総人口わずか七十八人。地図にも載らない、小さな村。
 稲垣俊介がこの村に引っ越すことを知ったのは、今日の帰りのホームルーム。担任教師が「みんなに悲しいお知らせがある」と言った直後のことだった。
「稲垣が転向することになりました」
 教室中から、えー、という声が上がる。俊介は周りのそれよりも少し強い「え!」という言葉を発した。
「前もって教えてくれたっていいじゃん!」
 そんな言葉も飛んできたが、驚きのあまり、こっちのセリフだよ、と胸の内で呟くことで精一杯だった。それからというもの、俊介は当事者意識も持たないまま、惜別の言葉に耳を傾け学校を後にした。
 その夜、俊介は晩御飯の支度を進める母親、敏子の後ろ姿を、じっと見つめていた。敏子はいつもと変わった様子もなく、淡々と手を動かしている。
 不意に母が振り返り、俊介と目が合う。
「なによ、そんなに見つめちゃって。どうかしたの?」
 どうかしたの、は、間違いなくこっちのセリフだと、俊介は眉根を寄せた。
「母さんさ、俺になんか、隠してることない?」
「隠してること? はて、なにかあったかしら」
 とぼけている、という感じではなく、本当に考え込む仕草を見せる。なってしまったものは仕方がない、なるようになる、を素で行く敏子にとって、これは取るに取らない出来事なのかもしれない。なにせ、先月離婚した元夫のことも、今や完全に過去の人として話すくらいなのだ。
「あったかしらって……。今日、担任から聞いたよ。俺、引っ越すの?」
「なんだ、そんなこと? 珍しく真剣な顔してるから、何事かと思ったわよ」
「真剣にもなるでしょ。俺、先生から聞くまで知らなかったんだよ?」
「でもそのお陰で、感傷的にもならなかったんじゃないの?」
 悪びれた素振りもなく、あっけらかんと敏子は言う。
「そ、それはそうだけど、友達と離れることになるんだからさ、心の準備が必要でしょ」
「そんな一生の別れみたいに。今はチャットなりなんなりで繋がっていられる時代じゃない。そんなことより――」
 まだ話は終わっていない、と言う間もなく、敏子は話題を変えた。俊介が素直に引き下がることにしたのは、これ以上なにを言っても無駄だろうと、敏子の息子として生きた十七年の年月が教えてくれたからだった。
「引っ越す場所は、母さんが産まれた村よ」
「あの、地図にも載ってないっていう?」
「そう。言わば、幻の村ね」
 敏子は誇らしげに胸を張っているが、人口が少なすぎて村として認められていないだけなのでは、と俊介は思った。とはいえ、離婚したばかりであることには変わりなく、敏子が故郷に戻ろうとするのも、わからない話ではなかった。
 ちなみに、俊介の中に村に行ったという記憶はない。敏子が言うには、俊介が産まれたばかりの頃に一度だけ訪れたことがあるらしいが、わざわざ帰るほどの場所でもないからと、俊介にとってそれが最初で最後のこととなっていた。
「幻ね……。そういえば、村には古い言い伝えがあるとか言ってなかった?」
「あら、よく覚えていたわね。〝迎えのバス〟のことでしょ? 言い伝えじゃなくて、本当の話」
「いや、名前は覚えてないけど」
「迎えのバスはね、死にゆく人を迎えに来るバスのことなの。寿命が近づいた人のいる場所に音もなく現れて、またどこかへと消えていく。このバスに乗ることで成仏して、幸せな世界に行けるとされているわ」
 いただきます、と敏子は律儀に手を合わせ、自らの作った唐揚げを食べる。俊介も心を落ち着かせるように、それに倣った。
「本当の話ってことは、母さんも見たことあるの?」
「知り合いのおじさんが亡くなった時に一度だけね。バスから降りてきた運転手が対象の人に触るとね、その人は運転手とともに一瞬にしてバスの中へと移動する。運転手が誰なのかは村の人も知らないけど、一説では村出身の人なんて言われてた。まあ、調べようがないから知らないけどさ」
 到底信じられない話ではあったが、それからも敏子は、運転手は「神の使い」だとか、帽子を被った若い少年だと聞いたことがあるなど、噂話を楽しそうに話した。
 その頃には俊介も引っ越しのことを忘れ、その姿を想像していた。
「さて……明日は引っ越しだから、ちゃっちゃと食べて、あんたも荷物まとめなさい」
「え? 明日? そんなの無理だろ!」
「づべこべ言わない。なるようになるから」
 自分の部屋が終わったら、こっちも手伝ってね、と笑う敏子に、俊介はまた、なにを言っても無駄だろうと悟った。

 ガタガタ、ガタガタガタ――……
 俊介は敏子の運転する中古の軽自動車に乗り、新居へと向かっている。新居といっても、しばらくの間は祖母である登和子の家に間借りするらしい。
 しばらくがどれくらいの期間になるのかは、聞いてはいない。
「いって、痛て、ちょ、母さん! もう少し丁寧に運転してよ!」
 村の車道は、当然のように舗装工事が行き届いてなどいなかった。木の根だけならまだしも、あちらこちらで道路はひび割れ、進むたびに車体は右へ左へ、上に下にと大きく揺れた。まもなくして山道に入ると、その揺れはどこぞのアトラクションへと変わった。
 そもそも、こんな軽自動車で登って良い道なのかも、俊介には疑問だった。
「無理言ってんじゃないよ! あんたはこの運転に慣れることだけを考えなさい」
 そういえば、敏子の運転する車に乗るのも久し振りだった。こんな時に限って、あまり運転は得意じゃないの、と笑った敏子の顔が浮かんでくる。今も、力強く握ったハンドルに身体を近づけながら、一点集中して運転していた。
 その姿に恐怖を抱いたからとはいえ、車を降りるわけにもいかず、俊介は静かにアシストグリップを握りしめた。
「あと……何分くらいで……着くの?」
 不可抗力に揺れる身体で、俊介は途切れ途切れに問う。が、いくら待てども、敏子からの返事はない。
「ねぇ、あ……と、どれくらいでと……到着なのって」
「うるさいわね! 車が……止まってから聞いてちょうだい!」
「止まってからじゃ……意味ないだろ!」
 そういう間も車は揺れる。敏子からの返事がまた届かなくなったので、これ以上期限を損ねないよう藁にも縋るで、俊介は進行方向を見つめた。
 そこから約十分。体感では三十分、身体の中身がごちゃごちゃにかき回されたところで、車は速度を落とし、ゆっくりと止まった。
「ふー……。やればできるのよね、やれば。なるようになるのよ。ほら俊介、早く降りなさい」
 機嫌の直った敏子は、スッキリとした表情で言う。
 ただ座っていただけなのに、生きた心地がしなかった。俊介は「良かった……、生きてる……」と口にしながらシートベルトを外すと、震える手で助手席のドアを開けた。
 山道では何が飛び込んでくるかわからず窓を閉めていたので気が付かなかったが、まだ九月の上旬だというのに、外は半袖では寒いほどに涼しかった。
「ここが新しいお家よ」
「ばあちゃんの家なんだろ」
「可愛げのない言い方ね。ま、それは良いとして、このあと色々と挨拶回りに行く予定だから、早く車に積んだ荷物、片付けちゃってね」
「ほとんど母さんの荷物だろ、この車に積んだのは」
 もう少し生きている実感に酔いしれたい気持ちもあったが、敏子の表情はそうもさせてくれない雰囲気を醸し出していたので、俊介は渋々、車から荷物を下ろし始めた。
「敏子かい?」
 横開きの玄関が開き、女性が一人、現れる。
「おかぁ! 久し振りね!」
「なにが久し振りね、だよ。子どもが産まれたっきり全然帰って来ないどころか、ろくに連絡もよこさんで。ほいで、なに? 急に連絡が来たかと思ったら『今から帰る』って。あんた、いつまで自分勝手でいるつもりさね」
 この親にしてこの子あり。その言葉がぴったり当てはまると、俊介は感じた。祖母の登和子は髪色こそ真っ白に染まっているが、八十を超えた年齢とは思えないほどに若々しく、目元だけでなく、その強い口調も敏子にそっくりだ。
 登和子は敏子を睨みつけた後、俊介へと顔を向ける。
「……おや、もしかして、俊ちゃんかい? まあまあ、随分と大きくなって……」
「今年でもう十七になるのよ? 大きくなって、当然じゃない」
「あんたがちっとも帰って来ないから、わかりようがなかったんでしょうが!」
 ぴしゃりと登和子が言い放つと、あの敏子が、一瞬怯んだ。
「あ、えっと……。これから、お世話になります」
 気温以上に冷え切った空気を変えようと、俊介は登和子の圧力に身構えながら頭を下げる。
 案の定、登和子の表情は瞬時に明るいものへと変わっていった。
「まあ、なんて礼儀正しいのかしら。きっと、母親は見ないで成長したんだろうねえ。偉い、正解だよ」
 実の子の前ですごい言いようだと思うと、俊介はなんと返せば良いのかがわからなくなり、今できる限りの笑みを作って応えることにした。この時ばかりは、敏子に優しくしようと思った。
「そんなことより、おかぁ。おとうの様子はどう?」
 心配は杞憂だったらしい。すっかり持ち直した敏子は、家の中を指さしながら尋ねた。
「いんや、なんも変わらんよ。今は週四回、在宅介護の方に来てもらってる。いつ最期が来ても、なんらおかしくない。そういう意味では、このタイミングで帰って来たのは、せめてもの親孝行なのかもわからんね」
 祖父の貞雄が一年前から寝たきりの状態だということは、敏子から聞いていた。登和子の言う通り、娘の敏子の帰りを待っていたのかもしれない。
「俊介。先におじいちゃんのところへ行こう」
「そうだね」
 荷物もそのままに、俊介は貞雄のいる寝室へと向かった。
「おとう、ただいま。敏子だよ」
 反応のない貞雄の手を取り、敏子が話し掛ける。貞雄は静かな呼吸を繰り返すだけだが、俊介の目に映る貞雄は、なにかを悟っているかのような、優しい表情に見えた。
「倒れたあの日からずっと同じと思ってたけど、なんだか今日は、穏やかそうな顔に見えるね」
 登和子が部屋の外から覗くように言う。
「病院へ運ばれた時、医者からは余命は数ヶ月だと言われたんだ。それが今日までこうして、残りの命を懸命に生きている。不思議なもんだよ」
 そう言った登和子の表情は貞雄の手を握る敏子とそっくりで、二人とも、遠くを見るように目を細めて微笑んでいた。
「そろそろ、迎えのバスが来るのかもしれないね」
「迎えのバス……」
 二人に聞こえたかもわからないくらいの声で、俊介は呟く。登和子の口調から察するに、敏子が本当の話と言ったあの話も、現実を帯びきていた。
 マイクロバス程度の大きさで、車体は限りなく黒に近い深い緑色――敏子の言った迎えのバスが、頭の中を走っていく。
 結局、この後の荷解きが手につくこともなく、俊介と敏子は先に挨拶回りへと行くことを決めた。

「良かった。徒歩で行ける範囲で」
「え? なにか言った?」
「いや、なんでもないよ」
 挨拶回りと聞いてどことなく緊張を覚えていたが、あの恐怖がないと知るだけで、幾分か心は落ち着いた。道なき道を進み、この村の村長や自自体、これから通う学校へと顔を出しては挨拶を済ませていく。
 挨拶といっても、基本的には敏子が昔を懐かしむように世間話をするだけなので、俊介は置物のように立ち尽くしたままで時間は過ぎていき、気づけば辺りも暗くなり始めていた。
「日も落ちてきたわね。今日のところは、あと恵美のところぐらいにしておきましょうか」
「恵美さんってたしか……」
「俊介って意外と記憶力良いわよね。そう、俊介も一回だけ会ってる人よ」
「意外って。まあ、はっきりとは覚えていないんだけど」
 恵美は敏子の幼馴染で、本名は坂木恵美。俊介が小学校六年生の時に一度、恵美の仕事の都合で近くまで来たというタイミングで会っていて、その時は恵美の娘で八歳年上の香織に遊んでもらった記憶がある。
 記憶は曖昧ではあるものの、大きく透き通った瞳が無くなるほどにくしゃっとした笑顔をする香織のことだけは、今でも脳裏に焼き付いている。
 香織は今も、この村にいるのだろうか。
「あ、あそこよ」
 村の中心からは少し離れた場所に、恵美の家はあった。この辺りまでくると街灯も設置されていないので、この時間帯だと恵美の家もすっかり暗闇に飲み込まれている。
 敏子が家のインターホンを押すと、返事が届くよりも先に玄関の扉は開き、恵美が姿を見せた。
「敏子いらっしゃい! 待ってたのよ!」
 待ち構えていたと言わんばかりに、零れ落ちそうな笑顔で恵美は言う。記憶の中の恵美よりも歳を重ねているはずだが、見た目は年齢を感じさせないものだった。
 登和子といい、恵美といい、この村の女性はみな、若さを保つ秘訣を心得ているのかもしれない。
「俊介くんも久し振り。おばさんのこと、覚えているかしら?」
「はい。これからもよろしくお願いします」俊介は頭を下げる。
「こちらこそです。良かったわ、敏子に似ずに、元気に育って」
「恵美までそんなこと言わないでよね。失礼しちゃうわ」
 敏子と恵美は、声を出して笑いあった。敏子の幼少期のことなど知らないが、なんとなく、褒められるようなものではなかったのだと俊介は感じていた。
「まさか敏子まで独り身になるとはね……。何かあったら、いや、何もなくてもいつでも連絡ちょうだいね」
「恵美とはちょっと状況が違うけれどね。ありがとう」
 道中に敏子が言っていたが、どうやら恵美の夫は、若くしてこの世を去ってしまったらしい。その時も、迎えのバスが来たのだろうか。
「俊介くんも、いつでも遊びに来てね。うちにもほら……、あ、良いところに帰ってきた。香織!」
 恵美が手を振る方を見ると、そこには見覚えのある女性が小さく手を挙げていた。長い髪を靡かせながら、小走りに近づいてくる。
「おばさん、俊介くん、こんばんは」
「え、もしかして香織ちゃん? まあまあ、すっかり大人の女性になって……」
 香織、と恵美が呼んだのだから香織だろう、と俊介は思ったが、当の本人は品の良い笑顔を崩すことはない。
「ぜんぜん、そんなことないですよ」
「今はこの村で働いているの?」
「はい、父の仕事を次ぐ形で……」
「そうなの……。偉いわ」
 いえいえ、と香織は謙遜したが、その表情すら、俊介の記憶にある香織とは違って美しかった。丁寧な化粧を施した香織は、大人の余裕まで備わったようだ。
「俊介くん。私のこと、覚えてる?」
 いつの間にか、身長も抜かしていた。それでも、少しだけ首を傾げながら、あの頃と同じ笑顔を見せる香織に胸を掴まれた感覚に陥る。忘れるわけない、という言葉は引かれそうな気がしたので飲み込んで、小さな咳払いをした後に、俊介は答えた。
「も、もちろんです。えっと、その、よろしくお願いします」
「なに、この子ったら緊張しちゃって」
「そんなんじゃないって」
 図星を突かれ、恥ずかしさをかき消すように敏子に強く当たったが、その様子を笑って見ている香織に、俊介はさらに恥ずかしさを覚えた。
「一丁目に年頃になって……って、あら、電話だわ」
 敏子のポケットから、スマートフォンが着信を告げる。勘弁してくれよ、と俊介が頭を掻いていると、この暗がりの中でも、敏子の顔が青ざめていくのがわかった。
「……わかった。すぐに行く」
 そう言って電話を切ると、真剣な眼差しが俊介を捉える。
「母さん、どうしたの?」
「俊介、急いで帰るわよ」
「え、いま来たところじゃ……」
「おじいちゃんが……危ない……!」
 これだけ暗いのなら、見えなくたって良いだろう――俊介の目には、敏子の瞳に浮かんだ涙が嫌というほどに映り込んでいた。

 来たばかりの道を必死に戻る。足場の悪さに変わりはないが、幸いにも恵美の家から自宅までは然程離れておらず、体力的にもなんとかなりそうだった。
 枝をかき分け、木の根を飛び越え、家までの道を駆け抜ける。遠くに、光が見える。
 家の前には一台の救急車が、赤色のランプを照らしたままに止まっていた。
「おかぁ! おとうは?」
 寝室の扉は開いている。救急隊が大声で何かを言いながら、心臓マッサージをしている光景が飛び込んでくる。
 その傍らで、祈るように両手を握りしめる登和子の姿はあった。登和子が振り返るより先に、敏子が登和子の元に歩み寄り、背中をさする。俊介もゆっくり近づくと、登和子の横に座った。
「大丈夫。きっと大丈夫だから」
 敏子は優しく話し掛ける。今にも泣き出しそうな敏子とは対象的に、登和子はしっかり見開かれた目で、貞雄のことを見つめていた。
 その後も、心臓マッサージは続いた。が、貞雄の心拍が戻ることはない。
 登和子が握りしめた手を解くと、救急隊に向かって口にする。
「もう……結構です。止めてください」
 その無機質な声に、救急隊の手が止まる。重たくも静かな時間が流れていく。
「残念ながら……」
 短い一言が届くと、救急隊は現在の時刻を読み上げる。俊介が背後に気配を感じたのは、その直後のことだった。
 コツ、コツ、コツコツ、コツコツ、と響く革靴の音が、身体の自由を奪う。その音が真後ろにまで迫っても、俊介は振り返ることすらできなかった。
 一筋の汗が、背中を流れていくのがわかる。
 視界の中に、足音の正体が映し出される。
 鍔の長い戦闘帽のような帽子を深く被り、大きなマスクを付けている。背丈は俊介よりも小さく、噂話の通り、短髪の少年のようにも見えた。
 これが、迎えのバスの運転手――直感で、思った。
 運転手は貞雄の枕元に屈むと、右手を貞雄の額へと伸ばしていく。あと少しで触れようかというところでその手が止まると、視線だけを登和子、敏子、そして俊介の順に動かした。
 鍔の隙間から覗く瞳が、脳内に刻み込まれる。不思議と恐怖を感じることはない。それどころか、懐かしさを与える大きな瞳だった。
 停止した時を動かすように、運転手が視線を貞雄へと戻す。その手がそっと、額に触れる。
 ひとつ、俊介は瞬きをした。
 消えていた。運転手も貞雄も、もうそこには居なかった。
「本当に……消えた……」
 救急隊は、この光景を見慣れているのかもしれない。貞雄の居た場所に向かって手を合わせると、深々と頭を下げた。
「行っちまったねえ……」
 ため息にも似た登和子の声で、俊介は我に返る。
「やっぱり敏子と孫の顔をもう一度見るまで……、必死にがん……頑張ったんだろうよ……。あんたは充分に、よく頑張った……!」
 貞雄に話し掛けるように、溢れ出る涙をこぼさないように、登和子は言った。天井を見つめたままのその瞳は、蛍光灯に照らされ輝いている。
 敏子は口を閉ざして何度も何度も頷いて、登和子の背中をさすっていた。
 深い息を吐き出して、俊介は窓の外を見る。
 空に向かって、不自然な強い光が伸びている。

 迎えのバスは、今日も静かに走っていく。