僕には勉強も運動もできてオマケに顔もすこぶる良い幼なじみがいる。名前は葦原美侑。漢字だけ見たら女の子の名前と間違えられそうだが正真正銘紛うことなき男だ。まぁ子どもの頃は可愛らしい顔をしていたので見た目から女の子と間違えられてることが多かったけど。
美侑とは家も近く、両親同士の仲が良いこともあり小さい頃から一緒に遊んでいた。人見知りの気があった美侑は小学校に上がってからも僕にべったりで、僕はそんな美侑を弟のように可愛がっていた。
それが変わり始めたのは多分、第二次性徴期を迎えた頃だったと思う。
中学に入った頃には僕の方が高かった身長がぐんと伸び、美少女と言っても過言では無い可愛らしかった顔立ちは美青年へと変貌し、元々モテていたが更にモテるようになった美侑は所謂学校の一軍集団とつるむ事が増えていった。
一方の僕は自他ともに認める平凡。大勢で騒ぐよりは趣味の合う人と少人数で教室の隅の方で話したりする方が性に合って、クラスが離れた事もあり美侑と絡む事も減っていった。
それでも、廊下ですれ違ったり家の近くで見かけたら声をかけたり挨拶したら、昔と比べあまり変わらなくなった表情で軽く挨拶を返してくれたから、話す頻度は減ったとしても僕達は変わらず仲のいい幼なじみなんだと思っていた。
が、中学二年の後半くらいから挨拶を返してくれなくなった。それどころか視線が交わうこともない。
もしやこれは避けられている?と気付いた時、その理由を考えまくったが心当たりはなく、僕の頭の中ははてなマークで埋め尽くされた。
とは言え、もしかしたら無意識のうちに美侑の嫌がることをして嫌われてしまったのかもしれない。そうだった場合謝りたいのだがなにぶん話しかける隙を与えられないので避ける理由も、何に対して謝ればいいのかもわからずにいた。
そんな中、中学の二年間は離れていたクラスが三年生時に同じになってしまった。
新学期に張り出された一年間共に過ごすクラスメイトの名前を見て勝手に気まずい気持ちになったが、よくよく考えれば僕達はタイプも違うのでよっぽどの事がない限りは深く関わることもないだろう。その予想は的中し、僕たちはまともな会話をすることなく半年以上を過ごした。
年が明け、あと二ヶ月ほどで中学卒業となったある日。図書室で勉強をし終え下校しようとしたが忘れ物に気付き教室に取りに行ったときだった。
教室内から数人の話し声が聞こえ、美侑の名前を呼ぶ女子の声で思わず足を止めた。

「ねぇねぇ、葦原くんのこと、みゆうって呼んでいい?」

ひとりひとりの声を覚えているわけではないので誰の物かは分からないが、おそらくいつも美侑とつるんでいるクラスメイトの女子たちの中のひとりだろう。
卒業間近になって何故今更名前呼びの許可を得る話題を?と疑問が浮かんだが、それよりもあの中に単身忘れ物を取りに行かなければいけないのかという気まずさが勝りどうしようかと教室の前でうろうろしていたら、「無理」なんて、低いけれど耳馴染みの良い声がした。
昔、他の誰よりも聞いたものより幾分か低く大人っぽくなった声だが、それはすぐに美侑のものであるとわかった。まぁ教室内で毎日のように聞いていたから間違えようもないんだけど。

「えー、なんで?いいじゃん、うちらの仲なんだし」
「名前呼びされるの嫌いなんだよ」

確かに、美侑は小さい頃から女子っぽい自分の名前を嫌っている節があった。でもまさか呼ばれることすら嫌だったとは。僕は普通に呼んでいたんだけどな。……あれ、もしかしてそれが嫌で避けられていたとか?

「でもあの子、若槻くんは名前で呼んでるじゃん」

女子が出した名前に思考をぴたりと止め、話に耳をそばだてる。「若槻」とは、僕の苗字だ。そこで僕を引き合いに出すのはやめてほしい、余計に入りずらくなってしまうだろうが。それにもうここ数年は名前すら呼んでいないというのに。
僕の悶々とした感情が、その後の美侑の言葉で一瞬霧散した。

「……別に、あいつにも好きで呼ばせてたわけじゃない」

あぁ、なるほど。
これで確定した。彼は自分の名前を他人に呼ばれるのが嫌いだったのに、それに気付かず小さい頃から呼び続けた僕に対しての不満が中学に上がり思春期を迎えたことで爆発した。
理由も言わず避けたことに関してはちょっとムカつきもしたが、まぁそれに関しては僕が悪いので致し方ない。
浮かんだ悲しい気持ちを深呼吸で落ち着かせ、話題が変わったのを見計らい何も気にしていない風を装って教室内の忘れ物を取り速攻帰宅した。
目も合わせたくない程嫌いな人間が同じ教室内にいるのは辛いだろうが、卒業までの残り二ヶ月足らず、彼には我慢してもらうしかない。どうせ高校は別のところに行くんだし、それ以降はたまたま帰宅タイミングが被らない限りは顔を合わせることもなくなるだろう。
それからは僕もなるべく美侑の方を見ないようにし、受験も卒業式もつつがなく終え新たな気持ちで高校へと入学した。
した……のだが。
自分の所属することとなったクラスの教室内。僕の出席番号は苗字の関係上一番後ろなので、最初のデフォルトの席順も自然と後ろの角になる。教室全体を見渡すことができて教師の目も届きにくい神席なのだが、視界の端に入る、自分と丁度対角の位置にあたる席に座る人物を見て、僕は大きくため息をついた。
……なぜ、美侑がここにいる。
母経由で聞いていた美侑の進学先は、僕が第一志望としていたこの高校とは偏差値の差が結構あるところだった。県内屈指の進学校だけど美侑は頭も良いから余裕で合格圏内で、周りが必死に勉強している中そこまで力を入れているふうではなかったと聞く。目当ての高校に落ちてしまい止む無く滑り止めのこの高校に来た……というのは無い話ではないが、なんとなくそうではないような気がした。
ではなぜこんなところにいるのか。僕の疑問は解消されることなく、高校生活一日目が終了した。
帰宅してから母に同じクラスに美侑がいたことを伝えたら、「きっとあんたを追っかけて来たのよ」なんて適当なことを言われてしまった。それだけは絶対無いというのに。

同じクラスになったからと言ってもやはり美侑と関わることはなく、入学から数日が経過した。
クラス内では徐々にグループ的なものもできてきて、かく言う僕も隣の席の男子(名を山川くんという。)と友達になった。美侑は顔が良くて目立つから、同じように目立つ人たちとよく話している。中学でもよく見た光景だ。
さて、そんなことはひとまず置いておいて。先日、HRで所属する委員会を決める会が開かれたのだが、その中で僕にとっての大事件が起きた。
各委員会はクラスで二名。各々興味のある委員会に投票し、定員オーバーにさえならなければそのまま所属委員会が決まる。
僕は中学の頃から図書委員会に入っていたので、高校も同じでいいかな、なんて思って投票した。
運よく二人ぶんの票しか入らなかったので、出会って間もないクラスメイトと無駄な争いをすることなくスムーズに決まりほっとしていたのも束の間。僕と共に並んだ名前に思わず声を上げそうになった。
何故ならそこには「葦原」と書かれていたからだ。
図書委員は、学校の図書室で受付や返された本の陳列もしなくちゃいけないから、昼休みと放課後は数十分ほどだが潰れる事がある。しかしたったの数十分とは言え、遊びたい盛りの学生たちにとっては一分でも無駄には出来ない。それ故に、図書委員は不人気な委員会のひとつなのだ。
そんな図書委員会を何故自ら選ぶのか。僕の場合は、部活も入る気無いし、放課後は時々友達と寄り道するけれど基本的に真っ直ぐ帰るタイプなので予定も出来にくい。あと図書室は綺麗だし静かだし、学校の喧騒から離れまったりとした時間を過ごせる空間が気に入っているので、僕は図書委員を選んだ。
美侑は、毎日遊ぶ友達が尽きない側の人間だろうから、拘束時間の長い委員会よりイベント時に何やら動かなければならない系の委員会を好んでいると思っていた。実際中学の頃は体育委員だったと記憶している。だからまさか被るとは思いもしなかった。
一瞬変えたいと申し出ようか悩んだが、他の委員会も決まりつつあるし後出しでやっぱりこっちがいいと言うのもよくないだろうと思い直し腹を括ることにした。美侑には申し訳ないが、運がわるかったと割り切ってもらうしかない。
初回の委員会の集まり時、僕の隣りに座る彼とはやはり会話もなく、クラス毎に当番の曜日が割り振られるのだが、特に意見も無かったため先輩方にお任せした。
そして今日が当番初日。僕と美侑は金曜日の放課後担当だ。
いろいろ教えるために三年の先輩が一人僕たちについてくれているので、美侑と二人きりにはならないようで安心する。早速一通りやるべき仕事を教えてもらい、今日のところは美侑が受付、僕が昼に返却された本を棚に戻す作業をすることとなった。
黙々と作業し棚に本をしまい終え一息ついたとき、職員室に呼び出されたらしい先輩が僕に荷物を書庫に運んでおいてくれないかと頼んできた。わかりやすい所に置いておいてくれたらいいからということだったので了承し、二つの段ボールを前に一応腕まくりをする。中には本が入っているらしいが、まぁ持てるだろうと大きい方の段ボールに手をかけたが、重すぎて持ち上がらなかった。
いや確かに僕は運動もあまりしないし筋肉なんてついていないから非力である自覚はあるけれど。持ち上がらないのは想定外すぎて驚いてしまった。
大丈夫、気合入れればいける、と改めて持ち上げようとしたら、背後から「おい」と呼びかけられたので持ち上げようとしたままの体勢で振り向く。そこには、受付にいたはずの美侑がいた。
もしかして今、僕に声かけた?

「そっち俺が持つから、颯はこっち持て」
「え……」

もうひとつの一回り小さい段ボールを指さした美侑は、僕に場所を変わるよう促し軽々大きい方の段ボールを持ち上げた。
久々に会話……と言える程のものではないが言葉を交わした。しかも、何年かぶりに僕の名前も呼ばれた気がする。ぽかんと書庫に向かう美侑の後姿を眺めていたが、はっとして僕も小さい方の段ボールを持ち後を追いかける。
書庫内の入り口近くに段ボールを置いたら、さっさと受付カウンターに戻ろうとする美侑に咄嗟に声をかけ呼び止める。

「手伝ってくれてありがとう、葦原くん」

ちょっと緊張したけどちゃんとお礼を言うことができて満足していると、彼はこちらを振り向いた。久しぶりに正面から顔を合わせたが、本当に背も高くなってかっこよくなっちゃったな。
……なんて親のような気持ちを持ったのも一瞬。きゅっと寄せられた眉根に切れ長の目でじと、と見つめられ、あれ、以前にもこんな表情見た覚えがあるぞ、とある記憶が掘り起こされた。
えっと確かあれはまだ僕たちの仲が良かったころ。美侑は人見知りだったゆえ友達は僕しかいなかったけど、昔から顔の良さで人気があったため美侑と遊びたいと思っている子たちはたくさんいた。だから独り占めしていると思った数人に「若槻くんだけずるい」と囲まれて責められたことがあった。
僕としてはそんなこと言われても状態だったので「美侑にも聞いてみるから」としか言えず、納得がいかない子たちにきゃんきゃん文句を言われどうしたもんかと困っていた所に彼が間に入ってきた。そして、「颯をいじめる奴は許さない」と聞いたこともないような低い声とひと睨みで蹴散らしてしまった。
その後もしばらくはずっと難しそうな顔をして機嫌がよくなくて……その時にしていた表情が丁度、今の美侑が浮かべているものにそっくりなのだ。
つまり、そう。美侑は今、怒っているということだ。
――なぜ?僕今、怒らせてしまうようなことをしてしまっただろうか。

「なに、それ」
「へ?」

戸惑っている僕に、美侑はむっとした表情のまま続ける。

「その葦原くんっての、なに?」
「な、なにって……」

貴方の苗字ですが……。
そう続けたいのを察したのだろう、一層眉間の皺を深め一歩こちらに近付く。

「前まで名前で呼んでただろ」
「そうだけど……でも……」

名前で呼ばれるの嫌だって言ってたのは、美侑の方じゃないか。
それは立ち聞きで得た情報なので今ここで指摘するのはよくないだろう。どう説明したもんかと考えていたら、目の前の美侑は小さくため息をついて僕に背中を向けた。

「二度と呼ぶな」

そう低い声で言うと、早足に書庫を出ていってしまった。

「……じゃあ、どう呼べばいいんだよ……」

———

あれから数週間。美侑とは委員会の時にのみ業務的な会話するようにはなったが、これといって関係の変化はない。むしろちょっと悪化したかもしれない。
書庫で二度と名前を呼ぶな的なことを言われてから、僕は美侑に何か聞きたいことがあって呼びかける際、「あのぉ……」とか「ねぇ」というふうに、名前を呼ばない呼び方を心がけているのだが、その度に美侑の機嫌が悪くなっていく。彼としては嫌っている僕に話しかけられること自体嫌だろうが、こればっかりは仕方ないと割り切ってほしい。
高校生活にもほんの少し慣れてきて、クラスの顔ぶれも違和感なく馴染んできた今、隣の席の山川くん以外にも僕に話しかけてくる人が増えてきた。が、それは決して僕と友達になりたいとかそういうのでは無い。

「ねーねー、若槻くん」
「若槻くんって、葦原くんと同中て本当?」

放課後の図書室、週に一度の当番の日だけ僕に話しかけてくる人は大抵は美侑目当てだ。今話しかけてきたのは初対面の人で、上履きの学年カラー的に三年の先輩だろう。
僕は返却された本を本棚に戻す作業中で、周りにはあまり人はいない。美侑がいるはずの受付カウンターの方をちらりと覗くと数人の人だかりができていて美侑の姿は見えなかった。あの光景、ここ数回ですっかり見慣れてしまったな。
誰が流したかは分からないが、間違いなく学校一顔の良い一年の男子が毎週金曜日の放課後に図書室にいる、という噂が広まってから、美侑が当番に居る時のみ図書室の人口が増え若干騒がしくなってしまった。図書室が賑やかなのは少なくとも授業中以外じゃ見たことがない。そもそも図書室では静かにする、というのがルールである、「騒がない」という張り紙がしてあるくらいなので共通認識のはずだ。一緒に当番で入ってくれている先輩も見かねて騒いでいる生徒たちに何度か注意を促しているが、人は増えていく一方なので改善は見られない。
先輩が一度美侑からも言ってほしいと頼んで、美侑もきゃっきゃと煩い生徒(たぶん先輩だったと思う)に注意したら、話しかけられたことが着火剤となり更に騒がしくなってしまった。
僕は落ち着ける図書室の雰囲気が好きで、仕事が終わった後にゆっくりと本を読む時間を楽しむために委員会に入ったというのに、ここ最近は騒がしすぎて本を読む時も気が逸れて仕方がない。
先ほど僕に話しかけてきた女子の先輩は、何かと美侑に話しかけている人たちだと思う。図書委員の先輩も手を焼いていた。

「……はい、一応」

先輩からの問いかけを初っ端から無視するのは良くないので、にこりと愛想笑いを浮かべ答えると女子の先輩たちは目をキラキラさせてこちらを見上げてきた。

「じゃあじゃあ、葦原くんの連絡先って知ってる?知ってたら教えてほしいんだー」
「本人に聞いても頑なに教えてくれなくて困ってたの」

それはあなたたちに教えるのが嫌だからだろう。誰がどう見ても分かることに、この人たちは気付かないほど美侑に対して盲目的になってしまっているのだろうか。
出そうになるため息を堪え、申し訳なさを含んだ声色で「すみません」と首を横に振る。

「勝手に教えるのはちょっと……」
「えー?いいじゃん、教えてよー」
「若槻くんにもうちらの連絡先あげるからさぁ」

いらなすぎる。どれだけ自己評価が高いんだ、自分の連絡先にそれほどの価値があるとでも思っているのか。
先輩が手を焼いている理由を理解しつつ、僕は改めてできない旨を伝えると明らかに機嫌を悪くした女子が僕を睨みつけた。

「なによ、こっちが下手に出てやってるって言うのに」
「もういいよ、行こ?」

二人して睨みつけた後、受付カウンターの人だかりの方に戻っていった先輩たちの背中を見送り、僕はやっと大きくため息をついた。
彼女たちはきっと美侑に対しては猫を被っているのであんな態度を取られないだろうが、人の話を聞かないタイプの人間の相手をするのは大変だろうな。同情してしまう。

「若槻、大丈夫か?」

いつの間にか傍に居たらしい一緒に当番に入ってくれている先輩、上田先輩が小声でそう話しかけてきた。

「はい、大丈夫です」
「あいつらモデルやってるらしくてさ、プライドが高いからいつもあんな感じなんだよ。顔可愛くても性格があれじゃあ残念だよなぁ」

顔が可愛い?
モデルをやっているのであれば顔が可愛いのは本当なのだろうが、そんなこと全然気にもしなかった。ちょっと前の美侑の方がよっぽどかわいい。
先輩が手伝ってくれて本を戻す作業は早めに終わったが人だかりのできている受付カウンターに戻るのが億劫で、それは上田先輩も同じだったらしく、本棚の陰に隠れて上田先輩の愚痴を聞き、本を借りたいけど受付カウンターに行けなくてうろうろしている生徒を助けているうちに、生徒の下校時刻を迎えた。
人がいなくなった図書室で月曜日の当番の人用に場を整えていると、申し訳ない表情を浮かべた美侑が上田先輩に声をかけた。

「図書室の当番を外してもらえませんか」
「え!?」
「このままじゃ、二人に余計な負担ばっかりかけてしまうし」
「そ、それは……」

ちらりと僕を見た上田先輩が困ったような表情をする。
正直、美侑が当番をやめた方が今回は丸く収まるだろう。それは上田先輩も思っていることのようだけど、仕事もしっかりしてくれるし何より悪いことをしていない美侑に罰を与えるようで先輩的にはしたくない選択なのだそうだ。
美侑も美侑で、自分が居ることによって静かな図書室が騒がしくなったり僕たちに飛び火していることに責任を感じている。直接その思いを聞いたことはないが、表情からそう思っていることは察することができた。

「今、先生と一緒に委員長もどうしようか対策を練っている所だから、もう少し待ってくれるか?」
「でも……俺を外すのが一番手っ取り早いです」
「それはそうなんだけど……三年の俺たちはもうちょっとで委員会引退するし、補充の人員も足りてないから若槻がひとりで当番することになるからなぁ」
「…………」

図書委員会は昼休みと放課後の図書室当番のほかに、主に二年生が担当する図書室広報・企画係がある。先輩方はそっちで大変で、僕らのサポートをする手も足りていない。だから先生も今回の問題をどうするべきかを決めあぐねているようだ。
多分今回、美侑が一番責任を感じてしまっている。昔から自分絡みで起こる問題には敏感だったし、それで嫌な目に合う人がいようもんなら自分を責めていた。まぁ主に何か巻き込まれるとしたら僕だったんだけども。
何か問題が起こって美侑が落ち込んだりする度、僕は彼に大丈夫だよって言って元気付けていたっけ。

「とりあえず今は先生と委員長の対応を待とう、な?」

しゅんと落ち込んでしまっている美侑の肩を叩いた上田先輩が、「じゃあ帰ろうぜ!」と言って僕たちに図書室を出るよう促した。最後の戸締りは先輩がするため、僕たちは大人しく図書室を出る。
図書室のドアのカギを閉めたのを見届け、カギを返しに職員室に向かう上田先輩と別れて僕たちは一足先に生徒玄関へと向かう。いつもはさっさと帰ってしまう美侑だが、今日は僕のちょっと後ろをついて歩いていた。
特に会話もないまま生徒玄関にたどり着き、下駄箱から靴を取り出し履き替えていると隣に美侑が立った。

「……颯」
「ん?」

美侑を見上げると眉尻を八の字に下げて、合った視線を少し逸らした。

「今日は、ごめん……その、女の先輩が颯に絡んでただろ。それに、昔から図書室の雰囲気が好きって言ってたのに、俺のせいで壊して、ごめん……」

若干イラっとはしたが、あんな感じで敵意を向けられるのは初めてではないし、正直気にしてもいない。
が、僕が図書室の雰囲気が好きだということを彼が覚えていたことの方が驚きである。なんだかちょっと嬉しいぞ。

「気にしてないよ、大丈夫。それに……」

美侑のせいじゃないから謝らないで。
と、言葉を続けようとして慌てて口を閉じる。
流れで名前を呼びそうになったが……どうしよう、苗字はこの間すごく怒らせてしまったし、彼を君とか貴方とかお前とか、そういう感じで呼ぶのも何だかな……。
ちらりと美侑を見上げると、相変わらず眉を八の字にして申し訳なさそうな表情を浮かべているの見て、なんとなく今は呼んであげた方がいいような気がした。

「み……美侑のせいじゃないから、謝らないで」

どれだけぶりにその名前を口に出しただろうか。
ぱっと顔を上げた彼の目にはほんのちょっとの驚きと嬉しさが滲んでいて、怒らせたわけではないことにほっと胸を撫でおろした。
改めて責任も感じなくていいからねと言えば、美侑は小さく頷き「ありがとう」と呟いた。
帰ろうかと声をかけると頷いて大人しく僕の隣りに並んで歩き、久しぶりの二人きりの下校に懐かしさを覚える。今は美侑の機嫌も良さそうだから、普通に会話もできそうだ。

「僕が図書室好きなこと覚えてたんだね。言ったのだいぶ昔だったからてっきり覚えていないと思ってた」
「颯のことは、全部覚えてる。図書委員に立候補したのも、颯がやると思ったからだ」
「……え?」

衝撃的な言葉に思わず立ち止まると、数歩歩いた先で美侑も立ち止まってこちらを振り返る。

「えっと、それって……どういうこと?」
「……颯って昔っから本当、鈍いよな」
「へっ?ま、まぁ、自分でもどんくさいなとは思ってるけど」

そういうことじゃねーよ、とため息交じりに呟いた美侑はこちらまで歩いてきて、ぽかんと見上げたまま固まってる僕の手を掴み引っ張って歩き出す。

「爽が、颯は全然理解してないからちゃんと言葉にした方がいいって言ってたけど……本当だったな」
「え、爽?」

爽とは、地元の大学に通っている僕の四歳年上の兄である。昔から美侑とも面識があって、僕の次に仲の良かった人だと思う。しかしなぜ今、爽の名前が出てくるんだ。

「俺も昔は、颯に甘えて全部察してもらえるって勘違いしてた。だから、中学から避け始めた理由も、颯なら分かってるって、勝手に思ってた」
「ちょ、ちょっと、美侑?どうしたの?」

言っていることの意味がわからなくてそう問いかけると美侑は突然立ち止まり、僕は彼の背中に思いっきりぶつかってしまった。それでもびくともしない体幹に感心していたら、彼はこちらを振り向いて僕を見下ろす。

「昔、颯が俺の名前褒めてくれた時のこと、覚えてる?」
「え……?」
「俺が、自分の女っぽい名前嫌だって泣いてた時」

美侑が、自身の名前が好きではないことは昔から知っていた。だが、名前を褒めたことがあったかどうかは……覚えていない。たぶん相当昔のことだろう。
それでも記憶を呼び起こそうと頑張っている僕に、美侑はまたため息をついて握ったままの手に更に力を込めた。

「俺にとってそれは、他の誰に言われたほめ言葉より嬉しくて、ずっとずっと心の支えになってた」
「っ、あ、あの……」
「昔から俺にとって颯は特別で、颯さえいればそれでいいって思ってた……でも颯はそうじゃない。お前が他の奴と仲良くしてるのを見る度思い知らされて、それが嫌になって避け始めた」
「!」

確かに、僕には美侑以外にも友達はいた。美侑じゃなくて、他の友達と遊ぶことも勿論あった。美侑はもっと僕以外に目を向けた方がいい。「若槻くんだけずるい」と責められる度そう思ってわざと突き放すこともあったくらいだ。

「颯もそれを理解して、今までみたいにまたすぐ俺にほしい言葉をくれるって思ってた……。でも、颯に甘えた結果どんどん疎遠になっていって、引くに引けなくなった」
「…………」
「本当はずっと一緒にいたくて、自分は颯の特別なんだって感じたくて、俺の名前を呼ぶのは家族以外に颯にだけ許してた」
「え?で、でも、僕にも好きで呼ばせてた訳じゃないって……」

そこまで言ってはっとする。これは美侑から直接言われたことではないので僕が知るはずない会話内容だ。慌てて口を閉じて彼をちらりと見上げると、驚いた表情をしつつも「あの時やっぱり聞いてたんだ」と呟いた。

「ごめん、聞くつもりとかは全然なくて……」
「いやあれは……俺もごめん。呼びたいってしつこくて、断る口実に使っちゃったんだ。俺は、颯にだけ呼ばれたいって、今でも思ってる。……その、颯が特別で、す……好き、だから」

頬を赤くした美侑が、恥ずかしそうに顔を俯かせる。
ええっと、それはつまり、書庫で苗字を呼んだ時とかめちゃくちゃ怒っていたのは、僕に声をかけられること自体が嫌だったわけでなく、僕が美侑と名前を呼ばなかったこと自体に怒ってた、ということ?
だとしたらまぁ、段々機嫌が悪くなっていってしまったのも頷ける。

「もう気付いてるかもしれないけど、高校が一緒になったのも偶然じゃないから」
「へっ」
「おばさんから聞いて、これ以上疎遠になるのが嫌で、進路変えた」
「そっ……そんなことで、変えるなよ」
「あの時の俺には颯と離れない方法、それくらいしか思い浮かばなかったから。でも後悔はしてない」
「してないなら、いいけど……」

いやいいのか?ここより頭のいい高校に入っていれば、色々将来は広がったかもしれないのに。まぁ今更言ったって遅いんだけども。

「……今まで、振り回してごめん。颯と近付きたくて図書委員を選んだけど、結果的に迷惑ばっかりかけてしまってる」
「そのことは本当に大丈夫。美侑が気にすることじゃないって。……というか、謝らなきゃならないのは僕の方、かも」
「え?」

今の話を聞いていて気付いたことがある。
昔、美侑には僕しか友達がいなかった。人気が合ったにもかかわらず、僕以外の人と遊ぼうともしなかったのだ。
他の人にも目を向けた方がいいと思っていたのも事実ではあるがそれ以外に、僕の中にはほんの少しの優越感があったのだと思う。
今日は他の人と遊ぶからと突き放したり厳しいことを言ったりしても、美侑は必ず僕のもとに戻ってくる。気を引こうと頑張っている他人には目を向けず、僕だけを盲目に信頼してくれている。
僕はそれが嬉しくて、あの美侑が選んだのは僕なんだぞと優越感に浸ってた。
それなのに急に避けられて、僕以外にも友達ができたことがなんだかショックで、嫌われたかもしれないことが怖く悲しくて、自分から寄り添うことをやめてしまった。

「結局自分のことしか考えてない……最低だよね、僕」

自嘲気味に笑うと、目の前の美侑はぶんぶんと首を横に振った。

「俺、嬉しいよ。だって颯は、俺にとって自分が特別じゃなくなることが嫌だったんだよね」
「まぁ、うん」
「じゃあ颯にとって俺は特別な存在だってことだよ。だって颯、俺以外の人に嫌われたとしてもどうでもいいって思ってるでしょ」
「うん」
「俺に嫌われたと思って悲しかったのは、俺が他の人より特別だからだよ」
「……そう、なのかな」
「絶対そう!」

確かに美侑以外の人から敵意とか悪意とか向けられてもどうでもいいと思うことがほとんどだ。美侑に避けられて悲しくなったのも、久しぶりに話しかけられて心が舞い上がったのも、僕にとっても美侑が特別であるからこその感情なのは間違いないだろう。
僕が他人に興味が薄いのは、昔から美侑にしか興味がなかったからかもしれない。それに今気がつくなんて……美侑が言ったように、僕は鈍感だったようだ。

「僕たち、お互い大好きなのに、言葉が足りてなかったんだね」
「!」
「話してくれてありがとう、美侑。もしよかったら、これからも前みたいに仲良くしてくれると嬉しい」
「も、もちろん」

久しぶりに見た彼の穏やかな笑顔に、胸がふわりとあたたかくなる。これが特別、ということなんだ。

「やっぱり美侑は僕の一番の友達だ」

嬉しくなってそう言うと、何故か美侑は笑顔を貼り付けたままビシッと固まってしまった。

「あれ、美侑?」

何も返事がないので不安になって呼びかけると、彼は顔を俯かせ「友達……友達、ね」とぶつぶつ独り言を呟き始めた。
一番の友達、というのはさすがに調子に乗りすぎてしまっただろうか。
不安に思ってオロオロとしていたら、美侑がぱっと顔を上げてにっこりと不自然なほどの笑顔を浮かべた。なんだか、変な圧を感じる気がする。

「まぁ今更そんなのじゃめげたりしないから、俺は」
「うん……?」
「これからゆっくりわからせてやるから……覚悟しといてね」

どうやら僕はまた、彼のことを怒らせてしまったらしい。
でも今回はちょっと楽しそうなのはおそらく、僕の気のせいではないだろう。

美侑の言っていたことを僕が本当の意味で理解するまで、あと数ヶ月——。