咲良が顔を上げながら言い出した。
「まったく、なんのために勉強するんだろうねぇ」
 授業の小テストが近い日だった。
 学校の図書室に皆が集まっているのだが、その発起人である彼女にはあまりやる気が感じられなかった。
 お互いに教科書やノートを広げているものの、6人掛けのテーブルを囲んでいつもと同じ雑談交じりの雰囲気になっている。あまり大きな声を出せなくても、細々と話すことなら大丈夫だろう。
「まあ、テストで良い点を取るためじゃないかな」
「それもそうなんだけどね」
 綾人が返事をするも、咲良はなんだか微妙なようすだ。たぶん、彼女の中で納得いく答えを見つけられないのかもしれない。
 すると、綾人が彼女のノートを指さして少し教えだした
「......ここは、その公式を使うんじゃないんだよ」
「あ、そっか」
 こういうところはふたりならではの掛け合いだ。綾人は会話をしながら、良く相手のことを見ている。そのため、タイミング良く話題を切り替えられる。その自然な会話の仕方がつい気になってしまった。
 ふたり合わせて同じタイミングでこちらを見た。何か? と表情だけで問いかけてくる。
「あ、いや......。こうやって勉強を教え合うのってはじめてだなって思って」
 いつもこんな感じで話しているの? と上手く話題の流れを作っておいた。そういえば、彼らは中学生の頃からの同級生だった。
「まあ、そうだなあ。咲良っていつも一方的に話すけど、バイクのアクセルを踏んだみたいに。でも、ところどころでブレーキを入れたりここに標識があるぞって言ったり。自然と自分が様子を見ている感じかな」
「なによ、君だって勉強のスイッチが入らないからって書架を何周もくるくる回ってたじゃん。民間のパトロールじゃないんだし、タバコのポイ捨て禁止ですよじゃあるまいし」
 お互いに例えがよく分からない。でも、ケンカしそうでしない雰囲気はいつ見ていても面白い。
 ひとつ分かったことがある。綾人の教え方はすべてを解説するのではなく、ヒントだけを与えて相手に考えさせるようだ。
「......公式使ったら解けるようになったわよ」
 少し気恥ずかしさを出しながら咲良が解き終わっていた。
 そう言えば、と咲良がこちらを向いてきた。
「朝倉くんって、同じ中学校から上がってきた子とか居ないの?」
 その言葉を聞いて、少し考える仕草をしてしまう。
 クラスメイトと一緒というのはなかったし、同じ学年と言われてもまったく思いつくことはなかった。もしいたとしても、今までもこれからも接点がないだろう。
 
 そこに、辞書がテーブルの上に置かれた。
 みんな揃って、最後のひとりである高月の顔を覗き込んだ。
「......なんですか、みなさん」
 高月は何がなんだか分からないという表情をしている。
 それはたぶん、こちら側の台詞だ。今までの掛け合いを気にせず、辞書を持ち上げながら何ページもめくっていたのだから。
「......もしかして、高月さん。ずっと辞書見てたのかな」
 少しの間をおいて、質問の意味を理解したのだろう。口に手を置いて答えてくれた。
「ええ。辞書を引くとつい周りが見えなくなってしまって」
 あっけにとられる回答だ。こんな人、今まで出会ったことがなかった。
「でも、ほんとテストの点数高くて素敵だよねぇ」
「......普通だったよ」
 高月がとくに得意なのは英語の教科だ。
 普通と言われても、何か特別なことがあるんじゃないかと思ってしまう。
「うーん......。いつも問題は教科書を参考にしているから......だいたい出そうな問題を想像できたっていうだけで」
 高月は珍しく話を広げてくれた。
 授業は英文の訳を問われているから教科書を読んで予習をしておかないといけない。授業中の彼女はよどみなく答えていた気がする。
「ある程度読めるようになると、何が問題になるか分かりますよ。それに、辞書を引くでしょう? 意味だけを見るんじゃないんですよ。例文を読んで、"使い方を理解する"のが大切なの」
 高月は少しながらも微笑みながら答えてくれた。
 そして清書しているノートを見せてくれた。そこには英語の文章が並んでいて、複数の色のボールペンで単語の関係性や例文などが書かれている。
 まるで絵やレポートのように綺麗な雰囲気だ。
 地道に解いているのも伺えるが、もしかしたら好きな教科なのかもしれない。苦手意識というものがそもそもないのだろう。
 
 しばらくして、壁に掛かっている時計が目についた。
 まだ下校時間には早いけれど、今日は塾に行かないと行けない日だ。
 皆にごめんと言って片付けをはじめることにする。綾人と咲良にとっては普通の光景だ。ふたりは軽くあいさつをするだけで勉強を続けていた。
 だがしかし、高月は動かしている手を止めた。
 僕の方を見て硬直するように数秒固まっていると、自分の腕時計を見だした。まるでにらみつけるように。
 その仕草をついまじまじと見てしまう。
「ごめんなさい、私も行かなきゃいけないので」
 と言い、慌てて教科書をしまいだした。
 まったく予想していなかった急展開に、そこに居る皆が高月のことを見つめてしまっていた。



 駅に続くイチョウ並木の道をふたり歩いている。
 イチョウの葉はまだ緑のままだけど、やんわりと吹いている風が季節の進みを感じさせる。
 こうして成り行きで一緒に下校することが、僕たちふたりの関係性であるけれど。
 なんだか今日の高月は少し早歩きだ。まるで風をまとっているように少しひんやりとした冷たい雰囲気を感じてしまう。
 だから、雑談をしようにもついためらってしまう。
 
 とはいえ無言でいるのもなんだか落ち着かない。少し早足になりながら高月に尋ねてみた。
「さっきのノートすごかったね。きれいにまとめることなんでやったことないよ」
 この質問はほとんどが出まかせだった。
 本当は彼女の用事について聞いてみたかった。こないだの文房具屋での出来事が心に残っているから。
 でも、他人のプライベートには踏み込めない。誰だって触れられてはいけない一面があるだろう。
「まあ、好きな教科ですからね」
 前を向きながら高月は答えてくれた。
「やっぱり将来のためなんじゃないでしょうか。やりたい仕事を見つけられなくても、未来が分からなくても」
 楽しいなって思える教科があるだけで人は幸せなんだと彼女は教えてくれた。
 僕はこれといって得意も不得意もない成績だ。
 彼女みたいに得意なものを見つけてみたいと素直に思った。
 
 ふとした疑問が浮かんだ。
 なぜ、高月はこのような考えに至ったのだろうか。
 普通の高校生にはたどり着かないような意見が生まれる理由がどこかにあると思う。
 ......たとえば、高月の小さい人生の中に。
「そうそう、英語といえば。こないだのビートルズちゃんと答えててすごかったじゃん」
 出まかせは少し膨らんでいった。
「まあ、好きな曲ですからね」
 そういうものなのだろうか。
「知っていますか? ビートルズが日本をはじめとした世界ツアーに出たのって、プロデューサーからの熱いオファーがあったからという裏話があります」
「それって注目されてるってことじゃん」
「なるほど、そういう一面もありますね。......でもね。私はそういう風には見えないな」
 タイミングを合わせてバスが通り抜けた。
 巻きあがった風はどこか悲壮な感情を思わせる空気を生み、不思議と彼女の声以外のものが聞こえなくなった。
 誰かにやらされているんじゃないか、高月の意見は反論ともとれるものだった。
 
 やらされていること。自分からやりたいこと。
 
 その台詞から、僕はある話題を思いついた。
「これから塾に行くんだけど、それは確かに今やっておかないといけないかな。何かしらの将来に繋がってくれるといいね」
 ......親に無理矢理入れられたけど。と言うとふたりしてくすりと笑った。
 そう言えば、家族について話題に出すこことははじめてのようなな気がする。
 だけども、自分のことすら話しづらい彼女に聞いてみても良いのだろうか。父親のことだってふとした淋しさが蘇るのに。
 しばらくしているうちに、そのトスを受け取ってしまった。
 やがて、重い口が開かれる。
「母は......」



 そこに、こちらに向けて呼び掛けられる声が聞こえた。
「高月さーん!」
 その声に僕たちは振り返る。
 道路の向こう岸から見たことのない制服の女子生徒がこちらに向けて大きく手を振っていた。
 少しウェーブのかかるセミロングの少女は、車の行き来が途切れたタイミングを見計らって、こちらに小走りに渡ってくる。
 そしてこちらの顔色をうかがうこともせずに、彼女は微笑んだ表情で語りだした。
「高月さんだよねえ、おなじ中学のさあ。今度みんなでクラス会するんだけど、君もどうかな?」
 となりに自分がいるのだが。あまり話を聞いてしまうのも申し訳ないから、よそ見をしながら話を聞き流すことにした。
「私、行けないかな。(もも)さんがいないから......」
「え、でもあの子はしょうがないじゃん。そうだとても、クラス会はひとりでも参加者が多いと楽しいんだよー」
 きっと楽しいと思うよ。そう押されていた高月だったが、考えることもせずに首を横に振っていた。
「私には、あの子しかしませんから」
 同じ中学だといった少女は、しゅんとした表情をして去っていった。
 高月は彼女を見送ることもせずに、そのまま歩き出した。間近に見る横顔は、懐かしさも感じられず、どこか渇いている様子だった。
「私、友達いませんでしたから」
 一言だけ教えてくれた言葉は、いびつな淋しさを感じさせる台詞だった......。

 ・・・
 
 私は控室の中にいた。
 その隅っこで両膝を抱えて、ひとりで小さく丸くなっている。
 頭の中に思い浮かべていたのは、透き通るような青い空だった。
 誰もが、その下で笑っている。
 まるで太陽に輝く向日葵のように。風にそよぐ名もなき花たちのように。
 私も、空に向けて立派に花を咲かせる気持ちになっていた。空を思わせるあの子の前では健気に咲くことができる。
 でも、私が咲かそうとしていた花は、いつの間にかしぼんでしまった。
 そのあこがれは、遠ざかる思い出になってしまったから。
 もう、無情の悲しみを抱いてそのまま眠りにつきたかった......。
「......キャロルちゃん?」
 先輩のバニーガールから、そう呼びかけられているのはこの耳がはっきりと聞き取っている。
 でも、この身体を動かすことができなかった。
「おーい、キャロル?」
 いらついた彼女は、私を無理矢理立たせようと腕を力強く引っ張った。その小さな背丈からは思い浮かべることのできない、強い力だった。
 床から引き剝がされた私は涙を浮かべながらも、仕事をするしかなかった。
 
 私の隣に、あの人が居れくれたらよかったのに。
 
 このバーで働くのは、今生活しているのは。
 思い出を消すためなんだ......。