皆、俺を置いていなくなってしまった――。
 好きになればなるほど、失うことが怖くなる。

 私立帝仁高等学校寮一号館の一対の桜は、丁度見頃を迎えていた。
 北見沢翔は寮監室の東側に設けられた縁側で、ロッキングチェアに凭れながら満開の桜を見上げていた。
「大分傷んでいますから、気を付けてくださいよ」
 この部屋の主である高峰映二教諭が、炊事スペースで急須にお湯を注ぎながら言う。
「……はい……」
 翔が気のない返事をする。高峰が言うように、椅子は揺れる度に軋んだ音を立てていた。十年近く前、翔がここに来た時はまだ新品同様だったはずだ。うだるような夏の暑さの中、冷房が効くこの部屋で、ロッキングチェアに腰を下ろした高峰の膝に乗り、深碧の木々を見上げていた――。
 翔は知らない――。
 着替えが間に合わず、兄のだぼだぼのシャツを着ていた翔の背中を見て、高峰もまた、心を痛めていたことを――。
「どうしたんですか? 昨日は友達と同室だって、あんなに喜んでたのに」
「友達というか、恋人なんだけど」と翔は思ったが、声に出せるはずもなく、顔を高峰の方へ向けて微苦笑を浮かべた。
 昨日から今日にかけてが、新入生の入寮日だ。翔は昨日、上級生に案内されて二階の中央に位置する211号室を訪れた。ドア横に掛けられたネームプレートが目に入ると、翔の肩から、ボストンバックがずり落ちた。
「どうした?」と上級生が訝しんで尋ねる。翔はそれには応えず、壁に両手をついて、まじまじとネームプレートを見詰めた。そこには、翔と冬馬の名があった。
 高峰が応接用のテーブルに湯呑みを二つ置いた。テーブルを挟んでソファーがあり、座るように手で指し示す。
「お茶が入りましたよ」
 翔はのろのろと立ち上がり、ソファーの前まで歩く。お盆を小脇に抱えたまま、高峰が瞠目した。
「昨日も思いましたけど、大きくなりましたねえー」
 翔の背は、高峰より頭半分程高かった。以前翔がここを訪れた時、小学一年生にしては体があまりにも小さ過ぎた。背丈が二倍程になったのだろうか。以前とは、目に映る光景がまるで違って見えた。
「――もう高校生だから」
 翔はソファーに腰を下ろし、湯呑みを手に取る。熱過ぎず、ぬる過ぎない丁度良い温度だった。
「お菓子もありますよ」
 高峰が棚から菓子折りの箱を取り出した。高峰の後ろ姿を見ながら、翔は物思いにふける。高峰は、少し痩せたように見えた。前髪は以前のように後ろに流してはいるが、大分白い物が混じっているように見える。確実に時が経っていると、翔は実感した。