うさぎは何を見て跳ねるのか

 文化祭の前日は、準備の日として定められている。
 その作業はひとつの怒号からはじまった。
「男子! 掃除くらいしなさーい!」
 クラスメイトの咲良が声を上げている。でも、それは虚空に向けて叫んでしまい、一部の生徒はどこかに行ってしまった。
 僕が想像したそのままの光景が目の前に映っている。
 誰かしら作業をしない人は居ると思ったが、彼女に言わせると少しも許せないのだろう。
 担任の先生によるアピールの結果なのか、隣の校舎にある空き教室を使うことができた。ここはいつもの教室より広めに作られていて、劇にも喫茶店にもうってつけの空間だろう。
 ただし、普段使われていないため先ずは掃除をしなければいけなくなった。
「ちゃんとやっているじゃないか」
 振り返って答えたのは綾人だ。彼は何やらスマートフォンを見ながらホウキをかけている。
「まあ、綾人はやっているわねえ。
......スマホ以外は」
「スマホで漫画を読むくらい良いだろう。
それに、視線がうるさい」
 咲良の瞳はじいっと綾人をロックオンしていて、彼が少しでも休もうとするとすぐさま注意をするのだ。
「きちんと掃除をするのを、監視しているの。他の子のためにもね」
「意味が分からない。ホウキに顎なんか乗せちゃって、母親じゃあるまいしさあ」
 周りで作業をしている僕らは、ふたりの様子を見ながらくすくすと笑っている。綾人は調子に乗るところがあるけれど、根は真面目だ。
「......っていうか、持ってるなら手伝って」
 その意見は合っている。咲良はしっかりとした物言いをするのに、こう正論を言われると答えに詰まる所がある。彼女はあっという間に論破されてしまったが、周りの女子生徒が代わりにわたわたと動き出していた。
「私たちが手伝うからいいよ、咲良ちゃんは全体の監督をしててね」
 すこし頬を膨らませ気味だった咲良は、しぶしぶと肩を下げた。
 
 和気あいあいと作業が進む中で、高月は部屋の隅で折り紙の飾りを作っていた。
 普段なら彼女は孤立していたんじゃないだろうか。
 でも、その傍らにはこの間意見をまとめてくれた林がいる。これといって会話はしていないものの、特に悪い空気は感じない。
 そこに咲良が合流して、三人楽しそうに作業をしている。僕は何気なくその様子を眺めていたら、呼び止められてしまった。
「朝倉くんもやる?」
 咲良の声かけに連動して、高月の視線もこちらへと向く。その瞳は、楽しいから一緒にやろうと言わんばかりだ。
 雑巾がけが終わってしまったから、今やるべき作業があるわけではなかった。
 近くの椅子に座り、グループに混ぜてもらうことにした。
「なにを作っているの?」
 僕の問いに、林は桜の花をお願いしたいと答えてくれた。演目の雰囲気に沿ったカラフルな花を数種類作るのだという。
 はにかみながら鋏を持つ姿は、まさしく幼稚園の先生に見えてくる。
「私がやるんで、横から一緒に手を動かしてください。まず、対角線の一辺を折ってすじをつけます。次にもう一つの辺もです......」
 ふむふむ。
「そしたら、一旦三角形にして、一枚だけめくって、印をつけるのです」
「......こう?」
「そう、三角形の頂点を下の辺につける感じですよ」
 林の折るスピードは少し速いのだが、具体的な形を教えてもらえると助かる。
「今度は上にある左右の角に合わせるように、下の端を持っていきます」
 ......はて? もう一回説明をしてほしくなった。
 ちょっともつれたふたりの会話に合の手を入れてくれたのが高月だった。
「下の端の中心はだいたいわかるでしょう? そこを起点に折る形です、その縁が上の頂点に触れるんですよ」
 彼女はふわりとほほ笑んで、優しい口調で説明をしてくれた。
 そして、続きの工程を終えて。鋏で曲線を切り出すのだという。林が改めて鋏を手にしたところだった。
 
 ふと迷い込んだ客に教室中がざわめいた。
 開けていた窓から蛾が入り込んでいた。皆の視線を浴びながらひらひらと舞い、壁の一角に張りついた。そこそこ大きい。
 うろたえている生徒の中で、綾人があっという間に捕まえてしまった。
「ホント、こういう時は役に立つわねえ」
「......一言余計だなあ」
 咲良と綾人の掛け合いに教室の中が笑いに染まった。見ると、高月もくすくすと笑っているようだ。
 もしかしたら、彼女は少しずつクラスに馴染んでいるのかもしれない。

 咲良が他のグループのところに行ってしまったので、飾り付けは自分たちの作業になった。
 内装を考えるグループと協力して考えた配置案に沿って、折り紙の飾りを貼り付けていく。
 低いところは難なく作業ができたものの、教室のドアの上などは高くて大変だった。
 そのため、高月が椅子を持ってきてくれた。
「朝倉くん、ひとつずつ渡してください」
 高月が椅子の上で伸びをするように腕を伸ばす。
 指示に合わせて、僕は飾りを手渡していく。結果的に彼女が手元を見ながら作業するのを見上げる格好になった。
 高月が身体を動かすたびに、僕は視線をそらさないといけなくなった。
 それにしても、セーラー服というのはこんなに隙間が開くものだろうか。この高校に来たことを小さく後悔することになった。
 当の彼女はまったく気づいていなかった。

 やがて、飾りの足りない分を林に量産してもらって、すべての飾りつけが完了した。
 随分と賑やかになった教室内を見渡すと、なかなか豪華な雰囲気がして嬉しいため息が出てしまう。
「やりましたね」
 と、林が小さく答えた。
「......私、おばあちゃん子だった影響もあって。おままごとよりも折り紙が好きでした。いつか部屋中を折り紙で飾りたいって思ってたんですよ」
 赤らめた頬に早口で説明する様子は嬉しいとも恥ずかしいともとれる表情だ。
 何のことだろうか、小さく首を傾げてしまう。
 ちらりと高月の顔を見ると、何のことだか分かったようだ。
 微笑み合ったふたりは小さく手を挙げて、ハイタッチした。
 高月の表情もずいぶん柔らかいものになっていて素敵だった。



 文化祭当日。
 こともあろうか、高月はホームルームまでに姿を現さなかった。
 きっと、催しが気に入らないから来るのを止めたんじゃないかと誰か漏らしていた。メイド喫茶を推していた生徒のひとりがそういう事を言っていた。
 だいぶ身勝手なことを言うものだ。
「まあ、言わせておきましょ」
 声の主を軽くにらみながら、咲良は制服の上にエプロンを身に着けていた。
 とは言いつつも、軽くため息を漏らしているようだ。その淋しさはホールを務めるメンバーにも広がっていた。
 ちなみに、高月もホールを務めるうちのひとりで、ウェイトレス姿じゃなければやるとのことだった。咲良と一緒のチームだからというのもあるだろうなと想像してみる。
 それでも作業をしなければならない。気合いを入れ直した咲良が身に着けているオレンジ色のエプロンが眩しかった。
 
 午前中はなかなかの客入りがあったらしく、注文されたジュースの準備やゴミの分別などキッチン作業も忙しいものだった。
 ブースの中で簡単に昼食を済ましていると、咲良に声を掛けられた。
「お疲れ様。君ひとりなの?」
 他のメンバーも昼休みを過ごしていて、今この場所に居るのは自分だけだった。
 食材のストックについて話しておいた方が良いかもしれない、軽く説明しておくことにした。
「......コップと皿は大丈夫だよ。ただ、飲み物に偏りがあるかも。ちょっと買い出しした方が良いかもしれない」
「あら、気の利くこと言ってくれるじゃない。じゃあ、裏のコンビニまでよろしくね」
 午後の公演までに時間があるから、今のうちに行ってくるよと声をかけて席を立った。すると、僕の手に冷たいものが押し当てられた。
 自販機で売っている缶コーヒーだった。
「君は砂糖入ってなくてもだいじょうかな?」
 別に飲めないわけではないが、正直入っていると嬉しい。
 ただ、咲良がそんな話をしたいわけじゃないのに気づくのには少し時間がかかってしまった。ゆっくり、少し湿り気のある口調で話してくれた。
「高月さん、どうしたんだろうね......。
昨日さ、林ちゃんと三人で駅まで帰ったんだよ。
少しずつ口を開くようになってきてくれて嬉しかったけど、学校に来たくないなんて、一言も言っていなかったな」
 そうなんだね、と相づちを打つ自分の声も少し沈んでいる。
 普段なら特に気にかけないところだが、今日はよりによってイベントの日だ。それに準備だってあんなに楽しそうにしていたのに。高月の瞳が僕の脳裏によみがえる。
「もし、高月さんになにか原因があるとしたら。私、話だけでも聞いてみたい」
 周りを気に掛ける咲良らしい発言だ。切ないながらも、自信にあふれる表情が素敵だった。
 もしかしたら、コーヒーのように甘くない話なのかもしれない。



 ひとり裏門に向けて歩いていると、うさぎ小屋の中に見知った顔がいた。
 高月 リツ花だった。彼女は小屋の中をきれいに履き掃除していた。
 まさか、そんなことはないだろう。思わず小屋の前まで歩いていく。
 こちらを振り返った高月は、ふふっと小さな声を漏らして話しかけてくれた。表情はいつもの通りあまり読み取れない。
「......見られちゃった、か」
 僕たちは相変わらず小屋を隔てて会話している。この間の出来事が符合して、僕はひとつの可能性を口にした。
「もしかして、ペットショップで買ってたのって」
「そうだよ、この子のためなんだ」
 高月は足元にいる白いうさぎに視線を落とす。うさぎはまったりとした表情で、ごろんと横になっている。
「ずっと、この子の世話をしているの?」
「そう、死んだら可愛そうだから。
時間があれば餌をあげているんだ」
 彼女が優しい嘘をついていたのは分かったが、それは保健室登校ならぬうさぎ小屋登校のようだった。
 だって、今日は......と声を掛けようとして口をつぐんでしまう。文化祭なんて、彼女の眼中には無さそうだったから。
 高月は首を小さく横に振った。
「それは駄目なんです、時間が許さない」
 ......誰にも言えないことですから。そう言って彼女は掃除用具をきれいに片付けて、立ち去ってしまった。

 また僕はひとり残された。
 買い出しに行く用事をしばし忘れて、小屋の中にひとりでいる。
 うさぎが顔を上げて、僕と目を合わせる。うさぎの瞳の中に高月の顔が映し出された気がした。秘密を覗き込んだような気分だ。
 なにかバイトをしているのだろうか。僕はそれくらいの思考しか持ち合わせていなかった......。
 僕はその日、たまたま早く登校した。
 文化祭が終わった校舎は、開催する前と同じような静まり返った空気をしているような気がした。
 教室まで歩いていると、水道のところにいる高月を見かけた。
 朝早くから居るのも何時ぶりくらいだろうか。休む日は朝から姿を見ないから、途中から登校する姿も早退する姿も見たことがないのだ。
 静かな所にいる高月は、まるでその場所に飾られている花瓶のようだ。
 その印象の通り、なるほどと思った。花瓶を洗って水を取り替えているのだろう。担任の先生の趣味で、常に何かしらの花が一輪刺さっている。
 先生は授業をはじめる前に、実際気づいたようだ。
「あら、誰か水を変えてくれたのね」
 誰なのかしら? と先生が聞いても、反応する人はひとりもいなかった。
 僕は優しい犯人の方に視線を向けてみる。でも、高月も自分ではないですよ、と言っていそうな雰囲気だ。
 仕方ないと思ったのか、林が高月さんですとおずおずと答えていた。
「高月さん。こういうときは、自分から申し出なさい。......君は気の利いたことをしているのだから」
 自慢して良いのよ、と告げる先生だったが、高月にはあまり響かないようだった。彼女が少し眉を曲げただけのように見えたのは気のせいだっただろうか。
 とはいえ、たまに学校に通うこの人は誰とも話さない。
 
 最近では高月に対して悪い印象を持っている生徒もいるらしい。
 文化祭の出し物を決めるとき、はじめて彼女の声を聞いて意思の強さを感じ取った生徒もいるだろう。
 でも、実際本番の日には現れなかった。
 それでいて、不登校でありながらテストの日には現れて点を取っていく。
 こんなに浮いてしまっているクラスメイトを視界に入れておきたくないという。
 別にレベルの高い進学校というわけでないのだが、気になるものは気になるだろう。僕にも話が振られたことがあるのだが、さすがに共感することはできなかった。
 
 
 
 次の授業の時間は清掃活動だ。
 自分たちの高校はボランティア活動を重要視している。各クラスが持ち回りで1時間ずつ何かしらの活動を行うことになっていて、うちのクラスは学校の周りの清掃活動をすることになった。
 軽く担任の先生の説明を受けて、皆が散っていった。
 見ると、高月はさっそく歩道に出て手にしたトングで事細かに何かを拾っている。校門の辺りを掃除している僕からもその姿が良く見えた。でも、彼女はなにかきょろきょろとした様子を見せていた。
「どうしたの?」
「これなんですけど......」
 自分の問いかけに高月が見せてくれたのはタバコの吸い殻だ。もうトングの穂先にいっぱいの量だ。
 なぜ捨てないかというと、彼女のもう片手には燃えないゴミの袋を持っていたからだ。
「じゃあ、こっちに入れていいよ」
 高月はありがとうと言って、こちらの燃えるゴミの袋に吸い殻を入れた。
 そして、彼女はそのまま歩いていく。
 なんだか楽しそうに思えたから、自分もそちらについて行くことにした。まるでRPGの冒険をはじめるようだった。
「高月さんさ、せめて車道歩くのやめない? 危ないよ」
「この時間、車あまり来ないんじゃないかしら」
 そう言われてもなんだか心配だ。自分も車道に入っていった。
 これでパーティーがふたりになった。
 
 車道を歩いていると色々わかってくるもので、歩道の植え込みというものは細かいものが落ちていた。
 時期的にツツジの花が咲く季節ではない。うっそうとした雰囲気がする中で、タバコの吸い殻や空き缶、ペットボトルまでたくさんのものが落ちている。
 宝探しのアイテムがこの中に隠されていると思ったら、この作業も楽しく感じられるだろう。
 高月は空き缶を中心に拾っているようだ。
「すごいたくさん落ちてるね」
 僕の驚きにも彼女は表情ひとつ変えないで答える。
「ええ。でも、駅前の植え込みよりはマシですよ」
 そういうものなのだろうか。
 休日になると駅前を中心にボランティア活動が行われるらしい。休む日まで作業をしているとは、頭が下がる思いだ。
 もしかしたら、高月にもそういう一面があるのだろう。
「いいえ、私がよく駅前を歩いているだけで......。それにお店でも......」
 お店? 何のことなのか僕は高月の顔を見た。
 すると、彼女は、あ、と小さく驚いて答えた。
「すみません......。今の忘れてください」
 なんだか歯切れの悪い空気になった。別に詮索する気はないのだから良いのだけど。
 
「ちょっと、どこまで行ってたのよー!」
 学校に戻ると、咲良のお𠮟りを受けた。どうやら、一番最後に戻ってきたのが自分たちだったようだ。つい調子に乗って拾いすぎてしまった。
 燃えないゴミの袋は空き缶とペットボトルでいっぱいになっていて、高月の細い腕とは不釣り合いに見える。
 
 高月はいつもこうだ。
 このように細かい清掃活動を行ったほか、教室の掃除では休んでいる人の分まで机を運んだりどこからかチョークを補充したりしている。
 皆が気づかないところまで細かく作業をしているのを見ることができるのだ。
 そんな些細な優しさは評価されるべきなのに、誰も見ようとしないのかもしれない。



 その日の放課後に帰宅していると、交差点のところで数人のグループを見つけた。
 それはこの間みたいな他校の高校生ではなく、高月が他のクラスメイトと話していた。咲良と林だ。文化祭の飾り付け組がそのまま仲良くなっていて、なんだかおもしろい。
「朝倉くん!」
 こちらに気づいた咲良が大きく手を振って呼び掛けている。少し声が大きすぎる。イヤホン越しでも響くし、なにより恥ずかしい。
「......どうしたの?」
 彼女は待っていましたと言わんばかりに胸を張って答える。手には何かの紙が握られている。ファミレスのクーポンだ。
「クーポン付きのチラシが家に入っててさ、誰か誘おうと思ってふたりに声をかけたんだ。でもさ、行くなら最大人数までしっかりと割り引いてもらった方が良いでしょ?」
 なるほど。
 ちゃっかり者の彼女らしい説明だ。でも、自分で良いのだろうか。
「綾人じゃなくて良いの?」
 ......自分なんかより仲良いでしょう。と言おうと思ったが、少しだけ唇を尖らしながら被せ気味に答えられてしまった。
「なんか、好きな漫画の発売日が今日だって言ってて。すぐ帰っちゃったわ。
それに、林ちゃんが居るから君の方が合っているかも」
 塾に行くまでなら付き合うのも悪くないだろう。時間というキーワードから、僕は高月の方をちらりと見た。
「......ファミレスっていうところは行ったことがないんだけど。今日は、少し時間ありますから」
 視線からトスをもらった彼女が答える。その表情はあまり変わっていないようだが、どこか楽しそうにも思える。
 高月の台詞とタイミングを合わせて、信号機が青に変わった。さあ行こう、と言う咲良の号令の元、駅に向かってイチョウ並木の道を歩き出した。

 テーブルの上には各々が頼んだ飲み物と、サンドイッチの盛り合わせが並んでいる。その光景を見て、ただひとりを除いて萎縮している。
「何みんな固まっているのよ。みんなで食べると美味しいし、私お腹空いたんだから」
 咲良は早速ひとつ取って食べた。高校生の女子はこんなに食べるものなのだろうか。
 こちらに向いた咲良の視線が刺さる。"男の子なら食べるべき"という謎のテレパシーを感じて、僕は慌てて首を横に振る。
「本当においしそうね、私の分も食べて」
「高月さん、いつもそんなんでお腹空かないの? いろんな意味で痩せちゃうよ」
 さりげなく譲った高月の昼食は、いつもコンビニのサンドイッチを食べている。毎日代わり映えしないという印象だ。
「ええ。......私、夜も食べないことが多いから」
 それを聞いて、つい場の空気が静まり返る。他の座席の声が響いている。漫画の感想がどうのこうのと、良くこちらまで届いていた。
 話の流れを変えようと、林が慌てながら口を開いた。
「そ、それにしても高月さん。アイスコーヒーにブラックなんて素敵ですね、まるで大人みたい」
「そ、そんなことはありませんよ......」
 なぜか萎縮する高月に対して、咲良も話に参加する。
「ホントだよ、女子はみんな思っているんだから。それにしても、ビートルズを聴くなんて素敵だよ。流行りのJ-POPなんて眼がないって感じでかっこいいわ」
 大人な人は、ますます眉を曲げてしまった。
 ビートルズが話題に出たのは、今日の授業でのことだった。英語の教科書に題材として載っていて、先生は雑談交じりに10曲、曲名を挙げられる人はいないかと尋ねていた。
 そこに細々と手を挙げて答えたのが高月だった。
 先生は顔を喜ばせてその答えを歓迎していた。しかし、聞き終わった後にはため息交じりに声をかけていた。
「高月さん、もっと自身満々に言って良いのよ。あなたの好きなものなのだから」
 自分の好きなものを言いだしづらいなんて、なんだか淋しさを感じてしまう。そう思ってしまい、つい高月の顔を見てしまった。他のふたりもそうしている。
「......お父さんが、好きだったから」
 なるほど。家族の影響と言うのは大きいだろうな。
 高月は珍しく自分から話を進めてくれた。
「......私、なんていうか。好きなものを、好きって言えなくて」
 分かる気がしてしまった。咲良や綾人がいつもたくさんの話をしてくれるのは、それは聞き手となる存在がいるから成り立つようなものだ。
 話し相手が居ない高月にしてみれば、それすら高い壁なのだろう。そして、自分の興味について話すのは、無駄にアピールをしてしまうからと考えてしまっているのかもしれない。
「またまた。掃除の時間だって細かくやっているじゃない、素敵だよ」
「それは、私が好きでやっているんですよ。ついつい細かく手を動かしてしまう癖は、小さい頃から自然と身に付いていました。......昔、小学生の頃に、その様子を見ていた先生が言ったの。"高月さんばかりに気を遣わせるんじゃありません"って......」
 ......そうじゃないと、彼女が傷つくでしょう? その言葉は幼い高月の心に刺さったという。
 高月はよく好きで細かな作業をしていたのだという。
 ただ、クラスメイトは彼女にやってもらえるからと全く手伝いもしなかった。
 ひとりだけに重荷を背負わせている。
 担任の先生はこう理解してしまった。だから"みんなで楽しく手を動かしましょう"というメッセージを伝えたはずなのに、上手く伝わらなかったのだろう。
 それ以来、高月は何かをすると目立ってしまうからいやでしなくなってしまった。
「私、高月さんだからって思ってるよ」
 咲良はサンドイッチを放り込みながら言った。高月が少し顔を上げた。
「そりゃ、クラスメイトなんて色んな人が居るわけだ。先生の言葉を借りるわけじゃないけど、それが混ざってうちのクラスが出来上がるわけだよね。自分のことを言うのは苦手でもさ、君は周りのことを見てるじゃない」
 どこかの男子とは違うよね、そういう彼女の言葉に皆が笑ってしまった。高月も口に手を当てている。その様子を見て、僕はひとつのことを気づいたのだ。
 高月は自然と会話を広げられている。まるでうさぎのように思えた。
 飼われているうさぎは飼い主に慣れるまで感情表現を表に出さないという。文化祭の飾り付け組が、心にもカラフルな仕掛けを施したというのだろうか。
 高月はみんなでいると会話に困ってしまうけれど、少人数ならそんなことはない。
 
 ここで、高月が腕時計を見ながら立ち上がった。
「時間が無いから、ごめんなさい」
 そっか、と咲良が手を振って声を掛けていた。どうだった、と尋ねている。......どうだった、と聞かれてもと彼女は少し困っている。やがて、ひとつの回答をみせた。
「......美味しかったです」
 少し朱色に染まった頬ははにかんでいるようにも、感動しているようにも見える、不思議なものだった。こういうのを青春というのだろうか。と何気に考えてしまった。
 
 ひとりいなくなったテーブルで、咲良が言った。
「私、高月さんと居ると和む気がする」
 ......あの子、自分が出している雰囲気が自分で分かっていないんだよ。そう語る彼女は、窓の外を眺めて少しうっとりする目線を見せていた。
 夕陽に照らされた頬がきらめいている。それは、羨ましいとも見守っていたいとも、色んな気持ちが込められている気がした。
 高月 リツ花が学校に居る日だけでも、きちんと接してあげよう。



 みんなと別れた僕は、レンタル屋でビートルズのCDを借りることにした。
 別に高月の興味を押さえておきたいわけでなかったが、やはり教えてくれるとこちらも興味がわくものだ。
 CDを手にした瞬間、ひとつの言葉が僕の心によみがえる。
 "お父さんが、好きだったから"
 ......"好きだったから"という言い回しが気になった。なぜ過去形なんだろうか。
 特に深い意味がなければ良いのだが、ふとした心配が頭をよぎったんだ。
 駅前のデパートにある文房具屋はとても広い。
 正確には本屋の中にある文房具のコーナーなのだが。ここにはノートも、ボールペンひとつとっても、たくさんの種類があった。
 たまたま目についたノートを手に取ってパラパラとめくってみる。
 パステルカラーで彩られた表紙で、いかにも女の子が買いそうなデザインだ。ふと林の顔が頭に浮かぶ。
 なんて言うか上手く説明はできないのだが、このノートは何かがちがう。ノート自体の厚みや紙の質だろうか。
 だから、いつも買っている大学ノートを手に取った。
 ボールペンの売り場に行って、いつも買っている黒のペンに手をのばしたところだった。
「あっ」
 とお互いに声が出た。
 そこには高月 リツ花が居て、偶然にも同じペンを買おうとしていた。
 奇遇ですね、と本屋での出会いを思わせる言葉を思わず口にしてしまう。彼女も顔を赤くして少し困ったような様子だった。
「......こんなところ、見られるなんて思っていなくて」
 なるほど。何が恥ずかしいのかよくわからないが。
「私、ここで売っているノートがお気に入りなので。いつもここで揃えています」
 そう語る高月の手には、見たことのないノートの束とボールペンが3本握られていた。
 手に取ろうとしていた黒いペンと同じ種類の青・赤・緑だ。そういえば、授業の時に見た時もなかなかカラフルな板書をしていた。
「私、文房具が好きで......。
これらは授業で使うから買うのですが、それ以外にもついつい店内を見ちゃいます」
 もしかして文房具を見て回るのが好きなのだろうか、色んなアイテムをコレクションするようなファンが多いと聞く。
「......いいえ、私はお洒落とかカラフルな便利グッズやマスキングテープはあまり興味が無くて。やはり使いこなれたペンや手帳があれば十分なのです。特にシャープペンシルはお気に入りで、ずっと同じものを使っています。......でも」
 そう言って、高月は振り返って背中側に視線を向けた。そこにはさまざまなメーカーのカラフルなボールペンが棚一面に並んでいる。
「こうしてカラフルなペンが並んでいるだけで、まるで私の世界が輝いて見えるような。
そんな気がしませんか」
 と、くすくすと微笑みながら説明してくれた。


 
 何気に高月がレジを終わらせるのを待って、一緒に本屋を出ることにした。
 お互いに予定があるだろうからここで別れようと思ったのだが、後ろから新しい声をかけられるとは思っていなかった。
「あっ!」
 声の方を振り返ると、そこには林がいた。
 彼女は小さく手を振ってこちらに挨拶をすると、こちらに向けて小走りでやってきた。ちなみに、向かい合うとよくわかるのだが彼女は頭ひとつ分くらい背が小さい。
「こんにちはです......。あの、ふたりとも授業の備えは万端というところでしょうか」
 別に不足しているから買っただけなのだけど。
 すると、林は恥ずかしそうに顔をひそめてしまった。
 どういうことだろうか。
 少しの沈黙がみんなを包み込んだ後、林は少し上目遣いになって言い出した。
「おふたりは、毎日の授業がやりたいこと、なのでしょうか」
うん? 僕と高月はお互いの顔を見合わせた。そして、タイミングをそろえて答える。
「いや、そんなことはないよ」
「私もそういうつもりでは......」
 いまいち話のポイントがよく分からない。どう話を広げようかと困っているところで、高月が話を振り出してくれた。
「林さん、学校きらいなの?」
「ううん。そんなことはないんだけど、何のためにやるのかなって」
 その答えを聞いた高月が、そっか、と小さくつぶやいた。
「私ってみんなみたいに過ごしているわけじゃないですから。授業も、ホームルームも、発言するだけで勇気がいるのです」
 文化祭の前の高月さん、かっこよかったですよ。と思い出しながら微笑んでいる。そんな彼女の瞳は羨望の眼差しだ。
 当の本人は褒められているのに、困っている。相変わらずこの人は褒められるのに馴れていない。つい笑いたくなってしまう。
「......でも、本当に何もできなくて。私、走っていても、歩いていても転んじゃいそうだし」
 と、林が下を向くのに合わせて、僕たちも視線を落とした。
 なるほど。彼女の膝に絆創膏が貼られている。そういえば女子の体育は陸上競技をやっていると誰かが言っていた。
 
 ......そうねえ、と高月は口に手を置いて小さく考えた。
 その後、少し身を掲げて林に視線を合わせて告げた。まるで、子供を諭すような親御さんの雰囲気だ。
「林さん、私たちは選んでこの高校に来たわけじゃないですか。だから授業を受けるのは当然しなければならないこと。みんながそうなのよ」
 林はこくんと小さく頷いた。
「でもね、そこから何を吸収するかは私たち皆一緒じゃないの。みんながそれぞれ考えることがちがうように、林さんにしか気づくことができない、"何か"があるんじゃないかな」
 林はううんと考え込みだした。
「何かと言われても、私......」
「ううん。君の声が、君の飾りが文化祭の成功に一役買ったのでしょう?」
 文化祭の出し物を決めたとき、林の意見が鶴の一声となった。しかし、彼女はまだ納得していない様子だ。
「でも......。だって、私美術部じゃないし、私より素晴らしい絵を描く人なんてたくさんいるじゃないですか......」
 高月はゆったりとしたペースで首を横に振った。そして諭すように告げる。
「そうじゃないんだよ。どれだけ素晴らしい絵を描けても、どんなにセンスがある人がいても。いちばん感動させられるのは、その舞台に適したアイディアを出せる人なのよ」
 ......私も林さんが飾り付けてくれたステージを見たかったな。こう告げる高月を前に、林の顔にはゆっくりと喜びの顔が生まれていった。
 その気づきは、まさに林しか得られないものだ。また、飾りのアイディアは彼女が率先して生み出したものだ。
「絵画展みたいなのは難しいのかもしれないけれど。あなたは今まさしく美術の世界にいて、小さな一歩を踏み出しているの。今やりたいなら、やってみる。それだけではないでしょうか」
 林はやっと感心するように微笑みだした。
「将来につなげられるかは、今日ここで見つける必要があるのでしょうか。
私も見つけられない、というよりも探していないという方が合っていますね。私たちは小鳥みたいに、日々興味あるものに飛んでいくの」
 次第に林の瞳がきらきらとしている。
「いつしか飛んでいく道を見つけられれば素敵ですね。でも、これだけは言えるんじゃないかなあ」
 ......はじまったばかりなんだよ。その言葉はいつくしむべき優しさに満ちていた。



 林はすっかり上機嫌になって帰っていった。
 さあ帰ろうよと声をかけようとして、となりに立つ人物にそっと視線を投げてみる。
 でも、その姿は先ほどの高月リツ花ではなかった。
 魔法に縛り付けられたように、表情は硬く身体が小刻みに震えている。熱を出した子どもみたいに、うわごとで何かをつぶやいていた。
「......私が、しなければならないこと。......そんなこと、わからないよ」
 まるで別人を見ているようだった。
 どんな言葉をかけてあげればよいのかわからない。
 
 ......どうすればよいだろう? とりあえず肩をたたいてみた。
「! ......朝倉くん?」
「だいじょうぶ?」
 ごめんなさいと彼女は頭を下げた。
 
 もう帰ろうか。僕たちはゆっくりとエスカレーターの方に歩いて行った。
 今までいろんな高月の姿を見てきた。
 それでも、今日気付いてしまった。
 彼女にはなにか秘密があるって。
 今思えば、"時間が許さない"という台詞だって何か意味を持っているのだろう。
 
 ......僕は、いつかその世界の中に脚を踏み入れる。
 咲良が顔を上げながら言い出した。
「まったく、なんのために勉強するんだろうねぇ」
 授業の小テストが近い日だった。
 学校の図書室に皆が集まっているのだが、その発起人である彼女にはあまりやる気が感じられなかった。
 お互いに教科書やノートを広げているものの、6人掛けのテーブルを囲んでいつもと同じ雑談交じりの雰囲気になっている。あまり大きな声を出せなくても、細々と話すことなら大丈夫だろう。
「まあ、テストで良い点を取るためじゃないかな」
「それもそうなんだけどね」
 綾人が返事をするも、咲良はなんだか微妙なようすだ。たぶん、彼女の中で納得いく答えを見つけられないのかもしれない。
 すると、綾人が彼女のノートを指さして少し教えだした
「......ここは、その公式を使うんじゃないんだよ」
「あ、そっか」
 こういうところはふたりならではの掛け合いだ。綾人は会話をしながら、良く相手のことを見ている。そのため、タイミング良く話題を切り替えられる。その自然な会話の仕方がつい気になってしまった。
 ふたり合わせて同じタイミングでこちらを見た。何か? と表情だけで問いかけてくる。
「あ、いや......。こうやって勉強を教え合うのってはじめてだなって思って」
 いつもこんな感じで話しているの? と上手く話題の流れを作っておいた。そういえば、彼らは中学生の頃からの同級生だった。
「まあ、そうだなあ。咲良っていつも一方的に話すけど、バイクのアクセルを踏んだみたいに。でも、ところどころでブレーキを入れたりここに標識があるぞって言ったり。自然と自分が様子を見ている感じかな」
「なによ、君だって勉強のスイッチが入らないからって書架を何周もくるくる回ってたじゃん。民間のパトロールじゃないんだし、タバコのポイ捨て禁止ですよじゃあるまいし」
 お互いに例えがよく分からない。でも、ケンカしそうでしない雰囲気はいつ見ていても面白い。
 ひとつ分かったことがある。綾人の教え方はすべてを解説するのではなく、ヒントだけを与えて相手に考えさせるようだ。
「......公式使ったら解けるようになったわよ」
 少し気恥ずかしさを出しながら咲良が解き終わっていた。
 そう言えば、と咲良がこちらを向いてきた。
「朝倉くんって、同じ中学校から上がってきた子とか居ないの?」
 その言葉を聞いて、少し考える仕草をしてしまう。
 クラスメイトと一緒というのはなかったし、同じ学年と言われてもまったく思いつくことはなかった。もしいたとしても、今までもこれからも接点がないだろう。
 
 そこに、辞書がテーブルの上に置かれた。
 みんな揃って、最後のひとりである高月の顔を覗き込んだ。
「......なんですか、みなさん」
 高月は何がなんだか分からないという表情をしている。
 それはたぶん、こちら側の台詞だ。今までの掛け合いを気にせず、辞書を持ち上げながら何ページもめくっていたのだから。
「......もしかして、高月さん。ずっと辞書見てたのかな」
 少しの間をおいて、質問の意味を理解したのだろう。口に手を置いて答えてくれた。
「ええ。辞書を引くとつい周りが見えなくなってしまって」
 あっけにとられる回答だ。こんな人、今まで出会ったことがなかった。
「でも、ほんとテストの点数高くて素敵だよねぇ」
「......普通だったよ」
 高月がとくに得意なのは英語の教科だ。
 普通と言われても、何か特別なことがあるんじゃないかと思ってしまう。
「うーん......。いつも問題は教科書を参考にしているから......だいたい出そうな問題を想像できたっていうだけで」
 高月は珍しく話を広げてくれた。
 授業は英文の訳を問われているから教科書を読んで予習をしておかないといけない。授業中の彼女はよどみなく答えていた気がする。
「ある程度読めるようになると、何が問題になるか分かりますよ。それに、辞書を引くでしょう? 意味だけを見るんじゃないんですよ。例文を読んで、"使い方を理解する"のが大切なの」
 高月は少しながらも微笑みながら答えてくれた。
 そして清書しているノートを見せてくれた。そこには英語の文章が並んでいて、複数の色のボールペンで単語の関係性や例文などが書かれている。
 まるで絵やレポートのように綺麗な雰囲気だ。
 地道に解いているのも伺えるが、もしかしたら好きな教科なのかもしれない。苦手意識というものがそもそもないのだろう。
 
 しばらくして、壁に掛かっている時計が目についた。
 まだ下校時間には早いけれど、今日は塾に行かないと行けない日だ。
 皆にごめんと言って片付けをはじめることにする。綾人と咲良にとっては普通の光景だ。ふたりは軽くあいさつをするだけで勉強を続けていた。
 だがしかし、高月は動かしている手を止めた。
 僕の方を見て硬直するように数秒固まっていると、自分の腕時計を見だした。まるでにらみつけるように。
 その仕草をついまじまじと見てしまう。
「ごめんなさい、私も行かなきゃいけないので」
 と言い、慌てて教科書をしまいだした。
 まったく予想していなかった急展開に、そこに居る皆が高月のことを見つめてしまっていた。



 駅に続くイチョウ並木の道をふたり歩いている。
 イチョウの葉はまだ緑のままだけど、やんわりと吹いている風が季節の進みを感じさせる。
 こうして成り行きで一緒に下校することが、僕たちふたりの関係性であるけれど。
 なんだか今日の高月は少し早歩きだ。まるで風をまとっているように少しひんやりとした冷たい雰囲気を感じてしまう。
 だから、雑談をしようにもついためらってしまう。
 
 とはいえ無言でいるのもなんだか落ち着かない。少し早足になりながら高月に尋ねてみた。
「さっきのノートすごかったね。きれいにまとめることなんでやったことないよ」
 この質問はほとんどが出まかせだった。
 本当は彼女の用事について聞いてみたかった。こないだの文房具屋での出来事が心に残っているから。
 でも、他人のプライベートには踏み込めない。誰だって触れられてはいけない一面があるだろう。
「まあ、好きな教科ですからね」
 前を向きながら高月は答えてくれた。
「やっぱり将来のためなんじゃないでしょうか。やりたい仕事を見つけられなくても、未来が分からなくても」
 楽しいなって思える教科があるだけで人は幸せなんだと彼女は教えてくれた。
 僕はこれといって得意も不得意もない成績だ。
 彼女みたいに得意なものを見つけてみたいと素直に思った。
 
 ふとした疑問が浮かんだ。
 なぜ、高月はこのような考えに至ったのだろうか。
 普通の高校生にはたどり着かないような意見が生まれる理由がどこかにあると思う。
 ......たとえば、高月の小さい人生の中に。
「そうそう、英語といえば。こないだのビートルズちゃんと答えててすごかったじゃん」
 出まかせは少し膨らんでいった。
「まあ、好きな曲ですからね」
 そういうものなのだろうか。
「知っていますか? ビートルズが日本をはじめとした世界ツアーに出たのって、プロデューサーからの熱いオファーがあったからという裏話があります」
「それって注目されてるってことじゃん」
「なるほど、そういう一面もありますね。......でもね。私はそういう風には見えないな」
 タイミングを合わせてバスが通り抜けた。
 巻きあがった風はどこか悲壮な感情を思わせる空気を生み、不思議と彼女の声以外のものが聞こえなくなった。
 誰かにやらされているんじゃないか、高月の意見は反論ともとれるものだった。
 
 やらされていること。自分からやりたいこと。
 
 その台詞から、僕はある話題を思いついた。
「これから塾に行くんだけど、それは確かに今やっておかないといけないかな。何かしらの将来に繋がってくれるといいね」
 ......親に無理矢理入れられたけど。と言うとふたりしてくすりと笑った。
 そう言えば、家族について話題に出すこことははじめてのようなな気がする。
 だけども、自分のことすら話しづらい彼女に聞いてみても良いのだろうか。父親のことだってふとした淋しさが蘇るのに。
 しばらくしているうちに、そのトスを受け取ってしまった。
 やがて、重い口が開かれる。
「母は......」



 そこに、こちらに向けて呼び掛けられる声が聞こえた。
「高月さーん!」
 その声に僕たちは振り返る。
 道路の向こう岸から見たことのない制服の女子生徒がこちらに向けて大きく手を振っていた。
 少しウェーブのかかるセミロングの少女は、車の行き来が途切れたタイミングを見計らって、こちらに小走りに渡ってくる。
 そしてこちらの顔色をうかがうこともせずに、彼女は微笑んだ表情で語りだした。
「高月さんだよねえ、おなじ中学のさあ。今度みんなでクラス会するんだけど、君もどうかな?」
 となりに自分がいるのだが。あまり話を聞いてしまうのも申し訳ないから、よそ見をしながら話を聞き流すことにした。
「私、行けないかな。(もも)さんがいないから......」
「え、でもあの子はしょうがないじゃん。そうだとても、クラス会はひとりでも参加者が多いと楽しいんだよー」
 きっと楽しいと思うよ。そう押されていた高月だったが、考えることもせずに首を横に振っていた。
「私には、あの子しかしませんから」
 同じ中学だといった少女は、しゅんとした表情をして去っていった。
 高月は彼女を見送ることもせずに、そのまま歩き出した。間近に見る横顔は、懐かしさも感じられず、どこか渇いている様子だった。
「私、友達いませんでしたから」
 一言だけ教えてくれた言葉は、いびつな淋しさを感じさせる台詞だった......。

 ・・・
 
 私は控室の中にいた。
 その隅っこで両膝を抱えて、ひとりで小さく丸くなっている。
 頭の中に思い浮かべていたのは、透き通るような青い空だった。
 誰もが、その下で笑っている。
 まるで太陽に輝く向日葵のように。風にそよぐ名もなき花たちのように。
 私も、空に向けて立派に花を咲かせる気持ちになっていた。空を思わせるあの子の前では健気に咲くことができる。
 でも、私が咲かそうとしていた花は、いつの間にかしぼんでしまった。
 そのあこがれは、遠ざかる思い出になってしまったから。
 もう、無情の悲しみを抱いてそのまま眠りにつきたかった......。
「......キャロルちゃん?」
 先輩のバニーガールから、そう呼びかけられているのはこの耳がはっきりと聞き取っている。
 でも、この身体を動かすことができなかった。
「おーい、キャロル?」
 いらついた彼女は、私を無理矢理立たせようと腕を力強く引っ張った。その小さな背丈からは思い浮かべることのできない、強い力だった。
 床から引き剝がされた私は涙を浮かべながらも、仕事をするしかなかった。
 
 私の隣に、あの人が居れくれたらよかったのに。
 
 このバーで働くのは、今生活しているのは。
 思い出を消すためなんだ......。
 視線の先にいる彼女は、おぼろげに窓の外を眺めている。
 ランチタイムだというのに、少しだけ手を付けたサンドイッチを再び手にする様子は見られない。
「......歩、どうした?」
 綾人に呼び掛けられて、僕は視線を彼に戻した。ごめんと彼の話を聞く姿勢をつくる。
 でも、彼の話は半分ほどしか聞いていなかった。先ほどまで眺めていた彼女、高月 リツ花のことが気になってしょうがなかったからだ。
 この間の帰り道、高月は中学生のクラスメイトと再会した。なんでもクラス会をやるというのだが、高月はその誘いを断っていた。そして、友達がいなかったと自分に告げる。
 その台詞は本物のものなのだろうか。中学の友人が居ない自分に気を遣っただけなのとは思えないほどにリアルな言い方だった気がする。
 僕の脳裏に、彼女を心配する言葉が生まれていた。
 "誰のために本当の君を捨てるの?"

 ・・・

 高校生のランチタイムというのは、いつも賑やかな空気をしている。
 私を何に例えるかと言われれば、その空気の中にたたずむ一輪草だろうか。
 太陽の方に首を向けることはできず、私が顔を上げた方角へひたすらと向いていることしかできない。まるで教室の窓際に咲いている小さなものだ。
 そんなことを考えながら、私はいつも教室の中を眺めている。窓から入ってくる風が私の長い髪を揺らした。まあ、時にはこちらを向いて微笑んでくれる人も居なくはないか。ちょうど、彼女のように。
 
 咲良さんはたまにこちらに向けて話しかけてくれる。先ほどまで林さんと話していた気がするのに。私はなんでもないよと静かに返したところだ。
「高月さんさあ、今週の土曜日空いてるかな。駅前の神社でお祭りやるから行かない? 林ちゃんも一緒だよ」
 なるほど。この提案をしたかったのだろう。そう考えるとなんだか嬉しい。
 正直言うと好きなイベントだ。最後に行ったのはいくつの年だっただろうか、父に手を引かれてオレンジの灯りの下を歩いていた気がする......。
「ほら、高月さん。なんか考えこんじゃってだいじょうぶ?」
 顔の前で手をひらひらと揺らしてくれて、私は正気に戻った。
 慌てて鞄から手帳を出して予定を確認した。できるだけ、咲良さんに中身を見られないように。
「興味あるんだけど、ごめんなさい」
 あいにく別の予定があったため、私は正直に頭を下げた。
 見ると、咲良さんは困った様子も見せていなかった。むしろなんだか納得したような感じだった。
「ふふ。いつも大変そうだもんね。別に気にしなくていいんだよ。先に入れた予定が優先っていうし。やっぱり参加できそうだったら教えてね、いつでも待っているから」
 ウインクをして咲良さんは戻っていった。
 
 
 
 土曜日になった。
 まだ秋になりきれない蒸し暑い空気が流れて、風鈴をちりんと鳴らする。いつ買ったんだっけ? と、私はベッドの上に寝転んでその様子をずっと眺めていた。
 時間があるのに、なかなか勉強する気分にはなれなかった。かといって読書するのも興に乗らない。居間にしか置かれていないテレビからは何かのドラマの音がうっすらと流れてくる。
 首を部屋の中に向けて、テーブルの上に置かれている時計に目をやった。出掛ける時間まではあと2時間くらいといったところだろうか。
 先に入っている予定なんか、なければ良いのに。私は小さいため息をついた。
 でも、なんで誘ってくれたのだろうか。私なんかのために。
 そう言えば、ふたりの私服というものは見たことがなかった。
 放課後にファミリーレストランに行くのも制服だから、想像するのは難しいか。もしかしたら、浴衣かもしれない。
 お洒落なアイテムを持っているのは羨ましいなあ。私も小さい頃に買ってもらうようおねだりをしたかった。
「これが飲みたい!」
 と父に願ったのは、サイダーの瓶だ。浴衣を買ってもらうのは子供心に申し訳なく思って、つい妥協をしてしまう。こういう日くらいは贅沢して良いと言われるのに。
 空の瓶に転がるビー玉は、手の届かないお月さまのように思えたんだ。駄々をこねて中から取り出してもらったものは、今はどこに失くしてしまったんだっけ。
 記憶を手繰り寄せられないまま、いつの間にかうたた寝をしてしまった......。



 夕方の空は薄暗い色をしていた。
 うっすらと祭り囃子が聴こえてくる。気分だけでも味わいたいから、ちょっと寄り道をしてみようと思ったんだ。
 神社の前にある大通りを歩きながらその様子を眺めてみると、皆楽しそうに微笑んでいる様子がうかがえる。やはり、イベントというものは楽しいものだと改めて認識させられる。
 ......すると、曲がり角に差し掛かったところで人とぶつかりそうになった。でも、何かがおかしい。
 早く立ち去りたいという雰囲気を出している、明らかに客ではない男性。
 その人が異質であるというメッセージを含んだ叫び声。
 私は咄嗟に状況を判断し、男性が走っている最中に足払いをかけた。すると、彼は一気にバランスを崩し慌てだした。
 そこに、体当たりをかける。彼は歩道の上に顔から倒れ込んだ。
 必死に右腕を掴むと、その手に小さな巾着が握られていた。やはりスリだったのだ。
「そこのお姉さん、ありがとうございますー! って、高月さん!?」
 お姉さんでもないけれど、声の方に顔を上げてみた。こちらに向けてやってきたのは、息を切らしながら走ってくる咲良さんと林さんだった。
 すぐに警備員が現れて犯人はあっけなく確保された。事態が収まっていくまで私たちはお互いを見つめ合っていた、まさかこんな偶然があるなんて。
 隅のベンチで、ふたりは状況を説明してくれた。
「私、ふと声を掛けられたんです。前触れもなく"お着物が汚れています"って。でも、どこも汚れてなんかいないし。後ろのスカートの裾だと思って振り返った瞬間でさ」
 林さんが巾着から視線を離した瞬間に奪っていったのだという。お金は大した金額しか入っていなかったそうだけど、スマートフォンに気づかれたら危なかっただろう。個人情報が盗まれたら被害は計り知れないそうだから。
「それにしても、高月さん! かっこよかった!」
 と咲良さん。まるで映画のアクションシーンでも観たような眼差しを向けてくる。
 私はヒロインでも何でもないのだから、その視線は眩しすぎる。
「私、たまたま通りかかっただけですから......」
「えー、またまたぁ。あんなすぐに判断できるなんてさ。高月さんはかっこいいんだ、って学校で言いふらしちゃうぞ」
 などとひとりで腰に手をついて高らかと笑っている。恥ずかしいから止めて欲しい。私の顔は知らない間にみずみずしい果物のように赤くなってしまった。
「でもさ、持つべきものは友だちだよね!」
 彼女が口にした言葉に私は一瞬戸惑った。今まであまり味わったことのない響きだから......。

 そこに声をかけられた。犯人を確保した警備員だった。
「えっと、そこのお嬢さん。一応お話をお聞かせください、すぐ済みますから」
「え、あ。はい」
 それじゃあね、と私は事務所に行くために彼女らと別れた。その背中越しに、ふたりのために生まれた言葉を口にしていた。
「友だちは、助けるものですから......」
 ほとんど衝動的だった。



 週が明けて学校に行くと、教室の中で林さんが待っていた。
 彼女はこちらの姿に気づくと、自分の席を立って私の机の前にぽつんと立った。
 何かしら? と表情を伺うと、これまた恥ずかしそうに顔を赤くしている。発表会をする前の小学生みたいな表情が愛らしかった。
「......咲良さんが言いふらすのは、私が食い止めておきました。でも、私を助けてくれたことには変わらないのです」
 というわけでこちらをどうぞ、と差し出してきたのは小さな紙袋だった。中を見て良いのと訊くと、小さくこつんとうなづいた。
 それは、サイダーだった。缶に入ったものが2本も。
「ほんとうはビー玉のポンするやつが美味しいんですけど、あいにく持ってこれないので」
「十分嬉しいですよ」
 ありがとうございます! と林さんは満面の笑みで答えてくれた。
「そ、それじゃあもうひとつだけ話を聞いてもらって良いですか?」
 なぁに? と訊くと、答えはとてもシンプルだった。
「今日、ランチご一緒しませんか? あとで咲良さんにも話しておきますので」
「もう、しょうがないですね」
 くすくすと笑いながら答えるしかなかった。もちろん答えはひとつしかない。
 嬉しそうに席に戻る彼女を見送って、もう一度サイダーを手に取った。フルーツのフレーバーというのは美味しそうだ。帰ったら冷やしてみたい。
 爽やかな空気が窓から入って、私の髪を揺らしていた。
 時に話題は異性のことで盛り上がる。
 次は体育の時間なのだが、更衣室の中で綾人がクラスメイトに話しかけられていた。
「咲良って実際どうなの」
「どうってことはないよ。付き合いたいのか? あいつはいっしょに家事しないと怒るタイプだぞ」
 その返答に質問をした彼はううんと腕を組んで考え込んでしまっている。
 彼らの様子を横に、僕はエプロンを身に着けて腰に手をついて怒る咲良の姿をすぐに想像できた。どちらかというと協力しながら家事をする時代だと思うけど。
「林は......。まだ子供みたいだよね」
 と、誰かが少し気に障るようなことを言ってのべる。そこには大きな頷きが生まれていた。
 僕はその様子を眺めていると、隣にいる生徒から声をかけられた。この手の話題になると、必ず浮かぶ人物の名前を口にして。
「高月って良くないかなあ」
 そうかなあ。たしかに他の生徒とは違う雰囲気を感じるものの、そういう目線で見たことはない。
 興味が無いからどうって返そうか考えていると、「いや、たしかにいいよな」と誰かが口を挟む。
 話は止まるところを見せずに、「あの名前だし、線の細い感じ絶対ハーフだよなあ」「化粧してなくても綺麗なの犯罪級だ」「今度、ポニーテールにしてくれないかなあ」とあれこれ話題という風船が上がっていく。
 さっきまで色んな名前が上がっていたのだが、高月の名前が出た瞬間ひとつに染まってしまう。
 これがいつもの光景だ。
 語ることは自由なのだが、なんだか、本人が聞いたら冷たい視線で怒りそうだ。
 混ざりたくないと思って先に更衣室を出たのだった。
 その僕の耳に、「早く登校してくれないかなあ」とまるで主演女優の登場を待ちわびるような声が届くのだった。

 ・・・

「あら?」
 久しぶりに登校した日。
 私が下駄箱の扉を開けると、折り畳まれている紙が入っていた。
 それはルーズリーフをいちまい、二つ折りにしたものだ。
 そこには、"高月へ:放課後、体育館裏で待っている"といういかにも古典的なメッセージが書きこまれていた。
 殴り書きという表現がぴったり合うようなひどく癖のある字だった。
 しばらくそのまま立ち尽くしていたが、もうため息しか出てこなかった。
 私は授業をあまり聞かずに空の方を見上げていた。空の上では雀くらいの小さな鳥が飛んでいる、というかたぶん雀だろう。
 幸いなのか、ルーズリーフは誰にも気づかれずに私の鞄の中に仕舞いこまれている。いつから入っていたんだろう、私は1週間ぶりに学校に来たというのに。
 誰なんだろう、こんな学校に来ない私を待っている人なんていないと思っているのに。
 "君はいつも悲しそうだね"
 と、昔に誘われた言葉が頭の中にリフレインする。
 
 
 
 あれは小学生のころだった。
 私はクラスに馴染めなくて、どこか浮いたような存在だった。
 あれはいつの日だったっけ。
 同じようにクラスの男の子に呼び出されて、一輪のユリを差し出されたことがあった。
「君はいつも悲しそうだね、僕で良ければ話を聞きたいんだ」
 彼にとっては精一杯の告白だった。でも、私はその意味が分からずに文字通り話を聞いてくれる存在だと認識した。
 でも......。
 話しても良いことなのだろうか、左手を右腕に添えてそのまま考えだしてしまった。
 沈黙の風がふたりを撫でる。
 ふと、物音がした。慌ててその方向を向くと、他のクラスメイトがわらわらと様子を眺めているではないか。
 私は訳が分からなくなった。
 自分の秘密が聞かれていたのかもしれない。
 あの子のとても純粋な気持ちを茶化してしまうなんて。
 私の中で涙がこみ上げる......。その場で大粒の涙を流して泣き出してしまった。
 
 
 
 そこまで思い出していると、名前を呼ばれて我に返った。クラスメイトのいくつかの視線がこちらを向いていた。
「すみません、聞いていませんでした」
「あら、珍しいですね。45ページを読んでください」
 頭を切り替えた私は、教科書の音読をしはじめた。
 体育館の裏は悲しみしか生み出さないんだ。



 ところで、手紙を差し出したのは誰なんだろう?
 体育館の裏に行くかどうかはまだ決めきれていない。それに用事があるから、長く話を聞くには困ってしまう。
 校門に向けて歩いていると、背中から名前を呼ばれてしまった。
 振り返ると、そこにはクラスメイトの男子生徒がいた。
「......どうしたの?」
 私の問いかけに、彼は緊張しながら答えてくれた。......手紙、見てくれたか? って。
 そうか、彼が手紙を出したんだ。
 私たちはその場に立ち止まり、もう体育館の裏に行くことを忘れてしまった。下校する生徒がいる中で、ついその場で口に出してしまった。
「告白なの? ......どうして、私なんかに」
 彼は頷いた。
 そうなんだ、やっぱりこの人が手紙を出したんだ。
 
 でも、私たちにはひとつの接点もない。
「だって、私たちなにもしゃべったことないんだよ」
「それでも、これから知っていきたいんだ。オレ、お前のことずっと見てたから」
 そんなこと言ったって......。
 彼をはじめて認識したのは、この間メイド喫茶をやりたいと発言したときだから。
「メイド喫茶やりたいって言ったのは嘘じゃないんだ。普段、お前が居ないから、特別な日くらい晴れ姿を見たかった。こういうときくらい、お洒落をしてくれたら素敵だと思ったから......」
 だからといってメイドというものは、論理が外れすぎている。ロープの結び目が分からない。
 でも、私のことを考えてくれていたのは良く伝わった。
 彼は重ねて強く告げる。
「君の素敵な姿を見たかったんだ......。とびきりいちばんの!」
 彼が告げてくれたのは、まぎれもなく本心のようだった。でも、その愛情がなんだか私には寂しかった。
 私の瞳が震えた。少し涙ぐんでいるのがわかる。

 私のとびきりなんか、何もないというのに......。
 ふつうの私を見てくれれば、十分なのに......。
 セーラー服じゃない私は、誰にも触れさせないのに......。

 あふれ出た気持ちは、ありふれた言葉となって形作られた。
 振り返って、背中越しに告げた。
「私、誰とも付き合えませんから」
 ......私になんか恋したって、良いことないのに。

 私はひとり、イチョウ並木を歩いていく。
 まだ色づいていない葉が揺れている。それはまだ実らない恋心のような気がした。
 視線の先に同じ学校のセーラー服がふたり並んで歩いているのが見えた。どういうわけか、咲良さんと林さんの姿と重なった。
 やっとふたりと仲良くなれた私なんだから、まだその楽しさを噛みしめていたい。



 次の日、私は窓の外を眺めていた。
「高月さん! それ、食べないのー」
 え、と小さい声を発すると咲良さんが私のお昼ごはんを指さしている。隣にいる林さんも小さくくすくすと笑っている。
「サンドイッチ残しちゃって。なんだか最近上の空じゃない?」
「......とくに変わるところはないと思うけど」
 すると、その人差し指は私の目前ににゅっとが飛び込んできた。虫眼鏡を近づけながら推理を自論する探偵みたいに咲良さんが語りかけてくれた。
「いやいや、この咲良の目は誤魔化せませんよ。授業中とかもずっと窓の外見てなかった?」
 そう言えば、そんなこともあっただろうか。私が考えている間に、彼女は手を伸ばしてサンドイッチを勝手にひとつ食べた。
「そうかしら? 線が細いキミがさらに細くなっちゃうわ」
「それは食べる前に言って欲しかったです」
 ......もう、すべて食べて良いから。私は残りをすべて差し出した。
 咲良さんは急いでサンドイッチをたいらげ、私の方をじいっと見つめてくる。そして、目一杯の笑みを作って立ち上がった。
「よし、中庭に行こうかー」
 そう言って彼女は急に私の手を取って教室から連れ出してしまった。

 皆食べきった時間なのだろう。
 中庭には誰もおらず、わずかな風で草木はゆらゆら揺れていた。
 もうここまできたら咲良さんに話してしまう他ないだろう。一角にあるベンチで、私は少し息を吐きだすと彼女に告げた。少し早口で、顔を赤くして。
「咲良さんって、......告白されたことありますか?」
「私? 何よ急に......」
 緊張をする彼女を前に、私は昨日の出来事を話してみせた。すると、彼女は小さなため息をついた。
「そっか、告白されたんだね」
 私は小さく頷いた。
「あいつは人一倍お調子者だけどさ、そういう風に考えてたんだねえ」
 でもメイド喫茶はやりすぎだよね、と気持ちに共感してくれた。小さな笑みが私たちを包み込む。
「男子はみんな君を見ているからね。正直困るんじゃないの?」
 私にとって"男の子"というものはただの性別上の違いであって。
 そもそも私には友だちがいなかったのだから、男の子だから友だちになるとかならないとか、そんなことすら考えたことがなかった。
「私はどちらかというと、友だちが多くないと寂しくなっちゃう側だから、告白されるなんて私から見るとうらやましいかな」
「そうなのかしら」
 友だちだって、自分から作れない私だ。私だって咲良さんがうらやましい。
 咲良さんは少し柔らかい口調になって問いかけてくれた。
「でも、君が出した答え、それで良かったの」
「ええ。私なんか待っていてくれなくても良いのに。私なんかと付き合ってもろくな話もできないから」
 口ではこう言っているけれど、付き合うなんていつも考えたことがなかった。
 
 誰かのものになる私なんて、自分で想像できやしない私だから。
 私の秘密のことを知られる訳にはいかないから。
 "キャロル"は、私だけのものだから......。

「ほら、高月さんまた考えこんじゃってだいじょうぶ?」
 少し覗き込むような咲良さんに、だいじょうぶだよと頭を下げた。
 彼女はまだこちらを見ている。あごに手を置いた姿はまさしく探偵のようだ。
「でもさ、今の高月さん見ていると、なんかすっきりしたようには見えないね」
 私は自白するようにため息をつく。
「私、自分がなんだか分からないの......」
 その言葉を口にしたら、頭の中で何者かが跳ねているような感覚におそわれた。
「......恋なんてしたことなんてないし」
 もう言い回しがおかしくなっている。
「......恋なんてしたいと思ったことないし」
 喋っていくうちに、飛び跳ねる仕草も少しずつ大きくなっていた。
 もやの中で、その姿を現したのはうさぎだった。うさぎ小屋が脳裏に浮かぶ。それに合わせて小屋で会話した人物のことを思い出していた。
「さ、授業はじまるから戻ろうか。また話聞いてあげるから」
 立ち上がる咲良さんに、私はつい口を滑らせていた。
「......どうして、朝倉くんは男の子なのかな」
......は? 咲良さんが目を丸く開いて立ち尽くしている。
 授業がはじまるチャイムの音色が響いていた。
 朝ご飯にパンをかじりながら、横目でニュースを見ていた。
「涼しくなってきた時期だから、体温調節に注意しましょう。夏場に慣れてしまった体が秋の涼しさについていけなくなり、体調を崩してしまうことがあります」
 お天気キャスターの明るい声色が流れている。
 だいぶ涼しくなってきた季節だ。蝉の鳴き声を聞くことは減ってきていて、三寒四温みたいな不思議な気温変化をしている。
(あゆむ)、上着でも出していく?」
 母親に声をかけられた。これからの気温を考えると出した方が良さそうだ。ウインドブレーカーのありかを思い出しながら登校の準備を始めることにした。



 窓際の席に座るべき人物は今日は登校していないようで、居なかった。
 いつも空いている窓から入ってくる風は高月の髪をとかしている。
 授業中は誰よりも真面目に授業を受けて。ランチには咲良と林と静かでも楽しそうにしている。しきりに目が行く女の子、なぜかそんな風に思っていた。
 その光景を見られなくても、授業も日常も進んでいく。それに馴染んでしまうのがなんだか寂しかった。
 
 高月 リツ花についてどれくらい知っているだろうかという話題になったとき。
 僕はひとつだけ挙げられることがある。
 それがうさぎなのだが、発言してしまうのもなんだかはばかられてしまう気もする。彼女がひとりでコツコツと進めていることだから。
 放課後のうさぎ小屋に来ると高月に会える。
 世話をしているときの彼女は、まるで別人のように優しい顔をしているのだ。ただ会話もなく会釈をするだけでも、その時間は僕だけが知っている秘密の癒しだ。
 
 
 
 それからしばらくした日、高月との距離が縮まることになるなんて思いもしなかった。
 下校するときに、少しうさぎ小屋の様子をうかがってみる。
 高月がいつものようにうさぎを撫でているところだった。
「......ねえ」
 彼女はぽつりとつぶやいた。
 僕は相変わらず彼女の姿を見ているだけで、なにも返事するつもりはなかった。
「......ねえ」
 高月は重ねてつぶやいた。
 それは僕に向けて話しかけているのだと気づくまでに時間がかかってしまった。
「なにかな?」
 僕は小屋に近づいていった。すると、彼女は素早く扉を開けて自分を小屋に招き入れた。
 左手に彼女の白い手が触れている。温かさによって緊張をよそに、彼女は涼し気に教えてくれた。
「この子、あんまり餌を食べていないんだよ」
 僕は首をかしげる。
「今日はお腹いっぱいなんじゃないのかな?」
「ちがうよ。いつも同じ量を与えて、この子は全部食べきるの」
 そう言われても、僕は飼育係なんてやったことがない。それにペットを飼った経験もないからなんて言えば良いのか分からなかった。
「うさぎに味の好みってあったりするの? もう飽きちゃったとか」
「たしかに、いつもと違うペレットをあげても食べないという意見はありますが、飽きることはないと思います。かといってにんじんを持ってくるのも難しいですし......」
 思いつきの意見は、当たっているのか当たっていないのか微妙なところだ。ちなみに、にんじんを与える場合はよく洗って水気を切らないといけないらしい。
 さて、どうしたものか。
「今日のこの子、様子が変なんですよ......」
 高月がそう言ったときだ。小さなくしゃみが聞こえた。なんのことだか分からず、お互いに顔を見合わせてしまう。
 私じゃないよ、って高月が小さく首を横に振る。
 僕はうさぎに目を落とす。なんだか、ぐったりしているような気がしたのは気のせいだろうか。そこまで考えて朝のニュースが脳裏に思い浮かんだ。
「......体壊したんじゃない?」
 高月の驚いた顔を見るまでもなく、僕は小屋の外に飛び出した。
 外に置いてあった鞄の中からスポーツ飲料を持ってくる。たまたま今日持っていたやつだ。少しずつうさぎの口元に垂らしていった。
 彼女はじっと様子を伺っている。
 心配しているよ、そういう気持ちが僕にもしっかり届いていた。
 だから僕も安心して対応できているんだ。
「スマホ持ってる?」
 僕は高月に聞いてみた。しかしながら、彼女は顔を横に振ってしまった。仕方なく、僕は自分のスマホを出して近くにある獣医を探すことにした。
「あったよ! 裏門から大通りに出て、右手に行くんだって」

 高月は反射的にうさぎを抱えて走り出していた。
 一瞬しか見えていなかったけれど、彼女の表情を僕の瞳はしっかりと捉えていた。
 
 誰よりも愛に満ち溢れている。
 凛としていて、美しい......。
 
 僕はその姿をしっかりと目に焼き付けた。
 当然のことながら、僕も彼女の後を追う。彼女の走りが早いのには驚いたけれど、僕はなんとか足並みを揃えた。
 ......きっとだいじょうぶだよ。
 高月はそう声をかけている。その台詞は、絶対に助けたいという願いが込められている魔法のように思えたんだ。

 僕は大急ぎで動物病院のガラス扉を開けた。
 高月が受付に手短に事情を説明すると、すぐ施術室に通してもらえた。
 ふたりは、しばらく出てこなかった。どれくらいの時間が経ったのだろうか、高月がひとり出てきた。彼女は胸の前で軽く手を握り締めていた。
「......もう」
 もう?
「もう、だいじょうぶだって」
 その言葉を聞いた瞬間、緊張の糸がほどけてしまった。力なくその場にしゃがみ込んでしまう。
「......椅子に座れば良いのに」
 高月は首をかしげて涼し気に言った。まったく、"もう"で言葉を区切らないでほしいな。
 彼女はそんなことを全く気付かずに中での状況を教えてくれた。
「先生がね、"発見が早くてよかった"って言ってくれたんだ。たしか、スナッフルっていう鼻の病気だって。念のためスポーツ飲料とか飲ませたって説明したら褒めてくれたよ」
 はじめて見る、はにかんだような表情を見せてくれた。



 今日はうさぎを預けてお暇することにした。
 受付では看護師さんと高月が応対している。
「......はい、施術代ですね。この値段ですか、あいにく持ち合わせがなくって。
後日必ずお持ちします。高月の名前でお願いします」
 彼女はそう言って軽く頭を下げていた。
 僕は、その様子を待合室の椅子から眺めている。なんだか、社会人のような立派な姿だった。

 病院の扉を開けると、視線の先には夕陽のきらめきが眩しく広がっていた。
 黄金色の昼下がりは安堵するような気持ちをもたらしてくれる。ふたりで学校まで戻る足並みは、まるでのんびりと泳ぐ舟のようだ。
「私、病院の先生に色々言われたんだ」
 実際、うさぎの人気は少しずつ上がっているという。
 おとなしい姿に興味をもつ人が多いが、最後まで飼うことができるかどうかが飼い主に問われる。
 怪我がないこと、餌を十分にあたえること。そして何より病気をしないことだ。
 一節にはうさぎは病気を隠そうとする習性があるようだ。普段から様子を見て、できるだけ早く異常に気付いて対処してあげないといけない。日常からのケアが大切で、人間と同じように健康診断だって必要なのだ。
 以前彼女も言っていたが、適切な温度調整をしなければいけない。夏は涼しく冬は暖かくして適温を保ち、風通しの良い空間を作らないといけない。
 小屋のうさぎにどこまで出来ているだろうか。
 ちなみに、鳴き声をあげないのは有名な話だ。その分、五感を常に働かせながら生活している。
 もちろん犬のような芸当はできないものの、怒ったり寂しがったりとっても豊かな感情を見せてくれるという。
 もしかしたら、彼女には慣れていて嬉しそうにしているのだろう。
 高月に名前を呼ばれたうさぎが振り返って、駆け込んでくるシーンを想像してみる。
「だから、覚悟と責任が必要なんだなって改めて実感しました」

 実際、誰もいないうさぎ小屋は寂しかった。その光景を見ながら、高月は小さくつぶやいた。
「私、泣いてたかもしれない」
 となりに並んでいる彼女が言った。
「君が一緒じゃなかったら、ひとりで泣いてたかもしれない」
 僕は黙って聞いている。
 表情は相変わらずクールだけど、内心は同世代の少女そのものだった。優しさを見せるひと時だなって思った。
「君のおかげだよ、ありがとう」
 僕は思わず高月の横顔を見た。夕陽に照らされている頬が、いつもに増して赤く染まっていたからだ。かわいくて、何よりも美しく輝いているみたいだった。まるで、作品の中でしか出会えないアリスが実在したみたいに。
 高月 リツ花に恋した気持ちは、ただのたわいもない話なのかもしれない。この手でしまっておきたかった。思い出は、神秘な絆の中に入れたかった......。
 僕はこの日を忘れないだろう。



 うさぎ小屋を後にして、いつものように帰り道を一緒に歩く。
 なにも話すことはなかったけれど、僕はほのかにうれしく思っていた。
 はじめて感じた気持ちが気恥ずかしさをわずらわせてしまう。
 落とした視線の先に延びる影は、まるでふたりが寄り添っているように見えてしまって、自分の気持ちが色濃く残ってしまう。
「ここでいいよ」
 高月に声をかけられて、僕は顔を上げた。
 そこは駅の改札で、気づけばふたりだけの時間はもうおしまいだった。
 僕は思わず手を振る。
 彼女も少し微笑んで、手のひらを返してくれた。
「......えっと」
 僕は声をかけようとしてつかえてしまった。なにも言うことができなかった。

 うさぎのことを思い出していた。
 動物病院でひとり待っていた僕に、受付の女性が語ってくれたことがあった。
「あのうさちゃん、けっこうなお年なのね。私だって見ればわかるわ」
 僕も、あのうさぎがいつから飼われているか知らない。だから、そうなんですねと言うしかなかった。
「......お嬢ちゃんには秘密にしてあげてね。そして、たくさん可愛がってあげてね」
 なんだか切ない秘密だった。

 高月は微笑んだ表情のままこちらを見ている。
 でも、彼女に知られるわけにはいかない。僕はそのまま口を閉じるしかなかった。
「......ごめん、ないんでもないんだ」
「そっか」
 彼女はそのまま駅を進んでいった。
 僕はなぜかこの場所から動けなかった。高月の残り香は解けない魔法みたいだった。
 それは洋酒の香りのように、深い夜を感じさせる。
 僕が知ることのないものだったんだ。
 
 恋した気持ちは、これからも伝えることができないのだろうか。
 季節外れの蝉時雨が聞こえる。
 それはどこから聞こえてくるのだろうか、私はそちらに耳を傾けもせずテラス席から目の前に浮かぶ風景を見ていた。
 海が風を産み出している。
 運ばれた湿った空気が、私の長い髪を、左腕のスカーフを撫でた。
 今日は季節がひっくり返ったような暑い日だった。
 ここで、ギンガムチェックのエプロンをつけた店員がコーヒーをテーブルの上に置いてくれた。
「夏でもホットなんてお洒落ですね」
 なんてお世辞を言ってくれても、私は会釈をしながら視線を海に戻した。
 流れているBGMはビートルズだ。ひとつの曲が終わり、私の好きな<イン・マイ・ライフ>が再生されたところだ。
 この曲は幼少期を連想させる歌詞になっていて、はじめて自身の人生についてテーマにしたという話が眠っている。
 私も少し瞑想してみよう......。
 ここは、横浜の小さなカフェ。
 
 小さく波が繰り返し生まれては消える。
 微笑ましい景色を見ながら、コーヒーを一口飲んだ。
 喉を流れる熱く甘い味が、私の幼少の記憶を温めてくれる。
 
 私が小さい頃に住んでいたのは、横浜の隅にある小さな住宅街だった。
 かすかに海の香りが届く街はいつも風が泳いでいて、エアコンが無くても気持ち良かったと言っていたらしい。本当だろうか。
 少しドライブをすれば海に行くことができたという。休みの日になると、サンドイッチを作ってよく出掛けていったそうだ。
 このカフェみたいにお洒落なスポットはないものの、ちゃぷんと波打つだけの景色でも私の心はとても楽しかった。
 本当はそちらを訪れるつもりだったけれど、BGMに興味を覚えた私は吸い寄せられるように入っていった。
 
 波音はいつも繰り返し揺れているのに、私の心にある振り子はいつの間にか動かなくなっていた。
 
 私が覚えているいちばん古い記憶は、父親に手を引かれて縁日の中を歩いているシーンだった。
 小さくて、華奢で、可愛くて。そう表現された私はよく親の後ろにぴったりとくっついていた。
 とても小さい記憶を、クラスメイトが思い出させてくれた。それは私の中でもきらめいていて、なんだか嬉しかった。
 また縁日に行くことはかなわない。父親は雲の上に、二度と帰らない旅に出てしまったから。
 そんな父親の影響は今の私にも強く残っている。
 普段からビートルズを聴くのも、英語で書かれた歌詞を追うのも。いつの間にか歌詞を眺めながら辞書を引くようになった。
 それがあったからこそ私は英語の教科に興味を持つようになった。今でも自信をもって言える、私の好きな教科だ。
 だけども、父親が居なくなってしまった出来事は、とてもシンプルではあるが私の心に小さなくさびを打ち込んだ。その傷は家庭の中で広がりどんどん大きくなっていった。
 忘れ得ぬ存在に置いて行かれた私は、ひとりぼっちの世界にたたずむ日々をすごしている。
 命日が近くなった日に海を見たくなったんだ。
 
 風に乗って、一匹のかもめが空を飛んでいた。
 喜びと悲しみを空に解き放ってみると、それは私の進むべき道しるべのような気がして思わずそちらに向けて手を伸ばしてみる。
 私にも翼があれば良いのだろうか。
 でも、一瞬で気づいてしまった。
 かもめが飛ぶ先は、ただの海の上だった。海の上なんて歩けるはずがない。......別に死にたいわけじゃないのに、何を思ってしまったんだろう。
 
 予定も事情もすべて棄てて、自由になりたかったのかもしれない。
 
 腕に巻いているスカーフが目についた。
 ファッションに詳しくなくてもこんなの実在しないのは分かるだろう。ましてや黒い色だ。黒は私の心を鎮める色。鎮魂の感情を込めて腕に巻くものは、喪章のことだ。
 今日は、告げておきたいことがあるから、あえてスカーフを身に着けた。
「お父さんとやりたかったこと、ついに叶えることができたんだ」
 きらきら光る空を見上げて、私は小さくつぶやいた。
 最大級のホールで行われるバレエとなれば、振付師や音楽、それにキャストのクレジットが並ぶものだ。それが豪華であるかどうかが作品の良さを物語る。
 小さい公演だから全くそんなことはなかったが、とにかく私が満足できたのだから。
 今でも目をつぶれば、公演のストーリーを思い出せる。
 
 
 
 アリスは川辺の土手で読書中の姉の傍で退屈を感じながら座っていた。すると、白うさぎが、通りかかる。
 興味を覚えたアリスは白うさぎを追いかけているうちに穴に落ちてしまう。
 着いた場所は空間になっていて、辺りを見渡してみると森の中であることが分かる。
 
 "こんなところ、わたしの住んでいる景色にはなかったものだわ......"
 
 森の中を彷徨っているうちに、池に落ちてしまった。
 そこに現れたリデルに助けてもらった。
 
 白うさぎに誘われ不思議の国の奥深くへ。
 そこではお茶会が開かれていた。「お誕生日じゃない日の歌 -The Unbirthday Song-」を歌い少しずつふたりの距離が縮んでいく。
 淡い恋心をつのらせるアリス。
 だが、ふとしたところから懐中時計を壊してしまった。
 
 懐中時計を直そうと森の中で旅をするのだが、いつの間にか女王のお屋敷の中に入ってしまった。ふと、そこにあったタルトを食べてしまう。
 不法侵入の罪でリデルはつかまってしまう。
 
 女王の前で裁判が始まろうとしていた。
 不思議の国の住人の証言は揃ってキャロルに不利なものばかり。
 アリスだけは彼を弁護するも、城内は大混乱に陥ってしまう......。
 
 リデルを助けるために、アリスの冒険が始まる。
 
 
 
 原作とはだいぶ異なるシナリオだ。
 でも、次から次へと何が起こるんだろうと、私はわくわくが止まらなかった。
 文学の世界とは全く違う、ここだけの舞台。どこかふわりと浮かび上がるような感覚に迷い込んでいた。
 それでいて、いつしか私の心の中に温かい気持ちが芽生えていた。
 リデルを助けようとするアリスの気持ち。
 それは相手を想うことに他ならない、いつでもそばにいてほしいから生まれる大切な願い......。
 恋と呼ばれるそれは、いつから生まれていたんだろう。
 
 コーヒーに付け合わせのチョコをかちりと噛んだ。
 それは洋酒の香りが漂うもので、不思議とコーヒーの香りと引き立て合っていた。
 今の私を、用事に追われる私を見たらなんて言うだろう。
 父も、友だちも。
 本当のことを言うとね。友だちを作るのが怖かったんだよ。
 もともと自分から話すのが下手だった。でも、それ以上に今の私を知ってもらうのが怖くて。
 少しずつみんなと打ち解けている中、少しずつ怖さも感じているんだ......。
 ひとりぼっちだけど、孤独じゃないと心のどこかで願っていたい。
 
 死んでしまった人たち、元気でいる人たち。私はそのみんなを愛しています。
 
 ユリの花を海にそっと入れると、波がそれを静かに掬っていく......。
 もう、夏はゆく。
 臆病な心。
 私の心情を例えるなら、こんな言葉になるだろう。
 店員らしくない表情のまま控室のドアの前に突っ立って、彼女らの様子を眺めている。
 バニーガールたちはシャンデリアに照らされていた。
 まるで、巣穴から出て太陽の光の下ではしゃいでいるように。
 元気いっぱいと言っているように。

 ......なにが楽しいんだろうか。
 ......こんなケージの中みたいな世界で。

 そんなことを考えていると、キッチンから声をかけられた。
「......ほら、これ3番に持って行って」
 それなら仕方ない。
 うさぎの耳飾りを直して、お盆を受け取った。
「お待たせしました。どうぞ、ご注文のジントニックになります」
 できる限りの笑顔を作ってお渡しする。
 そして、キッチンに帰りながらも様子を見てグラスを片付ける。その気遣いは私の小さい頃から磨いているスキルみたいなものでしょうか。
 キッチンに戻ろうとする最中、注文をひとつ受けた。
「君は新入りかい? ホワイトレディをくれないかな。
そう、流れるポニーテールに白い肌。君みたいに素敵なカクテルを」
「ええ、まあ......。そう言われると、......嬉しいですね」
 私は微笑を返しておくことだけにとどめた。
 来店したときから頬が赤い客だった。
 その男性は一緒に来た客と楽しく盛り上がっている。来月の流れ星が見れるかもしれないと会話しているのが聞こえた。
 酔い潰れなければ良いなと思いつつも、事件になりそうな雰囲気を感じ取った。
 不思議な世界の住人。
 このお店に来る客は、作り上げた笑顔でもいつも可笑しく笑っている。

 控室に戻ると、先輩のガールである"カレン"から小言をもらった。
 彼女は手鏡を見ながら化粧を直している。
 とりあえず頭を下げておくのが、一番年下である私のお決まり事だ。でも、彼女は特に説教をしたいという訳ではなさそうだった。
 こちらに視線を向けず、カレンが語る。
「また客引きできなかったんだって? 少しでも女を見せなきゃダメよ、上目遣いするだけでできちゃうわよ」
「......そんなこと言われましても」
 なかなか勇気のいるものだ。
 その時、控室の扉がノックされてひとつの声がかけられる。
「カレンにキャロル。またビラを配ってくれるか」
 はーい、とカレンは意気揚々に立ち上がった。私はしかめ面を作ってしまいながら、姿見の前に立ち衣装の乱れが無いかをチェックする。
 
 バーへの階段を登り、地上へと上がる。
 視線の先に冷たい夜空が広がっていた。
「星、かぁ」
 などと小さくつぶやいてみる。
 そういえば、うさぎは巣穴から空を見上げる生き物だろうなと思った。
 だから、私も流れ星を見てみたい。そのきらめきを、この目で追いかけてみたい。
 何度目のビラ配りだろうか。
 何度も何度もできなかった、私の小さな仕事。
 
 今日、この日が。
 私の人生に手を差し伸べてくれるなんて思いもしなかった......。

 ・・・

 その日、塾で帰りが遅くなった僕は駅に向けて走っていた。
 すでに、もう大人しか外出しないような時間帯だった。
 駅と隣接した商業ビルを中心としたエリアは高校生にとっては唯一の娯楽だ。映画館や小さなホール、プチプラ的なファッション店などが並んでいる。
 しかし、そこから離れて一歩奥に入ってしまうと、飲み屋のチェーンが並び大人が通うようなお店があったりする。
 良くも悪くも賑やかな街。
 それがこの街の顔だ、親にも先生にも行かないようにと注意されたことがあった。
 そんなことを思い出しながら、大人の繁華街を通り抜けていた。
 
 目の前ではバーの従業員だろう、うさぎの格好をしている女性がチラシを配っている。バニーガールっていうやつだ。
「お願いしますー!」
 と声を張って呼び込みをかけている。
 寒いのに大変だなあ、それくらいの感想しか持たなかった。もちろん僕も受け取るつもりはないので、前をすぐ通り抜けようとする。
 僕の視線に腕を伸ばすガールの姿......。
 だけども、彼女はチラシを差し出したまま硬直していた。
 なぜだろう? 僕は足を止めて顔を上げる。
 高月 リツ花がここにいた。
 髪をポニーテールの姿に結っていても、高月の顔は瞼の裏にしっかりと覚えているのだから気づかないわけがない。
 お互いに目大きく開いて顔を見てしまう。
 
 いつもと違う、化粧(いろ)のついた顔。
 波立つように揺れる瞳。
 
 艶やかなリップが小さく震えて、一言だけつぶやいた。
「......朝倉くん、どうして」
 それだけ言い残して、高月はお店に引き込んでいった。
 彼女の衣装はシンプルな黒のバニーガールのドレスだった。
 黒という色は、すべてを塗りつぶしてしまう色とされている。あまりの出会いに心を塗りつぶされてしまった僕は、その場に立ち尽くしていた。



 それからしばらく経った日。
 高月は学校にもうさぎ小屋にも登校しなくなっていた。
 僕はなんとなく、うさぎの世話をすることにした。うさぎは相変わらず横になっている。
 ちょっとだけ撫でてみようかな、そう思って近づいてみた。だけども、うさぎは鼻をふんふん鳴らしている。また何かの病気になったのだろうか。
 困り果てた僕に、見知った声が聞こえてきた。
「君の匂いに慣れていないんだよ......。不機嫌だって、鼻を鳴らして音を出しているの」
 振り返ると、小屋の外に彼女が居た。
 セーラー服の上からカーディガンを羽織っている姿は見慣れているはずなのに、なんだか別人のような雰囲気をしていた。
「......久しぶり」
「......うん」
 お互いに顔を背けてしまった。
 それ以外の言葉を生み出すことはできず、沈黙がふたりを包む。左手で右腕をつかんでいる高月は少しうつむいたまま、声をかけてくれた。
「少し、時間ありますか?」



 こうして僕たちは駅前のカフェチェーンに移った。
 ここなら他のクラスメイトに話を聞かれる心配はないだろう。その提案に、高月もすぐ受け入れてくれた。
 だけども、お互いに顔は合わせないまま。改めて表情を覗いてみるとなんだか疲れているようだった。
「......見られちゃった、か。ちゃんと話そうと思ったけど、なかなか時間取れないし気持ちが整理できなくて」
 僕は視線を彼女の方へ向けた。
 ちゃんと話を聞いてあげよう、その気持ちをもって。
「私、"キャロル"って言う名前なんです......。そう、あのお店での名前」
 源氏名。
 風俗店でもあるまいし、あんな従業員にも付けられているのは不思議だった。
 でも、こちらから声を出すことはなんだかはばかられてしまって、話を聞くことしかできなかった。
「私、横浜で産まれたんだよ」
 その話は知らないから、無言のまま首を横に振る。
「そっか、誰にも話していなかったっけ......。小学校に上がるときに、この街に引っ越してきたの。でも、お父さんが亡くなっちゃって......」
 不慮の事故に遭ってしまったのだという。
「......その何日か前のことだったんだけど、"バレエの公演を見に行こう"なんて言ってくれたんだ。そうだったのに、バレエを観に行く日がお葬式に重なっちゃってね」
 僕は小さく頷いた。
「......ロシアのバレエ学校に行きたいなんて言ってたのは懐かしいなあ」
 小学生になったばかりという年に、心に傷を負ってしまった。
 その悲劇は計り知れないものだろう。
 バレリーナというものは、特にロシアでは国家の象徴ともされている。
 養成学校に通い、国家試験に合格してはじめて職業としての道が開ける。さらに努力を積み重ね、スポットライトを浴びて成長していく。
 特にトップダンサーを<プリンシパル>という。これは男女問わずに主役を踊ることのできる実力と華やかを持っていないといけない。
 いつの時代も羨望の花形だ。
「バレリーナに合格していたら、役の名前をもらえたのに。まさかこんな名前をもらえるなんて思いもしなかった......」
 高月は力なく微笑んだ。
 バレエの公演を見に行ったのは、彼女が好きだったから。
 僕にとっては小さい出来事であっても、彼女にとっては小さい頃からの夢を叶える大きな一歩だったんだ。
「たまに夢を見てしまうことがあります。もしも引っ越しをしてなかったら、もしも父が事故に遭わなかったら、って......」
 それは悲しき願望。
 でも、家族二人暮らしというのは、なかなか大変じゃないだろうか。高月は力なく首を横に振る。
「お母さんはフリーのデザイナーだったかな? 新しく仕事を決めて自分を育ててくれたんだ」
 僕はうなずきながら聞いている。
「だけど、いつの頃からか人が変わったようになって......。会社に行く日も減っていったの。私が高校に入りだした頃だったと思うんだけど、"自分の分は自分で稼ぎなさい"って言ってくるようになって、いつの間にかあのバーと話をつけてきちゃった。もちろん、誰にも話していないことだよ」
 彼女はここまで言うと、緊張を出し切るように一息ついた。
 青白い顔から、青い吐息が出ていそうだった。
 
 高月 リツ花の告白は重い現実だった。