受験先を帝仁高校に決めたと言うと、母は料理をする手を止めることなく、ただ「そう」とだけ言った。やはり父や兄が言うように、母が自分のことを気に掛けているとは、どうしても思えなかった。
 対照的に、ものすごく喜んでくれたのは翔だった。報告を兼ねて、放課後翔のマンションに行くと、一週間会っていなかっただけなのに、「寂しかった」と翔は涙目になって言った。彼の感情を素直に表すところが好きではあったが、それと同時にどきどきしてしまって、とても困る――。
「冬馬……。放課後も一緒に……勉強してくれないか……?」
 声の調子を落として、懇願するように翔は言った。一週間会わなかっただけなのに、げっそりしてしまったように見える。
「いいけど、どうしたの?」
 翔は落胆したように言う。
「一人じゃ全然進まないんだよ……。よくわからなくて……」
「わかった。入試まで、一緒にやろうか」
 冬馬にとってもその申し出は、とても嬉しいものだった。
 瞬間的に翔が長い両腕を一杯に広げて、冬馬の体をすっぽりと覆ってしまった。苦しい程に動悸が激しくなる。
「ありがとう。すげー嬉しい」
 耳元で熱っぽく囁かれたその声が、さらに冬馬を困惑させた。すぐに体は離れたが、腕や背中に、翔の力強い腕の感触が残っていた。冬馬は気付かれないよう、そっと溜息をついた。こういう時、どうしたらいいのかわからなくなる。冬馬は恨みがましく、笑顔で問題集を開く翔を睨んだ。胸の中に友情の後ろから見え隠れする欲望が、雪のように降り積もっていくのを感じた――。

 冬馬の助けと翔自身の努力により、入試まで一週間を切る頃には、翔は自力で問題を解けるようになっていた。
「よく頑張ったね」
 冬馬は翔のノートを採点して返した。過去問題を七割近くの正答率で解けるようになっていた。
「冬馬のおかげだよ」
 満面の笑みで言う翔から、冬馬は無意識のうちに体を離していた。抱き付かれてはたまらないからだ。それが翔に通じたのか、翔は抱き付いては来なかった。
「あのさ……お父さんがね……入試の前日はマンションに泊まってけって……言ってくれてるんだけど」
 帝仁の近くのマンションに父と兄が暮らしていることは、以前に伝えていた。
「へえー。良かったじゃん」
「うん。二時間かかるからね」
 冬馬は上目遣いで翔を見た。
「……友達も一緒にどうかって……?」
 父には帝仁を一緒に受ける友人の話はしてあった。父がこれを提案したのは、当然のことだろう。
「……え!?」
 明らかに翔は狼狽していた。
「俺は……いいや。家族水入らずの邪魔しちゃ悪いし……」
 翔は無理やり笑って、やんわりと断った。