改札口にさしかかると人の群れが同じ方向に向かって流れている。僕はいつもこの波に乗り遅れる。


 どうしても我先にと改札を通るのが苦手で毎日誰かしらに順番を譲っていると思う。


 僕はそういうタイプの人間だ。


 昨日なんて切符の買い方がわからないおばあちゃんに説明してをしていたら危うく乗り遅れるところだった。


 だけどいつも時間に余裕を持っているから乗り遅れたりはしない。遅刻するなんてのはもってのほかだ。


 なぜならいつも学校に行く朝、反対側のホームにいる人の中にとても目を引く子がいるから。

 彼女はとても艶のある真っ黒な髪の毛をしている。風が吹くとそれはまるでテレビCMのようにふわりと揺れる。


 いつからだろう、僕、比嘉慶太《ひがけいた》は彼女のことが気になりだした。きっと初めて彼女を見た時からだろう。受験を間近に控えている受験生の頭の中に入ってこられて正直ちょっと困惑しているんだけど、入ってきちゃうものはしょうがない。


 ここまでいうと分かると思うけど彼女に会いたいがために僕は少し余裕を持って家を出ている。
 

 通勤通学の朝の時間帯、当然ホームには人が溢れかえっている。だけど彼女を見つけるのは難しくはない。なんていうか輝いているから、彼女だけホームの中で一際輝いている。“輝いて見える”という表現とは少し違う。

 実際に輝いているのだ。

 まぁこれは受験勉強に疲れ、その上恋なんてしてしまった男が見るただの幻なんだろうけど。


 彼女はいつも黒いワンピースを着ている。真っ黒の髪の毛に黒いワンピース、それが彼女の袖から出た白い肌をより白く演出する。


 実際のところいつも俯いていてあまり顔は見えない。だけどどうしようもなく気になる。
 

 なんとなく雰囲気がモナカに似ているな、と思った。昔飼っていた黒猫だ。甘えてきたと思えばそっけなく去っていく、掴みどころのない猫だった。もっとも猫ってのはそういうものなのかもしれないけど。


 モナカはかなりの美人だった。あまりよく見えない彼女の顔、見えない部分を頭の中で補完する。モナカのように美人だと思う。こういう勘は結構当たるんだ。

 僕は学校と家の往復、それ以外は塾に通う、それだけの人生。


 目指しているのは難関大学だ。ちょっとやそっとの努力じゃ入れない。だから僕は今日も明日も明後日も勉強をする。


 勉強漬けの毎日だけれど、こんな毎日も長い人生のたった数年なんだからと思って頑張ってはいる。だけど正直他のみんなは恋人を作って遊びに行ったり動画を撮ってSNSに投稿したり、バズっただのこんなコメントついただの、可愛い子からDMが来ただの楽しそうだ。


 そこまでじゃなくてももっと普通の友達とファミレスで何時間もただ意味もなくドリンクバーを飲みながら喋ったりするような、そんな青春があってもいいなと思っていた。


 だけどいちにちの遅れを取り戻すことはいちにちでは無理だ。毎日もがきながら苦しみながらもただ目の前の課題をこなす。

 それが幸せな未来に繋がると信じて。


 
 そんな毎日だった。だけど最近変わっていった。彼女と出会ったからだ。一日一回、週に五回、数分だけだけど彼女の顔が見られる、それだけでこの勉強で疲れた体があっさりと軽くなる、そんな単純な男である。

 今日もまた彼女を見つける。

 いつもの反対側のホームに。人混みに紛れて彼女はいる。


 今日も輝いていてすぐに見つけられた。

 もうすぐ電車がホームに入ってくる。すると髪がふわっと揺れて、刹那僕の視界は電車に邪魔されるだろう。そう、それがいつものパターンだ。


「間もなく三番線に電車が到着します。危ないですから黄色い線までお下がりください」


「あっ」


 どこからかそんな声がした。
 それはしだいに伝染するように人から人へ広がる。

 
 猫がいたんだ。モナカと同じ真っ黒な猫。体は大きく成猫だと思われるが首輪は付けていない。だけど痩せてもないことからうまく人と共存しながら生きているのかもしれないと思った。


 朝の駅のホームは不穏な空気に包まれた。もうすぐ電車がホームに入ってくる。猫の動きは先が読めない。慌てて近づくと驚いて逃げていってしまう。
 そっと近づいても捕まえられない。


 そこにいる全員が固唾を飲んで見守った。学生服を着た女性が屈んで猫の捕獲に乗り出したからだ。同じ年くらいだろうか、それにしては随分大人びた顔をしている。だけど高校の制服を着ているのなら同じ年くらいなのだろう。明るい髪色でメイクもしている。少し派手な印象だ。


 後ろでスーツを着た数人のサラリーマンも無言で距離を取り猫の退路を断つ。


 静けさの中、気がつけば四方八方猫は完全に包囲されていた。だけどそれは威圧的ではなくみんな日常に溶け込んでいて、だけど完全に意識はそこに集中している、そんな状況だった。


 僕ももちろんその中に交じり「ここの隙間は僕が担当だ」なんて責任感が芽生えていた。


 一瞬の出来事だった。
 勝敗はあっさりついた。


 最初に屈んだ女の子が屈んでジリジリと猫に近づくと猫は「ふぁ~」とひとつ大きな欠伸をしたあと、「なんか持ってるのか?」と言わんばかりにその女の子の方に近づいて彼女の伸ばした手にスリっと頬を押し付けた。


 彼女はそのまま撫で、一気に猫を抱きしめた。


「おお!」


 と一瞬にして歓声が上がった。

 拍手しだす者もいた。そのどよめきに猫が驚いてしまうんじゃないかと不安になったが、なんてことはない、猫は女性の腕の中で満足そうに目を細めていた。


 安堵して前を向いた。すると反対側のホームの人も一様にこちらを見て安堵の息を漏らしていたのがわかった。


 ふっと顔が綻んだ。勉強続きの毎日の中、この出来事が一服の清涼剤となったみたいだ。


 心が軽くなり、ふと視線をずらす。
 刹那、目が合った。


 初めてだ。
 初めて目が合った。あのモナカに似た黒いワンピースの彼女と。


 俺はどんな顔をしていただろう?

 びっくりしたから目を見開いていたのかもしれない、猫が助かって穏やかな顔をしていたかもしれない。


 間違ってもニヤケヅラじゃなかったことを願う。


 彼女の方の顔はと言うと……目を見開いていた。俺を見て、まるで幽霊を見たかのように、もしくは、こんなところにいるばすのない古い友人に会ったかのように。


 その顔の意味はよく分からないけど、とにかくそんな驚いたような顔をしていた。
 不思議に思い俺は周りを見渡した。僕じゃない誰かを見てそんな顔をした可能性があるからだ。


 だけどその時はみんな猫に夢中で彼女は俺のことを見ているんだと思った。



 ……自惚れじゃなければ。


 だけど、まさかこの瞬間に黄金の鐘が右へ左へ大きく揺れて盛大にカウントダウンを始めたとは夢にも思わなかった。

 

 僕が死ぬ、カウントダウンをね。