「いいえ、構いませんよ。続けてください」
 高峰が穏やかに微笑み、続きを促した。翼は軽く頷いた。
「僕は利緒と結婚する時、ある条件を提示しました。夫である僕よりも、弟の翔を優先するという条件です。利緒も働いていますから、夕方に翔を一人にしてしまうのは、いたし方ありません。けれども、夜は絶対に一人にはしない。飲み会などで遅くなることが前もってわかっている時は、事前に連絡を取り合って、どちらかは絶対に家にいるようにする。運悪くかちあってしまった時は、どっちかが絶対にキャンセルする。それが、僕らのルールです」
 そこで翼は、溜息をついた。
「利緒は、僕の出した条件を、よく守ってくれています。プロポーズする時、僕は言いました。弟の翔を、実の弟のように思ってほしいと」
 翼は、自虐的な笑みを浮かべる。
「『実の弟のように』という言葉を遣う時点で、僕自身が翔を実の弟だとは、思っていないのかもしれませんね」
 翼の瞳が悲しげに揺れた。
「――人と人です。簡単ではありません」
 高峰が静かに、それでいて強く言い切った。
「……先生でも、そう思いますか?」
 翼がか細い声で聞いた。
「はい。もう、三十年教師をやっていますが、そう、思わせられることばかりです」
 翼の双眸が大きく揺れる。瞳の縁に、光るものがあった。
「家族をつなぐものは、『想い』です。『血』ではありません。翼くんの想いは、きっと、翔くんに通じていますよ」
 翼は涙をこらえ、立ち上がって深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。さあ、涙を拭いてください。もうすぐ、翔くんが来ます」
 高峰はズボンのポケットから、白いハンカチを取り出しだ。翼は恐縮しながらハンカチを受け取って眼鏡をはずし、素早く涙を拭った。丁度その時、寮監室の扉がノックされた。
「翔くんが到着したようです」
 高峰は翼の様子を確かめた後、扉に向かった。