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 あれからすぐに夏休み入り、俺は受験対策で学校には行くものの、テニスコートには全く近寄ることは無く、あいつの姿を見かけることすらなかった。夏休みの間はこれで良かったんだと自分に言い聞かせ続け、あいつのことを振り払うかのように受験勉強と面接対策に打ち込んだ。担任の先生からは、お前はこれ以上前のめりにならなくても、焦りさえしなければ受かるんだからもっと肩の力を抜けと言われるほどに、受験のことしかしなかった。少しでも力を抜くと、その隙間から渡辺が入ってきて、あっという間に脳内を埋め尽くすのが分かっていたから。受験のことだけをしているのが丁度良かった。
 そんな生活を続けていると気が付けば夏休みも終わり、校舎にまた活気が戻ってきた。去年までは夏休み明けに真っ黒に焼けてまるで別人かと思わせるようなやつも何人かいたのに、今年は皆受験生だからか、そんな人は誰一人おらず、夏休み前とは何も変わらない生活が再び始まったかのように思えた。
 4時間目終了のチャイムとともに、机をガタゴトと動かして円にし始める友人たち。その様子を我関せずと眺め、教室の入り口を眺める。

「あ、」

と思わず声が出た。

「どうした?あ、そういえばあいつ遅いね。いつもチャイムと同時くらいに来てたのに」

 習慣とは恐ろしいもので。俺から縁を切ったのにも関わらず、図々しくあいつの登場を待っている自分がいた。恥ずかしすぎる。

「ごめん忘れてた、今日からまた入れてくんない?」
「え、良いけどあいつは?お前がツンツンしすぎて愛想つかされたとか?」

 まあそんなところ、と濁した回答をするとざわめきだす男たち。あいつあんなに懐いてたのに?とか、あんないい子に愛想つかされるとかどんな悪いことしたんだよとか、言いたい放題で収集がつかなくなる。

「良いんだよあいつのことは。それよりさ、」

と机を円にねじ込んで話題を変えようとしたその時、

「恭人先輩!」

と聞きなれたでかすぎる声が耳をつんざいた。
何だ、きたじゃんと安心したように口々に言い出す友人たち。勝手に安心してんなよ、ていうかあそこまで言われたのに何であいつはまた来たんだよ。

「何があったか知らんけど」

 ワーワーと周りの不躾ボーイたちが騒ぐ中、一人冷静な声で増田が喋り出す。

「迎えに来てくれたんだからとりあえず行って来いよ」

 俺の不安や戸惑いを見透かしたのか、俺の目をじっと見つめて言ってくる。増田が俺をじっと見るのは、試合前など大事な時に行うルーティンみたいなものだ。

「分かった」

と俺も増田を真っ直ぐ見つめて、渡辺の方に歩き出す。

「振られたら話くらいは聞いてやるよ~」

と増田のふざけた笑い声が聞こえてくる。俺はちらりとそちらを向いて、うるせー、と一言返した。

「お久しぶりです、先輩」
「久しぶり。お前結構焼けたな」
「先輩は少し白くなりましたね」

と、ぎこちなく話し始める。お互い、核心に触れるような話は中庭についてからと思っていたようで、中庭までの時間は当たり障りのない話をしていた。また、こんな風に隣を歩けて嬉しいなんて思ったら罰が当たるだろうか。自分から遠ざけるようなことを言っておいて虫が良すぎるのではないか。そんなことばかりを考えていたら、話に集中出来ず、中庭まではすぐなはずなのに今までで一番長く感じた。
 中庭に着くと先に声を発したのは渡辺だった。

「夏休み、会えなくて寂しかったです」

 まあ一旦座れよと、ベンチを指さしながら自分も座る。何て答えたら良いのか分からない。元凶の俺が、俺もだよと言って良いものなのか、はたまた何も無かったかのように茶化した回答をした方が良いのか。やっぱり来なかった方が良かったかも。だって、何も懲りずに全てを期待してしまう。
 遮らずに聞いてほしいんですけど、と渡辺は言うと、あれから夏休み中考えたことをぽつりぽつりと話し始めた。俺に好きだと言われてびっくりしたこと、好意が嬉しくて気づいたら付き合えると言っていたこと、離れたことで俺の優しさに気づいたこと、その優しさに無意識に甘えていたこと、俺の気持ちに真正面から向き合おうとせずに簡単な言葉で繋ぎとめようとしたこと。それ以外にもたくさんあるんですけど、なんて言い出した時には、こいつ俺のことどんだけ良いように捉えてるんだよと思わず吹き出しそうになった。

「俺、先輩といられない時間を過ごして気づいたんです」

 焼けるような視線でこちらを狙い撃ちしてくる。その熱に侵されて、まともな判断が出来なくならないように慌てて目をそらす。

「俺、やっぱり先輩の笑顔を一番近くで見ていたい。俺が馬鹿な話をして思いっきり笑う姿も、俺が試合に勝って嬉しそうに笑う姿も全部好きだ。この愛しさが恋なら良いなって思いました!」

 眩しく光る青空に響き渡るくらいの大声に、近くを歩いていた人がなんだなんだとこちらを見てくる。いたたまれない、この注目を集めている状況にも、渡辺の告白にも。
 本当にお前は何なんだよ。俺が折角手放してやろうって思ったのに。そのせいで嫌な思いもさせたのに。男の俺からの好意を何でそんなに真っ直ぐに受け取れるんだよ。勘弁してくれよ、お前のおかげで俺の心はぐちゃぐちゃだ。
 何が何だか分からなくなって零れだしそうになる涙をこらえるように上を向くと、葉っぱが生い茂った桜の木が目に入った。

「俺が初めてお前を見たのは、テニスコートじゃないんだよ」
「え?」
「実は、ここで桜を見上げているお前を見たのが初めて。その時さ、何て絵になる子なんだ!って思ってたんだよね。そしたら後日まさかのそいつが、でっけー声で俺のフルネームを呼んできてびっくりしたんだけどさ」

 本当に俺の顔に弱いんだ、と気の抜けた表情で言ってくる渡辺に、だから言ってんじゃん、と返して話を続ける。

「あの時の俺が、今の俺たちの様子を知ったらびっくりするだろうなって思うよ。こんなに仲良くなると思ってもみなかったし。まあそのせいでお前がこんなにも生意気で分からず屋で鬱陶しいやつだって分かっちゃったんだけど」
「何それ、俺のことなんだと思ってるんですか」

 渡辺のちょっと表情が明るくなり、少しホッとする。こいつでも緊張することがあるんだな。それが俺関係であることが嬉しい、なんて思うのは欲張りだろうか。

「渡辺は好きなことには愚直に真正面から向き合って、一生懸命努力できるやつだなって思ってるよ」
「先輩、俺のこと良く分かってるじゃん」
「一番近くで見て来たからな。だからこそ、俺なんかの相手してないで部活にだけ取り組んでいてほしい、俺の一方的な感情でお前をダメにしたくないって思ってたんだよ。でも」

 このまま俺の気持ちを伝えても良いんだろうか。渡辺が好きなんだと気づいてから、渡辺を諦めることしか考えてこなかった俺が、この先を期待してみても良いんだろうか。もし仮に付き合えたとして、思ってたのと違ったと、男相手はやっぱり無理だと振られるのが怖い。それでも、真正面からぶつかって来た渡辺に、こちらも真正面から向き合わなければ、今後一生後悔してしまうかもしれない。それなら、全力で自分のエゴを突き通しに行っても良いんじゃないか。
 そう思った瞬間、今まで心に被さっていた分厚い雲が一気に晴れて、今なら何でも言える気がした。

「でも?」
「今日渡辺が俺に会いに来てくれた時、その真っ直ぐさを俺にも向けてほしいって思っちゃったんだよなあ~」
「いくらでも向けてあげますよ。だってそれを俺にくれたの、先輩だから」
「俺?」
「そうですよ。先輩は人のことは良く見えているのに、自分のことはあまり見えていないみたいだから言いますけど、先輩が思ってるよりも先輩はソフトテニスのこと好きで、真っ直ぐ向き合ってますよ。そんな先輩のプレーを見て、ソフトテニスのことを好きになった俺が言うんだから間違いないです」

 ただ、誘われるがままに始めて、辞める理由もないから続けていると思っていた部活への向き合い方を褒められる日が来るとは。

「先輩さ、もっと自信持ってくださいよ。顔は格好良いし、運動も勉強も出来て、クソ真面目で、正直どこに非があるのか分からないくらいなのに、異様に自信だけがない。見た目は生まれ持った才能かもしれないけど、あとの全部は先輩の努力の賜物でしょ?先輩が自分に自信が持てないっていうなら、俺が先輩の素敵なところを言い続けて、嫌でも自信過剰に育て上げますからね!」
「何の話!?」

 俺、そんなに自信なさげに見えるのか。いやまあ確かに自己肯定感は高い方じゃないけど。

「だって先輩、俺のこと大好きなのに俺から離れようとしたのって、色々ネガティブに考えすぎたからですよね?」

 夏休み中先輩のことだけ考えていたので分かっちゃったんですよ、と俺のことなら何でも分かっていると言わんばかりのドヤ顔を披露されるも、俺は渡辺から図星をつかれるなんて思ってもおらず、は?と素っ頓狂な声が出てしまう。いや、俺のこと大好きってなんだよ、いつからこいつはこんな自信満々になったんだよ。さっきまで顔を強張らせて、会えなくて寂しかったなんて言ってきていたくせに。俺が自分のこと好きって分かった瞬間からこれかよ、生意気だな。

「多分先輩にも色んな思いがあると思うんですけど、」

というと、深呼吸をして、俺の方に向き直って話し出す。

「俺が先輩の不安を吹き飛ばすくらいのでっかい愛を送るので、安心して俺を好きになってください!」

 自信満々の顔で俺だけを見てくる。あーあ、こいつにはもうずっと敵わないのかもしれないし、それでいい気がしてきた。

「そして、もし先輩が自分に自信が持てなくなった時は、俺のことを信じてください!俺のことを信じてくれたら、俺の言葉も信じられるでしょ」
「分かったよ。その代わり、俺が死ぬまで続けてくれよ」

 渡辺の熱にあてられ、柄にもないことを口走ってしまった。こんなときくらいじゃないと言わないんだし良いんじゃないのと自分で自分を慰める。

「あったりまえじゃないですか!」

と渡辺が言うのと同時に、昼休み終了のチャイムが鳴る。チャイムを皮切りに各々の掃除場所に向かう人で渡り廊下が騒がしくなり始めた。
 お前も早く掃除場所向かえよ、と手を振ろうとすると、

「今日の放課後、部活ないんでいつもの場所で待っていてくださいね」

と耳打ちされた。いきなりの耳打ちはずるいだろ……!