今日は木枯らしが吹いている。
窓の外では強い風が落ち葉を掬い流していった。
それは、高月の境遇を照らし合わせるよう。
テーブルの上に置かれているコーヒーは、お互いに口を付けていない。
勉強するにも、コーヒーを飲むのにも、もちろんお金はいることだろう。あのうさぎの治療費だってそうだ。それが望まない、自分の収入から出ていると考えてしまったら、なんだか虚しかった。
「お母さんに、......なにがあったの?」
僕はつい、高月の台詞に口を挟んでしまった。
わからないわ、と彼女はつぶやいた。
「すぐに働きに出ちゃいましたし、家に居るのはほとんど私ひとりだから。最初の頃は、私のために頑張って働いてくれるんだなって思ってました。でも、私にもそうだったように、母にも何かしらの環境の変化があったんだと思います」
人生の中で、時に大きく環境が変わる。
そのタイミングでは別れが、出会いが待っているのだ。
もしかしたら、高月の母親は職場で何かしらの出来事があったのだろう......。
「あ、一応家には帰っています。でもさ、たまに玄関に知らない男物の靴が置いてある時があって......。そういうときはカフェや図書館に行って勉強するんだ」
一応、という言葉が引っかかった。
複雑な環境のなかで、勉強を無理矢理こなしているんだ。たぶん、部活も辞めることになったのだろう。
「君に何も言わなかったの?」
「もともと口数が少ない母ですから。だから何も言いませんし、手をあげたりはしないだけ良いのだけど」
だとしたら、仕事のことは急に言われたのだろう。
「ええ。ガールについて話題にしたのはほんとうに突然でした。私も最初は当たり前ですが不満を口にしました。あの時は、話を聞いてくれる素振りなんてまったく見せずに。鏡の前で化粧して、アクセサリーを着けて仕事に行ってしまって......」
「アクセサリー?」
高月の姿からは想像できない単語だった。
こういうものは親の影響があると思う。彼女がしていないから母親も持っていないだろうと思ったのだ。
「小さい頃からよく覚えていましたが、普段から化粧は薄くするタイプですし、飾りの類なんて持っていませんでした。授業参観とかでよく親御さんが来てくれませんでしたか。私の母も小学生の頃は来てくれたんですが、人一倍地味で......。それでも良かったのに、最近は......」
生まれ変わったような変貌を遂げてしまったのだろう。
窓の方に視線を向けながら、高月は言葉を続ける。
「私、子供心にお母さんを困らせたくなかった。小学生の頃でも、料理をすぐ作れるようになろうとして家事もすぐに覚えて。良い大学に入るんだよって告げたこともありました」
あろうことか母親に拒絶された。咲かそうとしていた愛情の花は無情に散ってしまい、傷ついた心は置き去りにされてしまった。
そのまま迷子になってしまい、泣きじゃくってしまうのだろう。
「私、今でも母をあきらめたくありません......」
彼女はここでコーヒーをひとくち飲んだ。
でも、それはすでに冷めている。
僕は窓の外を見た。
窓ガラスに打ち付ける木枯らしの音がわずかなBGMを流していた。窓の外では夕陽が沈みかけている。
夢を捨てていた人物がいることが、なんだか寂しかった。
何か掛けてあげることのできる言葉はないだろうか。
ここでかわいそうな運命だよね、と言うのは簡単かもしれない。だから、もっと別の何かを探してみたい。でも、それが見つけられないからこちらも困ってしまう......。
ふたりの間に沈黙が流れてしまった。
"それでも僕は君が好き"
ふと、自分の頭の中に生まれた言葉だ。気づけはテーブルの向かいの人物の方へ身を乗り出して、抱きしめるように肩に手を添えていた。
「......え、ちょっと」
高月の驚いた小声も周りの視線も僕は気にすることもなく、彼女のことを感じたかった。困ったように顔を赤く染めていたが、やがて少し目を閉じて頭を僕の腕に軽く乗せた。
「こういうことされるのって、......はじめてです。歩くんって、温かいんだね」
僕たちはこの姿勢のまましばらく時間を重ねていった。
・・・
高月 リツ花は小さい頃からずっと独りだ。
母親が新しい仕事を始めて、家に居るのはほとんど自分だけだった。
もともと、あれこれするのは危ないから止めなさいと何かにつけて言っていた母親だから、良くも悪くも素直な私はその言いつけをすべて守るように育ってきた。
外にも誰かのおうちにもろくに遊びに行かない私は友達が作れず、最低限の宿題と児童文庫がずっと傍にいた。
「これが読みたい!」
母親の買い物に一緒に行った私が本屋で指さしたのは、『不思議の国のアリス』の文庫本だった。
大人が読むものだったけど構わなかった。
青い表紙。
その鮮やかな彩りがいらっしゃいと手招きしているみたいで。
難しい漢字がたくさんあったものの、時には辞書を引いたりしながら少しずつ進んでいくストーリーは私を楽しませてくれた。
小学校のクラスのみんなは悲しみにくれる私を気遣ってそっとしてくれた。
たまに話しかけてくれる子はいたものの、私はどうすれば良いかわからなかった。
仕方ないから、つっけんどんに返すのも良くないから相手の顔色をうかがうようにしてみる。まるで、母親に注意されるだけではなく、何を訴えたいのか話の本質を覗くように。
でも、子供はそんな深い話をしたいわけじゃない。アニメもゲームも分からない私は相手の話に上手く混ざることができなくて。
きちんとした話ができない子、それが子供のリツ花だ。
子供の頃を思い出しながら私は控室で着替えていた。
サイズの合わない衣装は相変わらず着心地が悪い。
「あら、キャロルちゃん。今日は良いことがあったのかしら」
視線を声の方に向けると、カレンがそこに立っていた。
ドアに寄っかかって腕を組んでいる姿は余裕がありありと浮かんでいる。
もう準備は整っていて、ピンク色の口紅で描かれている微笑は形が整っていた。今日も、かわいく見てほしいと皆に振りまくのだろう。
「何もありませんよ」
私は努めて穏やかに答えることにした。姿見の方に視線を向き直して答えたせいか、カレンは興味を無くしてしまったようだ。
でも、彼女はこちらに近づいて耳打ちするように告げる。
「......これを見なさい」
チラリと見せてきたのは一万円札だった。こっそりとカレンが告げる。
「......慣れれば、これくらいもらえるようになるわよ」
私は驚きのあまり意識せずに身を引いていた。お店を介さず、お客さまから直接もらっているものだろう。
「君も、お金が欲しいからここに入ってきたんでしょう?」
「......私は」
慌てて首を振る私をよそに、カレンは何事もない素振りで控室から出て行った。早く準備しなさいね、と一言だけ言い残して。
首のリボンを着けながら、鏡に映る私の顔を覗いてみた。嬉しい出来事が顔に出ていただろうか、いつもの通り表情を感じさせない顔しか映っていないのだけど。
純白の顔に差し色を入れる。
この店にはじめて入ったとき、何もわからない自分にルージュくらい付けなさいと、カレンが選んでくれた赤い口紅だ。夜みたいに暗い印象だからこういうのが似合うかもしれない、と言っていた。
赤は女性を引き立てる色だ。
もともとは魔除けとして使われていたものの、次第にメイクとして、身だしなみのひとつとして使われるようになったという。やがて恋愛と結びつき、相手を魅了する色として定着した。
はじめて口紅を付けた日。
鏡の前には今まで見たことのない私がいた。
綺麗な姿ではあったものの、心の中にあるともしびが点火するような気持ちだった。
その姿を見ただけで、私は誰かと指を絡めたくて身を悶えたくて。まるでセンシティブな感覚だった。
......でも、すぐに慣れてしまった。
いつかはリツ花も誰かを誘惑する存在になるのだろう。
子供の頃に夢見たバレリーナは泡のように消えてなくなり、今こうしてガールを務めている。まるで今までのことは嘘のようで、裏表のようにひっくり返った世の中を私は歩いているみたいだ。
愛し合う悦びを誰かと分かち合いたい。
だからこそ、私は大切な人の前では誠実でありたかった。はじめて自分の環境を口に出すことができた。
先ほどのカフェでは私の身体を温かい手のひらが包んでくれた。歩くんの優しさが、懐かしい名前を思い起こさせる。
それは"りっちゃん"というニックネームをくれた貴女の名前だった。
窓の外では強い風が落ち葉を掬い流していった。
それは、高月の境遇を照らし合わせるよう。
テーブルの上に置かれているコーヒーは、お互いに口を付けていない。
勉強するにも、コーヒーを飲むのにも、もちろんお金はいることだろう。あのうさぎの治療費だってそうだ。それが望まない、自分の収入から出ていると考えてしまったら、なんだか虚しかった。
「お母さんに、......なにがあったの?」
僕はつい、高月の台詞に口を挟んでしまった。
わからないわ、と彼女はつぶやいた。
「すぐに働きに出ちゃいましたし、家に居るのはほとんど私ひとりだから。最初の頃は、私のために頑張って働いてくれるんだなって思ってました。でも、私にもそうだったように、母にも何かしらの環境の変化があったんだと思います」
人生の中で、時に大きく環境が変わる。
そのタイミングでは別れが、出会いが待っているのだ。
もしかしたら、高月の母親は職場で何かしらの出来事があったのだろう......。
「あ、一応家には帰っています。でもさ、たまに玄関に知らない男物の靴が置いてある時があって......。そういうときはカフェや図書館に行って勉強するんだ」
一応、という言葉が引っかかった。
複雑な環境のなかで、勉強を無理矢理こなしているんだ。たぶん、部活も辞めることになったのだろう。
「君に何も言わなかったの?」
「もともと口数が少ない母ですから。だから何も言いませんし、手をあげたりはしないだけ良いのだけど」
だとしたら、仕事のことは急に言われたのだろう。
「ええ。ガールについて話題にしたのはほんとうに突然でした。私も最初は当たり前ですが不満を口にしました。あの時は、話を聞いてくれる素振りなんてまったく見せずに。鏡の前で化粧して、アクセサリーを着けて仕事に行ってしまって......」
「アクセサリー?」
高月の姿からは想像できない単語だった。
こういうものは親の影響があると思う。彼女がしていないから母親も持っていないだろうと思ったのだ。
「小さい頃からよく覚えていましたが、普段から化粧は薄くするタイプですし、飾りの類なんて持っていませんでした。授業参観とかでよく親御さんが来てくれませんでしたか。私の母も小学生の頃は来てくれたんですが、人一倍地味で......。それでも良かったのに、最近は......」
生まれ変わったような変貌を遂げてしまったのだろう。
窓の方に視線を向けながら、高月は言葉を続ける。
「私、子供心にお母さんを困らせたくなかった。小学生の頃でも、料理をすぐ作れるようになろうとして家事もすぐに覚えて。良い大学に入るんだよって告げたこともありました」
あろうことか母親に拒絶された。咲かそうとしていた愛情の花は無情に散ってしまい、傷ついた心は置き去りにされてしまった。
そのまま迷子になってしまい、泣きじゃくってしまうのだろう。
「私、今でも母をあきらめたくありません......」
彼女はここでコーヒーをひとくち飲んだ。
でも、それはすでに冷めている。
僕は窓の外を見た。
窓ガラスに打ち付ける木枯らしの音がわずかなBGMを流していた。窓の外では夕陽が沈みかけている。
夢を捨てていた人物がいることが、なんだか寂しかった。
何か掛けてあげることのできる言葉はないだろうか。
ここでかわいそうな運命だよね、と言うのは簡単かもしれない。だから、もっと別の何かを探してみたい。でも、それが見つけられないからこちらも困ってしまう......。
ふたりの間に沈黙が流れてしまった。
"それでも僕は君が好き"
ふと、自分の頭の中に生まれた言葉だ。気づけはテーブルの向かいの人物の方へ身を乗り出して、抱きしめるように肩に手を添えていた。
「......え、ちょっと」
高月の驚いた小声も周りの視線も僕は気にすることもなく、彼女のことを感じたかった。困ったように顔を赤く染めていたが、やがて少し目を閉じて頭を僕の腕に軽く乗せた。
「こういうことされるのって、......はじめてです。歩くんって、温かいんだね」
僕たちはこの姿勢のまましばらく時間を重ねていった。
・・・
高月 リツ花は小さい頃からずっと独りだ。
母親が新しい仕事を始めて、家に居るのはほとんど自分だけだった。
もともと、あれこれするのは危ないから止めなさいと何かにつけて言っていた母親だから、良くも悪くも素直な私はその言いつけをすべて守るように育ってきた。
外にも誰かのおうちにもろくに遊びに行かない私は友達が作れず、最低限の宿題と児童文庫がずっと傍にいた。
「これが読みたい!」
母親の買い物に一緒に行った私が本屋で指さしたのは、『不思議の国のアリス』の文庫本だった。
大人が読むものだったけど構わなかった。
青い表紙。
その鮮やかな彩りがいらっしゃいと手招きしているみたいで。
難しい漢字がたくさんあったものの、時には辞書を引いたりしながら少しずつ進んでいくストーリーは私を楽しませてくれた。
小学校のクラスのみんなは悲しみにくれる私を気遣ってそっとしてくれた。
たまに話しかけてくれる子はいたものの、私はどうすれば良いかわからなかった。
仕方ないから、つっけんどんに返すのも良くないから相手の顔色をうかがうようにしてみる。まるで、母親に注意されるだけではなく、何を訴えたいのか話の本質を覗くように。
でも、子供はそんな深い話をしたいわけじゃない。アニメもゲームも分からない私は相手の話に上手く混ざることができなくて。
きちんとした話ができない子、それが子供のリツ花だ。
子供の頃を思い出しながら私は控室で着替えていた。
サイズの合わない衣装は相変わらず着心地が悪い。
「あら、キャロルちゃん。今日は良いことがあったのかしら」
視線を声の方に向けると、カレンがそこに立っていた。
ドアに寄っかかって腕を組んでいる姿は余裕がありありと浮かんでいる。
もう準備は整っていて、ピンク色の口紅で描かれている微笑は形が整っていた。今日も、かわいく見てほしいと皆に振りまくのだろう。
「何もありませんよ」
私は努めて穏やかに答えることにした。姿見の方に視線を向き直して答えたせいか、カレンは興味を無くしてしまったようだ。
でも、彼女はこちらに近づいて耳打ちするように告げる。
「......これを見なさい」
チラリと見せてきたのは一万円札だった。こっそりとカレンが告げる。
「......慣れれば、これくらいもらえるようになるわよ」
私は驚きのあまり意識せずに身を引いていた。お店を介さず、お客さまから直接もらっているものだろう。
「君も、お金が欲しいからここに入ってきたんでしょう?」
「......私は」
慌てて首を振る私をよそに、カレンは何事もない素振りで控室から出て行った。早く準備しなさいね、と一言だけ言い残して。
首のリボンを着けながら、鏡に映る私の顔を覗いてみた。嬉しい出来事が顔に出ていただろうか、いつもの通り表情を感じさせない顔しか映っていないのだけど。
純白の顔に差し色を入れる。
この店にはじめて入ったとき、何もわからない自分にルージュくらい付けなさいと、カレンが選んでくれた赤い口紅だ。夜みたいに暗い印象だからこういうのが似合うかもしれない、と言っていた。
赤は女性を引き立てる色だ。
もともとは魔除けとして使われていたものの、次第にメイクとして、身だしなみのひとつとして使われるようになったという。やがて恋愛と結びつき、相手を魅了する色として定着した。
はじめて口紅を付けた日。
鏡の前には今まで見たことのない私がいた。
綺麗な姿ではあったものの、心の中にあるともしびが点火するような気持ちだった。
その姿を見ただけで、私は誰かと指を絡めたくて身を悶えたくて。まるでセンシティブな感覚だった。
......でも、すぐに慣れてしまった。
いつかはリツ花も誰かを誘惑する存在になるのだろう。
子供の頃に夢見たバレリーナは泡のように消えてなくなり、今こうしてガールを務めている。まるで今までのことは嘘のようで、裏表のようにひっくり返った世の中を私は歩いているみたいだ。
愛し合う悦びを誰かと分かち合いたい。
だからこそ、私は大切な人の前では誠実でありたかった。はじめて自分の環境を口に出すことができた。
先ほどのカフェでは私の身体を温かい手のひらが包んでくれた。歩くんの優しさが、懐かしい名前を思い起こさせる。
それは"りっちゃん"というニックネームをくれた貴女の名前だった。