駅前のロータリーにある信号機の前で僕は足を止めた。
 
 登校する時間帯だというのに太陽は天高く上がっている。
 そこから生まれる日差しは道端を歩く人々に降り注いでいる。
 アスファルトの照り返しも含めて眩しい光があふれる街並みは、今という季節を実感させてくれる。
 駅前を眺めると比較的新しい商業施設や映画館がある一方で昔ながらの小さい玩具屋がある。そして駅から離れると静かな住宅街が並んでいる。
 廃れているわけではないが、栄えているのだろうかと疑問が浮かんでしまいそうな。どことなく不思議な空間だといつも思っている。
 昨日行った塾の影響なのか、まだ頭の意識がうまく回らない状況だとつまらないことを考えてしまう。だから、これからのことを考えてみたくなった。
 担任の先生が言っていたが、二学期はまるで太陽の光のような眩しいイベントが並んでいる。
 楽しい出来事があってもなくても。日々迎え入れるものはいつもと変わらない日常だ。それらの積み重ねが青春なのかもしれない、と考えると少しはかっこいい響きに聞こえてくるだろうか。
 
 僕は何気なく信号機の方に視線を向けた。
 目の前に行き交う車に合わせて適当に泳いでいた視線は、ある一点にピントが合うようにピタリと止まった。とある人物に気づいたからだ。
 道路の向かいを歩くセーラー服姿の少女。
 彼女は視線をどこに揺らすわけでもなく、まっすぐ先だけを見つめていた。
 どこにも興味を示すこともせずに、ただ一定のペースで歩いている。その姿はこの街の景色の中で、なんだか異彩を放っているように見えるのは気のせいじゃないだろう。
 ここで、信号機が青に変わった。
 僕は彼女の轍に沿って歩いていき、そしてお決まりの挨拶を彼女に告げる。
「おはよう」
「朝倉くん。おはよう......ございます」
 目の前に映る彼女、高月 リツ花は振り返って答えてくれた。
 声をかけられた彼女はこうして僕、朝倉(あさくら) (あゆむ)に挨拶を返してくれる。
 ただし、その表情は特に嬉しいというわけでもなく、困っているわけでもなく。まったく読み取って考えることができない不思議なものだ。
 それでも悪い気はしない。たとえ口数が少なくても、それが彼女の心地よい印象なのだから。
 こうして挨拶を交わしたのはいつ以来だろうか。
 ただのクラスメイトであって、会う時間を決めているわけではない。それでも、顔を合わせては僕が一方的に声を掛けるだけであって。
 今日は夏休みが明けた始業式だから久しぶりに会うのは当然なのに、つい以前のことを考えてしまう。
 
 僕たちは無言のまま、イチョウ並木の道を歩いて行った。
 それがふたりだけの時間なのだと思う。



 今でも思い出すのはあの日のことだ。
 それは、高校の入学式から数日経ったオリエンテーションで行われた自己紹介のときだった。
高月(たかつき) リツ()です。えっと......以上です」
 彼女は黒板の前でたったこれだけしか発言しなかった。
 たぶん緊張しているのだろう、なんとか聞き取れるくらいの声量で、だいぶ語尾の余韻を伸ばしたような言い方だ。
 この学校の制服は男子はブレザー、女子はセーラー服だ。そのセーラー服は白と細かなチェック柄であるライトグレーの組み合わせで、学年問わずえんじ色のスカーフを身につける。その配色は雪のように落ち着いていながらも、しっかりと目立つ印象だ。デザインは清楚な生徒の鏡になるためだと言われているらしい。
 その意識を具現化したような彼女の姿にクラスの皆が注目した。
 華奢なスタイルであり、細い足をさらに強調するような白いハイソックス。色素の薄い肌と対称的な、肩にかかる艶のある黒い髪。
 僕が今まで出会った人物にこんな姿の女子はいなかった気がする。また、今後も出逢わないだろうという意識が何故か芽生えるほどだった。
 
 (さや)かな印象。
 そんなイメージを抱いた。まるで、セーラー服がカスミソウで作られた花束のようで、彼女がその中に咲く一本の花のようで。

 入学した頃の高月は、クラスメイトと話しているのを見たことがあった。
 それは高月の方から話しているというよりも、質問に返答するだけで花開くような会話を広げていなかった。
 休み時間やお昼休みには文庫本を開いている。あまりタイトルを見るのは申し訳ないのだが、たしか青い表紙だった気がする。
 たまには一緒にランチをしようと女子生徒に誘われていたようだが、彼女は少し眉を曲げているだけのようだ。
 口数はとても少なかった。人付き合いが苦手だという雰囲気だけど、どこかでクールなのだろうと思うところもあった。それが彼女を遠くで見た僕の第一印象だった。
 放課後は陸上部で走っていたと思う。陸上には詳しくないけれど、たしか短距離走者 -スプリンター- だった。
 だけれども、季節を迎える度に部活に参加しなくなったらしく、授業の欠席も増えてきた。
 ゴールデンウイークくらいまではきちんと登校していたと思うのだが、いつの間にか1週間に1日程度休むようになった。
 僕は、きっと体調が悪いのだろうと勝手に思っていた。それが、少しずつ休む日が増えてくる。夏を迎える頃には、居るのかいないのか分からない生徒になってしまった。
 たまにクラスに顔を見せても、高月に話しかけるクラスメイトは次第に居なくなってしまった。
 彼女の事情を知っている人は、誰もいない。



 ホームルームを終えた放課後、僕は校舎の裏手を歩いていた。
 誰かに呼び出されたわけでも、告白されるわけでもなく。少し陽が強くなった午後に喉が渇いて、裏門の近くにあるコンビニに行こう。それだけのつもりだった。
 歩いていく最中、僕はうさぎ小屋の前で足を止めた。
 高校でうさぎが飼われているのはめずらしいと思う。白くて耳が立っている、あのシンプルなやつが一匹だけ飼育されている。
 たしか、数年前に誰かがなにかの部活のために飼い始めたと聞いたことがあった。詳しい経緯は忘れてしまったけれど。今は誰が世話をしているんだろうか。
 小屋の中に居るうさぎは、うっとりするように体を寝かしつけている。気持ちよさそうに目を閉じて耳をぺたんと倒していた。
 その脇に、高月がしゃがみ込んでいた。

 うさぎの背中を撫でる白い指先。
 視点がわからないような伏し目がちな視線。
 流れるような黒い髪。

 美しいと思った。
 小屋を西日のライトが照らしているみたいだった。
 無意識に足を止めて、しばしその様子を眺めている。
 高月が振り返って、僕の方を見上げた。いつものとおり澄ましている表情で、なにも感情を読み取れなかった。
 でも、その中にふとした微笑みを感じることができた。なぜだか分からないけど、そう実感する何かがあった気がする。
 
 興味を覚えた僕はつい話しはじめていた。
「何しているの?」
「うさぎが熱そうだなって」
 透き通るような小声で彼女は答える。
 なるほど、それじゃあとわりとありふれた質問を重ねてみた。
「うさぎ好きなの?」
「......好きじゃないよ」
「じゃあなんで撫でてるの?」
「......なんででしょう?」
 投げかけた言葉はまるでブーメランのように返ってきてしまい、なんて返せば良いのか分からなくなってしまった。
 
 小さな風がふたりの間を包む。
 高月に寄り付けないを改めて実感したけれど、自然と会話が生まれていた。
「うさぎも暑いのは大変だよね、クーラーとかあると良いのに」
「だめだよ」
 高月は静かに語りだした。
「それじゃ駄目なんです。
多くのうさぎが夏は苦手で寒さに強いんだ、小さな体だからちょっとした温度の変化にも弱いんだよ」
 ......風邪を引いてしまうから。
 そう語る高月の話に、いつの間にか引き込まれていた。
「風邪?」
「自然界のうさぎは穴の中で暮らしているでしょう?
のんびりした環境だから気温の変化はあまりないんだよ......。
熱中症対策とか言って、急に強いエアコンの部屋に入れる飼い主もいるんだ」
 なるほど、納得した僕はうなずいた。
「ペットのためを思っても、ちゃんと生き物の事を知らないで押し付けちゃうのは良くないんだよ」
 自宅ではペットを飼っているわけではないけれど、なんだか為になる話だった。

 その後、高月と別れた僕は、コンビニでペットボトルを買った。
 とてもよく冷えたボトルからは小屋での会話を思い出させた。
 彼女の瞳を脳裏に思い浮かべる、まるで深い海のような、引き込まれる感じだった。
 そこからは、何かを否定したいような強い意思を感じられた。
 それは、はじめて見る表情だった。