどさ、高月さんについて何か言ってなかった?」
「え、お前には関係ないじゃん」
 たしかに話題は私のことだから、桃さんには関係ないと思うのだけど。
 それでも、彼女は言い止まることを知らなかった。
「......高月さんがかわいそう」
 え、と男子生徒たちも少し口を閉じた。勢いを押し殺さないまま、彼女はひとこと言い放った。
「同じクラスなのに陰口をたたくなんて、君たちかっこ悪いわよ!」
 私も教室の中に飛び込んでいった。
「なんで高月もここにいるんだよ」
 彼らの言葉を無視して、慌てて桃さんの腕をつかむ。
 もう言い争いなんじゃなくて話がこじれそうだ。私の心が痛くなってしまう。
「もう止めよ。ね、私が無視すれば良いだけだから」

 夕日が放課後の廊下を、私たちのことを包む。温かなオレンジ色が次第に心を落ち着かせてくれた。
「......高月さん、私さ無我夢中になっててごめんね」
「ううん、私のことについて怒ってくれたんだよね。ありがとう」
 横に並んで歩く表情に、一筋だけ流れるものが見えた。その涙は、なんだか宝石のようにきらめいていた。

 今日この日、桃さんは私のあこがれになった。



 桃さんとの出会いを思い出しながら、駅へと続くイチョウ並木を私はひとりで歩く。
 強い雨脚の中で聞こえるのは自分の鼓動だけだった。
 車道を走るバスが私に水をかけた。膝下やローファーが濡れたとしても、気にしないでいようと思っている。
 うさぎが足を濡らすのは厳禁だけど、人間だから別に構わない。
 私のストーリーには、私しか登場人物はいないから。濡れたところで誰にも迷惑をかけないし、また助けてくれる人はいないだろう。
 これが、いつもの私だから......。

 "挿絵もせりふも無い本、なにがいいんだろう"

 ふと、アリスの一節が頭の中によぎる。だれも居ない世界は何が楽しいのだろうか。
 私にはその良し悪しがまったく理解できなかった。いつも読んでいる、青いカバーの文庫本が頭の中によみがえる。
 ショーウィンドウに映る私の姿をちらりと眺めてみる。仕事着にしているブラウスは傘を差していても、肩からぐっしょりと濡れていた。うさぎの代わりに濡れたと思うとなんだか笑いたくなってしまう。
 白という色は<白装束>の色でもある。巫女などが着る白い単衣のことで、花嫁が死を覚悟するときに着るとされている。
 ガールになっている時点で、私は心に単衣を羽織っているのかもしれない。
 私がバーの仕事を終えて帰宅しても、出迎えてくれる人もいない。
 とはいえ、夜の帳がとっくに下りた時間帯だからゆっくりと扉を開いて静かに入ることは忘れてはいけないわけだ。
 
 あの夢を見てから。
 夢の中で桃さんが何かを言おうとしていたのかずっと考えてしまう。
 たかが夢の中でという人がいるかもしれない。でも、あの夜の湿った空気やはっきりと聞き取れる台詞は、作られた空想の世界であってもやけにリアルだったから。
 何かメッセージが隠されている気がしてならないんだ。
 降っていた雨は少しおさまったものの、明日も降るという予報だった。
 もう何も見えない窓のカーテンを閉めると、彼女への想いがこの部屋の中で膨らんでいきそうだった。
 眠る前に目をつむると、色々と思い出してくる......。
 
 
 
 私が通うことになる高校のことを教えてくれたのが桃さんだった。
 もう進路を考える時期になっていた。みんなは少しずつ行きたいところを決めている中、私はどこかリアリティを感じることができなかった。
 親が仕事で居ないから、家庭で進路の話はまったくできていなかった。
 ちょっとだけ母親に相談してみたことがあったけど、「あなたの行きたいところでいいわ」と言われる始末だった。三者面談も彼女は乗り気じゃなかった。
 だから、進路指導室にある冊子やパンプレットの数々を見ても、私は何も実感できることはなかった。
「ねえ、りっちゃん! 気になるところ見つけた?」
 そう質問されても、仕方なく無言で首を横に振る。
 桃さんは私の回答に口角を上げている。でも、特にバカにしたいわけじゃなく彼女の優しさが垣間見える。
「ほんと、君はもったいないなぁ。だってクラスで上位の成績じゃないか」
「そんなこと言われても、私さ......」
 ......とくにやりたいことなんてないし。こう告げる私に彼女は告げたのだ。その自信あふれるようにきらめく瞳は、今でも忘れられない。
「夢の欠片を集めて大きくなるんだよ。今やりたいなら、なってみる。それだけだよ」
 私はあっけにとられていた。
 別に将来の道が決まっているわけでもないのに、やりたいことを見つけたなんて。
「......桃さんは、何をしたいの?」
 申し訳なさそうに聞いてみても、彼女の回答はとても小さなことだった。
「この高校ってうさぎ飼ってるの知ってる? お姉ちゃんの代で部がなくなっちゃうから、私が行って世話をしてあげようと思うんだ」
 それをしたいの? 勉強ではないじゃない?
 私はつい、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。自信にあふれるように、腰に手をついて彼女が答えてくれた。
「だからさ、うさぎ撫でると気持ちが落ち着くんだよ。良ければ一緒に行こうよ!」
 撫でたら落ち着くかどうかわからないけれど、少し興味を持った。
 
 文化祭の日、私は人ごみに疲れていた。自然と桃さんの腕にしがみついてしまった。
「もう、りっちゃんったら」
 彼女は微笑みながら笑ってくれた。
 私たちは校舎の裏手に周り、うさぎ小屋に行く。
 こっそり小屋に入ってうさぎを撫でてみると、彼女の言っていることは本当だった。毛並みの柔らかさ、体温の温かさに気分が和らいでいく。
 桃さんは私たちの元気。
 そう実感した私は気持ちが明るくなっていた。こんなところで寂しく考えているわけにはいかないだろう。
 彼女が笑うなら、いつでも新しい朝がくる。
 一緒に進学するなら私も変われそうだ。
 でも、その夢は花が散るように消えていった......。
 
 
 
 ある夜のこと、私たちは公園で話していた。
 急に転校することになるとは、だれが想像できるのでしょうか。うつむきながら桃さんが告げた。
「急にごめんね。パパの仕事があって、遠い街に引っ越すことになったんだよ」
 わずかな夜風がふたりを包んでいた。
 彼女は今にも泣き出しそうな、そんな表情だった。
「そうなんだ......」
 私はこれだけしか口に出すことができなかった。だから、無言でその場にいるふたりを夜風が包んでいく。
 やっと桃さんは頷いた。
 でも、その表情はどこか湿っているように感じられて、その視線は私のことをよく見ていなかった。
 彼女の説明に何か物足りない印象をを感じた。だから尋ねる私の声色もどこか固くなっていた。
「ねえ、桃さんさ......」
「やっぱり、私は嘘をつけないかぁ」
 そう言って、天を仰いだ彼女はすべてを語ってくれた。
「......でも、そんなこと言ったって」
「私だって、そんなの......。仕方ないんだけど、行かなきゃいけないんだけどさあ」
「でも、君が行く必要は......」
「りっちゃんには分からないよ、私の家庭なんてさ!」
 これが、私たちが生んだはじめての言い争い。
 私がはじめて他人に楯突いたできごと。桃さんがはじめて声を上げたできごと。

 桃さんの家庭。
 その言葉を聞いて、私は言いかけた言葉を閉じてしまった。彼女はこれから身体が弱い曾祖父と一緒に過ごすのだという。
 私は何を口にすればよいのか分からない。だから、神妙な顔つきのまま目の前にいる人物を見つめるしかなかった。
 いつの間にか落ち着いていた私たちに、彼女が口を開く。
「りっちゃん、本当にクールで素敵だなぁ。こういうときくらい、泣いてくれていいんだよ」
「......ごめん、悲しいんだけど。どういう顔すればいいのかなって」
 それを聞いた桃さんは急に笑顔を作り出した。えくぼのある頬に涙が流れていった。
「じゃあ、笑ってもいいよ」
 痛いくらいに切ない喜びの表情を、満月が照らしていた......。

 私たちはひとつの約束をして、お互いの家に帰っていった。
「うさぎの世話、してくれるかなあ」
「そうだね、私がするからね」
 その月の最後の日、桃さんはひとり旅立っていった。
 きみは今、どこにいますか?



 ぼんやりと窓の外を眺めている。
 昨日から相変わらず降っていた雨は、夕方になって少しずつ小降りになってきた。
 今日は非番だから学校に行く時間があったのに、なんとなく登校する気になれなかった。私の気持ちに水が差されたのはおそらくはじめてだった。
 ここに家庭というものがあったならば、私は親に注意されて登校しただろう。
 でも、そんなことを言う人はこの家には居ない。だからこそ、私は独り立ちすることが求められているのに。
 みんなは今何をしているのかな。いつものように授業を受けてランチや放課後のティータイムを楽しむのかな。代わり映えのない日常だけど、そこに楽しさが待っていると思うんだ。
 
 "......私は何のために勉強をしているのでしょうか。"
 
 その気付きが芽生えた時、私は走らせている手を止めてしまった。
 今開いている数学の教科書は皆やっている章なのだろうか。私が今、勉強する必要はあるのだろうか。
 残りわずかな一筋の雨が窓に当たりよじれていく。まるで、私の中に不安な心が流れていくように。
 図形の問題はもともと苦手としている分野だ。
 さまざまな角度から問題を解かないといけないのに、今はその糸口さえも見つけられなかった。複雑な迷路に迷い込んだ不安は入ったきり出てくる気配はない。
 やがて見つけた出口に差し掛かると、それは涙となって瞳からあふれ出した。
 桃さんと公園で話したのも、ちょうど今頃の季節だった。
 彼女の優しい微笑みが、はっきりと私の脳裏によみがえった。
 
 "君は今、幸せ?"
 
 夢の中で言いたかったであろう言葉が、私の心にたくさんの雨を降らす。
 桃さんと一緒じゃない私はどこまでも置いてきぼりになってしまう。りっちゃんと呼ぶ声で私を呼び留めてほしかった。この世界に逝くなと呼びかけてほしかった。
 君と一緒じゃない世界は、どこまで走っても幸せじゃない。
 こんなこと言うと怒られるのかもしれないけれど、実のところは高校に受かりたくはなかった。だって、桃さんがいないのに、ひとりだけ歩みを進めても意味ない気がしていたから。
 合格発表の日、合格していながらも私はひとり頬に涙を流していた。
 涙が枯れ果てても、私はうさぎの格好で踊り続けるしかないのだろう。
 
 視界の縁に『不思議の国のアリス』のバレエ公演で買ったパンフレットがあるのが目についた。
 この作品が発表された当時、児童書というものは信仰心や道徳心を教育させる教科書的なものとして捉えられていた。特に女子教育はまだレベルが低かった。
 それが、アリスが発表されてどうなっただろうか。
 子供は自由に遊ばせるもの、わくわくする冒険で成長させるというメッセージ性が、これらの約束事から解き放った。
 しっかりと教育を受けたアリスの姿を、つよい羨望の眼差しで見ていた。
 私は、いつの間にかそんな世界に迷い込んでしまったのだろうか。現代(いま)の私も、ガールから解き放ってほしい......。
 今なら言えることがあるんだよ。
 ひとりぼっちのうさぎでも、大切な人と出会えたんだ。
 こんな私でも、恋をしたんだって。
 君に手紙を書いて伝えたいな......。
 
 
 
 月が秋の空にいざようごとく顔を覗かせている。
 私はためらうことなく、自分の中で大人に変わろうとしていた。
 遠ざかるおもかげは、新しい相手への想いに昇華されていく。
 ポーチから口紅を出した私は唇に色を付ける。はじめて自分のために、彼に魅力あふれるリツ花を見せたいために。
 桃さんと歩くんはどこか似ているんだ。だから今、彼に会いたい。
 シャープペンシルが、桃さんとお揃いのアイテムが、机から落ちるのも気づかずに部屋を飛びだして、私はサンダルを履いて無性に駆け出していった。
 
 流れ星が、見えたんだ!
 
 暗く青い空の下で、私は必死に走っている。
 見上げる空に浮かぶ星は一筋の流れを作って落ちていった。その方角へ向かって、必死に走っていく。
 さながら私はシンデレラ。
 
 しまった! 目の前で踏切の遮断機が降りようとしていた。
 慌ててしまった私は、足がよろけてサンダルが脱げてしまう。
 魔法のときめきが消えてしまうんじゃないかと思ったけれど、私は信じていたい。
 目指すべき星は、歩くんの姿は。リツ花が瞬く道しるべなのだから......。
 電車が通り過ぎる間に、急いで履き直した。
 肩が激しく上下に動いている。たくさんの息を吸っては吐いて、呼吸の乱れは落ち着いてくれない。その鼓動が彼への想いを募らせていく。
 ガラスの靴は、私だけのものなんだから。
 だから。
 
 ......絶対に、逢える気がするんです。
 高月 リツ花はバニーガール。
 安心することに、この話はクラスには広まっていなかった。
 ただし、彼女は相変わらず授業にもうさぎ小屋にも出なくなってしまった。
「高月の姿を見ないだけで、心が寒いわぁ」
 帰り道、綾人がのんきな声をかけてきた。僕は適当に"そうだね"と返事をしておいた。
「そうだ、いつかゲームでもしようか。
心の寂しさを一緒に埋めようぜ」
「いいけど、しばらく塾に行かないとだから」
 そう言って、僕たちは交差点で別れた。高月のことは絶対に知られないようにしよう、そう考えていた。

 季節は冬を迎えそうな季節になっている。
 寒さにこらえながら帰宅した僕に母親が声を掛けた。
「お帰りなさい。今日、塾の先生とお話して、ちゃんと来てて真面目だって言われたわよ」
 それは親が行かせているからでしょう。ついそんなことを思ったけど、ぐっとこらえた。
 塾の準備をしている最中、夕空は少し雲が覆っていた。わずかに月が顔を出している。
 ふと、リツ花の事を思い出した。
 バニーガールの格好だと寒くて可哀想だな。
 ......そう、いつだって彼女が不憫な目に遭うんだ。周りの影響によって重荷を背負わされて。それでいて苦しい環境から出ることができない。いつしか慣れてしまい、健気なふりをして生きていくのだろう。
 こんなにも可哀想な目に合わせることができない。カフェでのんびりしたり、映画館に行ったりバレエを鑑賞したり、他にも色々あるんだ。
 彼女にはもっと青春を味わってほしい、それが僕の願いだ。
 僕はあることを考えていた。
 
 ......月にはうさぎが住むという。連れ去って、月に逃げ出そう。
 
 塾に行くまでもう少し休む時間があったのだが、僕はもう出掛けたい気分だった。
 親の問いかけに答えることもせずに、僕は玄関のドアを開けて出ていった。



「歩くん!」
 塾に向かう途中に背中から声を掛けられた僕は、慌てて振り返った。
 そこには、こちらに向けて走ってくるリツ花がいる。彼女は一生懸命に走ってくると、僕の身体を抱きしめるようにしがみついた。
 呼吸が整っていないまま、彼女は早口に告げる。
「君に会いたかった......。ここなら君に会えるんじゃないかと思っていました」
 以前、『不思議の国のアリス』のバレエ公演を見てからコーヒーを飲んだ場所だ。こんなところで出会うなんて思いもしなかった。
 高月はどう見ても制服でも着飾った格好でもない。
 前に見たワンピースではなくて、襟ぐりの開いたゆったりとした長袖のシャツにカーディガンを羽織っているだけの姿だ。どう見ても急いで飛び出してきた姿としか思えなかった。
 
 とりあえずカフェに入ろう。
 気分を落ち着かせようとコーヒーを飲むことを勧めた。もちろん、自分のおごりだ。
「学校のうさぎって可愛いよね......」
 高月が話し出す姿に、僕は瞳を逸らさずに何も言わずにただ言うことを待つ。それが自分の務める姿だと思ったから。
 僕も一口飲んだのだが、それはひとしずくに凝縮した彼女の熱い涙のような気がした。その思いを誰にも渡さない、誰にも渡したくない。そんな気持ちが芽生えていた。
 もう塾がはじまる時間なんてどうでもよかった。
「私、ずっと世話をしてきたけれど。
いつも思ってたんだ、あのドアを開け放っておきたいって。
だって、うさぎは何を見て跳ねるのか見たかったから......」
 リツ花が告げたかったことは自由への解放だ。その言葉は高校一年生の言葉から出るにはとても重かった。
 僕の考えていたことと彼女の思想が結びついたから。自分の考えていることを口にすることにしたんだ。
「行こうよ、ここではない何処かに」
「何処かってどこなの?」
「どこだっていいよ。都心とか繁華街に出てもいいし、なんならもっと別の土地だってさ」
 リツ花は目をぱちくりさせて、僕の方を見つめてきた。
「歩くん。それって、意味分かってる?」
「分かってるよ。何なら塾をやめてさ、バイトしたっていいよ」
 ......ふたりで何処かに逃げ出そう。
 自分でも無茶な提案だと理解しているつもりだ。だけども、今の思考回路では冷静な判断かどうかは分かっていなかった。
「......君まで」
 リツ花は少し声を震わせていた。
「君までそんなこと、考えなくて良いんだよ」
「でも、このままじゃ可哀想じゃない。辞めようとか、逃げたいとか、考えたことはないの?」
「もう遅いんだよ......」
 リツ花は静かに首を横に振った。
 
 ......私はうさぎなんだから。
 ......ケージの中に居ないといけないんだから。
 
 彼女の言った台詞は、他の人から見たらよくわからないだろう。でも、僕たちの心には自然と馴染んだ。
「だったらさ、つがいになろうよ。ふたりで草原を走った方が楽しいと思うよ」
 以前高月が話していた、結婚したいという願い。
 それを僕の手で叶えてあげたい。いつしかそう願っていた。そのことに自分は今、気づくことができたんだ。
 しかしながら、この言葉を聞いた瞬間、彼女は顔を真っ赤にして少し顔を背けた。
 何か言ったっけ?
 なぜだかカフェ内の音が静かになって、客の視点がこちらに向いた気がする。これは誰がどう聞いても告白だ。だけども、自分の頭では今の発言を理解できていないのだ。
 
 でも、高月は自分の方をしっかりと見てくれた。少し目を細めている表情からは未来への希望を感じられた。
「楽しみにしてるよ、"駆け落ち"」
 その瞳は切なくもどこか楽しそうだった。
 歩くんと一緒にいる時だけ、私はリツ花でいられる。
 頭からキャロルを追い出してくれる。
 
 私がここにいるのはもちろん母親の影響があるからだ。
 しぶしぶ今日もこの沼に足を踏み入れた。
 まったく、彼女は何を考えているのだろうか。赤ちゃんというものは、母親が産んだ宝物だと思っているのだけど......。
 
 ブラウスのボタンを外したタイミングで、控室の扉が開いた。
 そこにカレンが入ってきたところだった。
 
  ・・・
 
 カレン。
 それがあたしにつけられた源氏名。
 キャロルよりも小さい身長ながら、彼女より大きな胸のふくらみにメリハリのついた身体のライン。
 それがチャームポイントの、大人びた美しさ。
 
 キャロルは本当の名前を持っているのに、あたしはなにも持っていなかった。
 
 あたしは親の顔を知らない。
 置き去りにされていたって施設の人が教えてくれた。
 だから、あたしにつけられた名前もゆりかごもニセモノなんだ。
 
 幼い頃は、別にそれが変わっているとは思っていなかった。
 あれはいくつくらいの年だっただろうか、ある母の日が近い日だった。
 給食のメニューにカレーが出ていた。
 そこそこ仲の良いクラスメイトが"お母さんに料理を作ってあげるんだよ"と話していたのが聞こえた。
 もう名前を思い出せないけれど、短めのツインテールが愛らしい印象の子だった。
 家族っていいなあ、とあたしもやってみたくなった。
 でも、その気づきが自分自身にからみつく。
 あたしには、お母さんがいない。もちろんお父さんもいない。家に帰ってもただ育ててくれた<別人>がいるだけ。
「学校から帰ったらうちに来て遊ぼうよ」
「ううん、やっぱり遊ぶのやめるよ」
 その子に声をかけられてもあたしは拒否することを選んだ。ほかの子どもと違うんだ、って気づいてしまったから。
 その日から嫌いなメニューといえばカレーになってしまったんだ。
 
 高校までは何とか進学したけれど、負い目のある自分は払拭できなかった。
 
 それが決定的になったのは、たったひとつの夜の出来事だ。
 あろうことか、育ててくれた父親があたしに手を出してきたから。酒乱なところは心配していたけど、まさかこんなことになってしまうなんて。
 逃げるように部屋に駆け込んで、ありとあらゆるものをスーツケースに詰め込むとそのまま家を飛び出した。
 
 ある年の、冬の日だった。
 あたしはハンバーガーショップの片隅にいた。
 空腹をセルフの水だけでしのぎ、身体はどうしようもなく震えてうずくまっていた。
 親の同意なしでもできたバイトはなかなか続かなくて、ネットカフェで寝泊まりできる回数も減っていった。
 外ではみぞれ混じりになっているようだ、ほんとうに東京の雨は冷たい。
 
 どれくらいそうしていただろう。
 そこに、コトリと小さな音が響く。
 ちらりと顔を上げてみると、とある男性の姿が瞳に映った。
「......食べるか?」
 そうやって差し出してくれたハンバーガーに無我夢中でかぶりついた。その味は今でも忘れない。
 
 あたしに手を差し伸べてくれたのが<地下の国>のマスターだった。
 
 バニーガールたちの間で売上金や呼び込んだ客などなにかと競い合っていた。
 この美貌をつかいだしたら、あっという間に頭角を現すことができた。男たちの注目を集めるのがこんなに気持ちいいなんて。アイドルならあたしがセンターだ。
 うさぎに角はないけれど、高々と掲げて自慢しよう。
 狭いアパートからおさらばしたい、お洒落なバッグがもっとほしい。そんなことを考え出したら、いつの間にか男の世界に入り込んでしまった。
 ここはあたしが輝けるステージだ。
 
 ......それなのに。
 ご指名が最近入ってきた娘に少しずつ注がれていくようになっていた。
 穢れを知らない透き通った身体。
 宝石のように美しい瞳。
 今日やっと気づいた。彼女に嫉妬してしまうなんて思いもしなかった。あたしは、キャロルが嫌いなんだ。
 
  ・・・
 
「......なんですかカレン。そんなに私のことを見つめて」
「ああ、ごめんなさい。つい、ね」
 バーの控室を開けると、キャロルが着替えているところに出くわした。その華奢なラインを見つめてしまった。
 ついって......、そうつぶやくキャロルにあたしの口から自然と言葉が生まれていた。嫉妬の気持ちが形を成したよう。
「いいわよね、キャロル。最近調子よさそうね」
「そんなことないですよ」
 ふうん。控室に入りながら続きの言葉を投げかける。
「だって、入ったころには見られない感じだもの。まさか、男でもできたのかしら......」
 ......抱いてもらっちゃいなさいよ、その台詞をちょうど彼女の耳元で囁く形になった。
 
 ここで仕打ちをくらうとは思っていなかった。
 キャロルの平手があたしの頬に目掛けて飛んでくる。
 その表情は、今まで見られないものだった。怒りとも怯えとも混ざっているようすで、涙を浮かべながら言ったのだ。
「......好きになった人だけ。私が抱いてほしいのは、私が好きになった人だけ」
 本気のキャロルに、あたしはうろたえることしかできなかった。
 
 ・・・
 
 冬の空はどこか物悲しい。
 そんな印象を抱きながら高校の帰り道を歩いている。隣にいる人物もどこか物思いな表情だ。いつもなら好き放題に話す彼女なのに、顔をうつむき加減にしている。
「......あそこにしようか」
 そう言って()()が指さしたのは、小さな公園だった。
 ふたり並んでベンチに腰かける。目の前にはブランコやジャングルジムが並んでいる普通の公園なのだが、どれも所々に錆が見られる。誰も寄り付かないような雰囲気はまるで結界が張られているように物静かだ。
 
 咲良は鞄から小さな手提げ袋を差し出すと、僕に差し出した。
「どうしたの、これ?」
「......朝倉くんにあげる。早いけど、クリスマスだから」
 受け取りなさいよ、と少し照れくさそうに小声で言う咲良に僕は黙って頷いた。
 そのまま開けると、小さなクッキーが入っていた。そのロゴは駅前のデパートのやつだ。
 だけども、彼女の視線が僕を掴んで離さない。ベンチの脇にクッキーの包みを置くと、僕は彼女に視線を合わせて黙って頷いた。
「......君だから話がしたい。私、あれは高月さんだと思うんだ。絶対に見間違いなんかじゃないよ......」
 咲良はとある日、退屈を持て余してしまい駅ビルでウィンドウショッピングを続けていたという。
 それがエスカレートしてしまい、路地裏に迷い込んでしまった。
 遠くから聞こえてきた声の方を見ると、ビラを配っているリツ花を目にしたのだという。
 話しかけてみようかと思ったのはたった一瞬で、気づいたら逃げるように走りだしていた。
 その日は涙が止まらなかったそうだ......。
 
 公園のベンチに冷たい風がやんわりと吹く。
「私、なんだか悔しくてさ......。女子の鏡である高月さんがだよ、あんな仕事をしているなんて」
 まるで鏡の国にいるリツ花のようだと、咲良が告げた。まさか仕事をしている彼女を見ている人物がいたなんて悲しかった。
 僕は仕方なく本人から聞いた話をかいつまんで説明していった。
 話のひとつひとつを頷いてくれた咲良は空を見上げる。納得したであろう表情は切ないながらもどこか澄んだように晴れていた。
「......そっか、そうだよね。秘密にしてあげなきゃだね」
 黒にひっくり返ったオセロは、白に塗り直さないといけない。計画は、いつか実行しよう。
 クリスマスというものはこんなにも陽気になるのだろうか。
 期末テストを終えた教室の中ではさまざまな話題が浮かんでは消えていく。
 どれも楽しさという期待を込めた風船が広がるような雰囲気がしている。誰かがご馳走を食べると言っていた。自分の家はケーキくらい出るだろうか、皆が違ってどれも良いものだと思う。
 僕はその様子を見ながら席を立った。
「朝倉くん、君も行かない?」
 呼び掛けられた僕は振り返った。咲良がわざわざこちら見て声を掛けてくれたようだ。
 ファミレスにでも行くのだろう、彼女の手にはまたしてもチラシが握られている。そこには綾人と林もいて、豪華なメンバーだ。少し興味があったが、今日のところはあまり時間が取れそうになかった。
「......そっか、塾だもんね」
 咲良と公園で話して以来、事件らしい出来事は起きていなかった。
 ひとまず安堵するも、もしかしたら皆が気遣って話題に出さないのかもしれない。それだったらなんだか切ないだろう。
 手を振って彼らとは別れた。

 "今やらないと後悔することはやっておいた方がいい"
 
 ふと自分の中にこんな言葉が浮かんだ。なぜだろう? 何に由来するかはまったく分からない。
 この言葉が、忘れられないクリスマスへの序章になるとは思いもしなかった......。

 ・・・

 私はお店の隅にある座席で小さなため息をついた。
 今日もカレンは隠れながら"お小遣い"をもらっている。他の従業員も見て見ぬふりをしているのだろう、もう彼女の得意技にしか思えなかった。
 私には何回やろうとしても勇気のいるものだったが、自分ができる芸当ではないのだから、もう無理して稼がなくても良いかもしれない。
 ......座っている位置を少し右にずらす。
 空いたグラスを手に取る動作に紛れて。慣れた手つきで水割りを作ると、静かに差し出した。
 お代わりですよ、と告げるとその客はありがとうと言いながら受け取った。ただ、指先があからさまに触れている。そっと手を引いた。
 このお客はよく私を指定する。
 何を気に入ってくださるのかよく分からないけれど、今日はなおさら上機嫌のようだ。まるで口笛でも歌いそうな雰囲気で楽しくお酒を飲んでいる。
 こともあろうことか、彼の手はさりげなく私の身体に触れてきた。
 私がボトルを注いでいるときとかを狙って、物陰から目立たないように。周りは気づかなかっただろう。
「君はいつも水で良いのかい?」
「ええ、まあ......。炭酸が入っていて美味しいですから」
 これがいつもお決まりの会話だ。
 ガールという仕事柄少しは飲めた方が良いのだが、いくら何でもそうは言ってられない。来店する人がどう思っているのか知らないが、私はまだ成人には程遠い。
 相づち代わりにひとくち飲もうかと自分のグラスに手を伸ばす。
 そして、何も疑うことなく目の前にある飲み物を飲んだ。だが、気付かなかったトリックに目をまん丸く開いてしまった。
 ......こともあろうことかただ何も割っていないウイスキーだった。
 喉を通り過ぎたものは重い川のごとく流れてしまい、飲み込んでしまった。吐き戻さないだけ良かったが、せき込むのを我慢できなかった。
 テーブルの上を見渡すと、自分のためのグラスはきちんと置かれている。
 ああ、そうか。
 私がよそ見していた隙を狙って、このお客が作ったのだろう。なんのために?
 ぐにゃりと変化する景色が視界を支配する。その中で私はできる限りの笑顔を作った。駄目ですよ、とか言った気がする......。



 少し朦朧とする意識の中で、私は小さな夢を見た。
 森の中で行っている演奏会。
 赤いドレスのような服を着た自分の隣には少し背の高い青年がいて、ふたりはバイオリンの二重奏を振舞っている。

 観客は野生のうさぎたちだ。
 彼らは演奏の辺りに集まってきて、少し興味深く私たちを覗き込んでいる。そして、二本脚で立ち上がって、前脚で器用に拍手をしてくれた。
 
 その感謝の中、私は深いお辞儀をした。
 隣にいる彼も習って頭を下げると、私のことをお姫様みたいに抱えると袖に帰っていく。

 ......でも、森の中は一瞬で暗くなってしまった。
 もううさぎの観客はおらず、私は一瞬で恐怖に襲われる。

 彼の姿は、まるで人間のものではなかった......。



 私が気づいたときには、店舗から地上に上がった路地で腕を引っ張られていた。
 ネオンに照らされたお客様の表情はまるで違っていた。まるで狼のものとしか思えなかった。
 この人はホテルに誘うんだ......。
 獲物を目の前にしたような表情は、最初からそのつもりだったのがありありと浮かんでいる。飲まされた時点で気づけていれば良かったのに......。
 こうやって、誘われてしまったガールがいると聞く。私は働き始めて日が浅いけれど、何人かいることを知っているのだ。
 彼女らはいつもキャバクラや風俗と勘違いして、裏でお金をもらおうとする。そして少しでも多く稼ぎたいからなんだってする。
 ふと、バレリーナの断片が脳裏に浮かぶ。私は決してなりたくなかった。
 ぞろぞろと人々が周りに集まってくる。彼らはこちらの様子を心配しながら、何もできないでいる。
 
 そのギャラリーの向こう側に、私はある人物に気付くことができた。視力の悪い自分でも、そこにいる人のことはよく分かるんだ。
 だって、その人は。私の初恋相手。誰よりも愛する人なのだから。
 ......息を大きく吸って、ありったけの言葉を口にする。

 ・・・

 灯りが溢れる街中を歩いている。
 マフラーで口元を押さえながら、塾の帰り道を歩いていた。イヤホンから流れる冬の曲は、あまり集中して聞いていなかった。
 <駆け落ち>の計画はまだ考えられていない。塾を辞めるのもバイトを始める算段も、つかみ損ねているのが現状だ。
 こんなんじゃ駄目だろう、そう考えている日々だった。
 
 しかし、タイミングは突然やってくる。
 少し香っている雨の匂い。それに合わせて連れてくるなんて、思いもしなかった。
 うさぎは思いもよらないところから出てくるものだ。

 僕は駅の近くにある<大人の街>を歩いていた。
 以前にバニーガールの高月を見た街を、通り抜けたい気持ちを込めて歩いていく。だけども、小走りな足はすぐに止まってしまった。
 視線の先にはあのバニーガールのバーがある。
 そこでは中年のサラリーマンとバニーガールが何やら揉めているのが目についた。だいぶ酔っぱらっているのか何なのか、男性がガールの腕を引っ張っている。
 しかも、そのガールは高月 リツ花だったのだ。
 周りにはお店の従業員らしい人はおらず、軽い人だかりが出来ているだけだった。うろたえているようで、その場では誰もが傍観者になっていた。
 僕が様子を伺うまでもなく、彼女はこちらに気づいた。
 うさぎだって叫びたいときは叫ぶように、精一杯の声を張り上げた。
「歩くん、助けて!!」
 彼女の叫びは不思議とイヤホン越しに、僕の耳にしっかり届いた。
 頭の中に、"やらないと後悔する"という言葉が反芻された。そうか、先ほど思い立った言葉は、今日このためにあったんだ......。
 
 当事者になろうと決心した僕は、反射的に駆け出していく。
「リツ花っ!!」
 僕は必死になって、男性に体当たりをぶつけた。彼がよろけた一瞬の隙を捉えて、リツ花の手首を掴むことに成功する。
 そして、目配せだけで意思を通じ合わせた。
 
 ......逃げるよ。
 ......行こう。
 
 周りの人だかりにも気にすることなく、僕たちは駆け出していった。まさしく、脱兎の勢いだった。
 綾人と林ちゃんと並んで私は歩いている。
「またしっかり食べましたねえ。()()さんいつも太らないから、サンドイッチがどこに無くなるか気になってしょうがないですよ」
「そりゃあ、筋肉に付けておかないとさ。少し身体つきの良いラインの方が魅力的なのだから」
 林ちゃんの質問に、あっはっはと腰に手をついて笑って答えた。別に食べたものが筋肉に変わるわけではないのだが。
 ここだけの話、ラインが一番美しいのは私だと自負している。
 林ちゃんは幾つもの年下を思わせる少女らしい体形だし高月さんはアイドルみたいにスリムだし。ちょっと肉付きのある方が美しいんだと思っている。
 
 外を歩いていると、冷たい北風が体温を奪っていく。先ほど飲んでいたカフェオレは体を温めてくれたのに、あまり意味を成していなかった。
 私の頭の中に少しずつ立ち込めてくるものがあった。
 なんだろうと考えを巡らせていると、なんだかうっすらと香りがしてくる。その醤油の香り、スパイスの香ばしさ......。
 なぜかラーメンの湯気が頭の中に上がってくる。ここはファミレスではなくてラーメン屋に行くべきだったと考え直していた。
「ラーメン食べたいなあ」
 シンパシーを感じ取った綾人が言うものだから、もうその気分になっていた。私の胃が無尽蔵だったら今すぐ食べに行くのに......、と思ったところだった。
 少し先を歩いていた林ちゃんがこちらを見て合図している。
「何か新しいお店みたいだよ! 見てみたい」
 その店は小さなアクセサリーショップだった。
 店の前には小さくても胡蝶蘭が置かれているところを見ると、オープンしたての店舗だろう。
 ドアの脇には腰の高さほどの水晶が鎮座している。
 綾人はそれらの大きな置物ばかり見ていた。男の子はこういう迫力のあるものに興味があるのだろう。
 やはりこっちだよね、と女子ふたりは目を輝かせてショーウィンドウを覗いている。私たちの視線の先にあるのは宝石がついた指輪だ。ああ、綺麗。
 すると、グレーのエプロンを着けた女性の店員が扉を開けて中に招き入れてくれた。
「あら、高校生ですね。青春真っただ中! やはりアクセサリーをおすすめした方がよろしいでしょうか」
 などとにこにこ笑っている。同じくらいの背丈なのにセールスアピールが上手い。
 私は店内をくるりと一瞬巡ってみた。すると、あるものの前で私の目は吸い寄せられた。
 その様子をふたりが覗く。
「あら、咲良さんそういうものが欲しいんですか? もっとお洒落なものの方がよろしいかと」
「もしかして俺のために?」
 まさか、そんなことはない。特に綾人のために使うお金なんて一銭たりともないのは強調して言える。
「クリスマスだからね、友だちにプレゼントあげるのよー」
 私は目の前にあるキーホルダーを手に取って、何食わぬ顔でレジを済ませた。

 私は買ったばかりのキーホルダーを袋の上から眺めていた。
 金具の中には小さな水晶が埋め込まれている。袋の中には小さなカードが納められていて、そこには豆知識が書かれていた。<完全・純粋>という宝石言葉。あらゆるものを清めて浄化する力があるという。
 これは私の願掛けだ。
「あの、咲良さん......。
だいじょうぶですか?」
 後ろから声をかけられた。林ちゃんが何かを言いたげに、こちらを覗き込んでいた。その表情はいかにも心配しているものだった。
「......あ、えっとさ」
 私は自分で我に返った。こう口にしてみると、自分で心配をしていることに気付くものだ。そして、それを口に出したいと思っていたことに。
「ごめん、なんでもない、よ......」
「そうですか? 考え込んでいるの、似合わないですよ」
 慌てて笑顔を作って、その場を解散することにした。
 
 私は自分で私のことを責めたくなっていた。
 バニーガールのことを、高月さんのことを、人に説明しようとしていたなんて。
 
 友だちを売ることなんで、絶対にできない。
 だから、君に願いを託すんだよ。
 高月さんを救いだしてほしい。水晶の輝きがふたりのところまで届いてくれたら良いなと思っているんだ。君は彼女のところに行って......。

 朝倉くんなら、絶対にできると思うんだ。

 ・・・

 リツ花と僕は、どこまで走っただろうか。
 すでに降りている夜の帳。
 住宅街の静かな音が、冬の澄んだ空気が、次第に心を落ち着かせていく。
 いつしか、ふたり手をつないでゆっくり歩いていた。脇を走る電車のヘッドライトが僕たちの姿を照らし出す。
 すれ違ったコンビニ帰りの男性がこちらをチラッと見た。だけども、僕たちはまったく気にしなかった。
「......ありがとう」
 リツ花は小さい声で口にした。僕は照れくさくなって、つい顔を背けてしまう。
「いや、動かないといけないと思っただけだよ。......君の叫びが聞こえたような気がして」
「嬉しかったよ。いつも気にかけてくれるのは、クラスの中で君だけだから」
 それを聞いて、クラスの雰囲気を思い出してみた。
 リツ花の大人びた印象に釘付けになったのは、正直な話僕だって同じだ。消極的な自分と違って、男女問わず彼女と話したいだけな気がした。
 事情も、か細い気持ちも受け入れてこその距離感だと思う。
 僕が知ったのは偶然だったけど、彼女のためを思って隠し続けてきた。他のクラスメイトだとどうなっているか分からない。
 お互いに勇気のいることかもしれない。
 だけども、その一線を受け入れることが何よりも大事なんだ。
 実のところ、今が何時かここがどこだか分かっていなかった。逃げるのに必死すぎたんだ。
 
 ふたりでいるならだいじょうぶ。
 僕が握りしめているのはリツ花の右手。その手の温かさから不思議な勇気が湧いてくる。
 


 僕たちは小さな公園で休憩することにした。
 彼女はお花を摘みに行っていて、僕はベンチに腰を下ろして夜空を見ていた。ちなみに、<お花摘み>の意味が分からなかったのは秘密だ。
 星空に満月が浮かんでいる。
 こんなにもきれいに見えることがあっただろうか。住宅街の灯りは少しずつ消えていて、それが一層夜空を目立たせていた。
 つい嬉しくなって、戻ってきたリツ花に声を掛けた。
「見てみてよ、空がキレイだよ」
 彼女は隣に座って、顔を上げた。
「うーん、星は見えなくて......。でも、お月様の輝きなら分かるよ」
 リツ花の視力が悪いことを忘れていた、お互いに笑い合ってしまう。
 それからしばらく静寂が包み込んだ。だけど、ふたりでいることが心地よくてそれでも嬉しかった。
 この星空はまるで僕たちの行方を示しているような気がした。リツ花への想いが瞬いて、目の前にそびえ立つ月の階段へ進む道標だ。
 少しずつ届く雨の匂いには気づかなった。それにつられるように、彼女の表情は少しずつ変わっていった。

 リツ花はいつの間にか肩を震わせて苦しそうにしていた。
 その格好じゃ寒いだろう。僕は慌てて自分のコートを脱いで彼女の肩に掛けようとするも、手で制されて意味なく終わってしまう。
「......ねえ」
 リツ花の呼びかけに、僕は彼女の方を見る。
 冷たい夜風が彼女の長い髪をとかすように揺らしていた。
 リツ花は真っ直ぐ天に腕を上げた。見上げた瞳は満月に照らされて、虹彩さえロマンチックに輝いていた。
「うさぎって月に住むっていうよね」
「うん」
「いつか行けるようになるよね」
「うん」
 現実世界ではもちろん月に行けるわけがないけど構わない。
 一緒に逃げること、リツ花を解放するために僕が何よりもやらないといけないことだから。
「これが君の言う、"駆け落ち"なんだよね」
「うん。でもさ、いつか本当に旅行できるくらいのお金を稼いでみせるよ」
「ありがとう」
 ......それはまるでいつか見た夢のようだった。
 
 少しずつ、月のしずくが空を染めていく。雨が降ってきたんだ。
 突然降りだした雨は僕たちの道標を隠してしまった。
 跳ね返る水滴が僕たちの足元を容赦なく染めていく。
 住宅街の中だというのにコンビニが近くには見つからず、電車が沿っている道際にあるネットカフェしか行くところが無かった。
 もうこんな時間帯だ、学生の分際で行けるところは限られているだろう。
 お互いにはじめて行くけれど、僕たちは個室とやらに通された。
 
 ふたりだけでいる空間。
 雨粒がかかっている麗しい彼女。
 パソコンに表示される夜中の時間。
 
 事態の重大性についてはまったく気づいてなかった。
 実のところは何をする場所なのか分からないけれど、ここに居るしかないことは確かだろう。今日の宿泊費は出せそうだし、少なくとも外の寒さからしのげる場所だ。
 それ以降はまた考えよう。
「まあ、少し休もうよ」
 そう考えた僕はリツ花の方を見て説明した。
「いいよ」
 彼女は両手を床について、脚を折り曲げて、いわゆる女の子座りをしている。
 小さく首を縦に振って、消え入るような声で反応した。なんだか口数が少ないような気がした。
 ここにきてはじめて、リツ花の顔をしっかりと見た。
 頬がいつにもまして紅潮している。
 目は虚ろのようにピントが合っていない。
 もう眠りたいと言わんばかりな反応のなさ。
 ......今までに見ていた彼女じゃなかった。そして、どことなく漂う洋酒の香り。もしかしたら飲まされていたのだろう。
 とりあえず、水でも入れてきてあげよう。たしかドリンクバーがあったなと立ち上がろうとした時だった。
 リツ花の腕が僕の服を掴む。
「......待って、行かないで」
 彼女の上目遣いの瞳は、僕に何かを言いたげだった。
 仕方なく僕はその場に腰を下ろした。自然と正座に近いような座り方になって、喉が渇いてくる。
 ......張りつめた空気が個室を包み込んでいた。



 うさぎは常にほかの肉食動物や猛禽類から狙われている。
 敵が近づく音を察知できるように、耳を大きくして。
 素早く逃げられるように、足の筋肉は発達して。
 いずれも生き抜くために進化してきた形だ。だが、本当のところはストレスに弱くて絶えず周囲を警戒している切ない動物だ。
 そして、もうひとつ特徴があるのを知っているだろうか。
 常に、もしくは長期的に子供が作れる環境にあるということだ。多産のイメージから豊穣・繁栄の女神と称されている。
 それはしばしば性的なシンボルとして扱われ、<異界へ誘惑するもの>という異名さえある。いつしかカジノやバーと雰囲気が結びつき、バニーガールが広まっていった。
 そんなうさぎが、今、目の前に居る。
 
 リツ花は静かに語りだした。
「......私、お店の前でホテルに誘われるところでした。もちろんバーはそんな場所じゃないし、私だってついて行ったことはないよ」
 僕はうなずくしかなかった。緊張感が声を発することを禁じているみたいだから。
「あのお客さんはいつもそう。入店したときから顔が赤くて、危険な香りはしてたから。お店の前で帰ってもらえれば終わると思ってたんだけど......」
 ......実際はそうじゃなかったのだ。
 店の前で長い間揉めていた。
 周りを歩く人も、関わりたくないという一心で避けていた。
 そして、お店にしてみれば、リツ花はお金を稼ぐための道具としか思っていないのだろう。
「......ねえ」
 リツ花の瞳は僕のことをしっかりと真っ直ぐに見つめていた。
 まだ寒いのだろうか、身体は震えている。
「私は君に助けてもらって、嬉しかったよ」
 ......だから、君に恩返しがしたい。そう言って彼女は、僕のほうにしっかりと顔をむけてきた。
 震えている瞳は、黒いはずなのに、不思議と青く見えた。彼女の意識が海の中で揺れているような気がした。
「君とだったら、いいよ」
 僕は、何を意味しているのか分からなかった。
 
 目の前にオーロラが広がったような感覚におそわれて、夢の中へ連れていかれそうだった......。

 ・・・

 私の心の中を色で表すと、何色に染まっているだろう。
 今日は色んな出来事があった。今日という日は何もかもが通り抜けるように過ぎていった。
 未成年の禁忌を破ってしまった不安と、はじめて見た狼みたいな客の本性。それでいて、歩くんが手を引いてくれた幸せ。
 まるで複数の絵の具を混ぜるように、黒くなって心の中を駆け巡っている。

 ......もう眠いという意識の中で、私の中のキャロルが目覚めようとしていた。

 古い時代、フランス革命時のバレリーナは教育を受けられない地位の低い女性が生計を立てるものとされた。
 彼女らは男性の誘いにのるもの。
 彼女らは身体を捧げるもの。
 
 でも、君も私も現代に生きている。好きじゃない相手のところには居られない。居場所は自分で見つけたかった。
「......好きな相手じゃなきゃ、こんなことはしたくないよ」
 愛し合う悦びを誰かと分かち合いたい。
 ふたりで居ることの緊張感。自分の呟きは風船に空気を注ぎ込むように、儚い恋はえもいわれぬ感情に変わっていた。もう張り裂けるみたいにあふれ出しそうだった。
 唇を重ね合わせてみたい。その果実の味を味わってみたい。さらに、その先も......。

 "私のこと、全部あげるから......"
 私の頭の中に、こんな言葉が生まれる。もう何もかもを捨てて、君だけが欲しかった。

 私の人生には、いつもうさぎが跳ねているような気がするんだ。
 ぴょんぴょんとする音は愛らしい。だけど、さらにその先には、寂しい哀愁の背中をしている私がいるんだ......。

 だれか、私の姿を見つけてくれるだろうか。
 だれか、私の涙を受け止めてくれるのだろうか。

 私の手を取ってくれた人のために、成すべきことは、ただひとつ。
 頭の中にいるキャロルが教えてくれた......。
 
 音楽の授業で学んだことが、私の頭の中を駆け巡っているみたいだ。これはうさぎが奏でる、標題音楽─ライトモティーフ─。
「ねえ、私のことを......」
 ......救ってよ。そう言ったつもりなのに、私の言葉は涙声でかき消された。

 ・・・

 リツ花から漂う香りが、僕の気持ちを酔わせてくる。
 
 それは花の香りのように甘美なもので。
 果実のように甘く酸っぱいもので。
 
 ......不思議な感情に僕は誘われていた。これが、僕の知らない大人の世界。
 自然と体を後退させて硬直してしまう。彼女は僕の方に身を投げかけるように、乗り出しているところだ。
「ねえ、だからさ......」
 リツ花は少し距離を近づけてくる。
 長い髪が細い肩のあたりから流れて僕の手のひらを撫でた。そのくすぐったさはまさに緊張するしかなかった。
「毎日塾があって大変なんでしょ......。すべて投げ出してさ、ふたりで横になろうよ......」
 よりによって、その衣装で誘惑されると困ってしまう。リツ花の細くも立派な身体つき、そして服の胸元が気になって仕方なかった。
 そして彼女はいつのまにか指を絡める。
 いくらなんでも、理性が崩壊しそうだった。
「自分の気持ちに、嘘をつかないでいいんだよ......」
 ......もう、しちゃおうよ。リツ花の口から甘いささやきが降ってくる。

 リツ花は身体を起こした。
 そして少し首を傾げて何かを考えている様子だ。......その答えは自分の考えもしないところに着地する。
「そっか、この衣装じゃ歩くんも好きじゃないよねぇ」
 そう言って彼女は衣装に手をかけていく。
 その動作をまじまじと目に焼き付けるしかなかった。
 恐怖なのか、畏怖なのか。それとも興味ある姿なのか。
 バニーガールだったリツ花の衣装が弾けるように乱れるのと、僕が彼女の手を取って自分の方に手繰り寄せたのは、ほとんど同時だった。
「だめだって、何をしているの......」
 そう慌てて言ってももう遅かった。

 リツ花の助けになれば良いのかもしれない。
 だけども、今しようとしていることは何か違う気もする。

 何ひとつ考えられなくなった僕は、ただ無意識のまま、リツ花の方に腕を伸ばしていた。
「......リツ花」
 そう呼びかけたからなのだろうか、僕の瞳はリツ花の顔にしっかりとピントが合ってしまった。
 リツ花の深い海のような瞳は、どこか波が揺れるように荒れていた。
 きらめくものが見える。涙を流していたと気づいたのは、僕の頬に水滴が落ちてきたからだ。
 リツ花の表情は、不安定に歪んでいた。愛しい壊れ物の印象しか与えなくて。
 それだけで、僕の感情を元に戻すには十分だったと思う。
 
 成り行きのまま、行動している。
 この先の行く末も意識出来ていない。
 
 ......自分の計画は無謀なものだと気付きはじめていた。

 リツ花の身体は僕の上に滑りこむ。
 だけども、彼女は涙をこらえきれず、泣くことしかできなかった。
 静かに、でも声を張り上げるように。それはリツ花の境遇を嘆いているのだった。
 僕の伸ばしかけていた腕はなにも触れることなく着地する。力が抜けたように、床に投げかけてしまうのだった。
 せめて、背中に手を回してあげよう。彼女の気持ちが落ち着くまで。
 リツ花の身体は温かかった。
 それは涙が通っているから、命が胸の中できらめいているから。ほかの何よりも替えることのできない、生きているという<素晴らしさ>を抱きしめてあげよう。
 泣きじゃくる声だけがこの空間の中に響いていた......。



 それからどれくらいの時間が経ったのだろう。
 部屋のドアがノックされる音がする。そして、静かに声を掛けられたのだった。
「......リツ花か?」
 若い男の声だった。
 その声に反応したリツ花は、体を起こして返事をした。その自然な手つきのまま彼女は衣類は綺麗にまとめた。
「はい。
どうぞ入ってください」
 彼女は真剣な表情そのもので、声色はどこか低かった。
 扉を開けたのは、ホストを思わせるようなスーツの男性だった。多分店員かマネージャーというところだろう。手には彼女が着るためのガウンを抱えている。
 おそらく、ネットカフェの店員からバーに連絡でもいったのだろう。
 リツ花は静かに出ていった。
 たぶん、これからも仕事なんだろう。
 それが"キャロル"の日常。



 寒かった。
 だれも居ない個室では、暖房の温かさも触れていた肌の温かさも感じることができない。
 見上げる天井に並ぶオレンジ色の照明。虚しさから出る涙で滲む灯りは雪のようにちらついていた。それは僕に降り積もり、次第に心の灯りを消していった。
 走りかけた住宅街は夢中になっていたのに。
 君の幸せを抱きしめたかったのに。
 リツ花は手を離してしまった。もう誰かの帰りを待つのは意味のないものなのだろうか。

 クリスマスの旅路はここでエンディングを迎えてしまった。

 本当に彼女と身体を重ねていたら、どうなっていたのかな。新しい命が生まれることになったのだろうか......。
 それは、古い存在と引き換えなんだ。
 僕はひとり、朝の道を歩いていた。
 空は雲ひとつない晴天で、どこまでも遠く澄んでいた。その青さが寂しさを募らせて胸が苦しかった。
 帰宅した僕に親はなにも言わなかった、休んでねというだけで。
 無言でベッドにこもる。
 窓の外から聞こえる車の音が、これが現実なんだと思い知らされた。まるで、うさぎの登り坂のようにはいかなかった。
 瞳を閉じて感じることはただひとつ。リツ花への想いは嘘じゃない。
 頭の中に浮かぶリツ花はいつも飾らないでいて、それでも周りを和ませる雰囲気があった。表情は読み取れなくても、そのひとつひとつにはしっかりを感情が浮かんでいる。
 それなのに、こんな情けない僕で申し訳なかった。
 もし連れ出していたとしても、どこに行くべきだったのだろうか。
 
 たくさんのお金があるわけじゃないのに。
 旅のしおりだって持っているわけじゃないのに。
 
 臆病者の恋も、流していた涙も、もう捨ててしまおう。
 夜の世界には綺麗に輝く月が浮かんでいるだろう。リツ花は今日もキャロルへと生まれ変わる。
 好きなことには変わりないけれど、君と僕は世界が違いすぎる。
 愛だけじゃ奪えないんだ。
 キャロルの仕事も、リツ花の未来も。
 
 僕の心は夢の中を彷徨っていた......。
 
 
 
 年が明けて、僕のところに一通だけ年賀状が届いた。
 綾人や咲良とは日付が変わった瞬間にチャットを送り合ったし、小学校や中学校の友人とはもうやりとりしていない。
 家にきちんとしたはがきが届くのは何年ぶりだろう。
 その字はボールペンで書かれたもので、細く流れるような筆跡は見覚えがあった。
 差出人は高月 リツ花だった。
 それは、白い無地のはがきだ。裏返してみても、お祝いの華やかな文章もイラストも書かれていない。添えてあるのは、たった一言だけ。
 
 "月が綺麗だからお手紙を書きたくなりました"
 
 たしかに、冬の澄んだ空に浮かぶ月をこの間見たような気がするが。
 あまり年賀状に書く内容ではないと思うし、月の話題を話したいとしても色んな感想を聞いてみたいものだ。それだったらむしろ便せんが欲しいなって思ってしまう。
 心の中に一輪の花が咲く。その花は、リツ花の香りが漂っているみたいだった。
 
 授業を受けているときの真面目で凛とした顔。
 放課後のカフェで見せた愛らしい微笑み。
 悲しみに暮れるガールの姿。
 
 彼女の声がこだまして、年賀状の文章を反芻する。
 もっと、色んな話をしてみたい。
 もっと、教室で姿をみていたい。
 ......手を伸ばしても届かない月のように、彼女は遠い存在になっていた。
 年賀状はお互いに出し合うものだ。だけど、彼女との壁を感じてしまっていて。こちらから言葉を伝えるのがはばかられてしまう。返事は書けないままだった。
 
 
 
 三学期を迎えたクラスは相変わらずの明るい雰囲気が教室の中に広まっていた。
 ただひとり、リツ花を除いて。彼女は始業式の日から何日も姿を見せていなかった。
 僕はいつも通り綾人と話している。すると、視界の脇で誰かがリツ花の席に座りだした。ついそちらの方を眺めてしまう。居ないから座ってしまっても良いのだと思ったのだろう。別に注意したいわけじゃないけれど、なんだか虚しかった。
 そこに咲良が登校してくる。こちらの顔を見た彼女は、何があったのか様子を伺っているようだった。答えようと逡巡してしまう、そのとき彼女に声を掛けたのは林だった。
「あ、咲良さんおはようございます」
「林ちゃん、おはよ!」
 そういう会話を交わした彼女は周りの様子を見ることもなく椅子に着いていた。林は花瓶を窓際に置いていた。
 リツ花の机は置かれているのに、誰も彼女が居ないものとして考えてしまっているのだろうか。クラスメイトなのに、皆なにを考えているのだろう......。
 
 今日という一日はずっとリツ花の存在が頭から離れなかった。
「ほら、よく見てよ。ちりとり逆だよー」
 何を言われたのか分からない僕は周りの様子を見ると、掃除をしているメンバーがくすくすと笑っている。慌てて表を見せるようにひっくり返した。
「朝倉くん、あのさ......」
 箒を使って埃をちりとりに入れながら咲良が声を掛ける。いつもの勢いのある声ではなく、少し湿ったような口調だった。僕に問いかけたい気持ちが伝わってきたから、僕は誰にも気づかれないように小さく頷いた。
 
 放課後の静かな教室にはふたりしかいなかった。咲良が話しかけてくる。
「君はさ、高月さんのことを気にしているんでしょ」
 そのままの感情を言い当てられた僕は、首を縦に振るしかなかった。
「だいじょうぶだよ。私あの子を信じている、またこの教室に戻ってくるんじゃないかと思ってるよ。だからさ、またコーヒー飲みに行こうよ」
 咲良の意見は、高月の性善説を信頼している。きちんと覚えている人がいるんだ、その気持ちに溢れている僕たちは少しでも彼女の帰りを待ってあげよう。
 口角を上げて、彼女は帰っていった。
「じゃあ、約束だよ!」
 その一言を言い残して。
 
 
 
 それからあくる日。
 今日は朝から雪が降っている。そのせいか、国語の授業は風情ある話題になっていた。
「"I Love You"を"月が綺麗ですね"と訳する、ひとつの逸話があります。いかにも日本らしい古風な響きがありますね」
 なにがせっかくなのかわからないけれど。じゃあ皆さんも考えてみましょうか、と名前を呼ばれた綾人が答えていた。
「オレなら、"ホームラン打ったら結婚してほしい"ですかね」
 そんなプロポーズ、現代の野球選手でもするだろうか。残念ながら座布団はもらえないようだが、授業の雰囲気はなかなかに楽しいものになっていた。
 その様子を横目に僕は窓の外の様子を眺めていた。空はどんよりとした色で、白い世界が一面を覆いつくしている。残念ながら月は夜も見ることはできないような気がした。
 年賀状に書かれた言葉を思い出していた。
 リツ花の告白はなんて綺麗な言葉なんだろう。
 
 体の芯まで冷えそうな空気が、うさぎの温かい体温を思い起こさせた。
 小屋の掃除をするついでにちょっと抱きしめてみようかな。そう考えていた。
 だけども、それは叶わなかった......。
 うさぎは体を丸めて、冷たくなっていた。
 僕は触れた手をすぐに引っ込めてしまう。
 はじめて動物の生死を目の当たりにして、寂しさというよりも虚しかった。いつからなんだろう。風邪をひいてしまったこともあったから、まったく世話ができていなかった。自分を悔やむしかなかった。
 久しぶりによみがえる面影が、しっかりと輪郭を作り出してきた。
 愛しい声が僕の中にこだまする。
 そう、一刻も早くリツ花に教えたかった。
 バーに行くのは勇気がいるだろう。年端もいかない僕は、入店だってできないかもしれない。でも、そんなことも言っていられない気がした。
 ふたりだけの、緊急事態なのだから。
 そう思って小屋から出たところだった。彼女が、裏門からやってきた。
 
 白いダッフルコートに身を包んでいるリツ花は、しゃがみ込んでうさぎを撫でている。
 横顔に流れる黒髪の中に、一筋の涙が見えた。
 
 もしも、僕が風邪をひかなかったら。
 もしも、うさぎが死ななかったら。
 
 僕は、色んな可能性を考えた。そもそも、ここでうさぎを飼っていなかったら。
 彼女の仕事だって他にもあったのかもしれないのに。
 折り重なる偶然が、虚しさを募らせてしまう。
「うさぎは体調が悪くなってもギリギリまで隠してしまうんです。全部が全部、君や私のせいではありません」
 立ち上がった彼女はこちらを見ていた。その表情はうさぎを医者まで運んだときのように凛としている。
「......もしもはないんだよ。この子も、私たちも永遠はないんだ。でも、今教えてくれたんだよ、"生きろ"って」
 彼女の瞳はきらめいていた。でも、その様子は何かがちがう......。
 そこに浮かぶのは強い意思。惹きこまれそうな魅力にあふれていた。
「......これからどうなるか分からない、だけども私は生きようと思います」
 僕は黙って聞いている。
「もう学校には来ないよ」
 その言葉に僕は我に返った。彼女は仕事を選んだんだ、生き抜く決意が見えた瞬間だった。
「行ってくるよ......」
 リツ花はそう言って、職員室のドアをノックした。入る前に、僕の手に軽く触れて。
 今日彼女が放課後に現れたのは、担任の先生に用があるとのことだった。ここまでついて来てほしいと頼まれて、僕は一緒に職員室に来た。
 でも、これは彼女の話だから一緒に入るわけにはいかない。自販機の前にあるベンチで待っていることしかできなかった。
 リツ花も担任の先生もなかなか出てこなかった。
 クラスメイトに何をしているのか聞かれて、待ち合わせとだけ答えるのが続いた。
 どこの部活だか分からないが、校舎の中をランニングしているのが通り過ぎたところで、リツ花がひとりだけ出てきた。
 お疲れ様。こう告げた僕は缶コーヒーを彼女に差し出した。
「ごめん、冷めちゃった」
「別にかまわないよ」
 リツ花は小さな微笑みを見せながら受け取るも、自分のおごりだということに気づいて困った顔を見せた。そしてしぶしぶとタブを開けた。
 
 彼女がベンチの隣に座ったのを待って僕は話しかける。
「ちゃんと話せた?」
「......うん。でも、やっぱり時間掛かったなぁ」
 リツ花は小さな頷きを見せながら答えた。進退の話だから何かと複雑なのだろう。僕が思うよりも、何倍も。
「......娘さんに手紙を持たせるんじゃありません、ってまず注意されて。それから話が進んでいくなかで、学年の先生にも集まってもらったの」
 なるほど。
 どんな話があったのか想像するのは部外者にはいけないことだ。でも、言っておくべきことが彼女にはあるんじゃないかと思う。たったひとつだけ。
 リツ花は少し耳打ちするように教えてくれた。
「......仕事については、話さなかった」
 僕は驚いた顔を見せた。話す機会だったのに、もしかしたら解放されたかもしれないのに。なぜ彼女は大事な話をしないのだろうか。
「そっか、もう良いんだね」
「うん」
 彼女の決めたことだ、それには僕も納得するしかないだろう。
 これから彼女はリツ花ではなくなるんだ、改めてキャロルへと生まれ変わる日がくるのだろう。いつまで一緒にいられるだろう。いつまでこうして話ができるのだろう。
 彼女に青春のキラキラした花を咲かせてあげたいけど、何も思いつくことはなかった......。

 ふと、僕は気づいた。ある問題について彼女が説明していないことに。
「あれ? うさぎのこと、説明しなかったの」
「言わなかったよ」
 なぜだろう。どこまで明確なのかは分からないが、学校の所有物でもあるだろう。伝えておけばなんなりと処理できるはずなのに。
 彼女はいつもの真剣そのものの瞳で、真っ直ぐにこちらを見たまま答えた。
「だって、私たちの問題だもの」
 ......やりたいことがあるんだ。そう言う彼女は頬を赤らめてほほ笑んだ。
「命をありがとね......」
 リツ花は小さくつぶやいていた。



 雪は少しずつ強くなっていた。ベンチに座っていても冷えた空気が辺りを包んでいる。
 リツ花は深いため息をついた。緊張の息を出し切って、話をはじめてくれた。
 でも、咲いた話題の花は切ないものだった。
「......私、お店に連れて帰られたあと、特に取り調べもありませんでした。お客様に無理矢理連れて行かされたことになって、事件性は問われないんだけど。でも、結果的に歩くんを悪者にしてしまったことには変わりないよね」
 それは僕が自ら歩んだ旅路だ、別に気にしないで良いのに。
「ううん......。私のことなのに、私のせいでごめんなさい」
 リツ花は僕の方に身を寄せて肩に頭を乗せてきた。校舎の中をランニングする生徒たちがこちらの姿をちらりと見ていた。視線に構わず彼女は話を続けた。
「歩くんってさ。......どうして自分が生まれてきたかって、親に聞いてみたことある?」
 それはコウノトリ的な話題だろう、そんなことはないから正直に首を横に振った。
「特別な事情がないのは、幸せな証拠だよね。羨ましいわ」
 リツ花は何を言いたいのだろうか。少し興味がある話だった。
「私のお母さんとお父さん。たまたまバーで出会って、すぐ意気投合して......」
 その日のうちに、ということなんだろう。付き合ってもいないカップルの子がリツ花なんだ。結婚も社会人もほど遠い世代の僕は言葉を失ってしまった。
「私、結婚して子供が欲しいって言ったのは嘘じゃありません。でも、お互いのことを知ってからじゃないかなって思う」
 僕はつい、言葉を掛けていた。
「そういうことって、大きさなんて分からないけど。何かしらの愛はあるんじゃないかな」
 なんていったって、子供は愛の結晶だからだ。
 リツ花の結婚相手にふさわしいかどうかと言われたら路頭に迷ってしまうだろう。
 でも、ひとつだけ言いたいことは。彼女らしい恋愛を見つけるべきじゃないだろうか。
 母親は母親で、リツ花はリツ花の人生なのだから。
「......それでも、駄目なのです。だって、酔わされて横になろうとするなんて、母も私も変わりありませんから」

 冬の空気はますます冷たくなっていた。
「......ねえ、歩くん」
 お願いがあります、と語る声色はどこか渇いていて、視線はどこか遠くに投げかけていた。
「もう、私のことを忘れてくれませんか」
 僕は驚いた。
 でも、姿勢を崩すことができずにそのままの状態を保ってしまった。リツ花が自分の腕に少しだけ腕を絡めたからだ。
「クラスのみんなは私のことを忘れてしまうでしょう。こんな私と付き合っても良いことはひとつも無いから、それで良いと思っています。今日、決心がついたから」
 つい知らず知らずのうちに首を横に振った。咲良もみんなも、君の帰りを待っているのに。もちろん僕だって。
 君に好きだよと言いたいのに。
 そんなことを考えていながらも、僕は何も言葉をかけられなかった。
「私、歩くんとの出来事をずっと覚えています。優しい君は、人を幸せにすることができるから。たくさんの人を幸せにしてあげなきゃ」
 そう言って彼女は僕の手をとった。まるで、握手のように。
 勝手に約束をつくり、ひとりで交わそうとする。そんな身勝手なこと、という批判ができる雰囲気ではなかった。
「私の手を引いてくれたのも、温かい言葉をかけてくれたのも嬉しいんです......。だから、もうそんなことしなくていいんだよ。君までケージの中に入っちゃう......」
 ......自由な君でいてください。そう語るリツ花は、一筋の静かな涙を流していた。