瞳の色がきれいだと思った。
 彼、市川陽向(いちかわひゅうが)を初めて見たとき。
 高校のカフェテリアで、陽向は数人の男女に囲まれていた。彼のいるところだけが鮮明に見えた。周囲から切り取られたみたいにそこだけ解像度が違っていて、だから大勢がいる中からでも僕は陽向を見つけることができる。
 ゆるくウェーブのかかったダークシルバーの髪。それをかき上げる長い指、きれいな横顔、くっきりとした二重瞼。窓から差し込んだ冬晴れの陽が、薄いブラウンの瞳に反射してきらきら輝いていた。



 ちょっと目をすがめて相手を見るクセが陽向にあることを知ったのは、最近のことだ。
 ある日、少し離れた席から陽向を見ていたら予想外に視線が合致した。僕は反射的に目を逸らした。しばらくすると気配がして、顔を上げると陽向がいた。
「どーぞ」
 そう言って、陽向が僕に紙コップを差し出した。飴色の液体。フリードリンクの紅茶だった。
「…………どっ、うも」
 うまく舌がまわらなくて、短い返事をするだけなのに言葉がすぐに出て来なかった。
 普段、他人と会話をしないから声が不自然に掠れた。決まり悪く思いながら陽向を見たけれど、特に気にした様子はなかった。
「レモンとミルク、どっちが好き?」
 僕の向かいに腰かけた陽向が、猫みたいな目でにこりと笑う。
「……レモン」
 一拍置いて、軽く咳払いしてから返事をする。
 今度は大丈夫だった。……と、自分では思う。
 長くてきれいな指だ。液体のレモンを紅茶に垂らす陽向の指先を眺めながら、ぼんやりと思った。白くて、きれいで、でも男らしい手。 
「いつもひとりだね」
 それはクラスでのことなのか、カフェテリアにいるときのことを指しているのか。
 一瞬、思考を巡らせたけど、自分は大抵いつもひとりだということ気づいた。
「うん」
「めずらしいな、それ」
 陽向の視線は、僕の目の前にある明太子スパゲティに注がれている。
「いつも、ナポリタンなのに」
「……あ、うん。今日は、なんかマッシュルームの仕入れができなかったとかで。ナポリタンが無くて。それで、明太子スパゲティにした」
 陽向に指摘された通り、僕は毎日カフェテリアでナポリタンを食べている。
 特別、ナポリタンが好きというわけではない。もちろん嫌いでもないけど。食べるものにこだわりが無さ過ぎて、逆に食べるものに迷ってしまう。だから、毎日「ナポリタンを食べる」と決めていたほうが楽なのだ。
 そこそこ安価なメニューだし、玉ねぎとピーマンが入っているから野菜を摂取できるし、特別好きでもないかわりに嫌いでもない。だから、ナポリタンに決めた。今日は偶然、販売されてなかったけど。
 でも、どうして陽向は僕がいつもナポリタンを食べていることを知ってるんだろう……?
「一旦食べ始めると夢中になって、かわいいよね」
  魅惑的な猫目をすがめるようにして、真正面から僕を見る。
 人を食ったような、生意気にも見える表情なのに、きれいに整った顔だから悪く見えない。美形って得だよな。僕なんてぼんやりした地味顔だから、そんな表情したら救いようがない根暗で性悪に見えると思う。
 頭では冷静に分析しているのに、体はおかしなことになっていた。心臓がぎゅっと痛んで、心拍数はありえないくらい上がっている。さっきまで食欲があったはずなのに、もうひと口も食べられる気がしなかった。胸が苦しい。息ができない。
(はる)が毎日ナポリタン食べてること、どうして俺が知ってると思う?」
 そんなの知らない。分かるわけがない。ていうか、僕の二沢晴(ふたざわはる)っていう名前も知ってるの、なんで?
「僕のこと好きなの?」
 口にした瞬間、ありえないから、とすぐさま自分で否定する。どれだけ自意識過剰なんだよ。ぜんぜん釣り合ってないから。そもそも接点とかなかったし。ちゃんと話をしたの、これが初めてだし。ていうか、男同士じゃん。
「そうだよ」
「え?」
 にこっと笑いながら陽向がレモンティーを渡してくれる。
 受け取る瞬間、彼の指先に触れた。生温かくさらさらとした感触に、びくりと肩が震えた。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして。またね」
 そう言って、陽向は席を立った。
 しばらく呆然としたまま、動けなかった。今、何が起こった? 何を言われた?
 僕がレモンティーに口をつけることができたのは、ずいぶん後になってからだった。
 午後の講義は、まるで頭に入らなかった。大学を出て自宅に戻る最中も、考えるのは陽向のことばかり。電車に揺られながら、昼間の出来事を思い出す。
(ほんとうに、僕のこと好きなのかな……)
 揶揄われたのかもしれない。ひとを食ったような、陽向の目を思い出すと、ますますそんな気がしてきた。だって、やっぱり理解できない。男なのにとかそういうことではなく、自分が誰かにそういう目で見られることを想像していなかった。
 僕は、選ばれなかった人間だった。
 物心ついた頃には、僕はもう母方の祖父母の家で暮らしていた。父親の顔を知らず、母親も僕を残してふらりと家を出たまま帰らなかった。高齢だった祖父母は相次いで亡くなり、小学校四年生から児童養護施設で育った。
 里親制度を利用して施設を出ていく子供が大勢いた中で、僕を選んでくれる人は誰もいなかった。
 母親が迎えに来てくれることも、他の誰かの子供になれる機会もなかった。中学を卒業するのと同時に施設を出て、それからはずっと一人だ。アパートを借りてアルバイトをしながら、高校に通っている。祖父母が残してくれたものがあるから、なんとか自活できている状態だった。
 僕は今まで、他人と深く関わずに生きて来た。
 それなのに。
 自分は今、生まれて初めて欲しいと思われている。
(だって好きっていうのは、欲しいっていうことだ……)
 嬉しいというより驚きだった。なぜ? どうして? 僕みたいに暗い人間のどこに興味を持った? 僕のどこが好き? 
 ぐるぐると考えているうちに、気づけば最寄り駅に着いていた。大通りをしばらく歩いて、細い路地に入る。ゆるやかな傾斜のある道を登った先に古いアパートが建っている。築年数を加味しても家賃の安い部屋だ。
 この小さな部屋での生活にも、少しずつ慣れてきた。施設にいた頃は賑やかだったから、引っ越した当初は静まり返った空間に戸惑っていた。
 この辺り一帯は、赤線跡らしい。
 赤線とは、昭和三十三に売春防止法が施行されるまで、半ば公認で売春が行われていた地域のこと。今でも売春宿だった頃の建物が残っている。朽ちて当時の面影は皆無だけど。
 そういう理由から、この地域は家賃がかなり安い。気にする人は気にするのだろう。僕は何とも思わない、というより気にしていられない。祖父母が残してくれた預貯金には限りがある。ほとんどアルバイトで生計を立てているから、安い家賃は魅力なのだ。
 部屋に入り、教科書の入ったバッグをドサッと畳の上に落とす。殺風景で、何もない部屋。敷きっぱなしだった布団に、倒れ込むように寝転がった。
 目を閉じると、陽向の声がよみがえる。
『レモンとミルク、どっちが好き?』
 もともと同じくらい好きだけど、ちょうど食べてた明太子スパゲティがかなり濃厚で。さっぱり系のレモンが欲しかったんだよ。
 言い訳みたいに、心の中で答える。
『いつもひとりだね』
 ぼっち姿を見られるとか気まずいんだけど。
『一旦食べ始めると夢中になって、かわいいよね』
 話す相手がいないから。食べるしかないんだよ。
『晴はるが毎日ナポリタン食べてること、どうして俺が知ってると思う?』
 僕のこと好きなの?
『そうだよ』
 何度も、そこだけリピートされる。
 寝返りをうっても止まない。明かりを消したらもっとひどくなった。
「嘘みたいだ……」
 信じられないくらいに、きらきらしていた。薄いブラウンの瞳も、陽向自身も。何もかもが真新しいようにぴかぴかで、きれいだった。
 翌日も陽向は、カフェテリアで僕の向かいの席に座った。
「今日はナポリタンがあってよかったね」
「……うん」
 スパゲティをフォークでくるくるしている僕に向かって、目をすがめるようにしてにこりと笑う。
「パスタが好きなの?」
 嫌いじゃない。まぁ、好き。
「うっ、ん……」
 ちょっとむせそうになりながら返事をする。食べながら会話をするのは難易度が高い。慣れていない。だって、ぼっちだから。
「美味しいお店、今度行かない?」
 心臓がぎゅいん、となる。さ、さ、誘われてる……?
 僕は急いでスパゲティ咀嚼した。むせないように。ごくっと嚥下してから「バイトが」と口にする。
「シフト、けっこう入ってて」
 稼いで自分の生活を支えないといけない。
「どれくらい?」
「……いっぱい。親、いないから」
 やましいことなんてないはずだ。それでも反射的に、うつむきながら答えた。
「場所、どこなの」
「じ、神保町。古書店の店番やってるんだ。学校にいる時間以外は、ほとんどそこにいる感じで……。店主が半分隠居してて、店の奥に引っ込んでる」
 僕が学校にいる間、高齢の店主が嫌々店番をしているらしい。長い時間シフトに入れるので、僕にとってはありがたいバイト先だった。
 あ、でも。これだと、誘ってもらえたけど、一緒に行けない感じだ……。
 自分で断ったくせに、がっかりして全身から力が抜けた。スパゲティをくるくるする余力さえない。
「神保町に夜遅くまで営業している店があるんだけど、それでもダメ?」
 陽向が上目遣いで僕を見る。心臓が、ぎゅいんとなった。卑怯だ。いつもと真逆の目をして。
「よ、夜遅いと補導されない……?」
「制服じゃなきゃ分からないよ」
 わるい顔だ。わるいのに、魅力的だから目が離せない。
「ダメ?」
 僕は、すっかり彼の上目遣いにやられた。「ダメじゃない……」と答えてから、思いっきりフォークをくるくるした。
 深夜に飲食店に出入りするなんて、不良だ。わるいことだ。でも、ドキドキする。未知の体験をするんだと思ったら、ひどく心臓が高鳴った。
 陽向に言われるまま、SNSのIDを交換する。
 口の周りをケチャップで汚しながら、スマホを確認した。口が小さいから、いつもきれいに食べられないのだ。
 一番上に表示されている『n.h』という名前のアイコンが、どうやら陽向らしい。
「……『n.h』ってなに?」
 口についたケチャップを拭きながら、陽向に問う。
「あー、テキトーに名前入れてるだけ」 
 好きに変えといて、と言われて「ひゅうが」と名前を変更する。
 陽向が僕の手元を覗き込んだ。
「じゃあ、俺は『はる』って入れとくね」
 自分の名前なのに、陽向が言うと初めて耳にする響きみたいだった。くすぐったくて仕方がない。 
「メシ行くってマジ? いつ? 俺たちも混ぜてよ。皆で行こ」
 突然、背後から声がした。
 派手でノリが良さそうな男子三人組。いつも陽向の周囲にいる面々だ。
「お前らのことは呼んでないんだけど」
 渋る陽向だったけど、いかんせん彼らの押しが強い。
「そんな冷たいこと言わずにさ。女の子にも声かけるから、集まろうよ」
「いーねぇ、市川が来たら女子は喜ぶし」
「休み前とかがいーな。お持ち帰りしたいし。翌朝学校とか、ダルいじゃん?」
 僕は「お持ち帰り」という言葉を反芻した。店のメニューをテイクアウトするっていう意味じゃないよな? 
 マッシュルームとピーマンをフォークで突き刺しながら、ぼんやりと頭の中で考える。口に出したら心底バカにされそうだけど、そういうことには無縁だったので、なんだか遠い世界のことのように思う。
 女の子が来て、お持ち帰りして……。
 ダメだ。空間的には一緒にいるのに、急に心理的ぼっち感で苦しくなる。これが疎外感というやつか。
 引き続きフォークでざくざくと野菜を突き刺し口に運んでいたら、三人の中でもとりわけ明るいテンションの男子が「今週の金曜でいい?」と僕に訊いてきた。
「え?」
 僕が顔を上げると、すかさず陽向が間に入ってくる。
「晴を誘ったのは俺だから。勝手に約束を取り付けないで」
 今回は僕を除いたメンバーで集まって、陽向とは別の機会に。そんな話の流れになっていく。ほとんど会話したことのない男女の集まりというのは、ぼっち気質の僕には辛い。本来なら安心するところだ。
 それなのに、ほっとするどころかひどく胸がざわざわする。
 陽向は、どうするんだろう。皆で集まったあと。僕のことが好きってことはゲイなんだから、女の子とは……。いや、もしかしたらバイとかいうやつかもしれない。だったら、お持ち帰りしたりとか……? 
 ぎゅっと拳に力が入る。
「僕も行く」
 気づいたら、そう力強く言していた。驚いたように、一斉に皆が僕を見た。
 陽向も目を丸くしている。そんな風に見ないで欲しい。なぜ勢いのまま「行く」と言ったのか、自分でもよく分かっていないんだから。
 金曜の夜。バイトを終えて皆と合流した。
 居酒屋のテーブルのすみっこで、僕はウーロン茶をちびちびと口に含んだ。慣れない雰囲気に戸惑いながら周囲を伺う。
「なんか服、可愛いね」
「えぇ~~? 服だけ?」
 着飾ってキラキラした女子と、やたら目がギラギラした男が視界に入る。
「もちろんそうじゃないよ。だから似合うんだろうなって思って」
「ほんと? 嬉しい」
「マジだよ。今度さ、服買うとき一緒に行こうよ」
「いいけどぉ」
 なるほど、褒めるところから始めるのか。それで感触が良ければ次の約束をする。
「次、何か飲む?」
「んー、なんか酔ったかも」
 今度は反対側の席から、別の男女の声が耳に届いた。陽向は顔が広いみたいだ。大学生たちもたくさん来ている。
「先に帰る? 送っていくよ」
「じゃあ、帰ろっかなぁ」
 ふたりは店を抜け出すようだ。「やっぱり酔ってるぅ」と言いながら女子が男の肩にしなだれかかっている。結構大胆に行くんだな。本当に酔っているかも怪しい。もし酔っていないのならテクニックが凄い。見た目は清楚というか、割と大人しい感じの子だったのに。
 ひたすら感心していると、隣に誰かが座る気配があった。
(あ、陽向だ……)
 制服姿じゃない陽向は、なんだか知らないひとみたいだった。
「こういう集まり、よく来るの?」
「え? あ、いや。はじめて……」
 ぼっちだから。あるわけない。
 今日、僕が来たのは陽向が女の子を持ち帰らないように見張るためだ。
  ……ん? あ、そうか。陽向が参加するから僕は来たのか。というか、見張るって何だよ。嫉妬してるみたいじゃん。
 そう考えたら、急にドッと汗がにじんだ。喉が渇いてグラスを持ち上げたけど、中身はほとんど空だった。
「何か飲む? それ、ウーロン茶?」
 甘ったるい声で陽向が囁く。
「あ、これは……」
 陽向の言う通り、ウーロン茶だ。ただのウーロン茶。
 それなのに、僕は。
「よ、酔ったみたい……」
「は?」
「ま、間違ってウーロンハイを、飲んじゃったみたい、で……」
 一滴も飲んでいないのに、まるで本当に酔っぱらったみたいに顔が熱くなって、頭の中がぐらぐらした。
「酔ってる、から。だから……」
 僕は視線を彷徨わせた。これ以上、何を言えばいいのか分からない。
「……帰る?」
 俯いたまま小さく頷く。自分が何をしているのか、何をしようとしているのか、分かっているけど分からない。心臓がバクバクして、息苦しいくらいだった。酸欠みたいになって、足元がふらついたところを陽向の腕に支えられる。
 力強い腕だった。家まで送ると言われて、二人でタクシーに乗った。
 大通りでタクシーを降りた後、細い路地を歩く。
 ほとんどが古びた日本家屋だけど、まれにレトロなタイル張りの建物がある。大正建築を思わせるつくりで、意匠を凝らした窓が特徴的だった。
 それから、昔ながらの風呂屋。赤線跡にはよくある光景らしい。ほとんどが空き家だから管理が粗く、どことなく退廃的な匂いがする。
 僕が借りた部屋は、アパートとして使うために改築がほどこされている。
 といっても必要最低限な工事だったようで、日本家屋にはめずらしい瀟洒な窓のつくりになっている。窓の下には小さな水路があって、僕はそれを飛び越えた。
 振り返ると、陽向が立ち尽くしていた。 
「ここに、住んでるのか……?」
「う、うん」
 古すぎて呆れてるのかな。恥ずかしい。電気をつけると殺風景な部屋が浮かび上がる。必要最低限のものしか置いていない。テレビもベッドもない。
 ただ、薄い布団が敷きっぱなしになっている。誰も来ないので気にしたこともなかったけど、布団くらい片付けて部屋を出ればよかった。
(なんか、本当に恥ずかしい……)
 自分の部屋なのに、どうしていいか分からずにいると、陽向に腕を引かれた。布団が敷いてあるところまで引っ張られて、そこで腕を離された。
 陽向は、怖い目をしている。やさしくない目で、僕を見下ろしている。
 なんで、そんな顔するの?
 不安になった瞬間、気づいたら薄い布団の上に転がっていた。押し倒されたのだと、数秒経ってから理解した。自分よりも大きな体の男に伸し掛かられて、体が竦み上がった。
「あっ……」 
 細い腕で、反射的に陽向の肩を押し返す。
 押し返しているつもりだったけど、よく見たら僕の拳は震えていた。小刻みに震えながら陽向のシャツを掴んでいるだけだった。
 陽向が小さく息を吐いて、僕から体を離した。
「……水、飲むか」
 掠れた陽向の言葉で我に帰る。そうだ、僕。酔ったふりをしていたんだった。
「あ、えっと。冷蔵庫に水。あるから……」
 そう言って、僕は狭いキッチンに逃げ込むようにして彼に背中を向ける。
 グラスをふたつ用意して水を注ぐ。一方を陽向に手渡した。
「ごめん飲み物、水しかなくて……」
「別にいい」
「…………」
 何を話せば良いか分からない。沈黙が重い。
 さっきのは、何だったんだろう。
 陽向は本当に酔っているから、足元がふらついたのかも。それで、ふたりして布団にダイブしたとか……?
 視線を彷徨わせながら考えていると、陽向の二の腕が目に入った。同じ男なのに、自分とは比べ物にならないくらい筋肉質だった。肩幅が広くて、背が高くて。地味顔の僕と違って、かなり目を引く顔立ちをしている。
 そんなこと、知っていた。ずっと前から知っていたのに、今初めてちゃんと見た気がする。
「酔いすぎてないか……?」
「う、うん」
 ぎこちなく頷きながら、陽向に座るように促す。といっても、ソファも何もないんだけど。
「殺風景な部屋でごめん。適当に座っていいから。それと、送ってくれてありがとう。よ、酔いは大丈夫だから……」
「そうか」
 相変わらず目が合わせられない。ただでさえ心臓がバクバクしているのに、顔を見たら何かとんでもないことを口走ってしまいそうだった。
「泊まっていく……?」
 空気が、ぴしりと張りつめたのが分かった。顔を上げると、陽向が驚いた表情で僕を見ていた。
 あれ、変なこと言った……?
「もう遅いし。良かったら……。あ、でも」
 そこで言葉を区切って、布団のほうを見る。
「予備の布団ないから、ちょっと狭いかもだけど」
「……別に、布団はなくても構わない。畳の上でも寝られる」
「でも」
「そんな体で、寝れないだろ」
「体……?」
 陽向の言っている意味が分からなかった。僕は特に、怪我をしているわけでもないんだけど。
「骨が痛いだろ」
 痩せ過ぎているから、骨が当たって痛いだろう、と言いたいらしい。
「フローリングだったらそうかもしれないけど。畳だから平気だよ」
 自分の薄っぺらい体が恥ずかしい。
 ……いや、細っこいからこそ、二人とも布団に入れるんじゃないか? 陽向は明らかに標準より大きいけど、その分は平均を大きく下回っている僕が帳尻を合わせる。 
「試しに一緒に寝てみる?」
 またしても、空気がビシビシと張りつめる。陽向の顔は、かなり強張っていた。どうしてそんな表情になるのか、よく分からなかったけど、とりあえず僕はいつも寝ている自分の布団に転がってみる。
「ほら、半分以上あいてるから。いけるんじゃない? 入れるよ」
 そう言って、敷布団のすみっこで体を小さくしながら、ぽすぽすと空いている部分を叩く。
「……並んで寝るだけ?」
 陽向が、じとっとした目で僕を見る。
「う、うん」
 それ以外に、何かある?
 陽向は、大きく息を吐いた。やれやれ、といった感じだのため息ではない。何というか「どうなっても知らないぞ」と呆れられているような雰囲気だ。
 結局、どうなるということはなかった。陽向が怖い目で僕を見ることもない。
 手を伸ばせば、すぐそこに陽向がいる。ドキドキしたけど、そこで緊張の糸が切れたらしい。ぷっつりと意識が途切れるようにして、僕は眠りについた。
 翌朝、目を覚ますと陽向の腕の中にいた。
 驚いて一気に覚醒する。
 そうだ昨日、送ってもらって、泊ったんだ……。
 そっと陽向の寝顔を盗み見る。寝顔もきれいなのか。まるで、精巧につくられた彫刻みたいだった。
 朝ご飯は一緒に食べるのかな。僕は食欲がないけど、陽向が食べるなら横で見ていたい。ドキドキしながら腕の中でじっとしていたけど、陽向は目を覚ますと朝食を食べずに帰った。
 一度自宅に帰ってから登校するとかで、僕の頬を手の甲で一度撫でてから部屋を後にした。
 ひとりきりになった瞬間、途方もないさみしさがこみ上げた。
 不思議だ。ずっとひとりだったはずなのに。生まれてから今の今まで、ずっと陽向と一緒にいたような気がする。
 僕はスマホを取り出し、意味もなく触れた。この中に『ひゅうが』が存在している。陽向のスマホの中には『はる』がいる。繋がっている感じがする。そう思ったら、少しだけさみしさが紛れた。
 ふいに、昨日の夜のことを思い出した。
 押し倒されて、ちょっと怖い目で見られたこと。同じ布団で寝たこと。きれいな寝顔。陽向の腕の中が、とても温かかったこと。胸がぎゅんぎゅんする。嬉しいのに切なくて苦しい。意味もなく涙が溢れた。
 目を閉じて、布団の中にもぐりこむ。少しだけ、陽向のにおいが残っている。布団の中でもだもだしながら、これが恋というのだと悟った。



 バイトの帰り。古書店の外は雪がちらつき、冷たい風が吹いていた。東京で雪が降るなんてめずらしい。底冷えする夜だ。僕は軽い足取りで駅に向かった。
 電車に揺られながら、そっと車窓を覗いた。光が漏れる家々の景色が流れていく。
 僕の部屋の前に、今頃きっと陽向がいる。
 あの日以来、ときどき陽向はやって来る。自分のタイミングでふらりとやって来そうな雰囲気なのに、毎回律儀に「今日は行っても平気?」と確認される。
 ダメな日なんて、ないんだけど。
 最寄り駅を出て、細い路地を急ぎ足で進む。
「市川……!」
 やっぱりいた。細い水路をひょいっと飛び越えて、陽向のもとに駆け寄る。
「おかえり」
「う、うん、ただいま。ごめん、寒かった? すぐ開けるから」
 バッグから鍵を取り出していると、折りたたまれた紙幣を渡された。
 一万円。
「今日の分」
「……あ、ありがとう」
 初めてお金を渡されたのは、二回目に陽向がここに来たとき。そのとき手渡されたのは五万円で、僕は意味が分からず呆然としてしまった。
『こ、これ……』
 何のお金だろ……?
 静まり返った部屋の中で、空気を読まずに僕のお腹がなった。
『なに食べる?』
 陽向がスマホでデリバリーの検索をしていた。あ、夜ごはん代か。いや、それにしても多すぎじゃん。
『こんなにいらないよ』
 そう言って一万円札を四枚返した。
 それ以来、毎回陽向は一万円を渡してくる。奢られっぱなしだと悪いから、朝食は僕が用意している。
 陽向が眠ったあと、こっそり部屋を抜けてコンビニへ行く。パンとコーヒー牛乳と魚肉ソーセージ。部屋には調理器具の類がないから、そのまま食べられるものを買う。
 最近、炊飯器かフライパンぐらい買おうかなと思っている。そのほうがきっと経済的だ。
 なぜ陽向が眠ったあとにコンビニに行くのかというと、起きている彼となるべく一緒にいたいから。
 それにしても、陽向がくれる額はいつも多すぎる。残った分は、部屋にある透明のビンに入れて大事に持っている。宝物みたいにしている。
「こんな場所に置いてたら、盗られるぞ」
 簡易テーブルの上に置かれたビンを見た陽向が言う。
「古いアパートだから、簡単に侵入できそうだね」
「……泥棒よりも、他にいるだろ。この部屋に来るやつ」
 目をすがめて僕を見る。低い声だ。今気づいたけど最近の陽向は、口元が笑っていない。
 どうしてだろう。いつから、こんな風なんだっけ。
 心臓がひりひりする。怖いような、それでも近くにいたいような。
「べ、べつにいいけど……」
 この部屋に来るのは、陽向だけだ。それに、元々は彼がくれたお金なのだし、盗られるも何もないと思うんだけど。
 僕の言葉に、陽向の眉がピクリと反応する。
「金がいるんじゃないの? だから、こんなことしてるんだろ」
 こんなことって、何……?
「それとも金は二の次で、ただ寝たいだけ? だったら、俺もヤッたほうがお前は喜ぶのか?」
 何のことだろう。理解が追い付かない。
 でもたぶん、きっと。悲しいことを言われている。
「……僕のこと、欲しかったんじゃないの?」
 縋るような声で問う。
 声帯がふるえる。
 悲しいから、途切れ途切れの声になる。
「市川は僕のことが好きで、だから見ててくれたんじゃないの?」 
 好きって言ったのも、嘘なの?
 そんなの嫌だ。陽向は僕を好きじゃないとダメだ。
「……お願いだから、もう一度、好きって言って。何をしてもいいから。何をしても、どんなことを言っても。僕を欲しいって言ってくれたら、好きだって言ってくれたら、あとは何だっていいから」
 気づいたら涙が溢れていた。
 嗚咽が止まらない僕を陽向の腕が抱く。僕は広い背中にしがみついて、いつまでも泣いていた。
 陽向が僕の体を毛布でくるんで、その上からぎゅうっと抱きしめる。
「雪、積もりそうだな」
 陽向が窓の外を見ながら言う。雪の降る勢いが増している。
「……寒いか?」
 すぐ近くで陽向の声がする。
「ううん。こうしてたら、あったかい」
 僕はしがみつく腕に力を込めた。
 陽向は、僕が体を売っていると思ったらしい。
「稼がないといけないみたいだったし。それに、この部屋の場所。そういうところだろ?」 
「赤線『跡』だもん。跡だから、今はちがう……」
 ぐずぐずと洟をすすりながら言い返す。
「今でも無許可でやってる店があるんだよ。部屋の中の様子とか、いかにもだったし。生活用品とかほとんどないだろ? ……初めて来たとき、布団だけが敷かれてあって。だから、そうなのかと思った」
 そんなに殺風景なのかな。というか、やっぱり敷きっぱなしの布団がいけなかったんだな。
 それに、現在でも客を取っている店があるなんて、そんなの知らなかった。だから皆はこの辺りに住むのを敬遠するのか。
 毎回、一万円を渡される意味が分かった。
「……初めに五万円、渡そうとしてきたじゃん。さすがに高くない? 相場とか知らないけど」
「俺だって知らない。ていうか、二回分だし」
 あ、飲み会帰りの夜。あれが一回目か。
「二万五千円……」
 途端に低く見積もられた気がして、むむっと眉根が寄る。
 陽向が僕の心理に読むみたいに「添い寝しかしてないし。妥当じゃないか?」と言う。人差し指で眉根をぐりぐりしながら、にこっと笑う。
 あ、陽向の笑顔……。
 やさしい顔だ。薄いブラウンの目がきらきらしてる。
 胸がぎゅんぎゅんした。同時に、変な汗が出る。夜ごはん代だと勘違いした挙句、こそこそと部屋を抜け出してコンビニへ行っていた自分が恥ずかしい。
「僕は今までずっと一人で、友達もいないし、恋人だっていたことがなくて。だからどうやって人と付き合っていいか分からないし。なんか、トンチンカンなことしてたり言ったりするかもしれないけど。できたら……僕のこと嫌いにならないで欲しい。俺のこと欲しいままでいて欲しい」
 父も母も俺のそばにはいてくれなかった。誰も欲しがってくれなかった。
 ずっと選ばれない人間だった。
 僕の話を聞きながら、陽向がぎゅっと抱き締めてくる。 
「俺でいいの?」
「市川がいい。僕を、最初に欲しいと思ってくれた市川がいい……」
 僕の体を抱いたまま、反対の手で陽向が頬を撫でる。
「……初めて晴を見たとき、カフェテラスでナポリタンを食べてた。口の周りをケチャップで汚しながらもぐもぐ食ってて。小動物みたいで可愛かった。次もカフェテラスで見て、やっぱりナポリタンだった。次の日も、その次の日も」
 こだわりが無さ過ぎるゆえ、迷わないようにしているのだと陽向に説明する。
「それなのに、あの日。晴、違うもん食ってた」
 明太子スパゲティを食べた日だ。
「何でだろうって考えたら、気になって仕方なくて。そうしたら、目が合った」
 あの、冬晴れの日。
 窓から差し込んだ陽が、薄いブラウンの瞳に反射していた。
「僕は、市川の目がきれいだと思った」
 きれい、と言ったのに、なぜだか陽向の表情が翳った。
「……たぶん、外国の血が入ってると思んだよね」
「たぶん?」
 頷く陽向のたよりない顔を見て、無性に抱き締めたい衝動に駆られた。
 自分だけを覆う毛布を陽向の肩にも掛ける。身を寄せ合ったまま、小さな部屋の中で内緒話をするみたいに互いの事を打ち明け合う。
「母親がそうだったんだと思う。父親は、最後まで本当のことを教えてくれなかったけど」
「お父さんと、ずっとふたりでいたの?」
「……その父親も前科者になって、そこからはずっと息を潜める生活だった」
 もう縁は切ったけどね、とさみしく笑う。父方の遠縁に引き取られて、高校生の頃に名字が変わったらしい。それからは、ごく普通に暮らせるようになったのだという。
「なんていう、名前だったの……? 『市川』になる前」
 俯く陽向の頬に触れる。その名前を明かすことは、たぶん彼にとって特別な意味を持っていて。だからこそ、知りたいと思う。
「沼井……」
 罪を告白するみたいに、陽向がその名前を口にする。僕は彼の腕の中からそっと抜け出した。そうして、目一杯に陽向のことを抱き締める。後頭部を抱え込むようにして、髪を撫でた。
「沼井陽向?」
「……ああ」
 胸の中で、陽向が頷く。
 いつかの会話が頭の中によみがえった。
『……『n.h』ってなに?』
『あー、テキトーに名前入れてるだけ』
 今、分かった。『n.h』は沼井陽向だ。消せなかった名前。誰にも明かしたくない、けれど忘れたくない名前。
 彼が言った「息を潜める生活」というのが、僕には分からない。分からないから苦しい。誰より知りたいのに、想像することしか出来ない。
 目を閉じると、膝を抱える幼少期の陽向が浮かび上がる。出来ることなら、その頃の陽向を迎えに行って抱き締めてあげたかった。
「……僕ね。施設にいた頃、すごく良い子だったんだ」
 陽向をよしよししながら、自分の昔話をする。
「ご飯を作るときとか、職員さんの力になりたくて。お手伝いをしたかったんだけど。でも、それって余計なことだったんだよね。変に手伝ったりとかすると仕事が増えるっていうか。たぶん、家族みたいになりたかったんだと思う。一緒にご飯を作って、お手伝いをして」
 かなしい思い出なのに、気づいたら微笑みながら口にしていた。
 打ち明けることで思い出のひとつになったのかもしれないと、陽向を抱き締めながら思う。
「何もせずに、ただ、じっと大人しくしているのが一番手がかからなくて。職員さんたちにとっては楽で。だから、部屋のすみっこで、いつもじっとしてる静かな『良い子』になった」
 陽向の腕が、僕の背中を撫でる。背骨をたどるように、ゆっくりと上下する。
「そもそも、職員さんは施設に仕事をしてるだけなんだよね。家に帰ったら本当に家族がいて。誰かと騒ぐとか喧嘩もせずに、ずっと静かにしてたせいで存在感なくなるし、しゃべるのが苦手になるし。あんまりいいことなかったけど……」
「ちょっと、舌ったらずなときあるなって思ってた」
 僕を見上げながら、陽向が微笑む。胸がぎゅん、となる。
 そうか、やっぱり舌ったらずだと思われてたのか。恥ずかしいなぁ。
 背骨をなぞるように動いていた陽向の手が、腰に移動する。反対の手が肩にまわる。逞しい両腕で、ぎゅっと全身を抱かれる。身動きがとれないくらいに、きつく抱きすくめられた。
 苦しいのに、気持ちいい。
 体の奥がほこほこする。温かくて満たされる感じだ。他人に欲しがられるということは、こういうことなのだと、僕は生まれて初めて知る幸せな気持ちを抱えながら思った。



 不自然な体勢で目が覚めた。畳の上に胡坐をかいた陽向に抱っこされる格好だ。昨晩と同じ体勢のまま。
 いつの間にか眠っていたらしい。毛布にくるまって、ぎゅっと抱き合っていた。なんだか、お互いの腕できつく結ぶみたいになっている。
 僕がもぞもぞと動いたせいで、陽向も目を覚ました。窓際の壁に寄り掛かった状態でカーテンを開ける。
「ちょっと積もってるな……」
 眩しさに目を細めながら陽向が言う。
 ずっとこうしていたいけど、そうもいかない。
「学校、行かないと……」
 駄々っ子みたいな声が出た。
 だって、行きたくないと思ってるから。
「ずっとこのまま、こうしてたい」
 陽向にぎゅっと抱き着く。
「俺もだよ」
 くすくすと陽向が笑う。
 結んでいた腕を解き、出かける準備をする。玄関で靴を履いて、鍵を閉めた。それから、どちらからともなく手を繋いだ。
 小さな水路を陽向がまたぐ。僕は手を繋いだまま軽くジャンプした。
「少し前までね、ここにステンドグラスの建物があった」
 細い路地の中に、ぽっかりと空いた空間がある。僕は立ち止まってそこを指さした。
「ステンドグラス……? こんなところに、協会でもあったのか?」
「そうじゃなくて、女の人が……その」
「ああ、赤線だった頃の建物?」
「うん。取り壊されちゃったんけど。ある日、突然なくなってて。初めからそこになかったみたいで。別に思い入れがあったわけでもないのに、なんだか少しさみしくなった」
 陽向の手をぎゅっと握る。
「失くなっていくのは、さみしいね」
「……そうだな。でも、俺は名前を失くしたけど、そのおかげで晴に会えたよ」
 ちゃんと握り返してくれる手があることに安心する。
「沼井陽向じゃ、晴には出会えなかった」
 陽向が僕を見る。冬晴れの陽が、薄いブラウンの瞳に反射する。きらきら輝いている。とてもきれいだった。
 失くす痛みを、新しい『何か』で埋めることができるんだろうか。僕がその『何か』に、なれるんだろうか。
 どうか、そうなれますようにと願いながら、僕はかすかに雪の残る道を歩き始めた。