星ぼしが浮かんでいる、夜の空の下。
草原を自由に駆けていく姿はまるで飛び交うように、跳ねることが楽しいと言わんばかりに。
全身は小さく、きれいな体毛で覆われている。
ぴょんぴょん、という擬音が似合う走り方。
愛らしい目と長い耳は、愛玩の対象として長年親しまれてきた。
草原の上に居るのは一匹のうさぎ。
僕はその姿を遠くから眺めている。
となりにしゃがんでいる彼女が言ったんだ。
「うさぎって、月に住むっていうよね」
......いつか行けるかな。
まるでピアノの音色みたいに透き通る声が僕の耳をくすぐる。
視線を彼女の方に合わせてみても。横顔からは表情を読み取ることができなかった。
彼女が真っ直ぐ天に腕を上げた。見上げた瞳は満月に照らされて、虹彩さえロマンチックに輝いていた。
少し微笑んだ表情は、痛いくらいに切なかった......。
まるで十五夜の日。
そんな響きがこの夢の中にはあった。
中秋の名月とも呼ばれるこの行事は、一年の中で最も空が澄みわたる季節に、美しく明るい月を愛でる行いのことをいう。
平安時代の貴族は、月を眺めながらお酒を飲んだり、船の上で詩を読んだりしたという。
ところで、なぜ月にうさぎが居るのだろう?
そこには、月のうさぎの元になったお話がある。
遥か昔、帝釈天が老人に変身して「貧しく身寄りもない自分を養ってほしい」と動物たちに言ったとされる。
すると、サルは木の実や果物を、キツネは魚を採ってきた。でも、うさぎは食べるものをひとつも見つけることが出来なかった。
うさぎは何をしたかというと、自分自身を食べてもらおうと火の中に飛び込んだ。
もちろん死んでしまった。帝釈天は、そんなうさぎの慈悲深い行動をすべての生き物に見せるため、その姿を月の中に映したとされている。
なぜうさぎはそんな行動を取ったのだろうか。うさぎなりの考えがそこにはあったのだろう、"皆が幸せでありますように"と願いを込めて。
だからといって、それは悲しすぎる結末だ。
今の僕たちが生きているこの世界だって、うさぎが選んだような選択肢に溢れているのかもしれない。
もしも、交差点で右ではなく、左に曲がったら。
もしも、今通っている高校ではなく、別の高校を選んでいたら。
僕の隣に座る彼女がここに居なかったら何をしているだろうか。ひたむきに勉強をしているのだろうか、今宵ベランダから月を見上げているのだろうか。
なぜ彼女はこのような選択をしてしまったのだろう。
もしも彼女と出会っていなかったら、あの仕事をしていなければ。
僕たちの未来はどうなっていたのだろうか......?
・・・
つい先ほどまで黄金色をしていたと思ったのに。
少しずつ濃いオレンジ色に、次第に黒を差し色に添えるように。少しずつ空色は変わっていた。
私はとある店の正面に立ち、その様子を見上げていた。
まるで彷徨っている羊たち。
路地裏から見えるビルに見え隠れする雲は、めぇめぇと鳴きながら空を泳いでいるみたいだ。彼らはいったいどこへ向かうのだろう。
空を見ているのは飽きない。
でも、陽が陰ってきた時間帯はどこまでも吸い込まれそうに深くて、終わりのない旅のように長くて。
最後の輝きを見せる夕日はまるでスポットライトのようで、私の情緒にさざ波をもたらす。
頭の飾りは行き場のない風でふわりと揺れた。
まるでたった一輪の花を揺らすように。
私はいつも思っている。自分の印象を何かに例えるとするなら、教室の中で咲く一輪草でしかないだろう。
花瓶の中に刺さっているだけ。
少しは教室に彩りを添えられるのかもしれないけれど、興味のない人にとってはただ視界に入るだけのオブジェクトでしかなくて。
だからクラスメイトに話しかけられることなんてめったになかった。
そんな自分を変えたいからここにいるわけではない。
私に告げられた言葉が、私の心をつかんで離さない。
しぶしぶと親から言われたことを守っていくしかないんだ......。
先輩が私の肩を叩いた。
その表情は少しほほ笑んでいながらも、なんだか指先はやけに冷たい。情を置いてきたのだろうか、と内心考えているのは失礼だろうか。
お店の前でビラを配る、これが自分たち<雛>の仕事だ。
新人である自分の呼びかけに興味を持ってくれる人なんていない。ビラは1枚ももらってくれなかった。
「また後で来てくださいねぇ」
私はその声の方をちらりと見る。
先輩のガールは、客引きしながらも男性客の腕に身体を軽く絡めていた。上目遣いをしながら、お店に来てくれるよう約束を交わしている。
この世界に入りたての身分にはできなかった。
それでも、黄昏時は少女を大人に変えるという。いつかは私もそういう存在になるのだろうか......。
これが、<地下の国>というバーで働く"キャロル"と呼ばれる私の仕事。
私はみんなから遠い世界にいる。ずっとここにいることしかできない。
誰かが。
私のことを気づいてくれる誰かが。
手を差し伸べてくれるのを待っているんだ......。
草原を自由に駆けていく姿はまるで飛び交うように、跳ねることが楽しいと言わんばかりに。
全身は小さく、きれいな体毛で覆われている。
ぴょんぴょん、という擬音が似合う走り方。
愛らしい目と長い耳は、愛玩の対象として長年親しまれてきた。
草原の上に居るのは一匹のうさぎ。
僕はその姿を遠くから眺めている。
となりにしゃがんでいる彼女が言ったんだ。
「うさぎって、月に住むっていうよね」
......いつか行けるかな。
まるでピアノの音色みたいに透き通る声が僕の耳をくすぐる。
視線を彼女の方に合わせてみても。横顔からは表情を読み取ることができなかった。
彼女が真っ直ぐ天に腕を上げた。見上げた瞳は満月に照らされて、虹彩さえロマンチックに輝いていた。
少し微笑んだ表情は、痛いくらいに切なかった......。
まるで十五夜の日。
そんな響きがこの夢の中にはあった。
中秋の名月とも呼ばれるこの行事は、一年の中で最も空が澄みわたる季節に、美しく明るい月を愛でる行いのことをいう。
平安時代の貴族は、月を眺めながらお酒を飲んだり、船の上で詩を読んだりしたという。
ところで、なぜ月にうさぎが居るのだろう?
そこには、月のうさぎの元になったお話がある。
遥か昔、帝釈天が老人に変身して「貧しく身寄りもない自分を養ってほしい」と動物たちに言ったとされる。
すると、サルは木の実や果物を、キツネは魚を採ってきた。でも、うさぎは食べるものをひとつも見つけることが出来なかった。
うさぎは何をしたかというと、自分自身を食べてもらおうと火の中に飛び込んだ。
もちろん死んでしまった。帝釈天は、そんなうさぎの慈悲深い行動をすべての生き物に見せるため、その姿を月の中に映したとされている。
なぜうさぎはそんな行動を取ったのだろうか。うさぎなりの考えがそこにはあったのだろう、"皆が幸せでありますように"と願いを込めて。
だからといって、それは悲しすぎる結末だ。
今の僕たちが生きているこの世界だって、うさぎが選んだような選択肢に溢れているのかもしれない。
もしも、交差点で右ではなく、左に曲がったら。
もしも、今通っている高校ではなく、別の高校を選んでいたら。
僕の隣に座る彼女がここに居なかったら何をしているだろうか。ひたむきに勉強をしているのだろうか、今宵ベランダから月を見上げているのだろうか。
なぜ彼女はこのような選択をしてしまったのだろう。
もしも彼女と出会っていなかったら、あの仕事をしていなければ。
僕たちの未来はどうなっていたのだろうか......?
・・・
つい先ほどまで黄金色をしていたと思ったのに。
少しずつ濃いオレンジ色に、次第に黒を差し色に添えるように。少しずつ空色は変わっていた。
私はとある店の正面に立ち、その様子を見上げていた。
まるで彷徨っている羊たち。
路地裏から見えるビルに見え隠れする雲は、めぇめぇと鳴きながら空を泳いでいるみたいだ。彼らはいったいどこへ向かうのだろう。
空を見ているのは飽きない。
でも、陽が陰ってきた時間帯はどこまでも吸い込まれそうに深くて、終わりのない旅のように長くて。
最後の輝きを見せる夕日はまるでスポットライトのようで、私の情緒にさざ波をもたらす。
頭の飾りは行き場のない風でふわりと揺れた。
まるでたった一輪の花を揺らすように。
私はいつも思っている。自分の印象を何かに例えるとするなら、教室の中で咲く一輪草でしかないだろう。
花瓶の中に刺さっているだけ。
少しは教室に彩りを添えられるのかもしれないけれど、興味のない人にとってはただ視界に入るだけのオブジェクトでしかなくて。
だからクラスメイトに話しかけられることなんてめったになかった。
そんな自分を変えたいからここにいるわけではない。
私に告げられた言葉が、私の心をつかんで離さない。
しぶしぶと親から言われたことを守っていくしかないんだ......。
先輩が私の肩を叩いた。
その表情は少しほほ笑んでいながらも、なんだか指先はやけに冷たい。情を置いてきたのだろうか、と内心考えているのは失礼だろうか。
お店の前でビラを配る、これが自分たち<雛>の仕事だ。
新人である自分の呼びかけに興味を持ってくれる人なんていない。ビラは1枚ももらってくれなかった。
「また後で来てくださいねぇ」
私はその声の方をちらりと見る。
先輩のガールは、客引きしながらも男性客の腕に身体を軽く絡めていた。上目遣いをしながら、お店に来てくれるよう約束を交わしている。
この世界に入りたての身分にはできなかった。
それでも、黄昏時は少女を大人に変えるという。いつかは私もそういう存在になるのだろうか......。
これが、<地下の国>というバーで働く"キャロル"と呼ばれる私の仕事。
私はみんなから遠い世界にいる。ずっとここにいることしかできない。
誰かが。
私のことを気づいてくれる誰かが。
手を差し伸べてくれるのを待っているんだ......。