星ぼしが浮かんでいる、夜の空の下。
草原を自由に駆けていく姿はまるで飛び交うように、跳ねることが楽しいと言わんばかりに。
全身は小さく、きれいな体毛で覆われている。
ぴょんぴょん、という擬音が似合う走り方。
愛らしい目と長い耳は、愛玩の対象として長年親しまれてきた。
草原の上に居るのは一匹のうさぎ。
僕はその姿を遠くから眺めている。
となりにしゃがんでいる彼女が言ったんだ。
「うさぎって、月に住むっていうよね」
......いつか行けるかな。
まるでピアノの音色みたいに透き通る声が僕の耳をくすぐる。
視線を彼女の方に合わせてみても。横顔からは表情を読み取ることができなかった。
彼女が真っ直ぐ天に腕を上げた。見上げた瞳は満月に照らされて、虹彩さえロマンチックに輝いていた。
少し微笑んだ表情は、痛いくらいに切なかった......。
まるで十五夜の日。
そんな響きがこの夢の中にはあった。
中秋の名月とも呼ばれるこの行事は、一年の中で最も空が澄みわたる季節に、美しく明るい月を愛でる行いのことをいう。
平安時代の貴族は、月を眺めながらお酒を飲んだり、船の上で詩を読んだりしたという。
ところで、なぜ月にうさぎが居るのだろう?
そこには、月のうさぎの元になったお話がある。
遥か昔、帝釈天が老人に変身して「貧しく身寄りもない自分を養ってほしい」と動物たちに言ったとされる。
すると、サルは木の実や果物を、キツネは魚を採ってきた。でも、うさぎは食べるものをひとつも見つけることが出来なかった。
うさぎは何をしたかというと、自分自身を食べてもらおうと火の中に飛び込んだ。
もちろん死んでしまった。帝釈天は、そんなうさぎの慈悲深い行動をすべての生き物に見せるため、その姿を月の中に映したとされている。
なぜうさぎはそんな行動を取ったのだろうか。うさぎなりの考えがそこにはあったのだろう、"皆が幸せでありますように"と願いを込めて。
だからといって、それは悲しすぎる結末だ。
今の僕たちが生きているこの世界だって、うさぎが選んだような選択肢に溢れているのかもしれない。
もしも、交差点で右ではなく、左に曲がったら。
もしも、今通っている高校ではなく、別の高校を選んでいたら。
僕の隣に座る彼女がここに居なかったら何をしているだろうか。ひたむきに勉強をしているのだろうか、今宵ベランダから月を見上げているのだろうか。
なぜ彼女はこのような選択をしてしまったのだろう。
もしも彼女と出会っていなかったら、あの仕事をしていなければ。
僕たちの未来はどうなっていたのだろうか......?
・・・
つい先ほどまで黄金色をしていたと思ったのに。
少しずつ濃いオレンジ色に、次第に黒を差し色に添えるように。少しずつ空色は変わっていた。
私はとある店の正面に立ち、その様子を見上げていた。
まるで彷徨っている羊たち。
路地裏から見えるビルに見え隠れする雲は、めぇめぇと鳴きながら空を泳いでいるみたいだ。彼らはいったいどこへ向かうのだろう。
空を見ているのは飽きない。
でも、陽が陰ってきた時間帯はどこまでも吸い込まれそうに深くて、終わりのない旅のように長くて。
最後の輝きを見せる夕日はまるでスポットライトのようで、私の情緒にさざ波をもたらす。
頭の飾りは行き場のない風でふわりと揺れた。
まるでたった一輪の花を揺らすように。
私はいつも思っている。自分の印象を何かに例えるとするなら、教室の中で咲く一輪草でしかないだろう。
花瓶の中に刺さっているだけ。
少しは教室に彩りを添えられるのかもしれないけれど、興味のない人にとってはただ視界に入るだけのオブジェクトでしかなくて。
だからクラスメイトに話しかけられることなんてめったになかった。
そんな自分を変えたいからここにいるわけではない。
私に告げられた言葉が、私の心をつかんで離さない。
しぶしぶと親から言われたことを守っていくしかないんだ......。
先輩が私の肩を叩いた。
その表情は少しほほ笑んでいながらも、なんだか指先はやけに冷たい。情を置いてきたのだろうか、と内心考えているのは失礼だろうか。
お店の前でビラを配る、これが自分たち<雛>の仕事だ。
新人である自分の呼びかけに興味を持ってくれる人なんていない。ビラは1枚ももらってくれなかった。
「また後で来てくださいねぇ」
私はその声の方をちらりと見る。
先輩のガールは、客引きしながらも男性客の腕に身体を軽く絡めていた。上目遣いをしながら、お店に来てくれるよう約束を交わしている。
この世界に入りたての身分にはできなかった。
それでも、黄昏時は少女を大人に変えるという。いつかは私もそういう存在になるのだろうか......。
これが、<地下の国>というバーで働く"キャロル"と呼ばれる私の仕事。
私はみんなから遠い世界にいる。ずっとここにいることしかできない。
誰かが。
私のことを気づいてくれる誰かが。
手を差し伸べてくれるのを待っているんだ......。
駅前のロータリーにある信号機の前で僕は足を止めた。
登校する時間帯だというのに太陽は天高く上がっている。
そこから生まれる日差しは道端を歩く人々に降り注いでいる。
アスファルトの照り返しも含めて眩しい光があふれる街並みは、今という季節を実感させてくれる。
駅前を眺めると比較的新しい商業施設や映画館がある一方で昔ながらの小さい玩具屋がある。そして駅から離れると静かな住宅街が並んでいる。
廃れているわけではないが、栄えているのだろうかと疑問が浮かんでしまいそうな。どことなく不思議な空間だといつも思っている。
昨日行った塾の影響なのか、まだ頭の意識がうまく回らない状況だとつまらないことを考えてしまう。だから、これからのことを考えてみたくなった。
担任の先生が言っていたが、二学期はまるで太陽の光のような眩しいイベントが並んでいる。
楽しい出来事があってもなくても。日々迎え入れるものはいつもと変わらない日常だ。それらの積み重ねが青春なのかもしれない、と考えると少しはかっこいい響きに聞こえてくるだろうか。
僕は何気なく信号機の方に視線を向けた。
目の前に行き交う車に合わせて適当に泳いでいた視線は、ある一点にピントが合うようにピタリと止まった。とある人物に気づいたからだ。
道路の向かいを歩くセーラー服姿の少女。
彼女は視線をどこに揺らすわけでもなく、まっすぐ先だけを見つめていた。
どこにも興味を示すこともせずに、ただ一定のペースで歩いている。その姿はこの街の景色の中で、なんだか異彩を放っているように見えるのは気のせいじゃないだろう。
ここで、信号機が青に変わった。
僕は彼女の轍に沿って歩いていき、そしてお決まりの挨拶を彼女に告げる。
「おはよう」
「朝倉くん。おはよう......ございます」
目の前に映る彼女、高月 リツ花は振り返って答えてくれた。
声をかけられた彼女はこうして僕、朝倉 歩に挨拶を返してくれる。
ただし、その表情は特に嬉しいというわけでもなく、困っているわけでもなく。まったく読み取って考えることができない不思議なものだ。
それでも悪い気はしない。たとえ口数が少なくても、それが彼女の心地よい印象なのだから。
こうして挨拶を交わしたのはいつ以来だろうか。
ただのクラスメイトであって、会う時間を決めているわけではない。それでも、顔を合わせては僕が一方的に声を掛けるだけであって。
今日は夏休みが明けた始業式だから久しぶりに会うのは当然なのに、つい以前のことを考えてしまう。
僕たちは無言のまま、イチョウ並木の道を歩いて行った。
それがふたりだけの時間なのだと思う。
今でも思い出すのはあの日のことだ。
それは、高校の入学式から数日経ったオリエンテーションで行われた自己紹介のときだった。
「高月 リツ花です。えっと......以上です」
彼女は黒板の前でたったこれだけしか発言しなかった。
たぶん緊張しているのだろう、なんとか聞き取れるくらいの声量で、だいぶ語尾の余韻を伸ばしたような言い方だ。
この学校の制服は男子はブレザー、女子はセーラー服だ。そのセーラー服は白と細かなチェック柄であるライトグレーの組み合わせで、学年問わずえんじ色のスカーフを身につける。その配色は雪のように落ち着いていながらも、しっかりと目立つ印象だ。デザインは清楚な生徒の鏡になるためだと言われているらしい。
その意識を具現化したような彼女の姿にクラスの皆が注目した。
華奢なスタイルであり、細い足をさらに強調するような白いハイソックス。色素の薄い肌と対称的な、肩にかかる艶のある黒い髪。
僕が今まで出会った人物にこんな姿の女子はいなかった気がする。また、今後も出逢わないだろうという意識が何故か芽生えるほどだった。
清かな印象。
そんなイメージを抱いた。まるで、セーラー服がカスミソウで作られた花束のようで、彼女がその中に咲く一本の花のようで。
入学した頃の高月は、クラスメイトと話しているのを見たことがあった。
それは高月の方から話しているというよりも、質問に返答するだけで花開くような会話を広げていなかった。
休み時間やお昼休みには文庫本を開いている。あまりタイトルを見るのは申し訳ないのだが、たしか青い表紙だった気がする。
たまには一緒にランチをしようと女子生徒に誘われていたようだが、彼女は少し眉を曲げているだけのようだ。
口数はとても少なかった。人付き合いが苦手だという雰囲気だけど、どこかでクールなのだろうと思うところもあった。それが彼女を遠くで見た僕の第一印象だった。
放課後は陸上部で走っていたと思う。陸上には詳しくないけれど、たしか短距離走者 -スプリンター- だった。
だけれども、季節を迎える度に部活に参加しなくなったらしく、授業の欠席も増えてきた。
ゴールデンウイークくらいまではきちんと登校していたと思うのだが、いつの間にか1週間に1日程度休むようになった。
僕は、きっと体調が悪いのだろうと勝手に思っていた。それが、少しずつ休む日が増えてくる。夏を迎える頃には、居るのかいないのか分からない生徒になってしまった。
たまにクラスに顔を見せても、高月に話しかけるクラスメイトは次第に居なくなってしまった。
彼女の事情を知っている人は、誰もいない。
ホームルームを終えた放課後、僕は校舎の裏手を歩いていた。
誰かに呼び出されたわけでも、告白されるわけでもなく。少し陽が強くなった午後に喉が渇いて、裏門の近くにあるコンビニに行こう。それだけのつもりだった。
歩いていく最中、僕はうさぎ小屋の前で足を止めた。
高校でうさぎが飼われているのはめずらしいと思う。白くて耳が立っている、あのシンプルなやつが一匹だけ飼育されている。
たしか、数年前に誰かがなにかの部活のために飼い始めたと聞いたことがあった。詳しい経緯は忘れてしまったけれど。今は誰が世話をしているんだろうか。
小屋の中に居るうさぎは、うっとりするように体を寝かしつけている。気持ちよさそうに目を閉じて耳をぺたんと倒していた。
その脇に、高月がしゃがみ込んでいた。
うさぎの背中を撫でる白い指先。
視点がわからないような伏し目がちな視線。
流れるような黒い髪。
美しいと思った。
小屋を西日のライトが照らしているみたいだった。
無意識に足を止めて、しばしその様子を眺めている。
高月が振り返って、僕の方を見上げた。いつものとおり澄ましている表情で、なにも感情を読み取れなかった。
でも、その中にふとした微笑みを感じることができた。なぜだか分からないけど、そう実感する何かがあった気がする。
興味を覚えた僕はつい話しはじめていた。
「何しているの?」
「うさぎが熱そうだなって」
透き通るような小声で彼女は答える。
なるほど、それじゃあとわりとありふれた質問を重ねてみた。
「うさぎ好きなの?」
「......好きじゃないよ」
「じゃあなんで撫でてるの?」
「......なんででしょう?」
投げかけた言葉はまるでブーメランのように返ってきてしまい、なんて返せば良いのか分からなくなってしまった。
小さな風がふたりの間を包む。
高月に寄り付けないを改めて実感したけれど、自然と会話が生まれていた。
「うさぎも暑いのは大変だよね、クーラーとかあると良いのに」
「だめだよ」
高月は静かに語りだした。
「それじゃ駄目なんです。
多くのうさぎが夏は苦手で寒さに強いんだ、小さな体だからちょっとした温度の変化にも弱いんだよ」
......風邪を引いてしまうから。
そう語る高月の話に、いつの間にか引き込まれていた。
「風邪?」
「自然界のうさぎは穴の中で暮らしているでしょう?
のんびりした環境だから気温の変化はあまりないんだよ......。
熱中症対策とか言って、急に強いエアコンの部屋に入れる飼い主もいるんだ」
なるほど、納得した僕はうなずいた。
「ペットのためを思っても、ちゃんと生き物の事を知らないで押し付けちゃうのは良くないんだよ」
自宅ではペットを飼っているわけではないけれど、なんだか為になる話だった。
その後、高月と別れた僕は、コンビニでペットボトルを買った。
とてもよく冷えたボトルからは小屋での会話を思い出させた。
彼女の瞳を脳裏に思い浮かべる、まるで深い海のような、引き込まれる感じだった。
そこからは、何かを否定したいような強い意思を感じられた。
それは、はじめて見る表情だった。
とある休日の昼下がり。
僕は駅前にあるチェーン店のカフェに入ってアイスコーヒーを飲んでいる。
クラスメイトである綾人と映画を観る予定なのだが、たまたま早く到着してしまった。そのため時間をつぶさないといけないわけだ。
綾人はクラスでの座席が近いことからよく話す間柄になった。いつの頃からは覚えていないけれど、もう自然なものになっていた。
よく彼から話題を広げてくれる。
その種類は同じく部活に入っていない自分とは比べ物にならないもので、ゲームにスポーツに色んなことを日々楽しんでいる。彼のお気に入りのサッカーチームが勝利した次の日は、その選手の活躍についてたくさん話を聞かされたことがあった。
まるでアンテナが張っているように、話題の引き出しには事欠かない。そのバリエーションが面白くてつい話を聞いてしまう、とても面白いクラスメイトだ。
夕方という時間帯のせいか、カフェの座席はそこそこ埋まっている。
窓際にある二人用のテーブルには買い物帰りと思われる主婦が座ったところだった。これによって、自分の隣にあるカウンター席しか空いていなかった。
そこに座るひとりの影。
長い髪を揺らして席に座ったのは、誰でもない高月 リツ花だった。彼女は僕に気づいているのか気づいていないのか、まったく分からなかった。
何をするのかと思ったら、おもむろに数学の教科書を開いて勉強しはじめた。
カフェで勉強する学生は決して珍しいものではないが、ましてや今日は日曜日だ。
読んで字のごとく休む日でもあるし、どちらかというと学校の放課後に勉強するものだという印象がある。
高月が髪を手でかきあげた。
電灯が彼女の耳からうなじの辺りを照らして、白い肌がより一層僕の目に映る。つい見とれてしまって、声を掛けるのを忘れてしまった。
白という色は時に冷たい印象を与える。
他人と距離を取りたいという雰囲気を感じてしまい、出しかけた挨拶の声は無意識に飲んだコーヒーと一緒に飲み干してしまった。
アイスコーヒーの氷はいつの間にか溶けてしまっていた......。
映画を観終わった僕たちは、夕飯にハンバーガーを食べている。
僕は綾人にカフェでの出来事を話してみせた。頷きながら話を聞いていた彼は、高月の名前を出した途端、フライドポテトを取ろうとした手が止まった。
もっと深く聞きたい、彼の視線からはそんな念を深く感じる。
自分の口からはそんなに深く話せることはないけれど。
「お前、ホント羨ましいなぁ。なにも話さなかったのか?」
「なにも話さなかったよ」
「なんで?」
「なんでって言われても......」
正直言って、回答に困るものだ。
つい高月の横顔を見てしまった。そう言おうと思ったけれど、彼に話して良いのだろうか。なんだか秘密にしておきたいなと思ったから。
......もったいない、そう言い放って彼はハンバーガーを頬張った。
綾人はコーラで口の中を流して、しっかりと僕の方に視線を向けた。
それから、彼の熱弁がはじまるのだった。
「いいかい、歩くん。高月はクラスいちの美少女だぞ、高嶺の花だぞ」
はいはい、僕は黙ってうなずいた。
高月をひとつ例えるなら、しきりに目が行く女の子ということだろうか。
文庫本を開いているだけでも、その姿が様になっていて、なんだか気になってしまうものだ。
だが、親しみを持って話しかけられるかというのは別の話なのだと思う。
彼みたいに高月 リツ花とお近づきになりたい<隠れファン>は多い。
どこから話が広がったのかはわからないが、他のクラスの生徒も彼女に注目しているらしい。
高月が廊下を歩いているだけでも、その姿をちらりと見る生徒がいるのをよく見かけることがあった。彼女自体が引力を持っているかどうかは分からないが、一度その美しい黒髪の姿を視界に認めてしまうと、色々と考えてしまうだろう。
高月を知りたい、友達になりたい、それ以上の間柄になりたいと。
「......彼女の姿を想像してご覧なさい。
あのセーラー服の裾から見える腰回りとか最高じゃないか」
綾人はいつかしただろうか、しなかっただろうか。そんな話題をバーガーショップでも再現してみせた。
たしかに、高月の華奢なスタイルには少々目のやり場に困るところがある。彼女が体を動かす度に目を反らしたことが何度もあった。
ん? 今この話の展開は必要だろうか。
......聞かなかったことにしようと決めた。
「そんな彼女とカフェに入って勉強するなんて、それだけでデートじゃないか」
デート。
その言葉の響きに、なんだか不思議な違和感を覚えた。
他のクラスメイトだったら少しは期待しても良いのかもしれない、だけども高月と一緒に過ごすなんてまったく想像できなかった。
僕は視線だけで綾人に訊いてみた。君ならどうするんだい?
「そりゃ挨拶はちゃんとしないと。
そして一緒に勉強するよ、アイツは学校に来ていないんだからさ」
などと偉そうに語っている。
「お前、教えられるレベルだったっけ」
お互いにとても素晴らしい成績ではない。テストの点数は平均点かその少し上くらいなものだ。
「細かいことは良いんだよ、歩くん。一緒に勉強する、それだけで素晴らしいじゃないか。"ありがとう、君に教えてくれたところがテストに出たよ"って言われたら嬉しすぎて夜も眠れないぜ」
「そんなものかなぁ」
「お前も趣味のひとつでも持てば良いのに、デートできないじゃん」
そこを突かれても微妙なところではある。まあ自覚しているし、反論する必要があるわけでもなかった。
綾人の熱弁はまるで演説のように続いた。
次の日の教室はテストが近いため、独特の重い雰囲気に包まれていた。
今日は珍しく高月も出席していた。
だけども、彼女は授業中に目を開けているのか、開けていないのか。同じ姿勢のままじっとしている。僕はその姿が滑稽なものに見えて、なんだか気になってしまった。
授業を終えて、みんながぞろぞろと席を立った時。
綾人の体育が楽しみだという言葉は、僕の耳に入ったもののするりと抜けて消えてしまった。ある別の言葉に上書きされたからだ。
僕は高月に呼び止められて足を止めた。
「さっき、先生は何話してたの?」
「テストの範囲だよ。
え、......まったく聞いてなかったの?」
高月はこくんと首を縦に振った。
「目が悪いから全く黒板が見えなくて。
それに、寝てしまっていたから」
「え?」
その台詞はつかみどころが分からない。僕は困ってしまった。
その日の帰り道、僕の耳には機関銃のようにひっきりなしに声が響いていた。
「高月さんって、やっぱり何かが違うんだよね。
私から見ても羨望の気持ちになるっていうかー」
相変わらずの高月の話題に、ちょっと耳を離してしまいたくなる。
先ほどから一方的なトークを繰り広げているのは、クラスメイトの咲良だった。
彼女は明るくはきはきした性格の女子生徒だ。クラスの中ではよく男女問わず話しかけられている。また彼女自身もよく雑談みたいな会話を皆と広げている。
ちなみに、最初は名前の読みを"さくら"と間違えていたのは秘密だ。
「花が付いた名前なんてお洒落じゃないですかやだー」
などと咲良はひとりで語っている。さすがに突っ込みどころが分からない。
「な、気になるの分かるだろ?」
彼女の会話に相づちを打つのは綾人だ。彼と咲良は中学生からの同級生とのことで、明るい雰囲気がお互いに波長が合うのだろう。
異性が視線を寄せるならまだしも、女子生徒にも羨ましい気持ちで見られているのだろうか。高月というのはなんだか不思議な存在だなと思った。
「私より背が高いのに、同じ体重でさ。ホント不思議よ。
それでいて、朝とかなんかシャンプーだかトリートメントだかの香りとかするし。
お洒落だよねえ」
もし男の子にしたらイケメンなんだよねえ、とひとりで腕組みをしながら呟いている。
女子生徒に体重の話はなんだか厳禁な気がするけれど、彼女はしゃあしゃあと言って述べる。あまりツッコミをしないであげよう、僕はひとりでそう思った。
そういうものなのだろうか? 僕から言わせると、高月だって授業をよく受けている印象だし。恋愛的な要素として他人を見たことがないからなにもコメントのしようがないのだけど。
「違うの、高月さんは何かが違う気がするんだよ......」
昨日、高月がカフェで勉強している姿を思い出してみた。
実は、映画の帰りにちょっとだけ様子を見に行ったのだが、だいぶ遅い時間なのに彼女はまだ一生懸命に勉強していた。
咲良は勉強の物量を話題にしたいんじゃない。高月が放つ独特の雰囲気を知りたい、そんなことを感じた。それは、たぶんクラスメイトのほとんどが感じていることなのだろう。
彼女はひとつだけ言ってくれた。
「高月さんはね、......なんだかバレリーナみたいなんだよ」
信号機が赤に変わったタイミングなのか、自然とトークテーマが切り替わった。
「そういえば、なんでお前は高月に話しかけられるの?」
綾人の質問に対し、僕はつい首を捻ってしまった。
先ほどの休み時間のことだ。それは高月が先生の話を聞けていなくて困ったからだろうと思っていたのだが。よく考えると、彼女がクラスメイトに話しかけている姿を見たことがなかった。それが、自分に話しかけてきてくれたのだ。
高月とのはじめての接点はどこにあったのだろうか。
クラスメイトだから、少しの会話自体はあったと思うけれど。
小さなドラマすぎて思い出せなかった......。
この間のテストの結果は、言わずもがなという結果だった。
綾人や咲良、僕はそこそこの点数を取ったものの、一番高い点数を取ったのは高月 リツ花だった。
それは教師が点数を公表したわけではなく、咲良がこっそり彼女の点数を覗いたから判明したわけである。まるで探偵か忍者を思わせる隠密行動だった。
「ほんと、高月さんみたいな頭にはならないわぁ」
などと、咲良がこう言っても何かが違う気がする。
放課後の教室には咲良と綾人、僕の三人しか残っていない。
咲良は自分たちの手伝いを元に宿題のプリントを必死に解いている。授業中に提出できなかった彼女は、なんとか教師を説得して今日中に提出するという約束を取り付けていた。
未だに高月のことはよく理解ができない。
授業に出席しているのが少ないから、宿題のプリントを提出しているのかは正直よく分からない。それでいて、クラスメイトの皆も分かり切っているのだが、今回のように高い点数を出してしまう。
ちなみに、一学期の最後になると担任の先生が成績順位を述べるのだが、栄えある一位に上り詰めたのが高月だった。
高月はどういう勉強をしているのだろうか。
よくクラスの間では色んな噂が広まった。
家で自習してるんじゃないか、学校より塾を優先しているんじゃないか。こんな具合に。でも、彼女に興味をもたないせいでそれらは生まれてはすぐに消えてしまう。
咲良は参考に開いていた教科書を閉じて、自分に返してきた。
「助かったよ、ありがとう」
それだけ言い残して、咲良は職員室に走っていった。
ふたりと別れた僕は、下駄箱で靴を履き替えた。
そこで、高月 リツ花の姿を見たのだ。彼女は僕のことを見るなり足を止めて、こくんと頷いて挨拶をした。
どこへ行っていたのだろうか、裏手から正門へ周るルートを歩いていた。気になったけれど、特に質問する必要はないだろう。
ただふたりして歩いている。陸上部だろうか、街中をランニングしている姿とすれ違った。彼らの掛け声とは対照的に自分たちはいつも静かだ。
「......あら?」
空気がちがう、と高月が小さくつぶやいた。
すると、ついさっきまで曇りだった空から急に水滴が落ちてきたのだ。
それは彼女の鼻の頭にまず落ちる。数秒ぽつんと当たるだけだったと思うと、すぐに大きな音と共に大量に降ってきた。
あっという間のことだった。
僕たちは慌てて近くにあったコンビニの軒先に避難した。
あいにくお互い傘を持っていない。くすんだ色の空を見ながら肩で息を切っていると、僕の視界にあるものが見えた。
高月がハンカチを差し出していた。困ったように眉をひそめている表情は、自分のことを心配しているという色がありありと浮かんでいる。
だけども、ふたりしてもうこんなに濡れてしまっている。
彼女のセーラー服だってひどいものになっていた。ハンカチはもう意味を成さないだろうから、僕は静かに首を振った。
どうして、高月は僕のことを気にかけてくれるのだろう。
「だって、教科書を見せてくれたじゃないですか......」
......覚えてないの? 高月は首を傾げていた。
教科書を見せたのは、二学期がはじまってすぐだった。
その日は未だに蒸し暑い季節で、朝から気温が高い日だった。
数学の移動教室ということでいつもとは別の教室に入ると、高月はもう着席していた。暑いのは分かるけれど、何を思ったかスカートをぱたぱたと仰いでいる。
その中に視線が注目してしまったので、高月に気づかれないように慌てて自分の席に座った。
問題はそこじゃない。気持ちを落ち着かせるように窓の外を見ていた僕は、視界に映る風景の中でひとつの間違い探しを見つけたのだ。
高月の机に置かれていたのは、別の教科の教科書だったのだ。
「もしかしてだけど、間違って持ってきた?」
「......え? あ、そうみたい......」
僕の問いかけに高月は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしたと思ったら、亀が首を引っ込めるように、すぐに萎縮して縮こまりなぜか口をすぼめている。
そして、机の上と腕時計の間で引っ切り無しに目を泳がせていた。
「まあ、戻っても間に合わないと思うよ。僕でよければ見せてあげるから」
高月の返事も待たず、僕は机を彼女の方に近づけた。自分でよければというか、これは隣の席ならではの役目だろうと思ったのだ。
ここで高月はこくんと小さく頷いた。
つつがなく流れていく授業の中で、僕は何気に隣の席の生徒を眺めてみた。黒板に向かう瞳は真剣そのもので、ノートは事細かに書き留めている。複数のボールペンで彩られた字面さえ、なんだかスマートに見える。
この風景を写真のように切り出した姿はいたって普通の生徒だ。優等生のような雰囲気さえする。
当たり前みたいに授業を受けて、休み時間はクラスメイトと話すような姿を想像できるのに。
なぜ高月は普通じゃないのだろう、なぜ休まなければならない事情があるのだろうか。
青い空を背景に彼女の透き通った瞳にピントが合ってしまった。まるで時間が止まったように、いつの間にか彼女に惹き込まれていた......。
授業が終わると、高月は教科書を手に取って両手で差し出すように返してくれた。
その丁寧な所作をひとつひとつ見入ってしまう。
「......その、ありがとうございました」
高月は消え入りそうな声で言った。
すこし気恥ずかしながらも、きちんと感謝の気持ちが伝わってくる。そのおかげで僕の耳にはしっかりと聞き取れることができた。
これで分かったことがある。彼女なりに感情表現をしているのだ。それが、周りに届いていないだけなんだ。
些細な出来事すぎて、自分はよく覚えていなかった。
あれは困っていたから声を掛けただけだ。とりあえず謝っておこう。
高月は良いんですよ、と小さいながらもくすくすと笑っている。でも、少し気恥しそうに答えてくれた。
「興味本位じゃなくて話しかけてくれたのは、朝倉くんがはじめてでしたから」
人の興味を覚えるきっかけはとても些細で、なんだかおもしろかった。
高月とはじめて会話を広げられたような気がして、つい嬉しくなった。
だから、僕の口は思ったことがそのまま流れ出てきた。
「小屋のうさぎってだいじょうぶかな」
「だいじょうぶじゃないかしら。
少し奥まったところですし、風向きが間違ってなければ中に入り込んでくることはありません」
確信を持てているみたいに、自信満々に彼女が答えた。
「なるほど。でも一匹で可哀想だよね。
カップルでもいると良いのにね」
調子に乗って言葉にしてしまった。すると、高月は目を丸く開いてこちらをじっと見つめている。何か悪いことを言ったのだろうか。
「あの......。
じゃあ、うさぎの世話ってきちんとやってくれますか?」
少しおどおどしたような雰囲気で告げる。でも、その口調はお説教をしたいように少し強い気もした。
「オスとメスを入れたら、すぐに子供を作ってしまいます。
そして、その子供同士だって......」
高月の説明を聞いていると、薄々と言いたいことが薄々と分かってきた。これはネズミ算より子供が増えていく。
「ええ。なぜそうなるかって知っていますか? うさぎは繁殖することで種を残そうとします。どちらかというと食べられる立場ですから。
それに、ペットでは"うさぎは寂しいと死んでしまう"っていう流布が未だに残ってしまって。
ついついペットショップでつがいを買ってしまうのです、飼育のやり方も知らないで」
問題のある親に育てられたうさぎも可哀想だ。
後で知った話だが、夫婦が老後の楽しみとしてカップルを購入したものの数年間で百単位の数になってしまったというニュースがあったという。身の毛がよだつ話だ。
薄暗くなった話題を振り払おうと、慌ててトークテーマを切り替えた。
「まあ、一匹でもなんでも、可愛いことには変わりないよね」
「そうね。
子うさぎでもなんでも、愛されている姿というのは素晴らしいわ」
僕たちのかたわらで、木々が濡れて光っていた。
いつの間にか雨が止んで、晴れてきた空がその様子をくっきりと浮かび上がらせる。
高月は屋根の下から足を踏み出して、こちらに向けて振り返った。
ほのかに顔を出した太陽の光に照らされて、彼女の微笑みはいつも以上にきらめいて見えた。
つい心を掴まれそうになってしまう。
「......私、うさぎみたいに子供が欲しいんです。いつか、だれかと結婚したいな」
どきりとする言葉が僕の耳にふわりと響いた。
冗談でも雑談交じりのものでもなく、リアルな願望を誰かと分け合いたいのだろう。
ふと僕の頭に担任の先生の顔が浮かんだ。彼女のように今は女性が活躍する時代だ。それなのに、高月はお嫁さんになりたいという。箱入り娘みたいな古風な雰囲気がした。
青い世界が歩くふたりを照らす。
相変わらず会話は少ないけれど、それがふたりだけの時間なのだと思う。
花嫁姿の高月を想像するのは難しいけれど、結婚というのは人生のひとつの門出にあたる出来事だと思う。彼女は将来どんな人と結ばれるのだろうか。
......いつか、彼女の願いが叶いますように。
子供の頃に願っていた夢はなんだっただろうか。
イヤホンから流れてくる曲が、ふとこんなことを思い出させた。
小学生の教室となれば、大きくなったら何になりたいかという話題が出てくるだろう。クラスの中にはサッカー選手になりたいと答えた子がひとりくらいはいたと思う。
その子の言い方は、いかにも自信満々で、絶対になってみせるんだと意気込んでいた。
僕は彼のことを遠くから眺めていたが、特に羨望の眼差しで見ていたわけではなかった気がする。
彼は彼で、自分は自分だから。
幼いながらもそんなことを考えていた。
でも、自分はどんな回答をしたのかは全く覚えていなかった......。
「今まで考えていた夢を追いかけてもよいですし、小さい頃とは違っても、これからやりたいことを見つけるために。高校生活を楽しみましょう」
担任の先生は入学式の日に行われたホームルームで語ってくれた。
この時に見せてくれた笑みには、自分たち生徒へ向けた高校生活の期待が浮かんでいるようだった。
英語の授業を受け持つ女性の先生で、丁寧であり流暢な説明が人気らしい。自分の印象としては、雑談が多くて親しみやすいという雰囲気を感じている。どうやら教鞭だけで生徒が受け身にならないように、という彼女の取り組み方があるのだという。
そのおかげか、ほかの学年の生徒からもよく質問や相談を受けているみたいだ。
これから塾に向けて歩いている。
教育熱心な両親の影響で、二学期から塾に行くことになった。
夏休みになった途端、さまざまな塾のチラシを親に見せられた。
良い大学に入るんだよ、と言われても正直困ってしまう。綾人のように遊びたい気持ちがある訳じゃないけど、断り切れなかったのは残念だった。
そのせいなのかどうかはわからないけれど、自分がやりたいと思えることを見つけられない。
だから、小さい頃でもこれからでも、夢を見つけられた人は叶えてほしいと思っている。
道沿いには小さなペットショップがある。僕はそこに入っていく人物に興味をもった。
「こんにちは。なにしているの?」
僕は店内で高月 リツ花に声をかけた。
いつものことながら、彼女は話しかければあっさりとだけ答えてくれる。
「餌、ですよ」
こちらを振り返って答えてくれた彼女は興味深い回答をしてくれた。
帰宅途中なのだろう。
まだ制服を着ているのだが、固形のペレットやチモシーをたくさん抱えているので、なんだかギャップが面白かった。
「こんなに買うの?」
「......家でうさぎ飼ってるから」
そう言って高月はレジの方に小走りに向かっていった。
なんだか、話を急に打ち切られたような感じがしてしまう。僕はその場にぽつんと残された。
ある日の帰り道。
たまたまひとりで帰宅している僕はこれからの予定を考えていた。
特に宿題が出ているわけではなく、今日は塾の日ではなく。
つまり、家に着いたら暇になってしまう。勉強する気にはなれないから、適当にゲームでもやってテレビを観て過ごそうかと思う。
そんなことを考えていると、視線の先にとある光景が飛び込んできた。
「......困ります、そんなの」
なにかと思ったら、高月 リツ花が誰かと話しているようだ。
言葉通りの困惑している表情を見せていて、左手で右腕を掴んで少し怯えているような雰囲気まで醸し出している。
相手の方は、見たことないブレザーの制服を着ている男子生徒が二人組になっていた。
スポーツ系の部活でもやっているのだろうか、少し体躯の良い雰囲気のする彼らが必死に何かを話しかけているようだ。高月が萎縮してしまうのも無理はないような気がした。
「モデルみたいに綺麗じゃない? オレの家族がモデルの事務所やっててさ、紹介したいんだ。あ、まずカラオケでもさ、なんならお茶でも良いでしょ」
よく通る声が、僕の場所までも届く。
分かりやすいナンパだ。
それに、モデルの事務所なんてなんだか胡散臭い。そんなものは原宿か渋谷でやってほしいものだ。こんな住宅街では見たくない。
「勝手に話されても困ります......」
高月の声もここまで届いてしまっていた。
さて、どう対応したらよいものか。
見なかったことにはできないだろう、でも何も思いつかないのも事実だからつい迷ってしまう。
考え込んでいると、とある台詞が飛び込んできた。
「......今度文化祭行くからさ、また遊ぼうよ」
その言葉に反応して、僕は無心で歩き出していた。そのまま彼らのところに向かって行って高月の手を引いた。
そこに居る誰もが驚いているようだったが、僕は一方的に話を終わらせて立ち去ることにした。
「すみません、僕の連れなので。......ほら、映画を観に行こう」
「......え、あ。はい」
僕の歩調に合わせて、高月が小走りでその場を去った。
実のところは、彼らに肩を掴まれたり暴力を受けたりするのではないかと思ったが、そんなことはなくあっという間に結末を迎えてしまった。
「......あの、ありがとう」
手を引かれたままの高月が感謝を告げてくる。
そこには優越感も気まぐれもあったわけではない。これ以上騒ぎが大きくなってはいけないと思ったら、自然と歩き出していた。
着ている制服から高校が分かるものだし、特に女子生徒には人気のデザインの制服だ。だから文化祭や学校説明会には多くの来場者がいるらしい。それを差し引いたとしても、僕だって不思議だった。
「......あのう」
高月が何かを言いたげだ。なんだろうと彼女に視線を向けると、たったひとつだけ答えてくれた。
「......手、離してくれないかな」
あ。つい駅前のロータリーまでこのまま歩いてきたわけだ。慌てて手を離した。
それでも、高月は僕の前に立ったままだ。これで解放されたのだから真っ直ぐに帰れば良いものの、なんだかきょろきょろと視線をあちこちと動かしている。
高月は少しきょとんとした顔をしている。
少し気恥ずかしさを込めながら発せられた言葉によって、今度はこちらが豆鉄砲を喰らうことになるのだった。
「......映画、観に行くんじゃないの?」
時に、ひとつの結末は新しい出来事を呼び寄せる。
なぜか僕たちは映画館の前に居た。
隣に立つ高月 リツ花は興味深くチケット売り場のパネルを見ている。
ここは都心みたいに広くないから、公演しているのは準新作であろうアクション映画とアニメ映画のふたつだけだった。
ただ、そのどちらもすでに上演が始まっていて、次の開演までは2時間ほど待たなければいけない。
視界の縁ではそのチケットを買っている人がいた。カフェで時間をつぶすのだろう。
どうする? と、顔を隣に立つ人の方に向ける。
高月は本気で映画を観ようと思っているようで、じいっとパネルの方を見続けている。
やがて、首を色々な方向に振って辺りを見渡しはじめた。
小気味いいリズムを奏でるその動きは、まるでメトロノームを思い出させる。
「......あれが観たいです」
高月は隣のホールの方を見ながら答えた。僕は彼女に合わせて視線を向けた。
そこに貼られているポスターに、つい目をぱちくりさせてしまった。それは小さなバレエ団による公演だったのだ。
僕はあまり興味がないけれど、高月が言ったことだ。
やっぱり止めようというのも、映画のために何時間も待つのも妙な気分だ。ここでは彼女の話に乗っておくのが良い気がする。
それに、彼女の手を引いた時点で乗りかけた船というものだろう。
公演は週末に行われるみたいで、チケットはコンビニ決済で事前に買えるようだ。
正直言ってしまうと、貯めているお小遣いがすべて消えそうでとても出費は痛い。でも、その痛みは一瞬で消えてしまった。
「じゃあ、チケット買っておくから週末に会おうよ」
「いいの? でも、悪いんじゃないかしら......」
きょとんとした表情を見せた彼女に、僕は重ねて告げる。
「いや、自分も見てみたいかな......って」
それだけ言って、僕は彼女と別れて帰ることにした。
口から出た言葉はただの偽りなのかもしれない。
でも、今思っていることはたったひとつ。
高月が興味あるものを、見せてあげたい。
週末になった。
これまでは何も感じることができなかったが、今日の朝になってやっと思い浮かんだ単語があった。
デート。
僕は高月とデートをしようとしている。異性とふたりで出かけることなんてなかった僕の人生の中だ。
たとえば綾人に伝えたら、あっという間にクラス中に広まりそうだ......。
そしたら教室の中で孤立してしまうのかもしれない。
なぜこんな約束をしてしまったのだろう、自分の心を呪いながら駅前のロータリーに向けて歩いていた。
そこに、後ろから声をかけられた。
「朝倉くん、おはようございます」
はじめて見た高月の私服は白と群青色が組み合わさっているワンピースだ。
スカートの裾がふわりと揺れて。
パフスリーブの袖が可愛らしく思って。
若々しく見えるのはいつも通りだが、いつもよりスマートで知的な風にも見える。
こちらに向けて声をかけてくるものだから、もう緊張の糸が自分を縛り付けていた。
バレエというのは、ルネサンス期のイタリアで生まれた舞台芸術のひとつだ。
台詞が無い代わりにダンサーが見せる数多くの所作と音楽伴奏によって物語を紡ぎだす。
のちにフランスへロシアへと渡り、さまざまなバレエの様式や組織が生まれていく。日本へとやってきたのは1900年代初頭とされている。
王宮のための舞踊に由来するため、いつの時代も華やかな世界が観客の心を掴んで離さない。
「日本には海外みたいなバレエの学校はありません。その代わり、民間のスタジオや小規模の劇団がたくさんあって。......このバレエ団は知らないから、どんなものなのかなあ」
チケットを片手にフロアを歩く高月は嬉しそうに語っている。
少しだけ口角が上がり頬は少し赤く染まっているのが隣からもよく見えた。
演目は『不思議の国のアリス』だ。
ルイス・キャロルが書いた児童小説で、うさぎを追いかけたアリスが穴に落ちて不思議の国に迷い込み、その世界の中を冒険するストーリー。
読んでいなくても名前くらいは知っているはずだ。
その原型は著者が知人の少女であるアリスに向けて作ったものであり、とても気に入った彼女が書き溜めて欲しいと願ったという。
それから加筆を得て発表されることになり世界中に広まっていった。
僕が印象に残っているのは、ディズニーが製作したアニメ映画だ。なぜこのビデオをレンタルしたのかは覚えていないけれど。
異国情緒あふれるアリスの衣装が可愛く見えたものの、不思議の国に居たキャラクターや出来事は子供心でも理解できなかった。
「アリスの世界観にはたくさんの出来事が溢れているんだよ」
高月がこう説明してくれたところで天井の照明が暗くなった。公演がはじまる時間になったのだ。
舞台のスポットライトが点灯するきらめきはまるで星のよう。
彼女の瞳もキラキラと揺れていた。
公演を見終わった僕たちはカフェでコーヒーを飲んでいる。
高月はアイスコーヒーを飲む手を止めて、パンフレットを抱えていた。細い指でその表紙を撫でている。
微笑んだ表情で答えてくれた。
「これは宝物にしないとですね、......今日のところはありがとう」
出会ったばかりの人にすればあまり表情の変化は無いように見えるような高月の表情だろう、それでも彼女なりに喜んでいるのだ。
愛おしむようなその表情に、僕はつい見とれてしまった。
今日のホームルームは、だいぶ時間がかかっている。
いつもなら終わる時間帯を過ぎていても、文句を言う人は誰もいない。教室の隅にいる担任の先生も、怒る雰囲気でもなくクラス中の様子を見守っている。
「なるほど、模擬店ですか」
文化祭の出し物を決めるのだ。
実行委員を務める咲良が黒板に字を書いた。少し癖がある字だ。
色んな案が生まれては消えていき、今では劇と模擬店が残っている。いや、模擬店の方が強そうだ。
皆がここまで積極的に意見をするのは不思議なもので、その雰囲気を僕は眺めている。
これまで平穏な空気で進んでいたが、窓の外にある木々が小さな風で揺れた途端に教室の中にある風見鶏が音を立てて回転しだした。
「......はあ、"メイド喫茶"?」
咲良が少し上ずんだ声を上げて驚いた。
ひとりの生徒が口にした意見によって、クラスの中が不穏な空気になった。
誰かが「それはちょっと......」と小声を漏らしている。さすがに身勝手なのではないかと感じた。
ここで手を挙げたのが高月だった。
「えっと......。はじめての文化祭だから、皆さん盛り上がりたいのは分かります。
......でも」
高月はいったん言葉を区切った。誰もが発言を止めてその後先を見守っている。
そこから掛けられた声は、相変わらずの静かな口調だったが語尾が強くてしっかりと彼女自身の意思を言葉に乗せていた。
「私たちを見世物にするのは、困ります」
高月の言葉によって号令が掛けられたように、女子生徒が一気に意見を言うようになった。
力を合わせた女子たちは強い。メイド喫茶をやりたいと提案した彼は、今では沈められそうな船みたいだ。
僕は咲良の方を向いてみた。
彼女は実行委員という立場からか、女子の波に乗ろうとはしない様子だ。
「皆さん、静かにしなさい」
ここで手をたたきながら声を掛けたのは担任の先生だった。
「クラスはみんなで作るものです、一方的に話を進めて相手をないがしろにするのは良くありません。
それに、高月さんよく言ってくれたわね」
静かに語りかける姿に、波の勢いは収まったものの逆に静まり返ってしまう。誰もが意見できる空気ではなくなってしまった。
名前を呼ばれた高月は先ほどの威厳はどこに行ってしまったのか、萎縮している。
どうする? クラスの中の雰囲気はまるで無人島に遭難したような感じで、議論という航海ができず立ち往生してしまった。
咲良は出しかけた声を少し閉じた。たぶん、何かの意見を言いたいのだが、まだまとまり切れていないのだろう。
「......あのう」
静かな教室に、小さいながらも鶴の一声が響いた。
助け舟を出してくれたのは、ひとりの女子生徒だった。
背が低くていつもおとなしい。とても内向的な性格の彼女が意見を言うのは珍しかった。
「......あのですね、飲み物を出しながら劇を見せるのはどうでしょうか」
黒板の前にいる咲良は少し真顔を保っていたが、やがて眼を大きく開いてなるほどと頷いた。
「林ちゃん、一理あるわね。
劇をやりたい人とお店でグループが分けられるし、給仕する人は制服で済むし」
おずおずとした発言は、やがて大きな賞賛をもって迎えられる。意見を取りまとめる必要はもうなかった。クラス全体の雰囲気はもうまとまっていたのだから。
模擬店というのは、どのクラスでも出したがる人気の企画だ。それ故に何店舗しか通らない狭い門でもある。
「劇をアピールするなら企画を通せるかもしれないわ。
大きな会場を押さえてあげるから、期待して待っていなさい」
先生は両手を腰について自信ある言葉で締めくくった。生徒も先生も、何気にイベントが好きなのだろう。
ホームルームが終わって、皆がぞろぞろと帰りだしている。
僕は荷物をまとめながら咲良に声をかけた。今思いついたことを告げておこうと思ったのだ。
「給仕をする人さ、エプロンやスカーフでも付けてみたらどうかな。
統一感が出るし、良いと思うんだけど」
「あら、気の利くこと言ってくれるじゃない。
百均で買えるもんね」
足を止めた咲良は口角を上げて答えてくれた。
より良い意見を聞いたから、絶対に採用しようと意気込んでいる。そして、小さくありがとうと告げると高月の席に向かっていった。
僕の耳にふたりの会話が届く。
何やら楽しく話しているようで、嬉しさが顔を覗かせているみたいだ。その様子を見ながら、僕は教室を出ていった。
・・・
高月さん、と呼び掛けられて私はそちらに顔を向けた。
見ると咲良さんが小さく手を振りながら机の前に立ったところだ。
「ありがとうね」
「ありがとう、ですか? わたし、......何もしていないけれど」
またまた、そんなこと言っちゃって。と彼女はくすくすと笑っている。
「あんな立派な意見言っちゃって、惚れちゃったわ。
君って、自分の意思をしっかり持っているんだね」
咲良さんは美しいものを見たと言わんばかりの表情だ。別に私は月でも宝石でもないと思うのだけど。
「だって、私ウェイトレスの仕事やらされるのかなって思ったらつい言葉が出てた」
私は知らぬ間に少し身を引きながら答えていた。
いったい顔色はどんなだっただろうか。咲良さんは少し顔を覗き込むようにして答えてくれる。
「そんなに淋しい顔しなくていいんだよ。
我慢してたけどさ、私だって意見を言いたかったんだ。
どうせ男子は高月さんみたいな美人を使って、客寄せしたかったのよー」
男子うるさいもんね。こう告げる彼女に私はつい口に手を置いて笑い出した。
「高月さんの笑っているところはじめて見たかもね」
じゃあね、と声を上げて咲良さんは戻っていった。
私はイチョウ並木ひとり歩いていた。
やんわりとした風が私の髪を揺らしている。夏色の空は少し爽やかながらも、少し乾いた空気を感じさせた。
これから少しずつ秋になるのだろう。
女心と秋の空という言葉があった気がする。
私は、あんな風に表情が変わらないと思っていた。
でも、咲良さんは教えてくれた。私は淋しい顔をするときもあるけれど、笑うこともあるんだよって。
会話の花が咲いた。
それは何時ぶりのことだっただろうか。
そっか、これが高校生の私なんだ。