翔の脳裏に、あの橋の上で冬馬に別れを告げる若い夫婦の姿が浮かんだ。
「両親に身投げされ、十二月の寒空の下、一人取り残された冬馬は、半死半生の死の淵にいました。力尽きかけたあの子を、新聞配達員が見付けてくれました。彼も、祈ったことでしょう。この子に、助かってほしいと――。
 救急搬送された病院で、医師や看護師の懸命な治療により、冬馬は一命を取り留めました。ここでも、祈られたはずです。この子を助けたい。この小さな命を、守りたいと――」
 胸が熱くなり、涙が込み上げてきた。目元を拭う翔の様子を見て、父は続ける。
「その後、冬馬は乳児院に入所しました。『冬馬』の名付け親は、乳児院の施設長です。『冬の寒さにも負けない馬のように、強く、たくましく生きてほしい』。そんな願いが、込められています」
 父はそこで言葉を切った。一呼吸入れてから、こう続けた。
「冬馬の身元を調査していた警察が私に辿り着いたのは、弟夫婦が身投げしてから、一週間以上経ってからでした。残された冬馬の存在を知り、私は徹を連れて、乳児院に駆け付けました。小さな体で、懸命に生きるあの子を見た時、私は、願わずには居られませんでした。この子を育てたい。亡くなってしまった両親の分まで、幸せになってほしい。幸せな人生を、歩んでほしいと――」
 徹の嗚咽が聞こえた。翔のぼやけた視界の端で、翼が眼鏡をはずして、目元を拭っていた。翼はおそらく、両親と共に事故に遭った時のことを、思い出しているのだろう。
「翔くん」
 立ち上がって、父は深々と頭を下げた。
「冬馬を、よろしくお願いいたします」
 翔も慌てて立ち上がり、同じように、頭を下げる。
「こちらこそ! よろしくお願いします!」
 徹の泣き声が響き、顔を上げてそちらを見た。
「まあまあ。結婚するわけじゃないですから」
 翼の言葉に、翔は息を詰まらせる。恐る恐る視線を戻した。顔に出ないタイプなのだろうか。父親は相変わらず、穏やかな表情をしていた。
「まあ……改めて。冬馬を、よろしくお願いいたします」
「はい」
 頭を下げて、翔は応えた。

 翌朝、翼はいそいそと翔よりも早くマンションを後にした。
「嫁さんほっといていいわけ?」
 嫌みの一つも言いたくなり、翔は玄関先で兄に向けてそう言った。すると、兄は微苦笑を浮かべながらこう返した。
「産休で今、実家に帰ってるんだよ」
「そうなん?」
「仕事休むわけにもいかないからな。じゃあ、頑張れよ」
 からかうような兄の言葉に、「何をだ?」と突っ込みを入れる。兄は笑いながら手を振っていた。