風が吹き抜けてページをめくる。
 君の、空気。
 最初はすこしつめたく感じる。でもずっとそこにいると額や頰や髪を心地よく撫でてくれる、そんな初夏の風。
 僕は顔を上げる。

「おはようっす、としょいーん」

 逆光でもわかる、軽やかに波うった明るい髪色。

「おはようって、もうお昼休みだよ…」

「起きたらもう『おはうさ』終わってた」

 窓枠から、寄木細工の黒光りする床に降り立つ。朝の情報番組の名前を挙げた。
 それにしたって、もう数時間経っている。

「すぐ学校に来ればよかったじゃないか…」

 飴色の受付カウンターに、君はどさっと音を立ててロゴ入りの大きな紙袋を置く。あっけにとられるまもなく、こうばしい匂いに気がつく。

「窓からじゃなくて扉から入って来なよって、いつも言ってるのに…しかもここ、二階だよ?」

 何度も言った台詞を再び言う。だって君が危ない目にあってほしくない。足場代わりの自転車置き場の屋根から転げ落ちたり、先生に注意されて肝を冷やしたり、してほしくないから。

「だって正門から入ると、職員室から丸見えだし」

 ローファーを脱いで、そろえて置いた。そこだけやけに律儀なのは、初対面のとき僕が注意をしたからだ。ごめん、と首をかしげて笑った君の顔をよくおぼえている。
 君の出席日数は、まだ夏休み前だというのにすでに規定のぎりぎり下限をさまよっている。それから、服装の乱れや夜間徘徊でしょっちゅう先生に呼び出されているから職員室でも有名人だ。僕など担任の先生とさえ必要事項以外話したことがなく、未だに名前を呼び間違えられるというのに。

「図書委員といっしょに食べようと思って」

 僕?

「あ…ありがと」

 僕の両親は厳しい人たちではないけれど、手作りの家庭料理がいちばんと主張してジャンクフードの類いは許さないのだと話したのを、おぼえていてくれたのだろうか。そのとき君は、「だったら今度いっしょに食べに行こうぜ」ってこともなげに言ったんだ。
 それが実現する可能性はほとんどゼロだと思っていた。だって君と僕とは、同じクラスでも教室のあちらの端とこちらの端、対角線上にいた。派手でいつも大勢の友達に囲まれて、よその高校の女の子とまで噂になる明るい髪色のすらりと背の高い君。入学式の日から、男の子にも女の子にも、いけめんと騒がれていたっけ。
 対して、めがねでちびで重たい黒髪の図書委員の僕。さっそく付けられたあだ名はなんのひねりもなく、「めがねくん」。
 それでも、いっしょに行こうと言ってくれたのがとてもうれしかった。君は知らないだろうけど、本当に、飛び上がりたくなるくらい、うれしかったんだ。
 実際は飛び上がる代わりに、赤くなりそうな頰と緩む口元を隠すために、ぶ厚いミステリー小説で顔を隠しただけだったけれど。

「今日のおすすめは?」

 委員でもないのにカウンターに椅子をひきよせて僕の向かいに座る。

「あ…これだよ。読みやすいと思って。ドラマ化もされているから、そっちから入ってもいいし」

 香水? シャンプー? はなやいだ、でもどこか男っぽい匂いがいきなり近づいて、僕はたじろぐ。

「サンキュ」

 君は、僕が渡した本を見つめて、表紙にふれた。君や僕が生まれるはるか前に書かれたSF短編集。レトロな線画のイラスト。とても大事なものみたいに、撫でた。ただの、図書室の蔵書だ。古びて色あせているのに。
 本当に、きれいなまつげ。何度でもみとれてしまう。
 柔らかそうな薄いまぶた。かたちのよい眉はお手入れは何もしていないらしいと女の子たちが騒いでいた。
 赤とピンクをまぜて、とびきり透明感のある水で薄めたみたいな色をした、ひかえめな唇。
 それ以外にも、知っていることがある。
 君は、駅のすぐそばの高層マンションに住んでいる。女の子をそこに連れ込んだり、とっかえひっかえして泣かせているから、「おおかみくん」とあだ名されている。
 ひとりっ子で、お父さんは「愛人のホステス」のところに入り浸っていること。若い頃モデルのような仕事をしていたというお母さんはそんな夫に当てつけるように事業を始めてそれがうまくいって、朝早く家を出て日付が変わる頃まで帰って来ないこと。
 いつもの調子で淡々と、ときに笑いさえ交えながら話してくれた。
 僕の家族についても話したね。
 両親に祖父母、妹と弟、それに柴犬。おじいちゃんは頑固だし、僕は高校生にもなって年の離れたまだ小学生の妹たちとときどきけんかをする。おまけにひいおじいちゃんが建てたおんぼろの家。騒々しいし、裕福でもない。
 ご両親がふたりとも会社を経営する才覚をもちあわせているなんてすごいなあ、と思う。僕の親は中小企業の営業マンと福祉施設のパートのおばちゃんだから、つい、くらべてしまう。
 でも。
 なにかできることはないかな、と思った。
 でもなにもないと思った。話を聞いたり、ときどき君をうちに呼んで夜ごはんをいっしょに食べたりする以外には、なにも。
 それから、少しでも気がまぎれるようにと図書室の本を選んで渡すようになった。奇想天外な外国の小説もあれば、孤独な犬がさすらいの果てに仲間を見つける冒険ものも、背伸びした恋愛小説も。

「本当は、ここでは水分補給以外の飲食は禁止なんだよ…」

「まっ、いいじゃん」

 軽々と飛び越える。
 そう、はじめて出会ったときも。

「うまい? としょいーん」

「うん。すごく」

 君と僕がはじめて出会ったとき。
 驚くべきことに、君は窓から入って来たんだ。春先の闖入(ちんにゅう)者。ここは、あまり日のあたらない北校舎の二階の隅なのに。
 あっけにとられる僕を尻目に、君はならんだ書架の奥の長椅子ですやすやと寝息を立て始めた。
 後で聞いたら、女の子たちにカラオケボックスでの「合コン」に誘われて、色のない返事をしたら追いかけられて、それで逃げていたとのことだった。
 カラオケにも合コンにも行ったことのない(ついでに女の子に追いかけられたことももちろんない)僕は、「よくわからないけど、すごいですね」と感想を言った。そうしたら君は、「ここでひとりで本を読んでる図書委員の方が、よっぽどすげえよ」って答えた。
 それからだ。
 君はここに来るようになった。僕は、昼休みや放課後、待つようになった。
 時間は決めない。次いつ会おうと約束することもない。
 でも、会える。
 教室ではひとことたりとも話さない僕たちなのに。
 そこにあるなにかを確かめるみたいに、図書室に通った。ぽつりぽつりと気ままに言葉を交わした。共通の友人はいないし共通の話題もない。読んだ本の感想を言い合う。そうでなければ互いに黙ってページをめくった。
 とあるファストフード店のフレンチフライポテトはとてもおいしかった。サワークリームオニオン味なのだそうだ。こんなおいしいものがこの世にあったなんて、と言ったら君はおおげさ、と笑った。それから、今度うちで夜、ジャンクフードでパーティーしようぜと言った。

「どうせ誰もいないし」

「…うん」

 夜景は見えるの。どんな服を着ているの。どんな部屋なの。
 会えないとき、なにを思っているの? なにを見ているの?
 僕の選んだ本を渡すのは、実は本を読んだとき、ううん、読まなくてもただ手に取ったとき、君が僕を思い出してくれればいいのにと思ったから。
 そうすれば真夜中でも、ひとりでいる日曜日の真昼でも、ぽっかりと空いた心が少しはさみしくなくなるかもしれない。そう思ったんだ。

「…僕、図書委員っていう名前じゃないよ」

「知ってる」

 でも本当は、君の唇からこぼれるひびきが好きだった。それは軽やかで、堅苦しさも陰気さもまるで消し去って、どこまでも転がっていく。
 君は指で、僕の口元についたポテトのパウダーを拭った。それをひょいとなめ取る。

「あ…」

 一瞬のぞいた薄ピンク色の舌先に動揺する。ひみつがまた、増える。
 君のいたずらっぽいべろ(・・)がひみつなんじゃない。それを見て、どきっとしてしまった僕の気持ちがひみつなのだった。
 なぜなのか、理由はわからない。

「また食おうな」

 あくびをひとつすると、長い腕をもてあますようにカウンターに突っ伏した。

「もうっ…」

 君のまぶたとそれをふちどるまつげは、なんの悩みもないみたいに安らかだ。そうして、とてもきれいだ。
 僕は読みかけの文庫本を開いて読み始める。委員の事務作業はとうに終わった。こんな校舎の果てには、どうせ誰も来ない。
 君にまつわる、あまたとある噂は半分は本当で半分は、嘘。
 彼女? いたことはあるよ。家に連れ込んだ? そりゃ友達が来たことはある。遊び回ってる? 最近土日はずっと、お前の貸してくれた本を読んでる。

「…としょいーん」

 …え?

 君は唇をほとんど動かさなかった。けれど確かに、ほかの誰でもない僕の名前がこぼれた。
 起きてたんだ。
 まぶたが開く。淡い色の瞳に魅入られそうになって、あわててうつむいた。

「ここだとよく眠れる」

「…うん」

 うん。知っている。
 今ならわかる。広いマンションの片隅のベッドで眠れない君は、居場所を探していた。

「この前借りた恋愛小説に、『ふたりは気持ちを確かめた』ってあってさ、心の中なんて見えやしないのにどうやって、って思ったんだよ」

「うん…?」

「でも読み進めていくうちに、わかった。でもやっぱり、いっこ、わかんないことがあって」

 こうして本の理解できない部分をあれこれとちいさな子どもみたいに僕にたずねてくる。僕は本好きのめがねの図書委員というだけで、実はさほど成績は良くない。数学の文章問題の成績などひどいありさまで、なんなら君の方が得意なくらいだった。
 でも君と本の話をするのが好きだ。ときどき乱暴で、ときどき繊細な君の生の言葉を聞くのがとても好きだった。
 この図書室が、ささやかでも君の居場所になればいい。そう願いながら、いつも本を選び、手渡す。あるときは絵本、あるときは流行りのドラマの原作、あるときは早世した作家の小説を。

「どの本? 何ページ目かわかる?」

 書架の小説のコーナーに行くために立ち上がろうとしたとき、君の手がつと伸びてきて視界をさえぎる。僕の黒縁めがねのつるを指でそおっとつまんだ。そんなことをされたら、動けなくなる。

「わかんないことって…なに?」

「キスするとき、めがねって取んの…?」

 僕をのぞき込む。初夏の日差しはこの北向きの校舎まで届かない。代わりに、君のその瞳の揺らいだ光。

「え…?」

 近づいてくる薄い色をした唇から、僕は目が離せなくなる。
 あの日、図書室でひとりぼっちで本を読んでいた僕の世界に、君が新しい風を吹き込んだ。
 だからこの図書室が。受付カウンターの僕の向かいの席が。君の居場所になればいい。クラスメイトは誰も知らない、ひみつの、願い事。
 黒縁のめがねは簡単に奪われてしまった。
 風がまた、ページをめくる。
 その先はまだ知らない。











おわり